C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

片倉館

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諏訪にある昭和期の洋館です。製糸業の片倉財閥により1928年に建築され、国の重要文化財に指定されています。

なんと温泉施設も併設されていて日帰り入浴ができるのだ。その浴室も文化財です。

上諏訪駅から徒歩10分。

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洋館はガイド付きツアーとガイドなし自由見学があります。前者は600円、後者は400円。ガイドツアーは事前予約制&時間が決まっているので公式HPで要確認です。自由見学は開館時間ならいつでもOK。

今回の訪問時はコロナの影響でガイドツアーはやっていなかったので、自由見学となりました。展示内容は片倉館建築の経緯・館内の見どころ等ですが、けっこうシンプルなので、情報量としてはガイドツアーの方が圧倒的に良いでしょうね。

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片倉館を建設した片倉財閥。もともとは自宅の庭で座繰りをやっている規模でしたが、何をひらめいたのか大型の洋式機械工場を建築。収益ががんがん伸びて全国展開を始め、日本最大レベルの製糸企業になっていました。

あの富岡製糸場も2005年まで彼らが保有しており、年間1億円ともいわれる維持コストを払い続け、世界遺産登録を受けられる良好な状態を保っていたそうです。

 

ちなみに『犬神家の一族』の犬神家は、”製糸業で財を成した諏訪の財閥”となっており、どう考えても片倉のことです本当にありがとうございました。犬神家では血みどろで湖面イナバウアーな相続争いを展開していますが、片倉家ではそんなこと起こってません。横溝正史が訴えられないのが不思議レベル。

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この片倉館は左が洋館、右が温泉施設となっています。二代目の片倉兼太郎が欧州視察に行った際、田舎でも福祉施設が充実していたことに影響を受けて、帰国後に建てたのです。

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温泉施設がこちら。尖塔やステンドグラス、プラハとか東ヨーロッパっぽい雰囲気ですねぇ(適当)。と思って公式HPを見たら、本当にチェコスロバキアの福利施設に影響を受けたらしい。
お風呂は上諏訪温泉です。「千人風呂」という名称がついています。「千人」っていうのは、(当時としては)とにかく規模がデカいって意味であり、千人のっても大丈夫!ってわけではありません。私も以前入浴したことがありますが、千人どころか百人ですら朝の山手線レベルの混雑になります。全裸のおしくらまんじゅう。汚い(確信)。

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とはいえ入浴施設としては未だに規模が大きいと思います。
また地下にサウナがあったそうですが現在は使えません。アウシュビッツ感溢れる写真ですが、そうではありません。

日帰り温泉施設で重要文化財になっているのは、ここの他は道後温泉(愛媛)と武雄温泉(佐賀)だけとのこと。

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温泉施設の外壁には熊のレリーフが彫られています。通称「守り熊」。のぞき見犯を威嚇して女子風呂の秩序を守っているのです。男子風呂は守りません。桶とか葉っぱで隠しましょう。

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2Fに上がったんですが、めっちゃ和室やんけ!洋館とは(哲学)。柔道の試合でもするのかな?

当時は結婚式や表彰式などフォーマルな利用をされていましたが、現在は展示会・お茶会・カラオケ会で使うそうです。さすがの片倉も、東ヨーロッパ風洋館が町内会のど自慢会場になるとは思わなかったでしょう。

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1Fも和室の割合が高いんですよね。見学できる部屋は全部そうです。西洋スタイルの導入を!と言いながら、やっぱり和室が落ち着くんでしょうか。

右の写真に書画が写ってますが、日露戦争バルチック艦隊を撃破した東郷平八郎の直筆です。片倉館の落成祝いに書いたそうな。さすが片倉財閥の人脈。

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他にも歴史上の人物が寄贈した書画が掲示されています。

1枚目は23代目首相の清浦奎吾のもの。まぁ1924年1月~6月という当時の短命記録を更新した政権なんですが。

そのとき清浦をけなしまくっていた犬養毅の書画も展示してあるんですよね(2枚目)。片倉館の大広間で鉢合わせして戦闘開始しなかったか心配になりましたが、犬養の書画は2018年に寄贈されたんだそうな。最近じゃん。

 

