玉堂美術館
御嶽駅から徒歩5分くらいのところに、玉堂美術館なるものがあるので行ってみた。
川合玉堂(1873-1957)という、明治から戦後にかけて活動した日本画家の美術館です。
晩年はこの御嶽に居住していたので、この地に建設されている。
もとは岐阜の出身で、小学生の時から絵を描き始めたが近所で上手いと評判になり、商店の図柄や看板書きを頼まれるレベルだったらしい。
14歳の時、有名な絵師が岐阜を訪れて偶然に玉堂の絵を見たところ、京都に出て勉強するよう勧められる。
すさまじい神童フラグですね。
ただ絵師はあまり親に喜ばれない職業だったため、「年に4~5回、1回10日程の滞在」というかなりの縛りプレイを父上から課された上で、京都の絵師の門下へ。
ここで「玉舟」という雅号をもらう。
(『老松図』18歳のときの作品)
そんな厳しい条件だが、神童なので特に問題はありませんでした。
1890年、17歳の時に第3回内国勧業博覧会に出展し、あっさり入選。
京都画壇でも名が知られるようになり、父親も根負けして絵師になる道を許す、やったね。
この頃に、師からもらった「玉舟」という雅号を「玉堂」に変える。
「舟」って字が書きづらいから、だと。
師がくれた雅号をそんな理由で捨てるとは・・つよい(確信)
(美術館の入口前にある庭。なお入場料は500円)
博覧会で入賞した後は師の推薦により、京都画壇の強力メンバーがあつまる「大成義会」に入会。
これも19歳で卒業してしまい、仕事の依頼もぽこぽこ来るようになり、20歳で結婚もしました。
まるで公務員のような安定感。
(橋本雅邦さん。画像はwikiより)
早くも人生余裕ペースになっていたのだが、22歳のときに第4回内国勧業博覧会にて出会った橋本雅邦の絵に衝撃を受ける。
京都では見ることのなかった、斬新な彩りと力強い表現にドはまり。
(『龍虎図』の龍の部分。橋本雅邦 作)
その絵がこれ。
さっきの松の絵と、確かに全然違いますね。
まぁこんなに存在感出し過ぎている松が居ても困るけれども。
あまりにも橋本雅邦の作風にドはまりしてしまった玉堂さん。
京都にいれば平穏な公務員人生が送れていたはずなのに、それら全部を捨てて、橋本のいる江戸に引っ越してきて門下にはいる。
すでに絵で飯を食っている人が別の画人の門下に入るとは、つまらんプライドが無いのか、逆にプライド高すぎて些末なことは気にしないのか。
(『冬嶺弧鹿』1898年 25歳のとき)
アクティブ性を増した作風になりました。
橋本雅邦ほど暴れてはいないですが、キャラが被らないので良いでしょう。
この頃、岡倉天心が芸術性の違いから東京美術学校(東京芸大)を追い出されて日本美術院を創立したが、その主要メンバーに橋本雅邦が招かれたので、玉堂も一緒に作品を出展したりする。
下村観山や横山大観など、新進気鋭の画家たちと共闘(?)である。
もっとも、岡倉天心さんはボストン美術館での日本美術解説に興味が行ってしまい、日本美術院はだいぶ放置されるのであった・・
言い出しっぺが最初に飽きるパターン。
(最高傑作の一つともされる『二日月』1907年 )
横山大観らが朦朧体と言う新技を完成させるのに苦労する中、玉堂くんは従来の日本画法を踏まえつつ、淡々と独自の道を行くのでした。
その画法の詳細については私は説明できませんので、お近くの美術の先生にお問い合わせください。
(『五月晴』1947年)
基本的には日本的な自然風景をバックに、そこに住む人々の暮らしを写実的に描くと言うことらしい。
世間では西洋画の色彩鮮やかな印象派がブームになっているが、玉堂は印象派路線にはいかずに、日本画の画法でいかに色彩豊かに描くかをやっているようである。
書いていて自分でも全く分かってませんが(小並)
(『鵜飼』1931年)
岐阜県出身と言うことで、長良川名物の鵜飼の絵をよく描いている。
こっちの絵も鵜飼ですが、構図ほとんど一緒じゃないですかね。
そういう注文を受けたから描いたのだろうけれど。
なお鵜飼の絵は500点以上もあるそうです。
これだけでフェルメールの何倍描いているんですかね。
ところで、かの北大路魯山人とは仲が良く、玉堂が魯山人の料亭に足を運んだり、魯山人が玉堂のための画印を製作したりしている。
よくあの人と友人づきあいができましたね、まぁ私の中の魯山人先生は『美味しんぼ』バイアスが掛かり過ぎていますが。
その画印は美術館に展示されています。
美術館についての話を全くしていないのだが、入館すると絵画の展示室が2つある。
館内は撮影禁止。
建物は外観壮麗な感じなのだが、1961年竣工なので、内装は時代通りの古さがあります。
そして展示室を抜けると、この庭に出る。
撮影可能。
国内で名声を確立していた玉堂は牛込若宮町に住んでいたが、戦争が激化した1944年(71歳)この奥多摩へ疎開。
もともと写生旅行で何度も訪れている土地であり、住みたいとまで思っていたが、疎開で来る羽目になるとは皮肉である。
知り合いの医者が御嶽に別荘を持っていたので、それを借り受けた。
「好きにして良い」と貸主から言われたので、容赦なく改造しまくり、自分好みの庭園まで作ってしまいましたとさ。
(『月天心』1954年。晩年の作品)
戦争が終わっても、この土地に住み続けました。
東京の牛込若宮町にあった自宅が戦火で燃えてしまったから。
すでに高齢となったが、わざわざ奥多摩を訪れて絵を頼みに来る画商は絶えない。
とはいえ注文に従ってありきたりの画題を描くのも嫌なので、「うちに置いてある絵で気に入ったのがあれば持って行け」スタイルに変更した。
注文主の意向に従う必要がなくなり、好き勝手に掛けるようになったので、この時期にも名作は生まれている。
しかし奥多摩ってこんなに雪降るの?
これじゃ青梅線もすぐとまるわけですわ(適当)
書斎の復元がされています。
撮影可能。
亡くなったのは1957年 84歳の時。
ただ亡くなる直前も、医者から「絶対安静」と言われていたにもかかわらず、起きだして絵を描いて、それがバレて大目玉という事案も起こしている。
ちなみに1946年に文化功労者に選ばれた。
掛け金を払わなくても生涯に渡って年金を受け取れるようになるらしいが、玉堂はもらった年金で美術品を購入し、それを国に寄付するということをやっていたそうな。
その方がよほど文化政策にとって宜しいということだろう。
日産のがめつい某会長は見習ってどうぞ。
ところで、横浜の金沢区に玉堂の別荘があったらしい。
現代まで残っていたのだが、2013年に不審火で燃えてしまい、いまは表門と庭園だけ残っているそうな。
あーあ。
※参考文献 『画集 川合玉堂の世界』美術年鑑社 出版
以上
【交通手段】御嶽駅から徒歩5分
【入館料】500円
【滞在時間】40分
【混雑度】★★★(ちらほら)
【URL】