川越市立博物館
川越市の博物館です。
川越城とは道路を挟んで向かい側にあるけれど、川越駅などからは徒歩30分かかる。
駅からはバスが出ているので利用しよう。
入館料は200円です。
なかなかお洒落な内装だけれど、トイレは1世代前のもののような気がした。
本質はトイレにこそ表れるのである(ことわざ)
さて、展示室です。
どうせ古代からでしょ、と思ってたら、まさかの江戸時代スタートです。
そんなんアリかね。
「江戸図屏風」という、17世紀前半の江戸近辺を書いた屏風だそうな。
巨大です。
デカすぎて画面に収まらないので、説明用の縮小版を見よう。
川越は右上。
ずいぶん浅草や江戸城に近くないですかねと思うのだが、道路や水運の発達を含めて、心理的な距離感は近かったのかもしれない。
川越藩の大名一覧表。
家康の末裔に連なる松平大和守家であったり、松平信綱・柳沢吉保など老中に出世した人々ら、有力者が藩主を務めていたことが分かる。
江戸に近い分、信頼のおける譜代大名を置いていたということであろう。
17世紀半ばに藩主を務めた松平信綱くんの伝記。
新河岸川の水運発展・川越街道の整備・入間川の堤防強化など、インフラ面で川越発達の基礎を築いた。
川越の祭はこの人が提案者だと言われていて、「町に活気が無いから祭りでもやってどうにかしろ」というのがきっかけだと。
どんちゃんやりましょうね。
家康の次男 結城秀康の家系に連なる松平大和守家は、1767年から100年に渡り川越藩を治めた。
それまで前橋にいたのだが、前橋城は利根川を利用した天然の要害として築いたにもかかわらず、利根川があまりにも氾濫しすぎて城が水没してしまい、修理に金がかかるからいっそ放棄して川越に異動してきた。
異動について、当主の藩主 松平朝矩がとても喜んでいるというのが上掲の手紙である。
ただこの人、川越に到着してから1か月で急死してしまった。
悲しいなぁ。
ご立派な甲冑が展示されております。
中級武士の所有物だったらしい。
上級武士はもっと兜がBOOWYの氷室みたいに派手なんだろう。
加藤清正の兜とかそんな感じである。
この兜は新製品だそうなので、こんな札つけられています。
ケーズデンキかな?
屋根が外されてしまっている家ですが、町の名主の家だそうです。
大きいねぇ。
大都市 江戸が近い川越は商品の供給元として栄えたので、夢のある家を構えられたとさ。
(市の様子)
江戸時代の初期頃は、決められた日にちに市を開催していたと。
川越には10の町があり、それぞれ開催するもんだから、1か月に12日はどこかしらで開かれていたようです。
それもう毎日やったら良いんじゃないかな。
(巨大下駄、ではなくて看板)
時代が下って来ると、自前の建物で毎日販売を行う店が出てきたもんだから、市の意義は無くなって衰退したよ。
毎日売買が行われるほど、経済が発展したということかしら。
武士が居るところには刀鍛冶も居そうなものだが、川越出身の刀工については良く分かっていない。
まぁこの辺、砂鉄とか出なさそうだよね。
そんな群馬の刀工が残した、刀製作図がこれ。
朱書きでコメントまで入ってるよ。
刀づくり勢は参考にしよう(提案)
完成型はこちら。
格好いい(ボキャ貧)
寺社が多かった関係か、学問も盛んです。
数学専門家である「和算家」という人々がおり、算術を教えたり、研究したりしていた。
自身の研究成果を書いて、寺社に奉納したりするらしい。
こんな感じで額に図式が描かれている。
きっと、なんとかの定理なんでしょう(文系脳)
(喜多院の図)
寺社と言えば、川越には喜多院・無量寿寺・氷川神社と大きなのが幾つもありますな。
1608年に家康と対面する機会があり、そのときに議論をして学識を認められ、関東における天台宗は喜多院を頂点として組織されたということである。
家康が死去して日光へ移送する途中、わざわざ喜多院に立ち寄って法会だなんだで4日間も費やしたらしい。
早く運びなさいよ。
ただ家康死後の1625年に上野の寛永寺に、その頂点は移されちゃいましたが。
そんな天海上人、手になにか持っているんですが。
煩悩から解脱できない坊主をこれでブッ叩いて涅槃させるのかな?
なんだか立派な鷹の絵もあるよ。
江戸城の中にあった東照宮に奉納されていたが、紅葉山東照宮の設立に伴い城内の東照宮は無くなったようで、絵は仙波東照宮にやってきた。
やっぱ寺院って金もってますね(ひがみ)
舟の絵。
アメリカ国旗が付いているので、外国船ですね。
幕末の頃には外国船がやたら日本に押し寄せてきているということで、沿岸警備を命じられた藩が幾らかあった。
川越は海なし県だから安心、ではなくて、神奈川の横須賀あたりの警備を命じられたのである
警備のときの絵。
外国船が右上に立派に描かれているのに対して、日本側はなんかフニャフニャしてて弱そう。
川越藩では藩兵のうち2/3も、この湾岸警備に回さねばいけなかった。
おかげで出費が増大。
藩主 松平大和守家ではただでさえ財政が厳しく、すでに給料減額とかやっていたので、たいへん人気が無い大名だったそうである。
もう嫌になっちゃったのか、藩主 松平斉典は「別の土地に異動させてクレメンス」と幕府に工作。
庄内への異動が内定したものの、なんと庄内藩の人民が「来るな」と反対運動を行い、幕府でも将軍死去による交代があったため、内定取り消しになった。
どんだけ人気なかったんですかね。
展示室の中央には、川越のジオラマが。
さすがにサイズがでかい。
城はこっち。
本丸御殿は幕末に建てられたもので、当時のままのが残っております。
江戸時代おしまい。
次の部屋は、町屋通りみたいになっていて、とても良い。
店に入る感じで展示室に入ります。
太田道灌の人形があるのだが。
あれ、江戸時代から昔に遡っていくんですか?