そんなんで、昭和期の洋館(和室)の雰囲気を味わえる上に温泉にも入れる施設なのでした。おしまい

 

【滞在時間】40分(洋館)

【混雑度】★★★(ちらほら)

【URL】

www.katakurakan.or.jp

 

神長官守矢史料館

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館名が読めない。「じんちょうかん もりや しりょうかん」です。

神長官は諏訪大社のNo.2神官にあたるそうです。その役職を古来から務めている守矢氏の資料館、という意味。

守矢氏の先祖は洩矢神(もりやのかみ)というGODだったのですが、出雲から来た建御名方神と戦って敗れました。建御名方神諏訪大社の祭神として鎮座し、守矢氏はその祭祀を担うように。

 

しかし時に、No.1の人間よりも実務を担当するNo.2の方が実質的な権力を握っていたりするものです。トップの諏訪氏は自ら現人神となってしまったので、神事は守矢氏が取り仕切っていました。神々と交信できる唯一の存在であり、守矢氏が動かねば諏訪氏は裸の王様なのだ・・。

ラスボス臭はなはだしいですが、そんな守矢氏のもとにたくさんの記録が残っているので紹介するよという資料館です。

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資料館の建物は印象的です。農家住宅とも倉庫とも言えない外観は、木造と鉄筋コンクリートが半々。諏訪の神はコンクリートに寄付いて交信するのです。

んなわけなくて、1991年に東大の名誉教授の設計で建築したそうです。

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内装も石窟寺院のようです。諏訪大社って神社なんですがね(困惑)。

左は階段が屋根裏部屋に続いているようですが、あの梯子どうやって降ろすんでしょうか。ダイナミックジャンプして飛びつけばいいのかな?

右は会議室スペース。ごりごり系の強面さんを連れて行けば、周囲の石壁のフィールド特性と相まって交渉相手に圧力をかけられそうです。

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さて肝心の文書資料はこちらのスペースで展示されています。内容は撮影禁止です。

武田信玄真田昌幸の書状がありました、、、あまり特筆することはないなぁ。歴史や宗教知識が豊富にないと古文書って難しいね(こなみ)。

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初心者むけゾーンはこちら。諏訪大社の儀式「御頭祭(おんとうさい)」を再現した展示です。農作物の豊穣を願い、神のお使い役(村の子供)が周辺地域を巡回するんですが、その出発のお祭り的な感じ。

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しかしこのウサギ、串刺しにされてますねぇ。農作物の豊穣を祈るのに残虐表現が必要だったのでしょうか。CERO A(全年齢対象)は貰えなさそうです。

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壁の上部を見ると、鹿とイノシシの首が大量に捧げられています。農耕とはいったい。

江戸時代の祭祀の模様が記録に残っており、それを再現した展示になっています。鹿は75頭を生贄にささげたそうです。

諏訪はあまり肥沃な土地ではなかったので、人々は山に入って狩猟もしていたそうです。鹿やウサギは貴重な食糧だから、こうして神にお供えしているんですかね。

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首だけじゃなく肉もお供え。

「脳和え」という料理です。鹿の肉と脳みそを和えたものです。なぜ脳みそなんだ・・。魚とかカニ味噌のノリなのだろうか。

関係ないですが、パキスタンでは羊の脳みそを使ったカレーがあり、池袋にそれを出す店があります。豆腐っぽい食感ですが、わざわざ食べるほどかと言われると、食べなくても良い気がします。

 

というわけで、諏訪の神事の神髄や守矢さんのマジカルパワーにはあまり触れられませんでしたが、ゲテモノ料理愛好家の興味を引く展示だったと思います。

おしまい

 

【滞在時間】20分

【混雑度】★★(他に数人)

【URL】神長官守矢史料館 - 茅野市ホームページ

 

旧山辺学校校舎

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松本市にある、1885年建築の旧小学校校舎です。

松本には国宝になった開智学校のほか、旧制高校や裁判所の建物なんかも残っており、「規模大きめの公共建物は残す」市民性があるようです。自称 学都 ですからね。

 

アクセスは松本駅バスターミナルから「美ヶ原温泉」行きで20分、「新井橋」停留所から徒歩15分です。場所はアルピコ交通HPからご確認ください。

入館料は200円です。

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館内の模様。2F建て、各教室が展示室となっており、学校の建築経緯や生活史、民俗資料が並べられています。

