C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

三栖閘門資料館

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正面に見えるのが三栖閘門(みす こうもん)で、左の建物が資料館です。国交省が管理する河川施設だそうです。

中書島駅から伏見港公園を突っ切って徒歩10分ちょっとですかね。Googleマップを見ながら来る人は、必ず徒歩設定でルート検索しましょう。車設定で検索してしまうと高架橋の上を歩かされ、橋の上から飛び降りて現地到着する羽目になります。できなくはないですが両足複雑骨折する程度の高さはあるかと思われます。

車で来る人は、伏見港公園の駐車場に止めることになりそうです。

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(右→左の順で見てね)

この水門なんなの?って話ですが、壕川(ごうかわ)と宇治川が繋がる地点にあります。壕川は宇治川より水位高いので、壕川→宇治川にそのまま進むと自動スプラッシュマウンテンになってしまうから、高さ調節が必要です。

写真だと、壕川から来た船が水門の間(閘室)で一旦停止します。

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閘室の下部には管が付いており、水を排出して水位を下げます。宇治川と同じ水位にまでなったら水門オープン、船は無事に通ることができました。「スプラッシュマウンテンの方が良かった」とか言う人はそんな生ぬるいこと言わず、富士急か長島スパーランドの飛び降り自殺体験みたいなコースターに乗ってくると良いでしょう。

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上の写真は資料館内のビデオであったやつですが、こんな感じで三栖閘門の仕組みと、あとこの一帯はかつて伏見港という港があって一大流通拠点の機能があったんですね。伏見の開発をしたのは豊臣秀吉ですが、開発時~拠点機能が終わるまでの歴史の展示もしております。

入館料は無料です。

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三栖閘門の仕組みは館内ビデオを見ればよく分かると思います。ビデオ終了後、船の模型がのっそのっそと現れて、デモンストレーションをしてくれました。

あまりにもゆっくり動くので途中で壊れてタイタニックしないかヒヤヒヤしましたが、今のところ元気です。見学をお考えの方は船くんが元気な間にご来館ください(この手の模型は修理費用が高すぎて、いったん壊れると「修理中」の紙が未来永劫貼られると思われる)

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(完成した当時の三栖閘門)

ここまでの説明だと三栖閘門を通る船がいっぱいあるような印象を受けますが、現代では観光用の船を除いては無いようです。

1929年完成しましたが、既に京阪電車が営業開始しており、舟運は衰退基調。鉄道網や道路網が発達するにつれ、1962年には輸送が終了・水門の役目は終わりを告げ、今日に至るまで盛大な飾りとして残っております。

 

これだけ盛大な設備がたった30年で用無し・・。「建設するという判断は正しかったのか!」「閘門という漢字が読めない!改名しろ!」と株主総会での追及まったなし。

このままでは資料館さんサイドが市民オンブズマン東京新聞にボコボコにされてしまうので、この地域における舟運が歴史的に重要だった!だから三栖閘門は必要だったのだ!という解説展示が次に控えています。やられる前にやる。生殺与奪の権を他人に握らせるな。

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© OpenStreetMap contributors

ただその展示内容が死ぬほど分かりづらくて「さすが行政系施設」と唸らされましたので、整理用にマップを書いてみました。

三栖閘門があるのは、左下の壕川と宇治川の合流する地点、ここに伏見港がありました。秀吉が伏見城を築いた時に開港。宇治川は淀川にそそぎ、大阪まで繋がっているので、大坂~伏見は海路・伏見~京都は陸路で結ばれ、伏見は一大交易拠点となったとさ。伏見城は1623年に廃城されていますが、徳川政権下でも城下町は活発な経済の地であり続けます。

1614年には京都市街まで運河が作られ、船で京都まで行けるようになります。その運河が「高瀬川」で、マップの左端を走ってるやつです。たぶん壕川に接続して伏見港に入港していたと思われる。

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高瀬川開通させたのは角倉了以っていう商家なんですが、肖像画が怖すぎて草。売店の裏で5人くらい殺してそう。

運河と言いつつ水深数10㎝しかないほど浅いので、船底が浅い「高瀬舟」が使われました。高瀬は浅瀬って意味だそうです。森鴎外の小説はこの高瀬川が現場です。

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伏見は大坂~京都をむすぶ重要拠点となり、大名も屋敷を構えたりしてますます産業が発展しました。特に有名なのは酒蔵ですね。「灘の男酒・伏見の女酒」ってフレーズが有名ですが、軟水の伏見では柔らかい飲み口で女性も楽しむ酒ができる、と。

地元産業界にとって物資流通のため河川は超重要インフラであり、三栖閘門は無くてはならぬ存在だったのだ。覚えておけ!ということでした(そんな解説文はありません)

おしまい。

 

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】三栖閘門資料館