狭山市立博物館
狭山市の博物館です。 稲荷山公園駅から徒歩5分の位置にある。
この公園はわりと規模が大きくて、季節がら花見会場になっており、元気にはしゃぐお子ちゃまや、昼間から飲んだくれるオッサン方の姿が見受けられました(報告)
入館料は150円。
展示室はまず企画展から始まるのだけれど、らせん状に1F→2Fへ続く通路に掲示されています。
シャレオツな構造にしてますねぇ。
2Fに上がって常設展示室に向かいます。
展示室の手前に茶室があるよ。
狭山には狭山茶があるから、その関連だろうか。
展示室でございます。
けっこうな規模だね。
最初に挨拶するのはマンモス君・・ではなくて、もっと小型であるアケボノゾウ。
入間川の沿川で見つかったらしい。
海外では発見されておらず、JAPANオリジナルとされている。
アケボノゾウの後ろにはステンドグラス・・ではなくて、なんだ?
どうも市内にある植物の写真を細切れにして、タイル状に貼り付けている様子。
ちなみに、どこの写真が何を示しているかは、全部この表にまとめられているから、興味がある人は参照してね。
細かすぎて伝わらない熱意である。
その手前に並べられているのは、昆虫の標本です。
うぎゃー。
まぁチョウチョとかクワガタとか、人間にもフレンドリーな外見勢が主なので、多少はね。
打って変わってこちらには、古代生物が描かれている。
ぜんぶ狭山市内に居たのかな(すっとぼけ)
石炭紀の生物たちです。
なんとこの時代にはもうゴキブリがいる。
滅んでおけばよかったのに(真顔)
さて、ここからは歴史ネタです。
縄文土器の数々。
祭祀ものかと思われる人面把手は、たいへん憎らしくて良い表情をしている。
竪穴式住居の模型です。
縄文人の模型もあるよ。
なんかTシャツと半ズボンみたいなの着てるけど、ずいぶん先進的な縄文時代だね
より盛大な模型はこちら。
集落のジオラマです。
颯爽と駆け抜ける兄貴。
山からの風景。
なんだか広大な感じで撮れてしまった。
これは「敷石住居」の復元。
床に石を敷きならべる住居があったらしい。
それ床ぼこぼこ過ぎて足や尻が死んでしまうのでは?と思うのだが、建築数がごく僅かなことから、祭祀用では無いかと考えられている。
そりゃそうでしょうなぁ。
奈良・平安時代の住居に飛びました。
庶民の家は侘しいねぇ。
これは井戸の模型。
ぐるぐると螺旋状に地下へ掘っているが、これは下に向かって真っすぐ掘る技術が無かったから、と言われている。
ずいぶん下の方まで掘っているが、水が出にくい土地だったのだろうか。
西東京市の方でも似たような井戸があって、あちらも水が不足している地域だった。
蔵骨器といい、9世紀の骨壺。
やけに大きいし、住居跡から見つかっているから、1人分ではなく、家族・集落単位で骨を入れているのだろうか。
それにしてもジオラマが多いねぇ。
稲は1本1本細かく出来ており、製作者の気合を感じられる。
古銭ぞろぞろ。
寺院跡で発掘された。
こんなに金銭をため込んでいるなんて、やはり神社仏閣は打ち壊すべきである(一揆勢)
薄暗い空間に来たぞ。
ボードっぽいものが仕舞われている。
絵と文字が書かれているが、薄くて読めない。
傍の机がライトで照らされているので、そこにかざすと見えるという仕組みである。
・・この仕組み、要りますかね(横着並感)
刀です。
室町時代頃に話が進むが、入間川では砂鉄が取れたので、それを使った鍛冶業が発展した。
そういや常設展示室の外にも、見事な刀が飾られていたな。
戦国時代に北条氏が狭山を治めるようになると、鍛冶集団は税金を一部免除される代わりに、槍の製作を命じられたそうな。
また銅や鉄を用いた仏像を作るよう、寺社から依頼を受けて生活していた鍛冶集団もあったとさ。
鉄くずのあまりは「金屎」と呼ばれたようだ。
ひどい言われようだな(憐憫)
農家住宅です。
ずいぶん広い土地を持っているようで、羨ましいねぇ(僻み)
ただ江戸時代になると、狭山は尾張藩の鷹場とされ、鷹狩に来る大名連中を迎えるための費用を負担したり、家の建て方や木の伐採に細かいルールが課せられて面倒であった。
農機具いろいろ。
このジオラマは、お茶の製造ついて。
狭山茶ネタですね。
埼玉には中世「河越茶」「慈光茶」というブランド品があったが、どちらもバックアップをしていた寺院が戦国時代を経てボロボロになったので、お茶製造が途絶えていた。
