C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

オタフクソース工場見学(広島)

(「wood eggお好み焼き館」と工場見学で1本の記事にしてましたが、長いので分けました)

 

オタフクソースの本社が広島市にあり、工場見学ができるのです。公式HPからの予約が必要になります。

集合場所は広島電鉄井口駅から徒歩10分「wood eggお好み焼き館」。広島駅からバス1時間でも来れるようです。

参加費は無料ですが、平日しかやってないので要注意。

受付で待機し、開始時間になるとガイドさんから集合をかけられるので付いていきましょう。

wood eggお好み焼き館から出て、道路を歩くこと5分。オタフクソースの工場に到着です。

さぁ製造場にやってきたぞ!ソースはどうやって作っているのかな?

・・すでに容器詰めされたソースがコンベアー上を超高速で動いております。あれ、野菜をマッシュしたり、ソースを鍋でかき混ぜたりとか、ソースづくりの工程は無いのかな。

ここで見られるのは、容器にソースを詰める→ラベルを貼って袋詰め→箱詰め、という部分です。ソースづくりは衛生面の問題があるので、部外者は立ち入り禁止のようですね。そりゃそうだ。私の髪の毛がソースに混入して世界中の和食料理店に出荷され、外国人に新たな風味と食感を与えるのは控えたいところ。

この工場では1日に5万本ものオタフクソース(500g)が製造されています。ぜんぶ縦に積み上げると、富士山どころかエベレストまで追い越して、高度1万メートルまで達するそうだ。なんかすごい頭悪そうな例えで最高だな。

段ボール箱に詰められたソースが出荷されていくところです。

なんと自動操縦機械が運搬しているのだ。ぴろぴろ~♪と軽快なメロディを流しながら床の上をスイスイ動いている。たしかルパンのテーマだった。

一方では動物の姿をしたクレーンが、コンベアーをやってきた段ボール箱をテキパキと捌いている。すべて全自動で流れ作業になっており、ボーっとしながら無限にみていられる光景です。

校外学習に来たお子様たちはこのゾーンに張り付いてしまうらしい。ガイドさんに尻を叩かれて進み、工場見学はおしまいです。20分程度だったかな。

工場を出るときに、オタフクソースをお土産でもらいました。1人1本、500g。

今朝つくられたばかりということで、手に持つと温かい。新鮮なのでこのまま飲むのが一番だと思われます(錯乱)

見学ツアーはそのあとwood eggお好み焼き館にもどり、お好み焼き専門資料室「おこのミュージアム」をまわります。ガイドさんの説明付きで展示品を見るのだが、けっこうボリュームがある割にツアーはどんどん進んでしまうので全く時間が足りない。

ツアー終了後にも来れるので、あとでゆっくり見ることにします。その模様が↓

lovingcspot.hatenablog.com

最後にお土産売り場です。部屋がかなり広いですが、そんなにソース製品の種類があるのでしょうか・・?

・・ものすごいたくさんあった。ノーマルなものから辛い物・甘い物、野菜多め・果物多め・塩分50%OFFに糖質50%OFF。ユーザーのニーズに合わせ過ぎである。注文住宅か。

お好み焼き用のヘラもあります。自分専用のMYヘラも作ってもらえるそうだ。オタフクのロゴは漏れなく付いてきますがね。嫌ならその部分だけヘラで削り落とせばよい(非道)

ムスリムの皆さん向けにハラールのソースもある。しかしこの容器はムスリム仕様なのでしょうか。使い終わったら灯油でも入れられそうですね。

極めつけはソースバー。あの大量に種類のあるソースを試食できるのだ。あなたにピッタリの一品を見つけよう。そのまえに喉が渇いて飢え死ぬ可能性もありますが。

 

おしまい

 

【交通手段】井口駅から徒歩10分

【見学料】無料

【混雑度】★★★(他に数組)

【ツアー時間】90分

【URL】

www.otafuku.co.jp

袋町小学校平和資料館(被爆建物)

広島市では原爆の被害を受けながら残った建物を「被爆建物」として保存しており、その1つです。交番じゃないです。 

1937年に建築された袋町小学校の校舎の一部。被爆後も修理して50年以上使ってきたが老朽化したので、資料館として残しているのだ。 

入館は無料です。

原爆の被害を受けつつ残ったのは、このような鉄筋コンクリートの建物だけで、木造建物は片っ端からやられてしまった。被災直後には生存者がここに集まってきて、家族の安否を尋ねる情報場所となっていたそうです。

