三渓園
最寄りは根岸駅だが、有名な観光地なので横浜駅や桜木町駅からバスも出ており、30分程度。
開幕いきなり巨大な池で、こちらの肝を抜いてくる。
一眼レフや三脚などの写真ガチ勢は、さっそくここで実戦開始していた。
三渓園は、生糸業で富を築いた原富太郎(原三渓)が、全国各地から重要文化財の建造物を移築してきたものである。
鉄道模型の原サンといい、横浜の原サンは、金持ちの趣味がいかにぶっ飛んだレベルかを示してくれている。
池に向かって左右どちら周りでも行けるが、今回は右回りで行くことにした。
右回りで行くと、最初にあたるのが鶴翔閣。
1902年に原三渓が客接待用に建てたもの。
当時は横浜などの別荘地に、接待場所を設けて交友関係を広げるというのが、政財界あるあるだったらしい。
八聖殿の記事でも書いたが、いまでこそ埋め立てられて港湾施設だらけになっている本牧は、明治期は岬部分にある別荘地帯だった。
この施設は貸し出し可能で、現在でも接待や披露宴などに使われている。
さぞお高いんでしょうと思ったが、公式HPを見ると、4時間で10万円もあれば十分という案外無理のない値段設定であった。
中には入れなかったので、ガラス窓ごしに撮影。
何度か改築されているので、奇麗である。
奥の方にはボイラー室。
内部は、接待用とは言えない感じだった。
ちゃんと現代用のボイラーも設置。
先へ進みます。
ここからは内苑ゾーン。
三渓園は内苑と外苑からなっていて、前者は原三渓のプライベートゾーン、後者は早くから一般開放されていたところ。
原三渓は1939年に死去し、戦後に庭園が整備されて、内苑も一般公開され始めた。
内苑の最初に、三渓記念館がある。
館内にはお土産売り場。
それと抹茶のティールームがある。
かなり混んでいて、席がほぼ埋まるレベル。
さすがに起立して抹茶を飲むのは茶道の精神に恥じそうである。
メインは原三渓に関する資料室なのだが、その部分は撮影禁止になっている。
写真ガチ勢も、ここではおとなしく原三渓について学ばなければならない。
資料室さんサイドは「実業家である原三渓は、文化の保護や横浜市民のため、社会貢献をした人物」とコメント。
しかし原三渓の写真みると、全く抜け目のない鋭い面をしているので、やっぱ実業家って感じっすね(畏怖)
京都の西方寺から持ってきた門。
原三渓はもともと岐阜の出身で青木姓であり、横浜で生糸業を営んでいた原家に婿入りしている。
幼少期から漢学詩文などお勉強していたので、実業家として財を成した後に文化保護に走る素地は幼少期にあった模様。
門をくぐって右手にある白雲邸は、原三渓が老年に入ってから住んでいた屋敷で、ここも貸し出し可能。
原家に婿入りした三渓だが、31歳の時に原家当主の義父が没して事業を継ぐことになる。
ここで三渓は、権限を握っていた番頭たちの面を多額の退職金で叩いて辞めさせ、自らハンドルを握って経営の近代化や輸出に踏み切り、事業を大成功させた。
やっぱり実業家ってえげつないな(再確認)
紀州徳川家の別荘と言われる臨春閣。
建物は手当たり次第に引っこ抜いてきたわけではなく、庭園の地形や風景との相性を考えて選んだものであるらしい。
臨春閣の中は覗けるけど、重要な障壁画があったりするので、中には入れません。
たくさん建物がある点は川崎民家園と同じだが、三渓園は館内に入れないのが残念である。
建物の下には、動物捕獲用の罠が。
天瑞寺寿塔覆堂
天瑞寺と言うのは豊臣秀吉が母の病気回復を祈念して建てた寺で、母が回復したときに祝って天瑞寺に建てたのが寿塔という建物で、その寿塔を覆うための堂がこれ。
長い。
なお寿塔本体は、京都の大徳寺にあるそうです。
なぜこれだけ持ってきたのだろうか。
堂の目の前にこんなのがあったが、賽銭は2円くらいしか入っていなかった。
まだまだ奥の方に何か見える。