その茶の伝統を復活させるべく、19世紀前半に農家が立ち上がって、完成したのが狭山茶でしたとさ。
明治時代には海外輸出も行って、知名度を上げたよ。
(茶の葉を摘んでいる風景)
という茶の歴史は、お隣の入間市にある博物館ALITで見たのでした。
あちらはお茶展示だけで1フロアまるまる使っているが、名前を冠している狭山市は1部分の展示に留まっている。
これはお茶族議員からの突き上げ待ったなし。
摘んだお茶を蒸しております。
江戸時代初頭では茶葉を炒るのが一般的だったが、18世紀前半になって永谷園の先祖が蒸す方法を考案し、香りと風味をより爽やかにしたそうな。
冷ました葉を大きさごとに選別し、揉んでおります。
あとは壺に保存して、出荷である。
めでたしめでたし。
農家の中を覗いてみよう。
囲炉裏です。
これはきっと熱燗をつくる器具だな。
そうにちがいない(決めつけ)
置いてある徳利は「帝松」のほか、「部長の酒」「社長の酒」とかいうキワモノ気味な銘柄を出している松岡醸造ですかね。
日本で最も硬度の高い水で酒造りをしているという酒造であり、一風かわった味を出していると私は思っている。
ただこの酒造、狭山市じゃなくて小川町なんだよなぁ・・
盆栽みたいなものに白い団子?を突き刺している。
この団子はたぶん蚕を示しており、養蚕が上手くいくことを願う品じゃないかな。
入間市博物館にも似たようなのがあったからね。
なんだか復習をしているようである。
そして養蚕とくれば蚕の写真です。
うぎゃー(2回目)
養蚕についてもジオラマにしております、やっぱ好きなんスねぇ。
宿場町の模型。
日光街道の脇往還が通っていたとのことで、八王子~行田~羽生~佐野と続いて、日光へつながる日光例幣使街道にぶつかる。
wikiに、現在版復元マップが載っていた。
わかりやすい。
全部の街道について、誰か作ってくれないかな(投げやり)
街道沿いと言うことで賑わっております。
特に結婚式などのイベントもの。
これが披露宴で出される食事、豪華だねえ。
嫁を迎えた家で行い、その家の女性たちが料理するそうな。
〆には手打ちうどんが出されたようです。
入間川の水運に関する展示。
何を運んでるかと言えば、飯能など山地で採れた材木である。
商品自体を筏にして、江戸まで搬送します。
これ、帰路どうすんのかね。
歩いて帰ってくるのかしら。
疲れそう。
そんな面倒くさがりなアナタに朗報なのは、電車とバスが通ったことです。
よかったね。
電車は1895年の話で、地元のマネー持ち達により、川越鉄道が敷設。
国分寺~川越間とのことなので、今の西武国分寺線&新宿線の一部、と思っておけばいいであろう。
(丸慶自動車の乗車券)
バスは1926年から丸慶自動車が営業を開始し、入曽駅を中心にして川越や入間市駅方面に路線を伸ばしていた。
現在は西武バスに回収されております。
戦争が近づいた1938年には陸軍の航空士士官学校が作られたよ。
敗戦後にはアメリカ空軍に進駐されてジョンソン基地となり、全面返還は1973年。
現在では航空自衛隊の基地ですと。
もう終盤になってきたが、あとは狭山由来の商品についてである。
狭山には現在酒造は存在しないのだが、かつては「久星(きゅうぼし)」という大きな酒造があり、県内に幾つも酒造場を持ち、さらに兵庫の灘にも進出。
しかし1960年代頃に埼玉からは撤退し、灘に絞って「国冠酒造」として販売するようになった。
残念ながら1995年の阪神淡路大震災により蔵元が大打撃を受けて、そのまま廃業してしまったらしい。
酒瓶の隣には、バレーボール。
特に説明が無かった気がしたが、狭山市にボール会社でもあったのかな?
製品名は「入間ボール」ですけどね。
上部に「イルマボールイルマボールイルマボール」と無限ループで書いてあるのが、何となく狂気を感じる。
バグったファミコンの画面みたい。
思いっきり時代が前後しますが、馬車鉄道の大きな展示があります。
入間と飯能を結んでおり、1901年に開通して、1日15往復していた。
意外と本数あるな。
西武秩父線と良い勝負じゃない?(1時間に3本。うち1本は特急)
んで最後に、HONDAの車。
近未来型ですか?と思ったら、スポーツカーの上部部分だと。
紛らわしい!
そして特に説明が無いのだが、狭山にHONDAの工場でもあるのかな。
まぁいいや(雑)
以上
【交通手段】稲荷山公園駅から徒歩5分
【入場料】150円
【滞在時間】90分
【混雑度】★★★(ちらほら)
【URL】