岡山後楽園
岡山の後楽園です。
ジェットコースターとかは無い方だよ。
路面電車の城下駅から徒歩10分ちょっと、バスだと直通だったりする。
広場っぽいゾーンを抜けて、入り口方面へ。
この辺は無料なので、お金ない勢はここで後楽園来た雰囲気だけ味わって帰ればいいと思う(提案)
受付。
入場料は400円です。
この日は月曜だったが、さすが観光地なので人が割といる。
中国人もいる。
後楽園は1700年に完成した、岡山藩主のための巨大な庭である。
敷地面積は13万㎡あり、東京ドームシティ全体と同じ規模である。
さすが、大都会岡山。
音声ガイドもありますが、二次元化の影響下にあるようです。
入園して左方向に進んでいくと、いきなりツルとご対面という、意外な展開。
日本に留学歴のある中国人文学者 郭沫若が1956年に寄贈して以来、今日まで飼育が続いているようである。
郭沫若は中国近代文学のパイオニアとして評価が高い人物だが、文化大革命期には毛沢東政権に媚びへつらい、毛沢東が死んで文革推進勢力(四人組)が失脚すると掌クルーして四人組をディスりはじめるなど、人間として大変問題があるところを華麗に披露した人物でもある。
柵の向こう側にいらっしゃるので、来客とはちょっと距離感ある感じである。
なお正月には放鳥イベントがあり、柵を出て園内をほっつきまわるツルさんを拝見することができる。
鶴ゾーンを過ぎるとこんなストリートにでるが、ここは馬・弓の訓練場であった模様。
その通り沿いにあるのが、「観騎亭」。
岡山藩主がやって来て、さきほどの馬場で訓練している家来たちをここから視察する。
見られている側は緊張して弓はずしそうである。
園の端っこの方にいるので、真ん中の方へ戻ります。
なぞのアイテムが置かれているが、夜はライトアップとかしているようなので、その関連かと。
園内の松には「菰(こも)」が巻かれている。
10月ころになると、枝先に居座っていた害虫共が冬越しのために地面の方へ降りてくるのだが、その途中で菰を巻いておくと、害虫共はこの暖かい菰の中に入ってくる。
2月ころ、菰を取り外して盛大にバーニングすることで、害虫共を一気に殲滅することができる。
はっはっは(魔王並感)
園の中央部には、どーんと池が構えられています。
明らかにインスタ勢ほいほいな写真撮影スポット。
その池のほとりにあるのが、「寒翠細響軒」。
読めない。
なお園内の建物は借りることができる。
値段は建物ごとに異なり、ここは3時間で900円。
まあ4畳半しか無いからね。
後ろに立っているのは「慈眼堂」で、後楽園建築をさせた岡山藩主 池田綱政により建立された観音堂である。
池田綱政は17世紀末頃から藩の政務を執りはじめ、それまで赤字まみれだった財政を立て直した、和製カルロス・ゴーンである(大嘘)
「藩の財政も潤ったし、すこしは遊んでもいいでしょ」ということで、岡山城の北側に面するこの土地を自分用のバカデカ庭園として整備したのであった。
ちなみに赤字まみれだった理由は戦国時代までさかのぼる。
岡山城を建築させた宇喜多秀家は、近くを通っていた旭川という河川の流路を変えさせて城の北&東側を通るようにし、川を防壁として利用した。
しかし工事のやり方がおかしかったのか、旭川はやたら氾濫するようになってしまい、その洪水被害で財政がダメージを受けるという、頭隠して尻ボロボロ現象が起こっていたのだった。
やっぱ整形手術ってやるもんじゃないね。
慈眼堂のとなりにあった鳥居。奥に墓所っぽいのが見えたが、よくわかんないや(雑)
そんな洪水まみれや!な生活を、池田綱政のときに解決させたのだが、問題発生=岡山城建築時から100年ほど経っている。
よくそこまで放置してましたね。
技術が進歩して直せるようになったのかもしれないが。
次に登場したのは、茶畑。
当時から実際に茶を作っており、岡山藩主が飲んでいたそうな。
現代でも5月には茶摘み祭りを開催しており、フィーバーしている様子。
田園風景が広がりますが、建築主である池田綱政はまさにこういうのがお好きだったようで、彼の時代では田畑だらけだったという。
しかしその死後、岡山藩財政は悪化していき、メンテナンスに費用の掛かる田畑は取りやめになって、代わりに芝が植えられるようになった。
おやおや。
茶畑の奥にある建物は「新殿」。
園内の風景を見るための座敷で、幕末期に建てられて比較的新しいので新殿と名付けられた。
