北区飛鳥山博物館
王子の飛鳥山公園にある北区の博物館である。
3F建て。
入口は2Fにあり、ここの受付で入場料300円を支払う。
展示室は階段おりて1Fです。
ちなみに3Fはカフェ。
石積みギミックのトンネルをくぐる。
高床式倉庫っぽいのが出てきたぞ。
倉庫の近くに来ると、わりとデカい音量で、この2人の会話音声もとい小芝居が流れ始める。
展示室についてのご説明。
倉庫の奥では映像も。
コントを見終わったら展示室へ。
ここでも映像が流れているけど、特別な仕掛けは特にない。
しかし郷土博物館にしては豪勢な造りである。
展示室。
毎度のごとく縄文土器です。
縄文時代 前期の土器。
文様が刻み込まれているが、全体的にはおとなしげである。
違い棚のノリでシャレオツに並べております。
気候が穏やかになった中期では、心身ともに余裕を持った人々によりプログレッシブ
な作品が製作されている。
勝坂式土器。
その派手さ加減に飽きたのか、後期になると、大袈裟ではないが細かい技術を駆使したハイスペック作品が登場している。
貝塚の表面を切り取ったもの。
近くで見ると、たいへん気味が悪い。
たまりませんねぇ(恍惚)
膨大な量の貝殻が捨てられていたことから、この貝塚の辺りでは複数の村が共同で貝を食用加工していたことがお察しされている。
加工方法としては、貝を入れた水に、焼いた石を放り込んで熱湯にすることで貝を開かせるか、
もしくは、こんなやり方で殻をこじ開けていたのだろうということ。
その貝の加工場の遺構がこちら。
ただの道路の段差だと思って素通りしそうである。
貝塚には人骨まで放られています。
貝塚は「使命を終えた者が行く場所」と捉えられており、だから死者をここに送ったのであろうという説がある。
別に生ごみ扱いしたわけじゃないんだからね、たぶん。
だからといって、人骨まるまる展示しますかね(困惑)
丸木舟も飾られている。
船底は5cmしかありません。
もはやビート版。
弥生時代なので暗くなりました(適当)
縄文時代と違って、大人しくなってしまった土器たち。
野生の中を歩く生活から、一つの地に安住してしまった者どもの成れの果てである(中二)
竪穴式住居。
住居の奥では、これまた映像が流れている。
弥生人が行き交う様子。
この映像、やけに長くて、最後まで見てたら5分くらいかかる。
最初の方は村人同士の会話シーンだが、途中から怪しい奴らが侵入してきて「ア゛ア゛ア゛」と野獣の咆哮を上げながら村人と格闘をし始める。
なんなのよ、もう(呆れ)
ガラスの玉の鋳型。
つぶつぶしていて、良い感じに気味が悪い。
完成型がこちら。
ライトアップされて目玉の親父みたくなっている。
履物。
履いた方がむしろ、足が壊れそうである。
さて、北区のあたりは武蔵国の豊島郡でしたよと。
その役所である郡衙(ぐんが)は、ちょうどこの付近の西ヶ原にあったそうな。
役所で使われていたと思われる器。
底には「厨」と書いてあるが、厨房で使っていたという意味。
「お前は厨である」という意味ではありません。
TVが置いてあるんだけど、入り口の高床倉庫の監視カメラであった。
倉庫の映像が流れたときの、来場者のぽかーんとしたリアクションがこれで丸見え。
郡衙で使われていたとされる文房具。
硯は、まるで桶である。
すりづらそう。
紙になる前は木簡に書いていたが、書き損じた場合は文字を削って消して、その上に書き直していたらしい。
さらに役目が終わった木簡は、文字を全て消して再利用していたそうな。
すばらしいリサイクル精神。
そんな貴族な時代も終わって、武士がご登場。
南関東には、桓武平氏系の秩父氏と、その分家が広がっておりました。
いわゆる坂東平氏である。
豊島郡は、坂東平氏のひとつである豊島氏によって支配されていた。
(源義家が豊島氏に鎧をプレゼントするシーンの絵巻らしいのだが、誰がどこに座っているのか分からない仕様)
