神奈川Cスポ探索日記

神奈川Cスポ探索日記

神奈川県内の観光スポット、って言えるかどうか微妙なスポットを巡っています

三渓園

 

三渓園は、横浜本牧にあるドでかい庭園である。

 

 

 

最寄りは根岸駅だが、有名な観光地なので横浜駅桜木町駅からバスも出ており、30分程度。

 

 

開幕いきなり巨大な池で、こちらの肝を抜いてくる。

一眼レフや三脚などの写真ガチ勢は、さっそくここで実戦開始していた。

 

 

 

三渓園は、生糸業で富を築いた原富太郎(原三渓)が、全国各地から重要文化財の建造物を移築してきたものである。

鉄道模型の原サンといい、横浜の原サンは、金持ちの趣味がいかにぶっ飛んだレベルかを示してくれている。

 

 

池に向かって左右どちら周りでも行けるが、今回は右回りで行くことにした。

 

 

 

右回りで行くと、最初にあたるのが鶴翔閣。

 

 

1902年に原三渓が客接待用に建てたもの。

当時は横浜などの別荘地に、接待場所を設けて交友関係を広げるというのが、政財界あるあるだったらしい。

 

八聖殿の記事でも書いたが、いまでこそ埋め立てられて港湾施設だらけになっている本牧は、明治期は岬部分にある別荘地帯だった。

 

 

この施設は貸し出し可能で、現在でも接待や披露宴などに使われている。

さぞお高いんでしょうと思ったが、公式HPを見ると、4時間で10万円もあれば十分という案外無理のない値段設定であった。

 

 

中には入れなかったので、ガラス窓ごしに撮影。

何度か改築されているので、奇麗である。

 

 

奥の方にはボイラー室。

 

 

内部は、接待用とは言えない感じだった。

 

 

ちゃんと現代用のボイラーも設置。

 

 

先へ進みます。

 

 

ここからは内苑ゾーン。

三渓園は内苑と外苑からなっていて、前者は原三渓のプライベートゾーン、後者は早くから一般開放されていたところ。

三渓は1939年に死去し、戦後に庭園が整備されて、内苑も一般公開され始めた。

 

 

 

内苑の最初に、三渓記念館がある。

 

 

 

館内にはお土産売り場。

 

 

それと抹茶のティールームがある。

かなり混んでいて、席がほぼ埋まるレベル。

さすがに起立して抹茶を飲むのは茶道の精神に恥じそうである。

 

 

メインは原三渓に関する資料室なのだが、その部分は撮影禁止になっている。

写真ガチ勢も、ここではおとなしく原三渓について学ばなければならない。

 

 

 

資料室さんサイドは「実業家である原三渓は、文化の保護や横浜市民のため、社会貢献をした人物」とコメント。

 

しかし原三渓の写真みると、全く抜け目のない鋭い面をしているので、やっぱ実業家って感じっすね(畏怖)

 

 

 

京都の西方寺から持ってきた門。

 

三渓はもともと岐阜の出身で青木姓であり、横浜で生糸業を営んでいた原家に婿入りしている。

幼少期から漢学詩文などお勉強していたので、実業家として財を成した後に文化保護に走る素地は幼少期にあった模様。

 

 

 

門をくぐって右手にある白雲邸は、原三渓が老年に入ってから住んでいた屋敷で、ここも貸し出し可能。

 

原家に婿入りした三渓だが、31歳の時に原家当主の義父が没して事業を継ぐことになる。

ここで三渓は、権限を握っていた番頭たちの面を多額の退職金で叩いて辞めさせ、自らハンドルを握って経営の近代化や輸出に踏み切り、事業を大成功させた。

 

やっぱり実業家ってえげつないな(再確認)

 

 

 

紀州徳川家の別荘と言われる臨春閣。

 

建物は手当たり次第に引っこ抜いてきたわけではなく、庭園の地形や風景との相性を考えて選んだものであるらしい。

はえーすっご(小学生)

 

 

臨春閣の中は覗けるけど、重要な障壁画があったりするので、中には入れません。

 

たくさん建物がある点は川崎民家園と同じだが、三渓園は館内に入れないのが残念である。

 

 

 

建物の下には、動物捕獲用の罠が。

 

 

天瑞寺寿塔覆堂

天瑞寺と言うのは豊臣秀吉が母の病気回復を祈念して建てた寺で、母が回復したときに祝って天瑞寺に建てたのが寿塔という建物で、その寿塔を覆うための堂がこれ。

長い。

 

なお寿塔本体は、京都の大徳寺にあるそうです。

なぜこれだけ持ってきたのだろうか。

(寿塔の)慢心、(三渓園との)環境の違い。

 

 

 

 

堂の目の前にこんなのがあったが、賽銭は2円くらいしか入っていなかった。

 

 

 

まだまだ奥の方に何か見える。

 

 

 

橋を渡って向こう側へ。

これは文化財ではなく、三渓園オリジナルの様子。

 

 

階段かあ、壊れるなぁ(老人)

 

 

上った先にあるのは、京都伏見城内にあった月華殿で、徳川家康が建てたと言われている。

農家住宅にしか見えないのだが、内部にはこれまた高価な障壁画があるとのこと。

 

 

この角度から見ると、ハイジャンプで有名な清水寺に見えなくもない(難視)。

 

 

月華殿の奥にある建物は便所ではなく、三渓が建てた金毛窟という茶室。

 

 

さらに奥にある天授院は、鎌倉建長寺の近くにあった地蔵堂。

 

 

一番奥まで来たので、折り返します。

 

 

次は聴秋閣。

二条城に徳川家光が建て、そのあと春日局がもらったという。

 