後楽園は藩主のための庭園であり、他藩や幕府の人間には存在を教えてあげなかったらしい。
まぁ良い店の情報を上司に教えたりはしないよね(直球)
表に明らかになったのは、幕末になってからである。
園の奥深いゾーンまで到達。
このあたりは梅や桜などが植わっている、森ゾーンであります。
しかし、枯れてますねぇ。
こっちも枯れてますねぇ。
季節柄あたりまえである。
最奥にあるのが「茶祖堂」といって、まんま茶室である。
もとは利休堂と言ったらしい。もっとまんま過ぎる。
岡山藩の家老の屋敷に建てられていたのを、幕末に移築してきたらしい。
べつに家臣からボッシュートしたわけではなくて、おそらく維新後に元士族たちが金欠になって屋敷をキープできず、でも壊すのも勿体ないから後楽園に持ってきたな感じでは無いだろうか(推測)
「花交の池」。
この池の付近には、転々バラバラな種類の木を植えまくっており、様々な花が交わっている的な意味である。
明治時代になって家計が火車になったのは岡山藩主も一緒であった。
後楽園は藩主である池田家の住居となったが、この巨大な庭園をキープできるほどの財力なんかあるわけもなく、岡山県側に売却を持ち掛けている。
(池の裏にまわれます。)
売却に際して、わりと岡山県議会は紛糾したようであるが、文化的価値があるっぽいということで購入を決めている。
その後整備され一般公開されると知名度は上昇し、日本三大名園の称号を得られるようになりました、おめでとうございます。
花交の滝です、グレイトフォール!
園の南側にきました。
川の水は澄んでますねぇ。
「八橋」。
京都のアレとは関係ありません。
通称クネクネ橋(いま名付けた)
幅は広くないので、橋の不思議な形にテンション上がったお子様たちが無事墜落した事例もあると思われます。
橋の先には「流店」。
休憩所として使われており、戦災の被害を免れた貴重な建物でもある。
御多分に漏れず、後楽園も戦時中は酷い目に合っている。
食糧難だから、広い園内では畑作が行われ、植わっていた芝生は片っ端からひっぺ返された。
また付近は空襲で一面焼け野原になり、戦後には進駐軍が滞在してプールとか作っていたようである。
あいつらどこ行ってもやること一緒だな。
建物の中には水路があり、たいへん風流ラララな施設として人気を集めている。
足湯っぽいけど流れているのは冷水なので、時期と用法を守って正しくお使いください。
流店の向こうは、丘。
「唯心山」と名付けられており、池田綱政の子供の代に追加された要素。
登りですかぁ、疲れますねぇ(貧弱)
山上には小屋があって、園内を見渡せます。
北側。
東側も。
戦争によってボコメキョにされてしまった後楽園だが、進駐軍から岡山県の手元にもどると整備しなおされ、1954年に一般公開に至った。
壊れた建物は復元され、それがすべて完成したのは1967年のことである。
すばらしい。
山を下りて、園中央の池ゾーンへ。
ぐねんぐねん曲がってて良い感じの松である。
大宮盆栽美術館の人たちが喜びそうである。
橋を渡った向こうに建物。
橋は渡れますが、中には入れません。
「島茶屋」という建物であり、レンタルしてお茶は出来る模様。
鯉も圧巻のゴールドである。
池の中には他にも島がある。
真ん中に見えるのは御野島で、さっきの島と繋がっている。
ただ池の西側にある砂利島はぽつんと浮かんでいる。
船を漕ぐか、泳いでいくしかアクセスは出来ません。
たぶん泳ぐと捕まります。
入り口方面に戻ります。
ここには藩主の居間である延養亭・能の舞台など大規模な建物が並んでいます。
だけど入館できないし、なんか人も多いのでさっさと飛ばしますね(適当)
入り口(正門)方面に戻るのではなく、南側にある岡山城方面への出口に向かいます。
林ゾーンである。
一気に人が居なくなったぞ(喜)
茂松庵。
藩主が林ゾーンを楽しむために作られた。
まぁ茶室。
こちらは地蔵堂&ムクノキ。
ムクノキってこれ?
無残な姿になっておりますが・・
岡山城方面への出口の近くにある、廉池軒。
池田綱政くんが最も好きだったという建物。
窓も変な形してるしね。
スタイリッシュすぎて虫を防げないのが弱点である。
中に入ることもできますが、抹茶代として650円かかります。
うーん、まぁやめとくか(貧困)
以上。
【交通手段】城下電停から徒歩10分か、岡山駅からバス10分
【入場料】400円
【滞在時間】90分
【混雑度】★★★(ちらほら)
【URL】