壁には黒板・・ではなくて、煤です。校内の至る所で火災が起こり、その煤で一面真っ黒になっていたのだ(復元です)

黒くなった壁には、安否情報がたくさん書かれています。「自宅で待ってます」「うちの子供を見た人いませんか」など。被爆直後の人々のやりとりが記載されており、かなり生々しいです。

先生が自宅の場所を壁に記しています。親とはぐれてしまった子供たちはウチに避難してくるように、という言付けですね。

被災直後の学校の写真です。終末感しかしない。

学校生徒は1600人おり、うち上級学年は疎開して居なかったんですが、低学年160人と先生は残っていたと。原爆投下は朝だったので、ちょうど朝礼を校庭でやっている時間。ほぼ全員が死去したそうです。

校舎の屋外も木っ端みじんにやられている。

授業が再開したのは1年近く経過した1946年6月から。しかし校舎は応急修理をしただけで、とんでもない内装になっている。それでも日常を少し取り戻せたので、子供たちは元気に登校していたそうな。

時間が経過するにつれて、煤だらけの壁も白い漆喰を塗って綺麗にされました。

平成の世になって建物を資料館として保存するとなったとき、「煤一面の壁を伝言板にしてなかったっけ」と思い出した人がおり、 漆喰を剥がしたら未だに黒い壁と書かれた伝言が残っていたそうな。それを復元したのが、さっきの煤の壁ですね。

思い出していなかったら、伝言板は永久に漆喰の下に隠れていたわけだ。思い出した人グッジョブ。 

校庭に置いてあったのを、爆風で吹き飛ばされて風穴を開けられた太鼓。叩き過ぎて壊したわけではありません。

被爆の衝撃で壊された扉は色合いがホラーになっている。

最後にスイス人医師ジュノー博士の紹介。

連合国軍の捕虜の状態を調べるため赤十字から派遣されたが、広島の惨状をみると調査どころでは無くなってしまい、GHQから大量の医薬品を拠出させて被災者の治療にあたったという。ノーベル賞あげて、どうぞ。

 

というわけで、被爆についてまた違う角度から学べる施設なのでした。

しかし資料館の公式HP、公共施設とは思えない胡散臭さ漂う見た目になっているから、PC得意な人にちゃんと教わった方が良いと思うよ(提案)

 

おしまい

 

【交通手段】紙屋町東電停や本通駅から徒歩10分

【入館料】無料

【混雑度】★★(他に2~3人)

【滞在時間】50分

【URL】袋町小学校 平和資料館

広島逓信病院 旧外来棟被爆資料室

広島で原爆被害を受けた建物は原爆ドームが最も有名ですが、同様の建物は広島市内に84件もあるそうで、「被爆建物」として保存されているのだ。その1つが広島逓信病院です。

広島駅から徒歩15分、空港からだと広島バスセンターまで来てから同じく徒歩15分になります。

 要注意なのは、見学には事前予約が必要ということです。公式HPで申請書をダウンロードし、見学5日前までにメールで市役所に提出します。普段は閉館していて、見学申請があったときだけ開けている雰囲気。

なお公式HPには「申請を受け付けましたら、こちらから折り返し連絡します」と書いてあるのだが、そんな連絡は来ず、不安になってこちらが電話で確認する羽目になりました。これだから役所は!(予約自体はちゃんと受理されていた)

現地に到着すると館員さんがスタンバっています。入場料は無料。 

被爆建物というから原爆ドーム的ボロボロを予想していたのだが、意外と普通の状態だなぁ。

写真は、外科待合室・手術準備室・診察室・化膿性手術室の4部屋があったところ。当時は壁で仕切られていたようですが、今ではぶち抜いて広い1部屋としております。

と思いつつ被爆時の写真を見たら、盛大に破壊されていた。外壁は焦げ、窓ガラスは吹き飛ばされている。病院だから被爆直後から患者を受け入れる必要があり、こんな崩壊状態では診療なんてできないので素早く修理したようです。