 

周囲を水が流れている。

入口が一段下がっているので、もともとは船で漕ぎつけて入館するというシャレオツであった可能性があるらしい。

 

 

 

次はなんの建物だろうか。

 

 

トイレだった。

 

 

 

トイレの横には東屋もある。

だいぶ歩いてきたが、もうちょいフンばりましょう。

 

 

お次は、春草蘆。

織田有楽斎による茶室と言われている。

 

これ平塚市博物館にもあったな。

 

 

お隣の蓮華院も茶室だが、ここは整備中だった。

 

さっきから茶室が多い。

西洋的な経営をぶち上げた実業家だが、その反動で伝統和風な趣味を強めたのだろうか。

 

 

蓮華院は、竹林の中の茶室と言うイメージであるため、まわりは竹林。

 

 

馬を降りろ(唐突な命令)

 

 

竹林の向こう側(園外)に、トタン屋根じみたボロい建物が幾つか見えたんだが、あれ何なんだろう。

従業員用の倉庫だろうか。

 

 

以上で内苑が終了。

ここから外苑。まだ半分です(卒倒)。

 

 

 

この辺にはお茶屋さんがあり、体力回復地点となっている。

 

 

休んだら続行。

 

 

また階段

 

 

園の入り口からも見えたが、ここに三重塔がある。

京都にあった燈明寺からの移築。

 

この奥の方に松風閣という建物もあったのだが、工事中とのことでスキップ。

別に安心したわけではない(念押し)

 

 

 

ぐねぐね曲がっている梅は、臥竜梅。

この先に梅の林があるぞ!

 

 

 

横笛庵。

横笛は楽器ではなく女性の名前で、平清盛の従者と恋に落ちたが悲恋に終わり、尼になったんだとか。

 

 

 

建物自体の来歴は不明だが、内部に横笛の像があったから横笛庵。

 

横笛さん、悲しみのあまり千束の恋文をもって自分の像を作っている。

ヤンデレというわけではなく、他の人の恋が実ることを祈って作ったらしい。

 

その像がこの建物内にあったらしいのだが、大戦中に被害を受けて失われてしまったとのこと。

 

 

 

関東大震災や戦災で無くなってしまった建物が幾つかある。

この古い写真だと建物2棟が写っているが、

 

 

現在はこの通り、左側の建物が無くなっている。

 

 

鎌倉東慶寺の仏殿。

DVにあった女性の駆け込み寺として、昔から頼られている寺である。

 

 

 

思いっきり工事しているが、合掌造りの住宅。

 

 

ここは重要文化財なのに、唯一中に入ることができた。

やはり庶民の住居だからだろうか(ひがみ)

 

 

中には入れても、明かりガンガンついているので、私の雑魚カメラでは逆光しまくりである。

 

 

繊細そうな建物が多い中、ここは太い柱が多く力強さを感じさせる。

 

 

出口方面へ向かう道。

ようやくここまできたか。

 

右に見える待春庵では、三渓考案の汁なし蕎麦が食べられる。

今回は食べられなかったが、文化財保護者の舌は馬鹿であるハズがないだろう、きっと。

 

 

最後は、またまた燈明寺から持ってきた本堂。

この寺は奈良時代に開基され、たびたび荒廃の目にあいつつ存続してきたが、明治になって財政危機に陥ったところを原三渓が保存のため移築させた。

 

三重塔の方はまともな状態だったらしいが、この本堂は台風で大破して部品バラバラというろくでもない状況だったのを持ってきて、ここで復元させている。

 

 

これで入口に戻っておしまい。

 

帰りのバスだが、三渓園入口すぐにあるバス停「三渓園」は終バスがやたら早いうえに1時間に1本しかない。

次に近いバス停は「三渓園入口」だが、みんなここに集まるので結構混む。

ただ徒歩5分程度のところに「本牧元町」とか「三の谷」など別路線のバス停があり、本数もじゃんじゃんあるので、こっちまで避難すればけっこう楽に回避できたりする。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】横浜駅桜木町駅根岸駅からバス

【入場料】700円

【混雑度】★★★★(写真撮ると他人が写る)

【滞在時間】2時間

【URL】

www.sankeien.or.jp

 

 

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猿島

 

猿島は横須賀にある無人島である。

船は三笠公園から出ており、まずはこのコンテナで船のチケット&入島料を支払う。

 

 

 

搭乗時刻になったら、桟橋を渡って船に乗る

 

 

無人島っていうから、たらい船みたいなの予想してたが、かなり立派な船であった。

 

 

 

船内のご様子。

 

 

出航だ!

猿島までは10分程度。

 

 

船は1時間に1本ペースで出ている。

3月~11月半ばまでは毎日運行、それ以外は土日のみ運行。

 

毎日猿島まで行く人がそんなにいるんだろうか(当然の疑問)

 

 

 

ご到着。

ご覧の通り、桟橋に帰りの客が大勢ならんでいる。

けっこうな賑わいである。

 

 

船の先頭部にある、この座席に座っていました。

 

 

桟橋の途中に、アイランド感あふれる看板。

 

 

 

ビーチ。

夏の間は海水浴客でごった返すそうです。

  

 

 

島の奥の方に進みます。

 

 

 

「海軍港」という表記。

ここは江戸時代以降、要塞として利用された。

東京湾の防衛のため、国内初の台場が築かれている。

 

 

 

というわけで、かつての遺品みたいなのがあちらこちらに置いてあるのだが、特に解説が無く放置されていたりする(哀愁)

 

 

 

これは発電所で、明治時代の建築であるが、いまだに島の動力源として利用されている。

 

 

道は整備されているが、島ということで結構アップダウン。

 

