仙台うみの杜水族館
仙台うみの杜水族館は、2015年に開業した。
松島にあった「マリンピア松島水族館」が移転してきたものだが、こちらは1927年開業と日本で2番目に古い水族館であった(一番古いのは富山の魚津水族館)
入場料は2100円という観光地価格ですので、気合を入れてどうぞ。
最寄りの中野栄駅から無料シャトルバスが出ているが、30分に1本という微妙な感じ。
徒歩20分で来れるけれども。
展示室へ向かいます。
最初は「日本(東北)の海」と題して、東北をメインに国内産を扱っている。
天井の水槽にあるのは、宮城県が水揚げ量国内一位である、マボヤ。
ホヤの代表種。
見た目が赤いので、「火焼け」が訛って「ホヤ」に転じたらしい。
海中にカキの貝殻を付けたロープを吊るしておけば、幼生のホヤがくっ付いてくるので、それを養殖している。
「海のパイナップル」と呼ばれているが、まったくそんなことはなく、味は肝のような苦みがかなり強い。
酒のお供にはなりそうなので、好きな人は好きであろう。
なんと体内で精子と卵の両方をつくることができる。
オスにもメスにもなれるということである。
これもうわかんねぇな(両性具有)
先へ進む。
水族館に来ました、と十分に感じさせる巨大水槽がおでまし。
とにかくイワシがすごい勢いで渦巻いてます。
しばらくすると、ミュージックタイムみたいなのが始まって、音楽と一緒にイワシの大軍がうごめき始めた。
水中に色のついた粉末が飛び交っていたので、エサで誘導しているのだろう。
大量のイワシが一斉に飛び交いまくるイベントなので、けっこうな派手さと愉快さと気味の悪さがあり、たいへん楽しい。
大軍を全体としてではなく、個々としてみると、より一層の異常さが感じられる。
そんな水槽の端っこで静かに泳いでいるスナメリ君。
2017年に漁獲網に混獲されていたところを救出されて、ここにやってきた。
水槽の背後の壁を見ると、カウントダウンがされている。
0になった。
すると始まるプロジェクションマッピング。
八景島シーパラダイスが経営参画しているだけあって、いろいろ手を打っておりますな。
チェーン店とか言ってはいけない。
次のゾーンへ。
ノーマルサイズの水槽がぞろぞろ。
画面中央下にまたマボヤ君が出演しております。
水族館のセンターなだけある。
「クロソイ」という魚。
黒じゃないじゃんと思うのだが、本来のクロソイは黒であり、こやつが珍しい色素異常なんだとか。
クチバシカジカ。
イノシシに似ているので、この水族館でもイノシシ呼ばわりされている。
水中に棲んでいるくせに泳げないらしく、ヒレを使って歩くように移動するらしい。
カニの水槽。
足が長いカニは、サイレントヒルの中ボス感があるが、ここのカニは自重している模様。
三陸海岸に棲む方々をご紹介しております。
岩。
よく見ると、空いている穴に潜んでいる魚がいる。
穴をあけて中に棲息する貝がいるのだが、その貝が居なくなった後に残された穴を、彼らが利用している。
ギスカジカ。何体も重なり合っている。
顔はまずいが味は良いので、汁物に使われる。
海藻のマコンブぞろぞろ。
どう見ても「あまちゃん」の衣装。
あれ、岩手県の話では?