今でも壁の白ペンキを剥がすと、その下には医療器具が衝突した傷や黒く焼け焦げた跡が残っているそうな。

1935年新築した時の写真がこちら。比べて見ると、被爆後の崩壊度が一目瞭然ですね 

周辺建物の写真もありました。逓信省の施設である広島貯金支局庁舎です。外壁が焦げているどころか、建物全体が歪んで傾きすぎである。なんという恐怖映像。

貯金支局1Fにあった郵便箱は、たぶん元は赤かったと思うのですが、焦げて真っ黒である。上部がぶち抜かれているのはさすがに原爆のせいでは無くて、上階と管で繋がっていたからです。

いきなり枯れ葉が出てきたが、病院の庭にあったアオギリという木が被爆しながらも生き残り、その葉だそうです。 アオギリの苗木は市内の小学校に分けられており、子孫を残していますとさ。

さぞかしアオギリも天国で喜んでるでしょうなぁと思ったら、本人は普通に平和記念公園に移植されて生きているのであった。樹木は強い。

お隣の無菌手術室には、当時のタイルがそのまま残されています。修理されているので崩壊感はありませんが、経年で薄暗くなっているので突然ホラー感が増してきます(筆者のメンタルは貧弱です)

この病院を舞台にした『ヒロシマ日記』という本が置かれていました。被災直後から患者の治療を行っていた医師 蜂谷道彦が、被爆後2か月の病院の状況を記録して出版したもの。記録なので生々しい描写に満ちている気がします。

英訳版が出されるとアメリカで反響を呼び、「我々が何をしたか知るために全アメリカ人が読むべき」と訴えた作家もいたそうです。聞いてるかドナルド・トランプ

その後さまざまな言語に翻訳され、チェコ語とかスロバキア語とかマイナー訳まで出ていてすごい。イランとかイスラエルとか北朝鮮のお友達にも贈呈してあげたい。

最後の部屋は消毒室。ここのタイルも当時のものです。

2Fもあるんですけど、ただの倉庫と化しているそうで見学は出来ませぬ。

これにておしまい。 

 

【交通手段】広島駅、広島バスセンターから徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】25分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】

www.city.hiroshima.lg.jp

 

岩槻遷喬館と時の鐘

 

岩槻遷喬館というのは、岩槻藩の藩校です。

岩槻駅から徒歩10分くらい。

入場料は無料。

 

 

 

1799年に児玉南阿が私塾を開き、その数年後に藩校として扱われるようになった。

 

児玉南阿という人は、まぁ間違いなく歴史の教科書には出てこないが、岩槻藩の役人として要職を歴任。

「岩槻に過ぎたるものが2つあり 児玉南阿と時の鐘」と、岩槻2大名物あつかいされている。

 

 

だが43歳の時に部下がやらかしたそうで、その責任を取って辞職。

学者・教師として活動するようになる。

官僚の天下りみたいである。

 

 

ところで「遷喬」というのは、詩経の中にある「喬木(きょうぼく)に遷(のぼ)る」という言葉が元ネタ。

「鳥が高い木(=喬木)に飛び移る」という意味で、少年よジャンプせよ、ということである。

 

 

入口側にある床の間のある部屋は、先生の控室。

なんだかとても真新しい内装だが、2006年に復元工事を完了させたためであろう。

 

 

児玉南阿の自画像が飾られている。

この自画像から本人を割り当てる方が難しそうですが。

 

 

教場は24畳の広さ。

 

藩士は6歳でここに入学し、20歳くらいで卒業したそうな。

成績優秀者は江戸への留学費用を出してもらえたり、藩の要職に抜擢されたりした。

 

 

当時使われていたとされる書物。

四書五経など中国の古典が多い。

 

 

一番奥は納屋になっている。

なんだか新しいので、クローゼットにみえますね。

 

(1956年修理の写真)

 

明治時代になると廃校となり、一般の住居として使われていたらしい。

岩槻藩の士族あたりが、ここを買い取ったのだろうか。

 

1956年になると持ち主から岩槻市(現さいたま市)に寄付されたのだが、長年使われて無かったようで、倒壊寸前レベルまでボロボロだったらしい。

家主の戦犯っぷりが疑われるが、戦後なので仕方ないか。

 

 

てなわけで1956年に改修をして一般公開をはじめたが、50年経てばまた家屋はボロくなってくるので、2004-2006年に全面的なリフォームをして、こうなりました。

おかげでとても綺麗になったよ、江戸時代の藩校だと思えないくらいに(本末転倒)。

 

この全面改修のときに、江戸当時の姿に復元されたので、許してクレメンス。

 