 

要塞っぽいところ。

 

 

 

この建物の中に、弾薬庫や病室に司令室も設けられていたらしい。

ただ関東大震災により一部が崩壊したことで、実戦利用されることは無かった。

 

 

 

同じ横列に長いレンガと短いレンガを交互に積む、フランス積み。

国内ではあまり無い積み方である。

見た目は良いけど、揺れに弱いので倒壊するという、要塞にあってはならない仕様になっている。

 

 

 

なので室内は立ち入り禁止です。

 

 

 

鬱蒼としているので、仮面ライダーの敵キャラとかが出てきそう(撮影場所並感)

 

 

 

大戦中は軍事施設だったので、戦後~1961年まで米軍に接収されていた。

その間も島までの船は出ていて、海水浴場として使われていたらしい。

 

 

米軍から返還後は、国有財産なので大蔵省管轄になっていたようだが、1995年以降横須賀市が管理を開始。

2003年以降は猿島公園として整備、本格的に観光地化させた模様。

 

 

切通の道を進んでいく。

 

 

壁にいろいろ彫られている。

地面から数メートルくらいの位置にも彫られていたのだが、どうやって届いたのだろうか。

 

 

 

当たり前ですが、落書きは禁止です。

観光地として管理され始める前に、ヒャッハーな連中がやらかしたものと思われる。

 

 

 

トンネル内部。

途中で道が屈折しているのは、あえて見通しを悪くさせるという軍事目的である。

 

 

ここにもあちらこちらに弾薬庫。

地上部にちょうど砲台があるようで、井戸のようにそこへ弾薬を吊り上げる仕組みだそうだ。

 

 

 

トンネルを抜けると、要塞だった(既視感)

左への道と

 

 

右への道がある。

 

 

左から行った方が上手く周遊できそうなので、左から。

 

 

やけに狭いトンネルだと思ったら、一部は部屋として設計されていた。

 

 

また分かれ道。

左手の日蓮洞方面へ。

 

 

砲台跡に来た。

 

 

アプリの説明書き。

 

 

いまの風景に砲台を重ねて、当時を思い知ることができる模様。

雑なコラージュとか言ってはいけない

 

 

 

日蓮洞に降りるには、螺旋階段を通ります。

これ帰り道疲れそうだな(貧弱)

 

 

 

たこ殴りにされないように気を付けましょう。

 

 

日蓮洞。

倒壊の危険があるので、内部は立ち入り禁止。

 

 

わりと広いようである。

猿島は古代には陸続きだったようで、奥には弥生~古墳時代貝塚がある。

 

あれ、日蓮関係なくね?

 

 

 

すぐ下は海です。

 

いちおう日蓮猿島に寄ったという伝説はある。

安房から鎌倉に船で行こうとしたら時化に襲われて沈没しかけるも、そこは日蓮上人なので何事もなく猿島に漂着し、難を逃れたとのこと。

 

 

 

日蓮洞から戻る。

砲台跡はいくつかあるのだが、「解説板は日蓮洞手前の砲台跡に置いといただろ」ということで他の砲台跡は特に説明無しで放置されている。

 

 

 

木は鬱蒼としているが、スギやヒノキは少なかったり、また本土から離れているので、花粉症患者でもマスクなしで生存できる。

 

 

 

ここは展望台。

 

 

右手に房総半島、左手に東京湾が見えるらしいのだが、ぜんぶ一緒に見えますね(適当)

 

 

また下に降りる階段。

 

 

完全に岩場だった。

 

 

立ち入り禁止の看板はあるが、ロープとかは張っていないので、調子に乗って接近しすぎると予想外の海水浴になってしまうこと間違いなし。

 

 

 

展望台にあった説明書き。

江戸時代にペリー提督が付近を通過した際、猿島を見て「ペリーアイランド」と勝手に名付けたらしいが、特に無かったことにされた模様。

 

まぁこの人は小笠原諸島に到着した際も「ここを米国領土とする」と言い出しているが、速攻でイギリスにキレられたので、この宣言も無かったことにされている。

 

 

 

港方面に戻るが、行きとは違う道である。

 

 

往路の途中で分かれ道があったが、あそこで右を選択すると、このトンネルにたどり着く。

やはりあそこは左を選んだ方が、無駄なく回れる感じはする。

 

 

建物。

 

 

特に説明は無し。

2次大戦中は観測所を新築したらしいので、それだろうか。

 

 

もうすぐゴール地点。

 

このときは猿島から本土に向かう最終便に乗る予定だったが、これを逃すと猿島一泊を余儀なくされるので、島内アナウンスで「遅れないように」と再三流れる。

無人島なので、宿泊施設とか当然一切なし。

 

 

 

広場。

もともと東屋だったと思うが、儀式場みたいになっている。

 

猿島には貝塚もあるように人が住んでいたと思われるが、江戸時代になると祭祀の場所として利用されはじめ、住居地では無くなったらしい。

この東屋も祭祀場であった可能性が微レ存?