松島など漁港に関する展示。
このあたりでは釣り針を使わず、エサにタコ糸を通して数珠状にしたものを使用する。
これにハゼが食いついてくるのだが、船上でふるい落とすだけで魚を落とせるので、釣り針を外す手間が省けるんだと。
このエサを利用した釣り堀が体験できるようですが、故障中のようです。
こちらはカキの養殖コーナー。
松島ではカキの養殖は300年前から始まったとされている。
カキの幼体は海の中を漂い、岩にくっ付いて成長する。
ホタテの貝殻をこのように70枚ほど重ねて紐で繋ぎ、これを海に垂らしておけば、くっ付いてくれるというわけ。
幼生が付着したら、干潮時には海に浸からないところへ、これを移動する。
カキをずっと海に住まわせておくと成長しすぎてしまい、よろしくないらしい。
また太陽に晒すことで、環境の変化に抵抗力を持った丈夫なカキを育てることができる。
半年後にまた移動させ、今度はずっと海中に吊るしておく。
そして1~2年後に収穫されますと。
日本ではホタテの貝殻を利用しているが、フランスではプラスチックの皿を使っている。
ちなみに1960-70年代にフランスでカキの伝染病が流行して全滅する事件が発生したのだが、そのときに日本のカキを送って窮地を救ったことがある。
そのお返しに、東日本大震災の時にはフランスから漁業道具の支援があったそうな。
アマモのゾーン。
名前はおもいっきり「海藻(あまも)」なのだが、胞子で繁殖する藻ではなくて植物です(たぶん重要)。
アマモによって潮流は和らげられ、また海中に酸素を補給するなど、生物の棲みかを提供している。
巻き付いているのは絶滅が危惧されるサンゴタツです。
魚がアマモのところでやたらパクパクしてたんだが、食べ物でも付着しているのだろうか。
挟まって動けなくなった人も居ます。
このアマモゾーンの端っこに、この世の終わりみたいな部分があったんだが、これはなんなんだろうか。
綺麗な環境では生きれない種類がいるのだろうか。
人間と一緒ですね(哲学兄貴)
ここでは、自分がお絵描きした魚を、マッピング上に登場させることができます。
こんな感じ。
「ぼくの考えたさいきょうのおさかな」をみんなに披露しよう!
干潟ゾーンにやってきた。
海水・淡水の生き物両方が集まる場所である。
貝はたぶん、今朝の味噌汁にはいっていたやつだろう。
まあまあ採れるけれど、あまり食用として需要の無い魚を調理して食べようの展示。
ゲテモノ料理界の調理人が、レシピを考案したらしい。
ゲテモノ料理ハンターにとっては心躍る内容だと思うのだが、残念ながら水族館のフードコートでは販売されておりません。
ぜったいウケると思うんだがなぁ、一部には。
深海生物をお触りできる展示です。
もっとも、はく製ですけどね。
余談だが、お触り系の展示では、和歌山県の「エビとカニの水族館」が一番強烈であった。
得体のしれないウヨウヨした巨大ヒトデ類が並んでおり、「触れるもんなら触ってみろ」という一種の挑発だったかと思う。
もはや色んな水族館で取り上げられているので、新鮮味が無くなってしまったグソクムシ。
それよりもこっちの、ヤマトトックリウミグモのほうが圧倒的に異次元な存在感を放っている。
暗かったので写真ちょっとぼやけてしまったが、鮮明なやつよりましだと思う(恐)
ここは、うみの杜ラボ。
希少生物の研究をしているところ。
これはフナが突然変異でヒレの長くなった、テツギョ。
まるで金魚のようである。
メダカはどこにでも居そうなものだが、地域ごとに特性が異なるので、別の地域のメダカを混ぜると危険だそうだ。
わりと貴重である。
ウナギははやく養殖手段を確立して、もっと安く食べられるようにして、どうぞ。
外に出ました。
川に棲息するものたちを展示している。
屋内に置くと雰囲気とマッチしないので、ここぞとばかりに置かれるアオダイショウくん。
この木の中にはリスが住んでいますが、写真撮影は失敗しました(無能)