そんなに広いわけでは無いので、ゆっくり回っても30~40分ってところ。

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(明治時代頃の山辺地域の様子)

まず学校建設の経緯ですが、明治になって全国各地に学校が整備されていく中、この山辺地域でも1873年に廃寺を校舎として開校したそうです。

廃寺になった理由は、廃仏毀釈運動の高まりで坊さんが寺から叩き出されたからなんですが。校舎が簡単に手に入ったよ、やったね!坊さんは涙目。

しかし10年後、住民たちも落ち着いて仏心を取り戻したのか、この寺の復興運動が起こり、今度は学校が移転しないといけなくなりました。あらあら。

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(1885建築時の校舎)

というわけで新たに作ることにしました(唐突)。

寺を売却して得た1,500円(当時)を建築費に充て、当時流行の西洋スタイルを取り入れた和洋折衷の校舎です。

工事途中で、予算が1,500円足りないことが分かりました、、、当初の見込みより倍増してるじゃん。ガバガバすぎる。担当課長はワサビ一気食いの刑に処したほうが良い。

足りなかった分は住民の税金と寄付でまかなったそうです。

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(国宝の開智学校)

せっかく出来たNew校舎ですが、同じ松本に国宝☆開智学校があるので比較されてしまいます。こちらは当時の先進技術を用いた擬洋風建築・日本で作れないガラスは輸入するなど、豪勢の限りを尽くしているのです。

なので民衆からは「開智学校はギャマン(ガラスのこと)学校。山辺学校は、、、障子学校www」とネタにされていたようです。

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(左が山辺学校、右が開智学校)

まぁ予算額が全く違うので仕方ないんですがね。

山辺学校の建築費は1,500円ですが、開智学校は11,100円だそうです。10倍近く違うじゃないか。

(↑ 館内展示でこう書いてあったんですが、さっきの3,000円の話と相違するので、これは建物建築費のみで地盤工事などは含んでないようです)

 

開智学校の資金力は、城下町が学区なので商人や職人など富裕層が大勢おり、彼らの財力が大きかったそうです。松本周辺で最初に出来た小学校というのもあるかもしれません。

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庶民的な山辺学校ですが、開智学校に勝てそうな点が1つあります。校歌です。

なんと38番まであるのだ。長スギィ!山辺地域の地理・歴史・伝承などふんだんに詰め込んでおります。餃子の王将の社訓読み上げもビックリです。

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校歌斉唱にはオルガンを使うわけですが、地方の人々はそもそもオルガンが何かを知らないので、荷車に載せて演奏しながら村中ひき回したそうです。絵面がシュール。天皇行幸みたいですね。

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学校の話はおしまいで、残りは郷土ネタです。戦時中は都会から大企業の工場が疎開して、山辺では軍用機を作っていました。防空壕を兼ねた地下工場・半地下工場で営業していたそうです。そのため松本では唯一、空爆被害を受けました。

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そのときのヘルメットがこれだそうですが・・麦わら帽子と間違えたのかな?ゲーム開始時の勇者でももうちょっと良い装備もってると思うぞ。

この地域特産の「みすず細工」というもので、笹で編んでいるそうです。・・ますます燃えそうじゃないか。

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編み物といえば、こんなのもあります。通称「ムカデ」。

2月8日にこれを町内引きずり回して、最後に丸めて燃やすそうです。家々の厄を持ってってくれるということですかね。他の地域ではヘビとか龍とか呼ばれることが多い気がしますが、山辺ではムカデがよく出るからこの名前なのかな?嬉しく無いなぁ。

 

そんなんでした。おしまい。

 

【滞在時間】40分

【混雑度】★★(他に数人)

【URL】旧山辺学校校舎

 

諏訪湖博物館・赤彦記念館

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諏訪湖の湖畔にある、下諏訪町の博物館です。諏訪湖の自然環境や生活史の資料を展示しています。併設されている赤彦記念館は、アララギ派の主要歌人 島木赤彦を扱っております。

下諏訪駅から徒歩20分です。入館料は350円。

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まずは諏訪湖博物館を見たいと思います。展示室・・というより、通路に展示物を置いている。天井が迫っているロフト感。おしゃれさを出したかったのかな?

