航空発祥記念館
航空発祥記念館は、所沢の航空記念公園内にある博物館である。
最寄りの航空公園駅を降りると、早速この飛行機が目に入る。
記念館は、駅から公園内を突っ切って徒歩5分の距離。
入館すると、これまたいきなり飛行機の骨組み。
ちなみに人がかなり多いが、この日の公園は花見の人たちで賑わっていたのでその影響。
骨組みの横を通って、展示館部分へ。
受付で入場料を払う。
思った以上に航空機の展覧会状態。
交通博物館レベルである。
上にも、プロペラ機たちが敷き詰められている。
置かれているのは航空自衛隊で使われていた飛行機らしい。
真っ黄色の彼は「ノースアメリカンT-6G」。
練習機としてベストセラーになった飛行機であり、空自でもパイロット育成用に使われていた。
シコルスキーH-19は災害救助や患者の輸送のため使われていた他、全日空も輸送用として使用するなど、軍民の双方で活躍した。
前方のエンジン部分?が特別に御開帳されている。
乗ることもできます。
緊急輸送用だからか、椅子と言うより患者のためのベッドの様な内装。
サイズの大きいこちらは、人員輸送用のバートルV-44.
こちらは自衛隊員を輸送する用なので、座席あり。
操縦席には座れないが、お写真は撮れる。
「押すな」
やたら圧迫感を覚える字体である。
「ニノルナ」というカタカナ表記が、戦前の非常時感と緊張感を我々にもたらす仕様。
あと置いてあるのは、九七式戦闘機。
名前の通りバリバリの戦闘機として、世界大戦時に実戦投入された。
開発には若き日の糸川英夫が携わっている。
イトカワによりこの戦闘機は、軽いうえに耐久性に優れ旋回能力も高く、それでいてべたつかないという様々なチート能力を備え付けられた。
日中戦争では敵軍をフルボッコ。逆に全体的にはボコメキョにさせられたノモンハン戦争でも、奮闘して日本軍の壊滅を防いだという。
飛行機に混じって、エンジンなどの機具的なサムシングも色々置かれている。
航空機大好きマンなら垂涎ものなんだろうか。
まさに、航空機で使われていた部品が売られていた。
プロペラは4万円(税抜き)だそうです。
「航空機は分からないけど女の子(二次元)は分かる」という人のためにも、こういうゾーンがあります。
ビジュアルに訴える展示がどかどか並んでいるが、細かい説明書きも片隅にビッシリ貼られているので、活字中毒の皆様もご安心されたい。
日本における航空機の本格的な導入は、1909年以降である。
飛行場として選定されたのが、この所沢。
都会に近いし、広い平地なので離着陸に適していること等が要因とされたようだ。
航空機登場前の空の主力は、なんと気球であった。
日露戦争では旅順要塞の偵察をするのに、この気球が使用されている。
こんな目立つやつ使ったら、銃撃の良い的になって穴開けられておしまいじゃないか(白目)
そして、やっぱり銃撃されたらしいが、気球隊は普通に偵察して帰還した模様。
帝政ロシア兵にやる気が無かったか、ウォッカの飲み過ぎだったのかもしれない。
所沢飛行場での初フライトは、1911年のこと。
飛行機先進国フランスに留学していた徳川好敏 大尉が、このアンリ・ファルマン機で成功させた。
高度10m、1分20秒という短いフライトだが、気球に比べれば相当な進歩である。
このとき観覧に来ていた所沢の民たちは、もう祭り状態の大盛り上がりだったらしい。
仮にフライト失敗しても、たぶん盛り上がってたんじゃないかな(宴会勢)
この時代は当然日本で飛行機など作っていない。
徳川大尉はフランスの航空学校で使っていたアンリ・ファルマン機を分解して日本に持ち帰り、これを組み立てて上記の初フライトに用いたとのこと。
記念すべき飛行機なので、のちに国産機が主流になってからも、日本軍ではこのアンリ・ファルマン機をパイロット育成用に使っていた。
戦後アメリカ軍に没収され、1960年に返還してもらったが、部品の大半が行方不明な状態で戻されたので、自衛隊がなんとか復元し、今では入間基地に保管されている模様。
飛行場が出来た所沢には航空系の学校も創立され、訓練と研究の中心となる。
戦争が近づくと基地になり、ここから多くの戦闘機が飛び立っていった。
そういう町は空襲の標的とされるので、この町もひどい被害を受けたようである。
この辺は企画展。
航空機誕生以前の、人類による空を飛びたい願望・試行を模型化したもの。