 

 

そんなこんだで、港に時間通りに到着。

最終便はかなりの客がおり、船が満杯になるレベルだった。

 

 

 

なお万が一、最終便に間に合わず取り残された場合でも、この通り救済手段は残されている。

まぁ迎えに来た船員に色々お小言を言われること間違いなし。

 

 

船の時刻表上、島内には少なくとも1時間15分程度滞在することになるが、島内1周で1時間は消費できるので、ちょうどいい感じであった。

 

以上。

 

 

【交通手段】横須賀中央駅から徒歩15分。三笠公園から船で10分

【滞在時間】75分

【混雑度】★★★★(写真撮ると他人が写る)

【入島料】1500円(船代ふくむ)

【URL】

www.tryangle-web.com

 

 

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浦賀郷土資料館(浦賀コミュニティセンター分館)

 

浦賀コミュニティセンター分館内には、郷土資料館がある。

窓に郷土資料館って貼ってあるでしょ(どや顔)

 

 

 

本当に資料館やっているのか不安になる外観ではあったが、「開館中」の看板が立っていたので入館。

 

 

 

1F受付。

 

 

地域のパンフレットなど。 

 

 

資料館のある2Fへ。

 

 

奉行所があった。

盛り上がってるなぁ(小波感)

 

 

資料館の全景。

 

 

1Fの受付で、資料館が作成したパンフレットをもらったので、それを見つつこの記事を書いています。

 

 

展示内容は主に、浦賀奉行所と黒船関係。

 

浦賀奉行所は、江戸への商品や女性の出入りのチェックポイントとして、1720年に設置された。

江戸に入ってくる船は、みんな浦賀に寄らないといけないので、交通の拠点として栄えたようである(当時)

 

 

 

ただし鎖国中なので外国船は長崎に行かないといけないのだが、それをガン無視して浦賀にやってきた船も幾つか存在した。

漂流していた人民を届けに来た船があれば、日本を開国させる目的でやってくる連中もいたようである。

 

 

ルールを守らずに浦賀にやってきた外国船は、こういう歓待を受けることになります。

 

 

 

誇張した展示かと思ったら、絵でも描かれていたので、史実のようである。

 

 

浦賀奉行所のトップたる奉行の歴代就任者が書いてある。

その人の人事異動の経歴まで記載されている細かさである。

 

 

 

ただ中には、やらかしてしまって左遷されている者も。

 

 

こちらも左遷されたうえで罷免という仕打ちを受けている。

まぁ不祥事起こしたらしょうがないね(理財局並感)

 

 

ペリーの初回来航時に国書を受け取っているわけだが、その受取り役が浦賀奉行の戸田と井戸だった。

2人の奉行に対するアメリカ側の印象が『ペリー艦隊日本遠征記』という書物に記録されているらしい。

 

それによると、戸田は風采が良かったが、井戸は「(戸田よりも)貧相で知的に劣っていそう」と相当なディスられ方をしている。

井戸さんの子孫から訴訟不可避。

というか、なぜ資料館さんサイドはこの展示を置いたんだろうか(難題)

 

 

浦賀奉行所の模型。

 

 

当時の間取り図。

よく残っていたな。

 

 

浦賀という町は、奉行所ができる前から賑わっていた模様。

 

むしろ奉行所を建てるための土地を明け渡さないといけないので、浦賀住民からかなりの反対運動を食らって、建築場所を決めるのに苦労したようである。

お上といえども、強硬策はなかなか取れないのだろう。

 

 

 

多かったのは、干鰯問屋。

イワシを干したのを固めれば良質の肥料になり、綿花の栽培と特に相性が良いらしい。

 

人気が出すぎて価格が暴騰し、農家vs干鰯問屋の「米騒動」ならぬ「干鰯騒動」じみた対立もあったとか。

 

 

そんな浦賀にやってきた黒船ご一行様。

浦賀奉行所が派遣した与力 中島三郎助は、黒船に乗船した日本人第1号である。

 

ここで模型が展示されているのは黒船艦隊の一隻サスケハナ号だが、サスケハナとはアメリカ原住民言語で「広く深い河」を指すのであり、佐助でも花でも無いので要注意。

 

 

 

中島三郎助さんの肖像画

なんというか、「夜露四苦」とか書き足したら違う職業の人に見られる感じである。

 

 

 

ペリー来航は当時も大きく報道されたようです(すっとぼけ)

 

 

中島三郎助さんのお部屋。

 

与力と言う役職は、トップである奉行の補佐。

身分的には良さそうだが、給料はあまり良く無かったようで、自宅で菜園をやって食費を補っていたとのこと。

 

 

 

中島三郎助氏は頭が切れる人だったようで、黒船乗船時に艦内の様子をよく覚え、のちに幕府が軍艦を建造する際にこのときの記憶を役立てたようである。

得体のしれない黒船に乗るというのに、よくそんな余裕あったな。

 

 

海軍の学校にも通って知識を得た中島のもとに、若き日の桂小五郎が教えを請いにきたという。

中島の家に寄宿することになったが、部屋が無いので漬物部屋に住まわせたらしい。

まぁ徒弟なら仕方ないね(夜露四苦)

 

 

 

模型ゾーン。

船の模型といい、模型だらけである。

 

 

奉行所のあった西浦賀の様子。

当初は東浦賀に建てるつもりだったけど、干鰯問屋の猛烈な反対でこうなりました。

 

 

渡し船の乗り場もある。

 

 

突然の観音崎灯台

 

 

そして最後に、(いつもの)当時の道具類。

 

 

ただ時代がわりと新しかったり、大きな問屋の蒐集品だったりなので、土に埋まっていたのを掘ってきたやつではない。

古代石器ファンの期待には応えられませんので、ご了承ください。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】浦賀駅から徒歩10分

【滞在時間】30分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【入館料】無料

【URL】浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)|横須賀市

 

 

浦賀の渡し

 

横須賀の浦賀には渡し船がある。

 

 

 

 

浦賀は湾を挟んで東西に分かれる形になっている。

この東西を結んでいるのが、渡し船である。

 

ちなみに湾には浦賀ドックという興味深い港湾施設があるのだが、残念ながらイベント日を除いて一般公開していない。

 

 

 

今回は東の渡し場から乗船する。

東西の渡し場ともに浦賀駅から徒歩20分弱。

 