遷喬館おしまい。

 

 

遷喬館から東に5分ほど歩いたところに、「時の鐘」なるものがあるというので行ってみた。

児玉南阿とならぶ、岩槻2大名物である。

まぁどっちも誰も知らな(略)

 

 

時の鐘と言えば川越のガッカリスポットだが、岩槻では1671年に、領民に時刻を知ってもらう目的で藩主が築造させたものである。

「時刻を知ってもらう」というのは、時間通りにテキパキ動けという啓蒙効果なんですかね。

 

そういう意味であれば、時の鐘みたいなスポットは全国にありそう。

現存しているものは少ないでしょうが。

 

 

時の鐘の裏に回ってみました。

 

 

扉があるが、しまっている。

この中に階段があって、鐘楼に上がれるようになっている。

 

今では6時・12時・18時と、1日3回鳴らされているそうな。

いちいち誰かが登って撞いているとは思えないので、機械でやっているのだろう。

鐘撞きガチ勢は残念ながら鳴らせませんので悪しからず。

 

 

以上

 

【交通手段】岩槻駅から徒歩10分~15分

【入場料】無料

【滞在時間】2つ合わせて30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】

www.city.saitama.jp

岩槻郷土資料館

 

さいたま市の岩槻にある、郷土資料館です。

廃墟みたいな見た目だが(直球)、1930年に建てられた警察署の庁舎を利用している。

 

 

 

見た目廃墟なので(2回目)、開いているのかどうか不安になるが、ちゃんと張り紙は出ています。

 

 

入場料は無料です。

岩槻城に関する展示がメインとなっております。

 

 

岩槻城の築城は1457年、関東では古河公方 足利氏vs扇谷上杉氏の争いが展開されていた頃のこと。

岩槻は両者勢力の境界付近にあるため、上杉家に付いていた太田道灌が、前線拠点として建てた。

 

・・というのが従来の説だったのだが、最近の研究では太田道灌ではなく別の人間が築城したらしいというのが有力になっている。

道灌が建てた方が観光ネタにしやすかったと思われるので、一部の人たちは新事実の発見にガッカリしたかもしれないねえ(適当)

 

太田資正の寄進状)

 

16世紀になると小田原の北条が台頭してきて、喧嘩してた古河公方も上杉家もこのときは団結して立ち向かうのだが、1537年には河越城を奪われるなど普通に弱いのであった。

 

破れた上杉は越後の長尾景虎のもとへ逃げ込み、彼が上杉謙信となって南下してくるのは有名な話。

岩槻城主である太田資正は謙信に従い、北条に奪われた城を取り返すなど活躍をしている。

というわけで信長の野望にも、太田資正はよく出演しております。

 

(北条氏房の書状)

 

そんな風に頑張っていた太田資正くんだが、息子 氏資が北条氏康の策略にまんまと乗っかって北条へ寝返り、追放されてしまいました。

 

その氏資も3年後には戦死して、あとには北条氏政の次男 氏房がはいる。

「分かりやすいお家乗っ取りのやり方」ですね。

 

 

岩槻城では大陸で作られた陶磁器が発掘されている。

だからこの展示ではわざわざ大陸の地図まで載せて「岩槻と東アジアは繋がっている」とグローバルな主張をぶちあげております。

 

岩槻は国際交流都市、はえ~すっごい(棒)。

 

 

そんな岩槻城は、豊臣秀吉による北条攻めの時に、ボッコボコにやられている。

岩槻側は兵2千に対し、豊臣側は2万居たらしい。

オーバーキルすぎやしませんかね。

 

なので発掘された陶磁器も、戦いのせいで割れまくっております(嘘)

 

 

戦でズタズタにされた岩槻ですが、江戸時代になると日光御成道の宿場町になったということで、人が集まってきたよ。

商家がたくさん出来ました。

 

 

茶商?