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展示物は多くはありません。ゆっくりみても20分。通路行き来するだけなので。

左は諏訪湖の生態系のジオラマ、右は漁業の道具ややり方解説になっています。

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諏訪湖の動物や植物たちです。1970~80年代は水質汚染が激しくて湖面が緑色になったりユスリカ(コバエみたいなやつ)が大量発生するなど世紀末状態でしたが、今ではそれなりに改善した模様。ただ水泳をする際は生命保険への加入をお勧めします。

そして右側の機雷みたいな植物はなんなんでしょうね。触ると爆発するのかな?

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魚とりは幾つか面白い方法がありました。諏訪湖独自の「やつか漁」。これを冬の前に湖底に設置します。中には石が数百個積んであり、魚が冬ごもりしに集まってくるのです。

諏訪湖の水面が結氷したころ、仕掛け地点まで行って上部の氷を割り、集まった魚を一網打尽。虐殺ゲームすぎる。フナやエビ、ウナギにナマズが獲れます。

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こちらは藻草地帯に棲むエビを獲る漁法で、湖面を網でゴリゴリやるパワー系の技です。1人でやる場合は、エビを獲りつつ船の操縦もするので高難易度になります。

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湖面が結氷するとスケートリンクが出現します。明治の中頃から行われるようになり、東京からの客もあったそうですが、地元民はスケート靴なぞ買わず、下駄をスケート用に改造していました。足めっちゃ寒そう。

なお温暖化の影響か、今では結氷しても氷が薄いので、スケートをやる際も生命保険に(略)

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あとは武田信玄感が満載の兜がありました。正式名称は「諏訪法性兜」。もとは諏訪大社に伝わる兜だそうですが、浮世絵とか浄瑠璃武田信玄がこれを被って登場するので、信玄のアタッチメントになったそうです。初出は『甲陽軍鑑』とのこと。

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諏訪湖博物館はこれでおしまいで、赤彦記念館に移ります。同じ建物で、フロアも一緒です。こちらの展示室もこじんまりとしています。

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(展示は遺品や書き残した手紙がメイン)

諏訪出身の島木赤彦は明治・大正期の主要歌人で、短歌雑誌『アララギ』の出版に携わり、多くの歌人の出現に貢献しましたと。

元々この雑誌は別の歌人が出していたものでしたが、編集者の間で分裂があり、そのグダグダっぷりを知ってブチ切れた島木が長野からわざわざ上京し、編集者の首をすげかえて経営に全面的に関わりだし、その後発行部数は上昇していきました。

経営に乗り出すなんてお金もってる感が強いですが、島木の職業は学校教師です。

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(島木赤彦さん)

会社経営も出来る学校教師って素敵ね!と思いきや、30代の時に養鶏場経営に乗り出すも盛大に失敗し、困窮していて笑ってしまった。

ただそのあと小学校の校長という堅い役職を手にしているのでやはり強い。この小学校は塩尻の広丘にあったのですが、太田水穂ら当時の有名歌人が集まっており、一時代を築いていたことを、先日記事を書いた塩尻短歌館で知りました(宣伝)

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これは島崎藤村の書です。藤村が諏訪にいる知人に送ったもの。

知人がとある仕事をしてくれたので藤村はお礼として書いたそうですが、内容は宮城県の松島について謡ったもの。諏訪の知人にお礼として送るのだから諏訪ネタで書いて欲しかったところですが、藤村の頭は松島でいっぱいだったようです。

そして島木赤彦くん何も関係ないですね。博物館の趣旨にあってない気がしますが、まぁ藤村の方が有名だし、いいか!という学芸員の判断かもしれません。

 

おしまい

 

【滞在時間】40分

【混雑度】★(誰も居ない)

【URL】諏訪湖博物館・赤彦記念館 | 下諏訪町

 

宿場街道資料館

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下諏訪の宿場町を紹介する資料館です。中山道甲州街道の分岐点で、大規模な宿場町だったそうです。当時の旅行業界のビジネス方法を紹介しています。