橋を渡って向こう側へ。
階段かあ、壊れるなぁ(老人)
上った先にあるのは、京都伏見城内にあった月華殿で、徳川家康が建てたと言われている。
農家住宅にしか見えないのだが、内部にはこれまた高価な障壁画があるとのこと。
この角度から見ると、ハイジャンプで有名な清水寺に見えなくもない(?)。
月華殿の奥にある建物は便所ではなく、三渓が建てた金毛窟という茶室。
一番奥まで来たので、折り返します。
次は聴秋閣。
周囲を水が流れている。
入口が一段下がっているので、もともとは船で漕ぎつけて入館するというシャレオツであった可能性があるらしい。
次はなんの建物だろうか。
トイレだった。
トイレの横には東屋もある。
だいぶ歩いてきたが、もうちょいフンばりましょう。
お次は、春草蘆。
織田有楽斎による茶室と言われている。
これ平塚市博物館にもあったな。
お隣の蓮華院も茶室だが、ここは整備中だった。
さっきから茶室が多い。
西洋的な経営をぶち上げた実業家だが、その反動で伝統和風な趣味を強めたのだろうか。
蓮華院は、竹林の中の茶室と言うイメージであるため、まわりは竹林。
馬を降りろ(唐突な命令)
竹林の向こう側(園外)に、トタン屋根じみたボロい建物が幾つか見えたんだが、あれ何なんだろう。
従業員用の倉庫だろうか。
以上で内苑が終了。
ここから外苑。まだ半分です(卒倒)。
この辺にはお茶屋さんがあり、体力回復地点となっている。
休んだら続行。
また階段
園の入り口からも見えたが、ここに三重塔がある。
京都にあった燈明寺からの移築。
この奥の方に松風閣という建物もあったのだが、工事中とのことでスキップ。
別に安心したわけではない(念押し)
ぐねぐね曲がっている梅は、臥竜梅。
この先に梅の林があるぞ!
横笛庵。
横笛は楽器ではなく女性の名前で、平清盛の従者と恋に落ちたが悲恋に終わり、尼になったんだとか。
建物自体の来歴は不明だが、内部に横笛の像があったから横笛庵。
横笛さん、悲しみのあまり千束の恋文をもって自分の像を作っている。
ヤンデレというわけではなく、他の人の恋が実ることを祈って作ったらしい。
その像がこの建物内にあったらしいのだが、大戦中に被害を受けて失われてしまったとのこと。
関東大震災や戦災で無くなってしまった建物が幾つかある。
この古い写真だと建物2棟が写っているが、
現在はこの通り、左側の建物が無くなっている。
鎌倉東慶寺の仏殿。
DVにあった女性の駆け込み寺として、昔から頼られている寺である。
思いっきり工事しているが、合掌造りの住宅。
ここは重要文化財なのに、唯一中に入ることができた。
庶民の住居だから、ガード緩いんだろうか(ひがみ)
出口方面へ向かう道。
ようやくここまできたか。
右に見える待春庵では、三渓考案の汁なし蕎麦が食べられる。
今回は食べられなかったが、文化財保護者の舌は馬鹿であるハズがないだろう、きっと。
最後は、またまた燈明寺から持ってきた本堂。
この寺は奈良時代に開基され、たびたび荒廃の目にあいつつ存続してきたが、明治になって財政危機に陥ったところを原三渓が保存のため移築させた。
三重塔の方はまともな状態だったらしいが、この本堂は台風で大破して部品バラバラというろくでもない状況だったのを持ってきて、ここで復元させている。
これで入口に戻っておしまい。
帰りのバスだが、三渓園入口すぐにあるバス停「三渓園」は終バスがやたら早いうえに1時間に1本しかない。
次に近いバス停は「三渓園入口」だが、みんなここに集まるので結構混む。
ただ徒歩5分程度のところに「本牧元町」とか「三の谷」など別路線のバス停があり、本数もじゃんじゃんあるので、こっちまで避難すればけっこう楽に回避できたりする。
以上。
【入場料】700円
【混雑度】★★★★(すぐ横に人)
【滞在時間】2時間
【URL】