 

 

公衆トイレではなく、船の待合所。

 

 

朝7時から夜6時までと、営業時間はわりと長い。

ただ12時~13時は昼休み。

 

 

船が渡し場に居ればすぐに乗ることができるが、反対の渡し場に居る時は、このボタンを押せば来てくれる。

というわけで、押してみよう。

 

 

 

 

 

やってきた。

 

 

乗船。

 

 

お船までの橋は定員3名だが、長さ的に5人は乗れてしまう橋なので、うっかり4名以上乗っかって墜落しないよう気を付けないといけない。

 

 

 

船はこちら。

たらい船みたいなの予想してたが、案外ちゃんとした船である(失礼)

 

 

いざ出航。

渡し賃200円は乗船時に払う。

 

東西をむすぶこの航路は横須賀市道とされており、つまり道路扱いになっている。

 

 

渡し船の詳しい起源は不明だが、浦賀郷土資料館の資料によると、18世紀前半には始まった記録がある。

運賃として、近隣住民から船頭には米が渡され、それで船頭たちは生活していた模様。

 

 

 

西の渡し場が見えてきた。

乗船時間はわずか3分程度。

 

 

 

渡し賃200円ではどう考えても赤字なので、1917年から浦賀町(現在は横須賀市)が公共交通として運営している。

 

市民の足ということなのだろうが、今の市民ってこれ使ってるんですかね(白目)

渡し場は東も西も住宅街なので、西岸の人が「東岸に渡って買い物」ということも無さそうである。

予算があるうちに乗船しておこう(提案)

 

 

あと最近twitterで運行状況が呟かれ始めてるんだけど、休航時しか更新されないので圧巻のツイート数になっている。

 

twitter.com

 

 

以上

 

【交通手段】浦賀駅から徒歩20分

【運賃】200円

【滞在時間】10分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】浦賀の渡し船|横須賀市

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かわさき宙と緑の科学館

 

このUFOみたいな建物は、川崎市の生田緑地にある、かわさき宙と緑の科学館である。

 

 

 

向ヶ丘遊園駅から徒歩15分程度。

民家園だったり岡本太郎美術館だったり、生田緑地には大きな施設がいろいろある。

 

 

入場は無料。

プラネタリウムが人気だが、これは有料なので、入り口すぐのカウンターでチケットを買うことになる。

 

 

入口右手の方から。

 

 

まずは生田緑地周辺など、森に関するコーナー。

 

 

2013年にリニューアルされたようで、施設は清潔。

この展示棚も、なんか現代っぽい(同調圧力

 

 

 

生田緑地にはシダが多いので、その展示。

葉っぱが置いてある。

 

 

めくると、葉の裏側にポツポツが。

これは胞子嚢である。

 

 

上のは普通な感じだったが、気味悪い胞子嚢もあるようです。

 

 

 

もちろんシダだけでなく、様々な木々があります。

 

 

おさわりもできます。

 

 

やたら長い筒。

 

 

 

下にゴミがたまっているなあと思ったら、ゴミでなくて展示品だった。

筒のとこにあるボタンを押すと、下から風が吹いて、この葉っぱや種を上に巻き上げるというもの。

 

だからボタン押してみたんだけど、装置が正常でないのか、風がぜんぜん吹いてくれなくて、葉っぱも舞い上がってくれなかった。

やっぱりゴミじゃん(ゲス顔)

 

 

 

そんな感じで調整中の機械もいろいろあるのだが、まぁ入場料無料だし、予算の都合もあるからね仕方ないね。

 

 

 

森ということで、地面の中にはいろいろ埋まっています。

 

 

こういうのとか。

 

 

こういうのとか。

 

地面は軽い気持ちで掘ってはいけないのだろう(戒め)

 

 

 

ここは学習施設なので、こちらになぞなぞを出してくる展示もあります。

ぼんやり見てないでちゃんと考えながら見ろ、という科学館側の親心であろう。

 

小枝に刺さっているこのカエルは、モズという鳥が捕らえたもの。

モズはエサを捕らえると、あとで食べるためにこんな感じで取っておくけれど、たまに取っておいたの忘れてしまうことがあるらしい。

なので、このカエルは枝に刺されたまま放置されているんだと。悲しいなあ

 

 

 

ボールペンの上に、なんかヤバそうな虫が動いている。

 

 

ヒルだった。

こんなのに襲われたらたまったもんじゃない。

 

 

こちらはカマキリの尻からなにか出ているが、超ロングな糞ではなく、寄生虫である。

 

 

虫の展示には力を入れているようなので、虫大好きな皆さんにはたまらない。

虫大嫌いな皆さんにも、違う意味でたまらない内容となっております。

 

 

ここらで趣向を変えて、木の実ゾーン。

 

 

自由に触れます。

懐かしい感じである。

 

 

生田緑地には狸がいるらしい。

 

 

タヌキ注意のマークも。

近くにドラえもんミュージアムがあるが、タヌキ繋がりでこの辺りに開館したのだろうか(すっとぼけ)

 

 

 

こちらは標本コーナー。

 

 

鳥たち。和やかですねえ。

 

 

君は、目とくちばしが離れすぎている感じがするね。

 

 

油断していると、また昆虫ゾーンになります。

 

 

しっぽがやたら長いが、ハチさん的には需要があったのだろうか。

 

 

蛇のホルマリン漬け。

もうすこし何とかならなかったのか(疑念)

 

 

普段なかなか見ないコウモリ君。

 

 

 

続いて、街の中にある自然のコーナー。

 

 

セミたち。

ボタンを押すと、それぞれの声が聴けます。

 

