笛吹市 春日居郷土館・小川正子記念館
笛吹市にある郷土資料館ですが、ハンセン病患者の救済活動をしていた小川正子という女医さんがこの辺り出身なので、合わせて記念館が作られております。ハンセン病関連の展示もあります。
概要(アクセス・入館料)
アクセス
最寄りは中央線の春日居町駅。徒歩15分です。
駅前には店は何もないけど何故か足湯があります。資料館のすぐ隣にも日帰り温泉施設があるので、お湯が沸く地域のようです。
入館料
200円なり。
展示1 小川正子記念館
館内の展示室は2つあり、片方が小川正子記念館です。
(小川正子。資料館パンフレットより)
1902年春日居町うまれ。東京女子医学専門学校(今の女子医科大)に在学中ハンセン病施設を見学したら、そこで働く医療従事者の頑張りに感動して自身もその道を選択。岡山にある長島愛生園で勤務してましたが結核を発症し、1943年に41歳で死去。
これだけだと何で記念館建てられてるんだか分らんのですが、小川正子が有名なのは施設での経験を記録した著書『小島の春』を大ヒットさせたから。
ハンセン病患者の味わう身体的・社会的な苦しさ、それをどうにかしようとする医療者の凄まじい努力を世間の人は初めて知り、大きな反響をもたらしたのです。映画にもなりました。
(『潮鳴りが聞える 私の小川正子』坂入美智子 著)
私も読もうと思ったのですが図書館に置いてなかったので、代わりに小川正子の姪にあたる人が書いた本を読みました。こちらにも小川正子の体験談が載っています。
療養施設の中でハンセン病患者は静かに治療を受ける・・なんてことはなく、そもそも外部の人は近寄りたがらないから園内の管理は建築から食事まで自分たちの手でやる。
絶望感から暴れだす患者も居て、殴りかかって来たり、診察室をぶち壊したり、かと思えば突然自殺するなどと世紀末状態である。医療従事者は鋼のメンタルと運動神経が無ければやっていけないだろう。
館内にはハンセン病の歴史説明や小川正子の所持品が置いてあるのですが撮影禁止。ただ庭の建物だけはOK。
結核になった当人が春日居の実家に戻ってきた時に建ててもらい暮らしていたそうで、その一部を移築してきたものです。
中には小川正子さんがおります。表情が悲しそうです。さきほどの本によると、『小島の春』は結核治療中の気晴らしとして周囲の人々から薦められて書いたもので、本人は最初断っていたそうな。大ヒット後もメディア出演などはせず、この地でひっそりと療養生活を送り、逝去。
小川正子としては本の売れ行きなどよりも早く回復して現場で働きたい思いが強かったのかもしれない。なので彼女の目の前にある鳥かごの中の鳥は悲壮感極まりない感じになっております。(これデザインした人すごい性格悪そう)
(光田健輔)
ところで小川正子の半生を辿ると必ず出てくるのが光田健輔ですね。政府も含めて誰もハンセン病に触りたくなかった時代に、率先して患者を助けたり療養施設を作ったパイオニア。
ただ断種や強制隔離など、現在でも裁判で争われている問題を生じさせた人物でもあり、戦後に特効薬が開発されて「強制隔離いらないのでは」と異論が生じても無視して自説を押し通したので、悪の根源のように見る向きも無いわけではない。
そして小川正子は、この光田健輔に出会ったことでハンセン病医療の世界に飛び込んだんですな。長島愛生園を開園したばかりの光田のもとへ押しかけて行って、雇ってもらったのです。
なので「小川正子も強制隔離や断種に関わっていたのでは」「『小島の春』は間違ったハンセン病イメージを広めた」など批判もあるそうです。執筆当時の知見でどこまで正しいことが出来たかは分かりませんが、少なくとも断種は当時も違法だったので、いけない行為に身を染めていた恐れが微レ存。
展示2 郷土資料館
もう片方の展示室、郷土資料館です。こちらは撮影可能。難しいテーマを見てきたあとなので頭が疲れてしまった。縄文土器は平和ですねぇ、は~え~
しかし定規もillustratorも無い時代に、よくこんなグルグルしたイメージを思い描いて立体的に表現できましたね。岡本太郎が絶賛するだけのことはある。
こちらは古墳時代の数珠。小さい石の玉を糸でつないでるんですが、資料館の館員さんによると最大の謎があるという。
石の玉の中央には糸を通す穴があるわけですが、「それをどうやって開けたのか」。
確かに、こんなに小さい石に当時の技術でどうやって穴を開けたんでしょうね。先端がめちゃめちゃ鋭利で細い鉄具でもあったのだろうか。
答えを知っている方は郷土館までご連絡ください。電話番号は0553-26-5100。ただいまオペレーター増員中!
縄文~古墳時代で展示品の2/3を占めてました。あとは武田信玄の書状があったよ。そんなところですかね。おしまい。
【混雑度】★(他に誰も居ない)
【滞在時間】60分