夢二郷土美術館
名前で分かる通り、竹久夢二を扱う美術館である。
岡山出身だったんですねぇ。
両備バスの社長である松田基の夢二コレクションをベースとして、西大寺のあたりに1966年に開館。
1984年に夢二誕生100周年を記念して、後楽園が近いこちらに移転してきた。
というバス会社絡みであるので、岡山駅からここへのバスが結構ぽんぽん出ていて便利である。
路面電車だと城下駅から徒歩15分は掛かりそうなので、バスが無難。
館内であるが、当然のように撮影禁止。
内装は整然としていて、注文通りの美術館です。
写真が撮れないからといって終わってしまっては、私の頭に何も残らないので、館内の作品をベースに、竹久夢二の半生でもまとめましょうか。
というわけで以下ほぼ備忘録である。
生家周辺は現在この美術館によって整備され、美術館分館として開放されているが、アクセスについてはお察しください。
家は造り酒屋もやる商家であり、けっこう裕福であったようなのだが、夢二が16歳の時に、旗揚げしようと九州の八幡に引っ越している。
ということは・・(また察し)
(『筒井筒』)
18で上京して早稲田へ入学。
実家の状況からしてお金は無いので、昔から得意であった画や詩文で懸賞金を取って学費をどうにかする苦学っぷり。
しかし22歳の時、雑誌『中学世界』(やばそう)に投稿したコマ絵=挿絵『筒井筒』が入選。
「これで勝つる」と思ったのか、苦学していたはずの早稲田をさっさと中退して絵師の道へ。
そして23歳ころから仕事をじゃんじゃん獲得していき、大人の階段を登っていきました。
(たまきさん。画像はwikiより)
24歳の時に、たまき という女性と結婚。
たまきは既に子供が2人居る未亡人であり、その子らを実家の富山に預けて一人上京しており、夢二とは出会って2か月で結婚している。
そこはかとなく匂う、危険な雰囲気・・
案の定、2年後には離婚しているのだが、そのあと6年間同棲を続けている。
どうして離婚した?
(『初恋』1912)
たまきと夢二はしょっちゅう喧嘩しておったそうで、たまきが泣き出すと、夢二は突然真面目になってその泣き顔をスケッチしていたという。
さすが、職業画家は全てが題材である。
そのせいで、生活の方が壊れるけど。
(夢二プロデュース いちごの千代紙)
夢二の特徴は、絵師のみならずデザイナーだったこと。
浴衣や便せん・日用品などに絵を描いており、これがウケる。
31歳の時に日本橋に自らの日用品ブランドショップ「港屋」まで開業しているのだから、そのほどが窺い知れよう。
しかしこの苺、「生命力に溢れている」と評されているのだが、だからといって食べる気にはならんね。
(笠井彦乃。画像はwikiより)
その港屋を訪れた女学生 笠井彦乃と恋に落ちる。
ファンに手を出すとはバンドマンみたいですねぇ。
問題なのは、たまきとの縁が切れていないことである。
33歳の時には、たまきと夢二の間に3人目の子供まで生まれているし。
まぁもともと夢二は浮気性であるし、離婚したのもたまきがキレたからと言われている。
そんな奔放生活を送っていた夢二だが、その33歳の時に世間では「日陰茶屋事件」なる出来事が発生。
大杉栄というアナキストが、夢二を超える3股を掛けていたのだが、これがもつれて愛人の一人に刺されて重傷を負う事件である。
「すわスクイズか」とビビった夢二は京都へ脱走。
そこへ彦乃がやってきて、さらに何故かたまきとの次男も引き取って、3人暮らしが始まるのである。
(佐々木カネヨ。画像はwikiより)
しかし彦乃さん病気になってしまい、実家に帰ることに。
夢二も京都を引き払って東京に戻り、ホテル生活をしていたのだが、ここで出会ったモデル佐々木カネヨと付き合いだす。
あのさぁ・・
(ポーズ?を取るお葉)
この佐々木カネヨさん、夢二は「お葉」と呼んでいたが、これまで夢二が描いてきた美人像にピンポイントであった。
特徴としては、目が大きい・身体がしなやかでS字・顔がちょっと曲がってる・視線が良く分かんない方向むいてる・(か)よわそう・・etc
(『長崎十二景 眼鏡橋』1920)
お葉からインスピレーションを得ることが多かったか、これ以降に夢二の代表作がポンポン誕生することになる。
なお、たまきについては「別に夢二式美人じゃない」と散々な言い方をしている。
下積み時代を支えた妻は、いつの時代もこうなる定めの模様(涙)
(『長崎十二景 出島』1920)
この大正時代は、新たなものがじゃんじゃん入ってきて激動だった明治と、暗い世情や戦争で荒廃した昭和の間。
洋物バンザイな時代も過ぎて、日本固有の郷愁溢れる風景がまた望まれる、大正ロマンな雰囲気であった。
というわけで夢二の絵でも、ハイカラな風景と、和風美人が組み合わされております。
(『秋のいこい』1920)
一方で社会的なテーマも扱っていたようで、この絵では「米騒動の最中で、とにかく田舎から上京して来たけれど、なにをすべきか分からずに上野駅前で呆然とする女性」を扱っている。
関東大震災が発生した際は、被災地を回ってルポルタージュ書いているしね。
しかし説明してもらわないと、ただ落ち葉の中でぼさーっとしている、大丈夫?な子に見えてしまうがな(オッサン)
(『黒船屋』1919)
最高傑作の一つとも言われる『黒船屋』ですが、所有しているのは群馬県にある竹久夢二伊香保記念館です。残念!