 

 

街に居るカラス達を愛でようという、たいへん珍しい趣旨の映像資料。

確かに見方を変えれば、彼らは我々とともに街中に共生しているのである。

 

でも絶対に越えられない壁ってあるよね(真摯)

 

 

 

日本にいるカラスは、嘴の細いハシボソと、太いハシブトが多い。

ハシブトは肉食系で攻撃性が強く、ゴミ置き場を漁っているのは主にこいつらである。

 

一方でハシボソは草食系であり、もともと人里に居たのは彼らだったが、山里に居たハシブトが都市化の影響で人里にも進出して規模を拡大したせいで、劣勢になっている。

ハシブトによる風評被害を受けていると言えよう。

 

 

 

今度は、多摩川のコーナー。

 

 

都市河川にはあまり良いイメージがわかないのだが、実際1980年代までは排水などでごった返して酷い状態だったらしい。

しかしそのあと整備が進んで、アユも帰ってくるようになったんだと。

 

 

 

というわけでごみを捨てるのはやめましょう。

 

 

引出しをあけると、そこにも展示がありますカニ(雑)

 

 

平塚市博物館でもそうだったが、川には石がつきものである。

 

1Fはこんなところ。

 

 

2Fに上がってみました。

 

 

スペース的なスペース(審議拒否)

 

 

隕石持ち上げられますゾーン。

かなり重いが、持ち上げられはする。

平塚市博物館にあった隕石が異常なくらい重かっただけか。

 

 

 

2Fには展示は殆ど無く、イベント用スペースとなっている模様。

 

 

外には休憩スペース。

 

 

 

天体観測スペースもあるらしい。

時間限定での公開なので、この日は見れなかったが、天体観測会もやっている様子。

 

以上で2Fもおしまい。

 

 

 

プラネタリウムはこの通り大盛況っぷりなので、館内もけっこうな賑わいであった。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】向ヶ丘遊園駅から徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】60分

【混雑度】★★★★(写真撮ると他人が写る)

【URL】

www.nature-kawasaki.jp

 

 

帆船日本丸

 

桜木町駅からみなとみらい方面に歩いてすぐのところに、船が置いてある。

 

 

この船が、日本丸

1930年~1984年まで、船員育成のための練習船として使われていた。

 

 

 

船の前のチケット売り場。

船の対面に、みなと博物館があるが、そことの共通券もあり。

 

 

 

いざ乗船。

 

 

この場所は、明治時代に建築された横浜船渠1号ドックの遺構であり、これ自体が文化財になっている。

そして日本丸自体も2017年に文化財登録を受けたということで、横浜誇らしい感が漂っている。

 

 

 

まずは前部へ階段を登り、右手の部屋へ。

 

 

 

ブリッジに到達。

 

 

運転できます(迫真)

 

 

後ろには本が幾つか置いてある。

 

 

古書かと思いきや、平成20年という割と新しめだった。

 

まぁ日本丸は現在2代目が練習船として活動しているので、そっちの方で使っていたのかもしれない。

 

 

 

昭和時代、全国に11校の船員育成学校があったのだが、所有する船が貧弱であり、そんな船で遠洋航海に出るのだから危険極まりなかった。

1927年に商船学校の船が航海中に暴風雨にあい、乗組員53名全員死亡という惨事が発生。

 

 

 

そんな悲劇を起こしたので、事故翌年の1928年、日本政府は大量の予算をぶっこんで大型の練習船を製造することにした。

 

船の設計は、日本国内ではあまり経験が無かったため、イギリスの会社に依頼した。

しかしこの設計に欠陥があり、修正する羽目になったとか。

やっぱりメイドインジャパンがナンバーワン!

 

 

 

製造自体は川崎重工の前身である、川崎造船所が行い、1930年に進水した。

 

ブリッジの反対側へでて、船の右舷側へ。

 

 

階段を下りて、前方に向かう。

戦艦では無いので、大砲は載せていません悪しからず。

 

 

船首甲板に来ました。

 

 

進水後は全国の船学校で重宝された日本丸

戦時中は物資輸送に使われ、多くの船が撃沈される中、幸運にも生き残る。

 

戦後は、海外の戦地にいる日本人の引き上げ・遺骨の収集。

朝鮮戦争がはじまると、朝鮮半島から出国者輸送も担うなど、フル稼働の活躍。

 

 

 

後方を見た図。

ワイヤーがありすぎて、「祝 文化財登録」の横断幕を覆ってしまっている。

 

戦争関係のごたごたが終わった後、日本丸は再び練習船として使用され始める。

1984年に引退するまでの54年間で、11,500名以上の船員を育てた。

 

そういうわけで引退後の引き取り手として多くの都市が立候補したが、横浜市滝川クリステル並のアプローチをしたので、ここに飾ることになりましたとさ。

 

 

 

なんか置いてある。

 

 

ヤシの実だった。

 

 

こんな感じで、床掃除をするのに使うらしい。

 

なおこの船では団体向け体験教室もやっていて、そこで床磨きを体験できます。

腰を悪くしそうなので私は遠慮します(老並感)。

 

 

 

船首甲板の後ろは機材だらけ。

 

 

 

手押しポンプ。

飲料水タンクに繋がっている。

航海中、水は非常に貴重なので、普段は操作できないようにカギをかけていた。

 

 

 

なんだこれは。

 

 

船室用の換気口だった。

 

 

 

これは巻き上げ機。

帆を上げたり、着岸時のロープ巻きで使用する。

 

 

穴が開いているところに、この木の棒を差し込む。

 

 

するとこんな感じになる。

 

 

 

洗濯桶。水の節約のため、洗濯は週に一度だけ。

さらに節約のため、桶1つ分の水を5名で使う。

連係プレイが求められる。

 

 

 

そんな感じで、機材いろいろコーナーでした。

 

 

下の船室におりる。

 

 

急な階段である。

 

 

第二甲板。一般の船員が使うゾーン。

地下2階にあたる。

 

 

 

展示。

船乗りは、様々なロープの結び方を覚えなきゃいけない、ということ。

そしてそれぞれの結び方には名前が付いている。

 

 

【問題】これは何結びでしょう?