坂東“平氏”ではあるが、彼らは源氏に従っていた。
1028年に千葉北部のあたりで、平忠常の乱が発生してゴチャゴチャ。
朝廷では源頼信(平忠常の元上司)を派遣すれば収められるだろうという話だったのだが、政争により別の人間が派遣されることになった。
しかしそいつが無能なため3年も乱を鎮められず。
結局、源頼信が派遣されると、元上司のお出ましに対して平忠常はあっさり降伏。
いつの時代も政治家ってくそやな(偏見)
乱をきっちり収めたと言うことで、坂東平氏たちはこれ以降、頼信の家系(清和・河内源氏)に従うのであった。
(豊島氏の活躍が書かれている、かもしれない吾妻鏡)
源頼朝が蜂起した際も、坂東平氏・豊島氏は頼朝のもとに参じた。
というわけで鎌倉幕府が始まると守護にしてもらったのだが、赴任先は紀伊や土佐。
いきなり単身赴任ってきつくないっすかね。
んで和歌山にはかの熊野神社があるのだが、紀伊に赴任した豊島氏は、熊野神社に名義上は所領を寄進しつつ実質的には自ら土地を管理することで、所領を確保しようとした。
なのでこの付近の土地が、熊野神社の当時の土地目録の中に入っていたそうだ。
そのあとは豊島氏10代目がギャンブルやらかして土地をボッシュートされたり。
鎌倉幕府滅亡時は、序盤は幕府側だったけれど途中から新田義貞に味方するという篤い掌返しをかます。
その関係で南北朝時代も新田のいる南朝側にいたが、途中で北朝に寝返っている。
豊島氏とは友達にならない方がよさそうだ(率直)
(太田道灌の書状。道灌自ら「俺はこんな功績成し遂げたで」と自慢する内容になっている)
戦国時代になっていくと、豊島氏ら秩父平氏の団結力を恐れた関東管領 上杉憲顕が襲ってきて対立する。
管領側に居たのが、江戸城の太田道灌であり、距離の近い石神井城の豊島氏と戦闘になって、これで豊島氏は破れて滅亡する。
まぁ道灌も、その才能を主君である上杉定正にビビられてしまい、殺されてしまったのだが。
いきなり座敷が。
玉子焼きが置いてあるぞ。
これを押すと・・
映像が流れ始める。
玉子焼きはボタンだったのだ(衝撃の真実)
殿さまはこの人。
桜が咲いている。
照明が暗いので夜桜っぽくなっていて良い。
飛鳥山公園は花見の名所だったので、シーズン中は賑わったようである。
将軍様はもちろんのこと、ひどい扱いを受けている農民たちにとっても最高のバケーション。
花見には食べ物がつきものだ、ということで王子には結構な料理屋がぞろぞろあった模様。
いま現在の王子駅前をみると、全く想像できませんがね。
奥に行くと、農家っぽい建物が。
これは水塚の母屋。
付近を流れる荒川がしょっちゅう氾濫していたので、盛り土をした高い地点に家を作っておりましたというもの。
隣にあるのは物置。
天井には脱出用の小舟がスタンバイ。
近代になると、軍事施設が多数設立。
板橋に火薬製造所が出来たのを皮切りに、工兵隊の駐屯施設・日露戦争で活躍した下瀬火薬の製造所などがぞろぞろ。
もちろん戦後に取っ払われましたが。
王子電気鉄道という鉄道も走っており、現在の都電荒川線の前身にあたる。
戦後に軍事施設を潰して余った土地に、団地を建てましたとさ。
これまたいきなりですが、超ロングな野菜。
意外と農業が盛んな土地であり、政府の農業試験施設も存在した。
いまでは筑波に移ってしまったようだ。
種物がとくに主流だった様子。
種物音頭とかいう曲まで作ってしまった。
これがずっと館内で流れているので、退館しても音頭が頭から離れない種物中毒にならないよう気を付けないといけない。
最後の部屋はやたら狭いな。
荒川の風景のジオラマだった。
河の様子を撮影したビデオが流れているけれど、部屋が狭いので、じっと見ていると後続の人の迷惑になったりするので、その場の空気次第で鑑賞時間を決めよう。
以上。
【交通手段】王子駅から徒歩10分
【入館料】300円
【滞在時間】60分
【混雑度】★★★(一部屋に数人)
【URL】