飛行機以前に、神話レベルまで模型にしている。
だから模型の数がえらい多いことになっている。
飛行機の前身としては気球だけでなく、ハングライダーも人気だった。
昔の人も鳥人間になりたかったのである。
フランスは航空先進国だったが、イギリスは全く遅れていた。
そんなんだから、こういう訳分らんものを作っている。
こんなバカでかい棚を括り付けて、飛べるだなんてよく思いましたね(ボロクソ)
航空機の展示ゾーンを終え、次は体験コーナーが並ぶゾーンである。
月面や宇宙空間を歩く体験ができる機械。
お子様が座っているあの椅子が上下に跳ねるので、それに合わせてピョンピョン飛びながら動くというもの。
楽しそうだなぁ(羨望)
これは、人を浮かせるのにどれだけの風船が必要なのかを教えてくれる機械。
体重計みたいなところに乗ると測定が始まり・・
必要な風船の数がでる。
私は4738個の風船で、空中に行けるそうです。
怪しいオッサンがいるが、どのようにして物は浮くかという流体力学なるものを彼は教えてくれる。
某ねずみ君のボールを、この機械の下に持って行く。
スイッチを押すと(物凄い爆音とともに)上から空気が吹き始めるが、ボールは手を放しても下に落下しない。
普通に考えれば空気に押されて下に落ちるはずなのに、なぜでしょう?
答えはこれ。
分からない人は、流体力学の勉強が足りないんじゃないかな(思考放棄)
他にも揚力の説明展示があるなど、遊びながら学べる仕組みになっている。
まぁ子供だけでなく大半の大人も、スタートボタンを押すだけで、あとは流れで、という感じだと思います(名推理)
興味がある人は、このPCブースで自習しましょう。
ギラギラしているのはカメラの性能のせいです、きっと。
地球儀がある。
冒険家たちが長距離フライトに挑戦したルートが見られる。
一番最初の世界一周は1924年、アメリカ陸軍隊員4機によるもの。
この4機のうち2機は山に衝突するなどで大破してしまったが、不思議なことに乗員は全員無事で戻ってきた。
世界一周よりどうやって生き延びたのかの方が気になるのだが、記念館さんサイドは気にならなかったようで、特に説明は無い。
そして冒険家と言えば、NYからパリまでの無着陸飛行を成功させたリンドバーグ。
「このフライトを最初に成功させたものに100万円」というオルティーグ賞を狙って行われたのだが、複数人が同乗して代わりばんこに休憩しながら操縦しても良かったところ、なぜかリンドバーグは単独で挑戦したので、33時間不眠不休でぶっ通し飛行する羽目になっている。
パリの街が見えてきたときの「翼よ、あれがパリの灯だ」というセリフが日本では有名であるが、このセリフは脚色されたものであるらしい。
実際にはリンドバーグはパリに到着したことに気づいていなかったらしく、地上での第一声は「トイレどこですか」だったという説がある(ホントです)
オールドファッションな造りのブースは、ご存じライト兄弟。
1903年の飛行実験の模型。
ライト兄弟について書き出すと余計長くなるので、割愛(疲労)。
レンガ造りなこのゾーンは、飛行機開発に青春を掛けた人たちについて。
1911年にフライト実験に成功したとはいえ、それは海外産の飛行機であり、国産飛行機が無いと将来不安である。
さきの徳川大尉は飛行機の設計にも関わるようになり、のちに「会式」という世界トップクラスの戦闘機を開発した。
これのレプリカが、記念館のエントランスに飾られていたやつである。
徳川大尉は仕事でやった感があるが、飛行機にハマって自力開発までしてしまったマンとして奈良原三次がいる。
1910年に奈良原式飛行機を作って飛行実験をしたが、買ってきたエンジンが違う奴だったので、30cmしか浮かなかった。
エンジンを取り換えて作った奈良原式2号機は4m浮くことに成功。
徳川大尉が10m飛んだのと同じ1911年のことであり、しかもこちらはフランス留学などはせず独学である。
この後も奈良原氏は私費を投じまくって開発に勤しみ、さらに千葉県の稲毛に飛行場まで建ててパイロット育成をしていたという。
こちらは二宮忠八。
19世紀末の段階ですでに飛行機の価値に気づき、所属していた陸軍に設計書を提供したが、残念ながら軍はまだ気球脳だったのであっさり却下される。
