C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

岩槻郷土資料館

 

さいたま市の岩槻にある、郷土資料館です。

廃墟みたいな見た目だが(直球)、1930年に建てられた警察署の庁舎を利用している。

 

 

 

見た目廃墟なので(2回目)、開いているのかどうか不安になるが、ちゃんと張り紙は出ています。

 

 

入場料は無料です。

岩槻城に関する展示がメインとなっております。

 

 

岩槻城の築城は1457年、関東では古河公方 足利氏vs扇谷上杉氏の争いが展開されていた頃のこと。

岩槻は両者勢力の境界付近にあるため、上杉家に付いていた太田道灌が、前線拠点として建てた。

 

・・というのが従来の説だったのだが、最近の研究では太田道灌ではなく別の人間が築城したらしいというのが有力になっている。

道灌が建てた方が観光ネタにしやすかったと思われるので、一部の人たちは新事実の発見にガッカリしたかもしれないねえ(適当)

 

太田資正の寄進状)

 

16世紀になると小田原の北条が台頭してきて、喧嘩してた古河公方も上杉家もこのときは団結して立ち向かうのだが、1537年には河越城を奪われるなど普通に弱いのであった。

 

破れた上杉は越後の長尾景虎のもとへ逃げ込み、彼が上杉謙信となって南下してくるのは有名な話。

岩槻城主である太田資正は謙信に従い、北条に奪われた城を取り返すなど活躍をしている。

というわけで信長の野望にも、太田資正はよく出演しております。

 

(北条氏房の書状)

 

そんな風に頑張っていた太田資正くんだが、息子 氏資が北条氏康の策略にまんまと乗っかって北条へ寝返り、追放されてしまいました。

 

その氏資も3年後には戦死して、あとには北条氏政の次男 氏房がはいる。

「分かりやすいお家乗っ取りのやり方」ですね。

 

 

岩槻城では大陸で作られた陶磁器が発掘されている。

だからこの展示ではわざわざ大陸の地図まで載せて「岩槻と東アジアは繋がっている」とグローバルな主張をぶちあげております。

 

岩槻は国際交流都市、はえ~すっごい(棒)。

 

 

そんな岩槻城は、豊臣秀吉による北条攻めの時に、ボッコボコにやられている。

岩槻側は兵2千に対し、豊臣側は2万居たらしい。

オーバーキルすぎやしませんかね。

 

なので発掘された陶磁器も、戦いのせいで割れまくっております(嘘)

 

 

戦でズタズタにされた岩槻ですが、江戸時代になると日光御成道の宿場町になったということで、人が集まってきたよ。

商家がたくさん出来ました。

 

 

茶商?

岩槻で茶を生産しているイメージが無いのだが。

茶農家はないけど、他地域から輸入して売っていた商人はいたということかしら。

 

 

店のハンコも残っています。

 

 

これは帳簿。

 

 

宿場町の模型もあるよ。

 

 

ずいぶんとヴェネチア感あふれていますが、岩槻宿は水堀でも築いていたんですかね。

 

 

近くを元荒川が流れているので、その水を取り込んでいるようです。

 

 

こちらは岩槻藩の藩校 遷喬館について。

1799年に児玉南阿(こだま なんか)と言う人が私塾として開設し、のちに岩槻藩が藩校として昇格させたもの。

 

(藩校の看板)

 

遷喬館へは6歳ころに入学し、20歳ころで卒業。

成績優秀者は江戸への留学費用を出してもらえたり、岩槻藩の幹部に登用されたそうな。

 

 

開設者である児玉南阿さんの自画像がこちら。

もうちょっと真面目に書きましょうね。

 

 

明治時代になると岩槻城は廃城となり、敷地内にあった建物はオークションに掛けられたりしたそうな。

 

この黒門は埼玉県庁や県知事邸の門として使われ、のちに市役所の門となり、いまは岩槻城跡に移築されています。

 

 

昭和時代のお写真。

 

 

次の部屋に移ります。

入口の上に「巡査詰所」と書いてある。

警察署として使われていた時点の部屋割りか。

 

 

むかしの民具コーナーですね。

 

 

冷蔵庫。

上段に氷をいれて、下段に冷やしたいものを入れます。

冷凍はできないだろうね。

 

 

いつもどおりの民具たち。

 

 

江戸時代の籠で、お医者さんが使っていたもの。

明治以降は人力車になった。

 

 

巨大な凧といえば春日部だと思うのだが、岩槻でもやっていたようです。

 

 

にしても、この写真の凧でかすぎやしないですかね。

おたくの家よりデカいよ。

 

巡査詰所はおしまい。

 

 

まだ奥に部屋があるようです。

廊下にも展示が。

 

 

1924-1938まで運行していた武州鉄道。

蓮田~岩槻~神根(川口市)をつないでいた。

 

“明治の岩槻民は鉄道嫌い”という説を以前きいていたので、「岩槻に鉄道通ってたの?」と思ったのだが、武州鉄道の敷設にあたっては岩槻住民は誘致に乗り気であり、1910年にはすでに会社を設立させている。

そもそも「鉄道嫌い」を裏付ける文書は残っていないそうで、俗説の可能性があるんだそうな。

 

 

 

鉄道の開通により「これで大宮民に勝つる!」と意気込んだかどうかは知らないが、武州鉄道の経営は結構てけとーだったようで、経営不振のためわずか14年で終わってしまった。

 

 

浮谷駅の跡地。

いつ頃の写真か分からないが、白黒なのでかなりの年代物。

その時点で既にもののけ姫な状態であるので、いろいろとお察しください。

 

現在の埼玉高速鉄道が延長して岩槻まで来れば、武州鉄道と似たようなルートになるのだが。

果たして鉄道不毛の地 岩槻区民の夢は100年越しくらいで実現するのでしょうか、ご期待ください。

 

 

そんな廊下を抜けた先に2部屋。

 

 

 

こちらは刑事室となります。

 

 

デカ、ずいぶん田舎暮らしな部屋でスタンバっていたんですね(すっとぼけ)

 

 

もう一つの部屋は宿直室。

あれ、刑事室より綺麗だぞ。

かわいそうに、刑事。

 

 

ここにきて縄文時代な展示を広げており、完全に不意を突かれました。

 

 

土器もこのとおり。

 

 

これ、上が石剣で、下が石棒だそうです。

どっちも石棒にみえる私は、目か心がどうかしているのでしょうか。

 

 

埴輪は首がないよ。

 

 

この廊下の奥にはトイレしかありませんが。

 

 

 

そのトイレの目の前に、「時の鐘」の屋根に付いていた部品が置いてあるよ。

時の鐘というと川越を思い出すけど、岩槻にも建てられていて、「岩槻に過ぎたるものが2つあり 児玉南阿と時の鐘」というどっかのまんまパクリ歌が詠まれている。

 

そんな郷土の名物を、便所の前に置いてよかったのかな?

 

 

 

出口に向かいますが、最後に署長室を見ます。

 

 

狭!と思ったが、衣装ショーケースの奥までで本当は1部屋なのだろう。

署長をこんな用具室みたいなところに押し込めるなんて、まさかね。

それとも、よほど署員に総スカンされてたのだろうか。

 

【参考文献】『岩槻 城と町まちの歴史』 菊地丕ほか著 

 

 

以上。

 

【交通手段】岩槻駅から徒歩10分

【入場料】無料

【滞在時間】40分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

www.city.saitama.jp