また下諏訪は幕末に活動した赤報隊終焉の土地なので、その関係資料も展示されています。

下諏訪駅から徒歩10分、入場無料です。

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建物自体は19世紀後半に建てられた商家だそうです。展示室は2Fにあります。窓からのぞくと裏庭と蔵が見えました。蔵には入れないようですが、庭は突っ切ることができ、諏訪大社秋宮へのショートカットルートになっています。

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さて展示。大街道2本通っているので通行量は多く、毎日300人~400人の宿泊者がいました。なので宿泊施設が40軒もあり、激しい客引きバトルが繰り広げられていたそうな。

価格競争のほか、荷物の無料運搬や大浴場などでアピール。「良い女の子おいてますよ」と怪しい夜の接待を宣伝する宿もあったようです。うひひ。

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客引きの模様を描いた絵画です。大量に書かれている文字は、通行人を引き込もうとする女性従業員たちのセリフのようです。
現代語訳によると「え?他の宿に泊まるんですか。私の美しい顔を見たら腰が抜けてここに泊まるもんだと思いますけどね」と自信の漲りっぷりがハンパない。ただ宿の名前は「ひもの屋」と書いてある。カラッカラに萎れてそう。

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遊女サービスに飛びつきたいお父さん方も多いでしょうが、街道を行く旅人の大半は商用です。旅費を使い込むわけにはいかないので、変なサービス付きでぼったくる宿だと困ることになります。

そのため健全な旅籠屋は組合を組織し、ガイドブックを発行して安全アピールをするようになりました。代表例が大阪の「浪花講」。これに加入している旅籠ならファミリー層でも安心です。

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長野では善光寺の周辺で「摂取講」という組合があって、ここは加盟旅籠用に接客規則を定めています。

「お茶は無料で出す」「深夜の客でも宿泊は断らない」「忘れ物はちゃんと届ける」など我が国のおもてなし精神がこの時代に定着していたことが分かります。破ると罰則もあったそうです。すばらしいCOOLジャポン。

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また下諏訪は中山道の宿場町では唯一、温泉が出るところでした。しかしきったない絵面だなぁ。湯舟の中で体を洗うんじゃない。

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全裸のオッサンの次は、いきなり戦闘風景になりました。汚い絵面にキレた人民がオッサンたちを襲撃しているのでしょうか。

いいえ、これは赤報隊の展示です。相楽総三を隊長とし、新政府からの命を受けて、「新政府は幕府と違って優しいので年貢は半分になるぞ」と各地で宣伝し、民衆の支持を得るのが仕事でした。

しかしこの年貢半減、そもそも出来やしない策でした。なので新政府は「年貢半減は赤報隊が勝手に言い出したこと」と豪快なハシゴ外しを行い、赤報隊は朝敵にされてしまいました。

 

ところで上の絵は、赤報隊じゃないです。赤報隊の前身である浪士隊が西郷隆盛の指示を受けて佐幕派庄内藩を襲撃し、その報復で薩摩藩屋敷が燃やされている場面です。やられとるやんけ。

ただしこれは「佐幕派を挑発して武力衝突を起こさせ、それを名分に幕府と戦争する」薩長の作戦。狙い通りに戊辰戦争に突入します。相楽ら赤報隊メンバーは、歴史の転換に一役買っていたということのようです。

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反逆勢扱いされた赤報隊は下諏訪まで逃れ、ここで街道を占拠して新政府軍を分断しようと試みますが、戦力の差が大きすぎてボコボコにされ、相楽ら指導者は処刑されました。

資料館から600mほど離れたところに彼らを祀った魁塚があります。新政府が使い捨てにした赤報隊。その名誉を回復する動きが維新後に沸き起こり、こうして慰霊されているのです。

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石碑には相楽総三以下、落命した幹部の名が刻まれています。相楽には正五位が贈られましたが、靖国神社に合祀されたのだ。またややこしいところに・・。

この魁塚の位置はグーグルマップにも載っています。

最後にあんまり関係ないですが、るろうに剣心相楽左之助の出身地って諏訪って設定で、赤報隊に加入して相楽総三と共に戦っているんですね。

 

おしまい

 

【滞在時間】30分

【混雑度】★★(館内に数人)

【URL】宿場街道資料館 | 下諏訪町