草むらかと思ったら、ここで野菜の栽培をしていると。
フードコートで提供するには、量が少なすぎやしませんかね。
ここを抜けて2Fにあがると、イルカショーのスタジアム。
来た時にはもう終盤だったので、スルーしましたが(適当)
スタジアムの向こうを見ると、まあ広大な空き地が広がっている。
使う予定は、あるのでしょうか。
三井アウトレットなど商業施設が存在する仙台港地区であるが、中野栄駅からの道中に物流倉庫やごついトラックが散見されるなど、ここが港湾地帯であることを思い出させてくれる。
ここまでが「日本の海」ゾーンでした。
ここからまだ「世界の海」が始まるんですか、そうですか(疲労)
まぁ国内ゾーンよりはボリュームはおさえめ。
最初はペンギンくん。
水に飛び込もうかどうしようか大変悩んでいるようであった。
ウィーディードラゴンという、オーストラリアの絶滅危惧種。
「海藻のような海竜」という、褒められているのか貶されているのか分からない愛称をしている。
ひらひらと水中を上下に浮いております。
トロピカル(ボキャ貧)
アザラシの水槽。
ここのアザラシ、目が白い。
原因不明の白内障になっているらしい。
なにそれこわい。
こちらはカワウソです。
ツメナシカワウソという種類。
体長80cmほどあり、小型犬レベルのサイズ。
通常もてはやされているコツメカワウソに比べると、かなりデカい。
しかしカワウソ総選挙とかいうよく分からん企画では、ここのカワウソは上位ランカーである模様。
ぜんぶ一緒に見える辺りが、某アイドルの総選挙との共通点だろう。
イロワケイルカ。
イルカ版パンダみたいである。
小型のイルカショーを行っております。
アフリカゾーン。
さっそく毒もってそうなカエルが登場。
色違いもおる。
メガネカイマンというワニ。
体長2m~3mあるが、ワニとしては小型なので、ペットとして扱われるらしい。
それはおかしいのでは(提起)
カメ。
とくにいうことなし。
チンアナゴはもうどこにでもいるな。
他の魚がメインの水槽でも、刺身のツマみたいな感じで、一緒に置かれていたりする。
世界ゾーンはこれでおしまい。
ゴール付近では、復興関係のパネル展示が置かれている。
外に出ると、「海獣広場」。
海獣ってペンギンのことですけどね。
さっきもいたけどな。
ただしこちらのペンギンにはエサやりが出来ます。
1Fに降りると、「うみの杜ビーチ」。
ビーチというか池があって、入ることができる。
子供だけね。
中にはヒトデとかいて触れる。
小さいヒトデなので、そこまでビビる必要はない。
やっぱり和歌山のアレはおかしいということを再認識させてくれる。
フードコートのそばには水槽があり、アザラシが泳いでいます。
食事の中に入っているような魚は、この水槽にはいなかった。
「魚を見ながら、その魚を食べる」のは子供の情操教育上よろしくない、という判断からだろう。きっと。
最後にお土産を見ます。
これが水族館のキャラクター。
目が顔の片側に2つ付いているようですが・・
反対側には目が無い。
なにこのホラー。
こんなお菓子もあります。
読まれていた。
以上。
【交通手段】中野栄駅からシャトルバス。仙台空港や荒井駅からも路線バスあり。
【入館料】2100円
【滞在時間】3時間
【混雑度】★★★★★(人いっぱい)
【URL】
地底の森ミュージアム(仙台市富沢遺跡保存館)
仙台市にある地底の森ミュージアムは、2万年前の遺跡をまんま保存している博物館である。
仙台駅から長町南駅まで10分、駅から徒歩で10分。
入口は文字通りに地底にあるので、階段を下りていきます。
まるで駐車場のようだ(台無し)
入口のドアをあければ受付。
入館料は460円。
入館して突然、得体のしれない景色が目の前に広がります。
これが2万年前の遺跡。
模造品ではなく、発掘された状態そのままを薬品処理をして残してあります。
おどろおどろしく地面に張り付いているのは、2万年前にこの地に存在していた針葉樹林の根っこ。
