朝霞市博物館
朝霞市にある郷土の博物館です。JR武蔵野線の北朝霞駅・東武東上線の朝霞台駅から徒歩15分。
しかし北朝霞駅と朝霞台駅ってすぐ隣りあわせなのに、なんで名称一致させなかったんですかね。国鉄と東急の仲の悪さ。
博物館に入館すると、庭の池と水車が目に入ります。池には鯉も泳いでいてなかなか立派。かつて武蔵野と呼ばれたこの地域には、水車を用いた田園風景が広がっており、その再現だそうな。
池を見渡せる休憩部屋では飲食も可能なので、だらだらするには良いかもしれません。人もそんな来ないし(博物館としては問題)
展示室に入ります。写真は受付に申し出れば撮影可能。
朝霞の歴史を何ポイントかに絞って説明しています。
朝霞市内にあった川越街道の宿場町 膝折宿です。「膝折」とは変わった名前である。
室町時代、足利義政のお抱え絵師が馬に乗って街道を通っていたところ、盗賊に襲われた。命からがらこの町まで逃げてこれたのだが、馬は疲れ果ててしまい膝が折れて死んでしまったとさ。なので「膝折」です。
縁起でもない名称だなあ。ちなみに山形県には「肘折」という地名があるので、骨折コンビで姉妹協定を結ぶと、いっそう悲惨なことになって良いと思う。
(東京ゴルフクラブ朝霞ゴルフ場の模型)
なので膝折村という地名でずっと続いていたのですが、1932年に名称が変わって「朝霞町」となりました。
東京の駒込にあった東京ゴルフ倶楽部が移転してくることになったのだが、「膝折って名前、縁起悪いね」という室町時代以来の疑問がようやく真剣に議論されるようになったのだ(たぶん)
新たな名称「朝霞」は、ゴルフ倶楽部の名誉総裁である皇族 朝香宮殿下にちなんだそうです。「朝香町」にしなかったのは、殿下の名前をそのまま使うのは畏れ多いから。
確かに「どこ出身?」「朝香」って会話がなされるたびに呼び捨てされてしまうのは殿下が号泣しそうなので、「朝霞」にしたのは正解だと思います(こなみ)
時代は戻って江戸のころです。新河岸川という河川が江戸まで続いているので、舟運が盛んでしたという模型。
新河岸川は「九十九曲がり」と呼ばれていて、つまりクネクネしまくっていた。この形状は、有能行政マンとして名高い川越藩主 松平信綱が工事したもので、河川の水量を安定させて舟運がしやすい目的であるそうな。狙い通りに新河岸川の通航は盛んになったが、クネクネしているせいで氾濫しやすくもなってしまった。ダメじゃん。
明治以降に再び工事が行われ、直線的な形状になったのだが、水量は足らなくなってしまって舟運はできなくなりました。
川には水車を設置していろいろ使っていたようです。
江戸時代の末ごろから、銅線を作るようになりました。
これらが銅線です。近代工業が発展してくると、電線や機械での需要が増加し、朝霞はこういう金属材料を作る「伸銅」産業が盛んになったと。近代的な道具を、水車なんて前近代的な施設で作っていたのは過渡期らしくて面白いですね。
なお現代では大手企業におされ、朝霞で操業しているのは数社のみになったようです。
(1930年代の膝折駅)
大正時代になると鉄道も通りだしたとさ。膝折駅はいまの朝霞駅です。舟運が使えなくなったので、住民の新たな足である。
(朝霞大仏)
東上鉄道や東武鉄道の経営者で「鉄道王」と称された根津嘉一郎は、なぜか大仏を作りたがった。大船観音とか越前大仏とか、日本各地で“デカい仏像造りたいマン”が一定数いるようですね。
というわけで建造が始まったそうですが、完成を前にして第二次大戦となってしまい物資が足りないから建造中止。壊されてしまいましたとさ、かなしいなぁ。現存していれば朝霞台駅に設置して北朝霞駅方面を睨みつけ、態度のデカい国鉄に天罰を与えられたでしょう。
最後に、展示室内に実物大の水車があるのですよ。それを動かす人型も実物大。
大きいなぁと感心していたら、突然うごきだした。赤外線センサーがついていて、近寄ると作動する仕掛けのようです。動くとき「ガタッ!」って大きな音がするので、普通にビビります。朝霞大仏の恨みじゃ~(棒)
おしまい
【入館料】無料
【滞在時間】60分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】朝霞市博物館 - 朝霞市