変化球な展示順序だね。
川越城を築城した人と言うことで、太田道灌の一生がビデオ放映されています。
でも3台もTVを横に並べる必要は、あったのかな?
築城は1457年のことで、太田道灌が仕えていた扇谷上杉家は関東管領 山内上杉家と組み、鎌倉公方の足利成氏と関東を二分して争っていた時代。
鎌倉公方は古河とか行田とか東よりだったので、それへの牽制として川越城を建てましたとさ。
なお江戸城も同時期に建てられたが、こちらは千葉方面に鎌倉公方の勢力(馬加氏)が居た為、それへの牽制だとか。
(河越館の跡地)
どう見ても農地ですが、川越城より昔の時代には、河越館というのがありました。
源頼朝に仕えていた河越氏の本拠である。
平安時代になった。
『伊勢物語』の中で、三芳野という土地を舞台した話があるそうな。
川越城の隣に三芳野神社があるが、この辺一帯をかつては三芳野と呼んだのだろう。
しかし都の人々が、川越の一地方を知っているなんて、大した知名度である。
太鼓ではなくて硯です。
やたら広いけど、これだけの墨を摺るのが面倒である。
ついに縄文時代にまで来てしまった。
耳飾り。
もはやどうやって耳に飾るのか分からないが、祭祀用なので実際には着用したりはしないのだろう、きっと。
櫛も、これで髪を梳いたら頭皮グサグサしそうである。
さきほどの町屋通りみたいなところに戻る。
これらは消防団の掲げるやつ。
重さ8kgくらいだそうだが、上部の方に重心があるので、持ってみると結構重いそうな。
火事場にそんなもの持ってかないで、ちゃんと消火に専念しましょう。
川越城下というか、蔵町通りの模型である。
ちゃんと時の鐘もあるよ。
営業業者一覧も残っている。
明治時代のもの。
はっきり名前まで書いてあるな。
これはプライバシー侵害かな(提起)
火事の絵。
1893年に大火に見舞われ、町の1/3が焼失したという話である。
燃えすぎだよ。
焼けた家は赤で示しているそうだが、もうこれ全部燃えてませんかね。
この大火事の後、耐火性のある家を建てようということで、いまの蔵町になりましたとさ。
1895年に川越鉄道(西武線)をはじめ、1914年には東上鉄道も開通。
江戸時代の舟運から、鉄道輸送メインになっていきました。
ただ川越の住人は「鉄道なんかいらねえ」と当初言っていたので、駅は中心街から遠いところに出来てしまった。
おかげで今日、川越城とか蔵町通りとかへの駅からのアクセスが面倒なことになっているのである。
(川越~大宮を結ぶ川越電車の時刻表)
そのあと、街の中心機能の方が駅前に動いて行ってしまい、もとの中心街は侘しくなっていったとさ。
過去の人間の、先見性の無さが光る。
これじゃまずいということで1980年代に町おこし運動が始まり、国からは「重要伝統的建造物群保存地区」とかいう、良く分からんがお墨付きっぽいのを貰って、観光地として盛り立てましたとさ。
あと川越と言えば、さつまいも。
江戸ではそもそも焼き芋が人気であったところ、距離的に近い川越が供給元として芋の増産を行ったようである。
ちなみに焼き芋売りのリヤカーは戦後からの登場。
さつまいもの増産には、赤沢仁兵衛という人が考案した技法が大きく貢献したそうな。
しかし赤沢氏、子供が好きなおイモを作ってる人と呼ぶには、少し表情が怖いっすね。
イモの歴史マップなるものも。
青木昆陽が江戸で広めたのが、なぜか千葉と所沢経由で川越に入ってきている。
あと浦和では突然変異でベニアカという甘いのが出来てますね。
焼き芋と言えば石焼いものイメージだが、江戸時代では平たい鍋で、いも丸ごと焼いていたそうな。
なお夏場は売れないので、その間はかき氷屋をしていた。
こっちは芋を薄切りして焼き、砂糖や蜜を塗って乾燥させた「芋せんべい」。
ポテチみたいである。
うまそう。
展示室の終わりは、やたら大仕掛け。
蔵造りの過程を示しているそうな。
2Fまでぶち抜いて、木組みを立てているよ。
地盤がちょっと緩い地域なようなので、関東ローム層が出てくるまで掘り下げて、そこに基礎となる石を突き込んでいます。
柱や梁を組み上げたら、無事の完成を祈って上棟式。
酔っ払って、柱へし折らないように気を付けましょうね。
これまた2Fまでぶち抜いて、大掛かりに外壁工事である。
そろそろ出口だが、ここで祭りネタ。
ただ馬鹿デカい山車祭は、まつり会館の方に展示が集結しているので、ここでは別の祭りである。
「南田島の足踊り」というもの。
なんと人形を足に括り付けて、頭を床にして、人形を上に突き出して行う劇である。
・・誰がそんなん考えたんですかね。
毎月1回上演会があるそうだから、こんな奇特な演芸に興味がある人はどうぞ。
展示室おしまい。
最後に視聴覚ゾーンに出た。
ここではクイズが出来るようだ。
では、展示室を見てきた成果を試すかな。
わかるか!
以上。
【入館料】200円
【混雑度】★★★(ちらほら)
【滞在時間】90分
【URL】