その後は軍をやめて、自力で開発しようと私財を稼ぎつつ研究を続けるが、ライト兄弟の飛行成功ニュースが伝わると、開発を断念した。
後年検証したところ、二宮の設計は正確であり、これを採用していたらライト兄弟より先に飛行機を開発していた可能性がある。
悲しいなあ。
しかし飛行機の名前が「玉虫号」だった。
たぶん名前で却下されたのだろう。
そしてなんと、江戸時代に鳥人間がいたという。
岡山県の浮田幸吉という者が、1785年にハングライダーのようなものを作って飛んだという伝承が残っている。
本当であれば、世界初のグライダーより70年も前ということになる。
伝承の模型図。
しかしこの飛行では、誤って宴会中の人たちの上に突っ込んでしまい、騒乱となった罪で岡山から追放されてしまった。
それでもこりずに行った先の静岡でも飛行を行い、ここでも騒乱の罪で捕らえられて斬首されてしまったらしい。
(そんなんで死刑にされちゃ)たまらねぇぜ。
人工衛星など宇宙関係の展示もあった。
幅広いなぁ。
国内での人の輸送は1924年に始まった。
当時は防音設備が貧弱だったので、乗客はフライト中ずっと轟音にさらされていたのかもしれない。
なお最初の旅客機は、朝日新聞が立ち上げた東西定期航空社なる会社が行っている。
さらに朝日新聞には航空部なる部署があって、そこの出身者が立ち上げた会社が、現在のANAになったんだと。
飛ぶときは左の翼がメインですかね(確信)。
2Fへ。
所沢飛行場の歴史コーナー。
航空学校のお写真。
詳細に書かれてはいるんだけど、1Fにも飛行場の歴史については展示されていたし、内容だいぶ被っている印象であった。
戦後の所沢飛行場は、他地域の例にもれず米軍の進駐を受けた。
日本人による航空は禁止され、航空機もすべて破壊されてしまった。
ただ進駐軍により雇用や消費が増えたりして、街にとっては良い側面もあったとのこと。
飛行場敷地はだんだん返還されてきたが、いまだに3割ほどは米軍の通信基地として使用されている。
返還された土地の一部を、この航空公園として利用している。
ヒゲがとんでもないことになっている長岡外史さん。
二宮忠八の設計書を却下したのはこの人であり、あとで二宮にごめんなさいすることになる。
罰ゲームとして、ヒゲを右側だけ剃るのはどうだろう(提案)
当時は日本政府として「気球一枚あればいい」な考えだったから、仕様の無いことではあるが。
管制塔。
ここにある機具は、実際に航空管制で使われていたもの。
なのでボタンが幾つか飛んでるのは気にしてはいけない。
あとスペースキーながいな。
映画とかで見るやつ。
飛行機に預けた荷物がどこに行くかや、手荷物検査の内側を説明するビデオ。
上映時間3分とあるが、計3本あるので、すべて見ると3分×3本になる。
画像の古さや髪型に感じる平成一けた台。
フライトシミュレーターもあるけど、お子様に人気なのでお早めに。
最後のゾーンにきた。
奥にあるのはヘリや小型飛行機のシミュレーター。
いっぱいシミュレーターあるけど、混雑しすぎてて結局ひとつもできなかったな(涙)
左に上がれるところがある。
なにかのゲームらしい。
床に映像がある。
飛行機が入ったカプセルが出てくるので、それを踏んで中の飛行機を出すというもの。
なんか延々と続いていたので、終わりもスコアも無いと思われる。
ここまできて終わりなきゲームをやらせるとは(戦慄)
というわけで、展示館部分はおしまい。
館内の施設として、映像館がある。
映画館のようなスクリーンがあって、そこでプチ映画が上映される。
今回の上映作品はこれだった。
いちおう見てみたんだけど、タイトルどおりアマゾンの話。
飛行機いっさい関係ない。1mmも出てこない。どうしてこうなった。
上映時間は1時間くらいと、案外長い。
最後にお土産売り場。
宇宙食。
相模原では食べなかったけど、今回は食べてみた。
味についてはお察しください。
宇宙で食べたらきっと旨いんだろう(混乱)
様々な航空会社のキーホルダー。
イラン航空とかあるけど、大丈夫なんだろうか。
「ハメネイ師万歳」とか言わないと空中で降ろされるのかな(偏見)
以上
【交通手段】航空公園駅から徒歩5分
【入館料】510円 映像館込みなら820円
【滞在時間】2時間
【混雑度】★★★★(写真撮ると他人が写る)
【URL】航空発祥記念館 - HOME