 

 

船員の寝室。

ほとんどの部屋はドアが閉められているけど、ガラス越しに見れる部屋もあります。

 

 

この船の体験教室メニューの中に、お泊り教室があるらしいので、閉鎖されている部屋はお泊り用にしているのかもしれない。

 

ただベッドはかなり狭いので、翌日筋肉痛が予想される。

まぁ船のスペースは限られているからね、しょうがないね。

 

 

 

一部屋だけ、立ち入れるところがあります。

なお三笠では時代的にハンモックが寝床だったが、時代が進んだ日本丸はベッド(小)になっている。

 

足を伸ばせるハンモックと、足を伸ばせないベッドではどちらが良いんだろうか(哲学)

 

 

 

当時の写真。散髪するところ。

うーんこの。

 

 

 

一般船員居住ゾーンを抜けると、また船乗り結びの展示。

 

 

なんか飾ってある。

 

 

船乗り結びだけを駆使して作られたものだった。

 

 

次のゾーンへ。

いきなりカラフルな看板である。

 

 

廊下を進む。

こちらは右舷側です。

 

 

 

右手にあるのは、機関室。

 

 

すごいっすね(ボキャ貧)。

 

 

 

 

ここはジャイロルーム。

写真右側にあるのがコンパス。

電気信号でブリッジや船長室にあるコンパスに情報を送るという、ハイテクっぷり。

 

 

 

機関室の横には、機関長室。

個室だけど、やっぱりベッドは狭そうである。

 

 

奥に行くと、また一般人用の船室。

 

 

 

機関長室にもあったが、毛布を使った折り紙じみたものが置かれている。

 

これは「飾り毛布」といい、日本船の客室で提供されるサービスなんだとか。

 

 

 

しかし薔薇とかなら良いが、船室開けてコブラがいたら、もはや別のサービスな気がする。

 

 

 

いたるところに、飾り毛布は置かれています。

 

 

病室のベッドも、彼らが占拠している。

入院させてくれよなー、頼むよー。

 

ただこのベッド自体も、ものすごい狭さではある。

 

 

病室の隣にあるのは、医務室。

 

 

手術台もまた、恐ろしく小さい。

オペ中に患者が転がり落ちないか心配である。

 

 

医務室の看板は味がある感じ。

 

 

左舷側の廊下。

 

 

展示室。

 

 

やけに金ピカな道具を置いているが、なぜ金ピカなのかまでは不明。

 

 

展示してあった写真。

捕まった宇宙人みたいになっている。

 

 

 

まーた船乗り結び。

やっぱ好きなんすねぇ。

 

 

 

これで第二甲板おわり。

上甲板(地下1F部分)にのぼる。

てかまだあるのか(疲労)

 

 

 

最初は調理室。

 

 

当時のメニュー。

食器が時代を感じさせる。

 

 

献立。あんがい良いものを食べている感じ。

 

夜食や間食があるが、機関士などは宿直しないといけないからだろう。

 

 

ぐらぐら揺れる船で調理をするのだから、大変である。

船員は100名以上いて、その食事を10人程度で作っていたらしい。

 

 

 

広いところへ来た。

 

 

見るからに、講堂といった部屋。

 

 

本棚がある。

さすが講堂である。

 

 

ただ「結婚入門」とか「タバコはやめられる」とかあるんですけど(困惑)

 

まぁ海の上で婚活をするのは困難なので、陸に戻った時に速やかに異性を探せるよう予習をしていたのかもしれない。

 

 

講堂を出て右舷側にいくと、シャレオツな廊下に出る。

 

 

 

このゾーンには船長など高官の部屋があるためである。

 

ここは船長公室で、来賓を迎えたりするときに使う。

 

 

さすがに他の部屋とは別格である。

 

 

隣室は、船長の私室。

100名以上の船員の命を預かるので、それだけに良い待遇が必要である。

 

 

 

というわけで、飾り毛布のサービスがあります。

 

 

船長用の風呂。

ただ水が無いので、入浴は週2回で、海水を沸かして使う。

 

塩分があると温まりやすいから、ちょうど良いんじゃない?(他人事)

 

 

一等航海士の部屋。

船長の次に偉い人。

ただ越えられない壁があるのか、船長室よりはだいぶグレードダウンされている。

 

 

 

通信室長の部屋だが、電気が付いていないので暗い。

電気が無くても通信は出来るのだろうか。

 

 

廊下の突き当りは、士官用サロン。

偉い人たちの食堂兼会議室になっている。

 

 

天井にはステンドグラス。

下級船員とは違うのだよ、下級船員とは。

 

 

左舷側。

三等航海士の部屋はスヌーピーっぽい人に占領されていた。

 

 

 

事務員の部屋。

 

 

 

そして船医の部屋。

これ奥のベッドとソファーの、どちらで寝るんだろうか。

というか、ソファーどければ、もっと大きなベッド入ると思うんだが。

 

 

 

船室を終えて、無線室。

 

 

ファックスが置かれている。

別に不思議ではないと思うが、三笠の後で来ると時代の進みっぷりを実感する。

 

 

 

ようやくラスト、船尾の甲板に来た。

 