岩槻で茶を生産しているイメージが無いのだが。

茶農家はないけど、他地域から輸入して売っていた商人はいたということかしら。

 

 

店のハンコも残っています。

 

 

これは帳簿。

 

 

宿場町の模型もあるよ。

 

 

ずいぶんとヴェネチア感あふれていますが、岩槻宿は水堀でも築いていたんですかね。

 

 

近くを元荒川が流れているので、その水を取り込んでいるようです。

 

 

こちらは岩槻藩の藩校 遷喬館について。

1799年に児玉南阿(こだま なんか)と言う人が私塾として開設し、のちに岩槻藩が藩校として昇格させたもの。

 

(藩校の看板)

 

遷喬館へは6歳ころに入学し、20歳ころで卒業。

成績優秀者は江戸への留学費用を出してもらえたり、岩槻藩の幹部に登用されたそうな。

 

 

開設者である児玉南阿さんの自画像がこちら。

もうちょっと真面目に書きましょうね。

 

 

明治時代になると岩槻城は廃城となり、敷地内にあった建物はオークションに掛けられたりしたそうな。

 

この黒門は埼玉県庁や県知事邸の門として使われ、のちに市役所の門となり、いまは岩槻城跡に移築されています。

 

 

昭和時代のお写真。

 

 

次の部屋に移ります。

入口の上に「巡査詰所」と書いてある。

警察署として使われていた時点の部屋割りか。

 

 

むかしの民具コーナーですね。

 

 

冷蔵庫。

上段に氷をいれて、下段に冷やしたいものを入れます。

冷凍はできないだろうね。

 

 

いつもどおりの民具たち。

 

 

江戸時代の籠で、お医者さんが使っていたもの。

明治以降は人力車になった。

 

 

巨大な凧といえば春日部だと思うのだが、岩槻でもやっていたようです。

 

 

にしても、この写真の凧でかすぎやしないですかね。

おたくの家よりデカいよ。

 

巡査詰所はおしまい。

 

 

まだ奥に部屋があるようです。

廊下にも展示が。

 

 

1924-1938まで運行していた武州鉄道。

蓮田~岩槻~神根(川口市)をつないでいた。

 

“明治の岩槻民は鉄道嫌い”という説を以前きいていたので、「岩槻に鉄道通ってたの?」と思ったのだが、武州鉄道の敷設にあたっては岩槻住民は誘致に乗り気であり、1910年にはすでに会社を設立させている。

そもそも「鉄道嫌い」を裏付ける文書は残っていないそうで、俗説の可能性があるんだそうな。

 

 

 

鉄道の開通により「これで大宮民に勝つる!」と意気込んだかどうかは知らないが、武州鉄道の経営は結構てけとーだったようで、経営不振のためわずか14年で終わってしまった。

 

 

浮谷駅の跡地。

いつ頃の写真か分からないが、白黒なのでかなりの年代物。

その時点で既にもののけ姫な状態であるので、いろいろとお察しください。

 

現在の埼玉高速鉄道が延長して岩槻まで来れば、武州鉄道と似たようなルートになるのだが。

果たして鉄道不毛の地 岩槻区民の夢は100年越しくらいで実現するのでしょうか、ご期待ください。

 

 

そんな廊下を抜けた先に2部屋。

 

 

 

こちらは刑事室となります。

 

 

デカ、ずいぶん田舎暮らしな部屋でスタンバっていたんですね(すっとぼけ)

 

 

もう一つの部屋は宿直室。

あれ、刑事室より綺麗だぞ。

かわいそうに、刑事。

 

 

ここにきて縄文時代な展示を広げており、完全に不意を突かれました。

 

 

土器もこのとおり。

 

 

これ、上が石剣で、下が石棒だそうです。

どっちも石棒にみえる私は、目か心がどうかしているのでしょうか。

 

 

埴輪は首がないよ。

 

 

この廊下の奥にはトイレしかありませんが。

 

 

 

そのトイレの目の前に、「時の鐘」の屋根に付いていた部品が置いてあるよ。

時の鐘というと川越を思い出すけど、岩槻にも建てられていて、「岩槻に過ぎたるものが2つあり 児玉南阿と時の鐘」というどっかのまんまパクリ歌が詠まれている。

 

そんな郷土の名物を、便所の前に置いてよかったのかな?

 

 

 

出口に向かいますが、最後に署長室を見ます。

 

 

狭!と思ったが、衣装ショーケースの奥までで本当は1部屋なのだろう。

署長をこんな用具室みたいなところに押し込めるなんて、まさかね。

それとも、よほど署員に総スカンされてたのだろうか。

 

【参考文献】『岩槻 城と町まちの歴史』 菊地丕ほか著 

 

 

以上。

 

【交通手段】岩槻駅から徒歩10分

【入場料】無料

【滞在時間】40分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

www.city.saitama.jp