(『涼しき装い』)
震災のあとは耐震にすぐれた鉄筋コンクリート造の建物が並んでいき、東京の街並みは一気にモダンになる。
というわけで、絵の調子も変わったどころか、まるで別の作風になっております。
ルミネとかに貼ってそうなポスターである。
さて、個人的に最も気に入っているのはこれです。
新宿の三越で、夢二が個展を開いた際の広告ポスター。
今日のPTAが見たらガンギレであろうざます。
ちなみに股間の黒いのは、明治チョコレートとなっております。
芸術家は、訴訟も辞さない覚悟でいくべきである(遠い目)
この作品も伊香保にあるのだ、行かなきゃ(使命感)
(『青春譜』1930)
40代も後半になってきたが、この時期は哀愁漂う抒情画(心に蠢く情感を表した絵画、らしい)が増えている。
この絵について、本の解説では「地面から若い手が生えてきている」とポジティブシンキングをしているのだが。
暗い色調・顔を覆っている女性からすると、むしろ誰か埋めたんじゃないかというホラゲー感がしてならない。
(『旅』1931)
なぜだか知らんが、群馬県の榛名山にハマったようで、「榛名山美術研究所を建設する」宣言まで出している。
政争や商業主義に明け暮れるファッキン世間から離れて、自然の中で制作活動をしたいという念だそうだ。
まぁまぁ、焼きまんじゅうでも食べて落ち着きなよ。
(『遠山に寄す』1931)
それに榛名山、こんなに古代中国の霊山みたいな形してたっけ(すっとぼけ)
(『立田姫』1931)
そうして完成した女性像の集大成がこちら。
夢二曰くこれが「自分の一生涯における総くくりの女だ。ミス・ニッポンだよ」。
そのセリフを最初に聞いた人はきっと「あ・あぁ・・そうだね」と答えただろうか。
まぁ確かに日本っぽいですよね(棒)
中国人なんかには全く見えませんもんね(棒)
榛名山サイコー宣言をしたばかりだが、48歳にして人生初の洋行にでた夢二。
しかし運悪く、時は世界恐慌の時代。
現地で個展を開いても全く売れず、ガイドとは賃金交渉で決裂して置き去りにされ、ドイツでは「あなたの描く月はデカすぎる」等と文句を言われ、50歳のとき心身疲労して帰国するも病にかかり、翌年に死去してしまった。
すべて見終わったら、庭を通って、外へ出ておしまいです。
ところでこの美術館、黒猫がいる。
捨て猫だったのを拾われて、2016年からここで飼われるようになり、お庭番を襲名して美術館の庭をうろついている。
同系列のおかでんミュージアムといい、本当にたま駅長ネタに乗りまくってるな!
ここまでくると「頑張ってください」としか言えませんよ、両備グループ。
この日も黒猫もとい「黒の助」はお庭でゴロゴロしていたのだが、残念なことに先客がいたので拝謁は叶いませんでしたとさ。
なお上掲の夢二の絵『黒船屋』に黒猫が描かれているので、「これも何かの縁」として美術館に引き取られたらしい。
だから『黒船屋』、ここじゃなくて伊香保にあるんですけどね。
まぁ捨て猫ひろって賑わうなら、それが1番良いですが。
以上。
※ 参考文献『もっと知りたい竹久夢二 生涯と作品』小川晶子 著 東京美術 出版
【交通手段】岡山駅東口から直通バスあり。本数多め
【入館料】800円
【混雑度】★★★(館内にちらほら)
【滞在時間】40分
【URL】