 

 

ぱて。

 

 

巨大な舵。

帆を上げて走っているときは、この舵を使うらしい。

 

巨大なので、2名~4名がかりで動かすとのこと。

 

 

上に登れます。

 

 

 

羅針盤が置かれている場所。

ワイヤーだらけである。

 

 

ワイヤーにはすべて名称がついている。

帆を上げるために使うんだろうけど、これ全部覚えるのムリゲーである。

まだ船乗り結びの方が良いや。

 

 

 

普段はこの船、帆を畳んでいるんだけれど、たまに広げられている。

大量のワイヤー君たちが効力を発するときである。

 

 これにておしまい。

入場料の割には、相当なボリュームであった。

 

以上。

 

 

【交通手段】桜木町駅から徒歩5分

【入場料】400円(みなと博物館と共通なら600円)

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★★(写真撮ると他人が写る)

【URL】

www.nippon-maru.or.jp

 

 

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東海道かわさき宿交流館

 

東海道かわさき宿交流館は、東海道ネタを主に扱う川崎の郷土資料館である。

 

 

 

4F建てなので、けっこう高い。

そして2013年建築という新しさ。

 

 

 

しかし東海道沿いにある町は、漏れなく東海道の誇らしさを語っている感じである。

 

 

 

 

1Fは休憩所やパンフレット置き場。

川崎を街歩きしてきた人たちのため、だって。

 

 

畳の上でも休める模様。

奥にある壁紙は、川崎にあった「万年屋」という茶屋のリバイバルとのこと。

 

 

万年屋では「奈良茶飯」なる、おこわが有名だった。

東海道中膝栗毛でヤジさんだか角さんだかが食べたので、大ブームになったらしい(当時)。

 

現在では川崎屋東照という店で食べられる模様。

なお一般社団法人おにぎり協会も、奈良茶飯おにぎりを推奨している。

 

 

交流館のキャラクター「六さん」。

名前は川崎をとおる六郷川から。

 

これは人気でないな(確信)。

 

 

2Fの展示室へ。

階段になにか貼ってある。

 

 

東海道五十三次の絵だった。

おそらく全ての絵が貼ってあったので、階段を登るだけで東海道を踏破した気分になれます(迫真)

 

東海道五十三次には様々なパターンがあるということは藤沢の浮世絵館で思い知らされているわけだが、ここに展示してあるのは一番メジャーな「保永堂版」である。

 

 

 

2Fの展示室。

 

 

4時までは解説ボランティアさんが居るみたいだが、この日は4時を過ぎていたので、がらんどう。

 

 

 

資料室はいって一番最初にあるのが、この映像資料。

 

 

1本3分程度の話が4本あるので、全部見るとまぁまぁなボリューム。

 

 

 

解説担当はウナギ。

川崎には結構ウナギの店あるが、多摩川産を使っているかは不明である。

 

 

こちらもタッチスクリーンで、川崎宿の様子が見れる。

新しい施設だけあって、ハイテク。

 

 

六さんの案内タブレットがある。

なにを案内してくれるんだろうか。

 

 

 

このタブレットを室内の他の展示にむけると、「その展示が何を展示しているのか」がタブレットに表示される。

 

「どのメニュー表が何のメニューを表示しているのかを示すメニュー」みたいな屋上屋感である。

 

 

 

川崎宿と、現在の川崎の比較図。

 

 

そして五十三次ふたたび。

階段で目を凝らしてみていた人は、ここでもっと容易く見れることに驚愕するだろう。

 

 

五十三次売ってます。

 

 

旅の道具ゾーン。

 

 

 

江戸時代の人は、よくこんな枕で寝られたなぁ。

首ばっきばき不可避。

 

 

印籠は、江戸時代では薬を入れる道具だった。

 

水戸黄門も印籠を見せびらかして事が収まった後に、中から薬出して飲んでるんだろうか。

寄る年波には勝てないものである。

 

 

安定の、川崎宿模型。

 

 

コスプレゾーン。

 

 

 

ズラもあるけど、男のやつはどうにかならなかったのだろうか。

 

 

撮影会場はこちら。

 

 

撮影会が終わったら、3Fの展示室へ。

 

 

入って左側が常設展。

 

 

文字がビッシリ。

下の階と打って変わって、パネル置いときますね的な展示。

行政っぽいなぁ。

 

 

 

と思ったら、また大きなスクリーンがある。

 

 

映っているのは、川崎市の航空写真。

市域全体のほか、区ごとに拡大した写真も見られる。

写真上には施設の位置や案内が載っている。

 

 

そして昔の航空写真との比較もできます。

 

 

写真が無いと、全力で「写真無い」訴訟を起こされる。

まぁ埋め立て地のあたりはね。

 

 

昭和時代の写真は無いが、明治時代の地図はあった。

ただ結局海なので、何もないことに変わりはない。

 

 

 

ブラックアウトしてしまう土地もあった。

こわいこわい(適当)

 

 

 

川崎市にゆかりのある、えらい人たち。

松尾芭蕉みたいにその辺歩き回っている人は、どこの町でも展示されてしまう。

 

 

すき焼きの人も、川崎出身である。

 

 

あとはまたウルトラ細かいパネル展示(疲労感)

 

 

 

常設展のお隣は、企画展。

 

 

 

こっちはさらにパネルだらけだった。

 

このときの展示は、周辺の街歩きスポット紹介だったけれど、「芭蕉の句碑」とか「遺構」など、街歩き上級者向けであった。

 

 

4Fは会議室なので、なにもなし。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】川崎駅から徒歩10分

【入館料】無料

【滞在時間】45分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

kawasakishuku.jp