普通であればあっさり風化してチリも残らないはずなのだが、この場所は湿地帯であり、水分や泥がお肌を守ってくれるミラクルにより、1988年に発掘されるまで姿を留めていた。
森林帯から少し離れた位置にあるのは、焚き火のあと。
2万年前に人類がここでキャンプをしたと推測されている。
燃やした木の灰・食べ物の残り・石器の欠片が焚き火の周辺で見つかっている。
石器はおそらく不要になったのでこの地に捨てられたと思われるが、ご丁寧に地面の中に埋められており、埋葬チックな思想を感じさせる。
室内が暗くなったぞ。
映像コーナーの開始時刻だった。
2万年前、ここで行われた旧石器時代人のキャンプの再現ビデオが流れる。
みんな、恐怖新聞の字体すきなんすねぇ。
旧石器時代人は縄文人と異なり、一か所に定住せずに住みかを毎日変えて狩猟生活を送っていたとされている。
焚き火のまわりの地面の焦げ具合を調べても、この場所が繰り返し使われた気配は無いそうな。
定住地が無いので、遺跡発掘は苦労しそうである。
森林という自然環境と、人類の一晩の住居の跡が一か所に見つかったこの遺跡は世界的にも珍しい。
だから遺跡ごと保存して展示室にしてしまったのである。
他の部屋にあったが、建物の模型。
この地下展示室は遺跡そのままなので、その下にコンクリ床が入っていない。
地下水が入り込んでしまわないように、両サイドに止水壁を打ち込んでいます。
発掘された2万年前の木を、お触りすることができる。
なぜか暗いままですが。
薬品処理のせいか、地中に眠っていたせいか、しっとりした触感であった。
あとヒノキのような香りがしたな。
スロープを登ります。
くらいねぇ。
道中ところどころに展示が。
縄文土器だった。
あれ、旧石器時代の遺跡じゃなかったの?
さらに進むと、弥生時代のもの。
一緒に発掘されたものをとりあえず飾っているんですかね。
スロープの上まできた。
上から遺跡を眺めることができる。
その手前にあるのは望遠鏡か?
のぞいてみよう。
望遠鏡じゃなかった、発掘当時の写真を3Dチックにみられる機械だった。
これはすごい湿地っぷりですね。
遺跡全体はさすがに大きいので、そのうち一部を展示しているそうです。
さて、地下室おしまい。
1F展示室。
鹿の剥製。
「お父さん」と書いてある辺り、この3体は家族という設定らしい。
家族ごと剥製にしてしまうとは、なんとむごたらしい・・(迫真)
ガイコツぞろぞろ。
300万年前のアウストラロピテクスくん。
100万年前の、ホモ・エレクトゥス。
バイキンマンの手下くらいには近づいてきた。
そしてホモサピエンスになりました。
1万8千年前のものです。
偉そうにメダルになっているこの人が、ここのキャラクターだそうで。
シックな感じの展示室。
2万年前の仙台の状態です。
当時はまだガンガンに最終氷期だったので、水が凍って海面は低い位置にありましたとさ。
だから仙台湾は干上がっております。
松島もこの通り。
あぁ松島や(涙)
発掘された樹木を比べてみよう。
これは、自然に黒くなった樹木。
こちらは、火を受けて黒くなった樹木。
さあ、違いが分かりますか?
分かりませんねぇ(小並)
顕微鏡でみてみよう。
燃えて黒くなった樹木の場合。
自然に黒くなった場合。
こうやってみると確かに違う。
こういう差異を押さえつつ、遺跡で発掘した樹木がどちらに該当するかを決めていく。
こちらの図では、焚き火の位置(中央の赤い部分)に対して、石器(黒点)がどの位置で発掘されたかを示している。
なぜか東側が圧倒的に多い。
べつに東優位主義があったわけではなくて、このとき東風だったから風上側に居て石器仕事をしていたのだろう、という整理になっている。
やたら細かいところであるが、こうやって状況証拠から一つ一つ小さい推論を積み重ねていくのが考古学なのだろう。
発掘された石器の中には、山形方面で採れる石材があったとか。
当時はまだ物々交換なんて無いと思われるので、わざわざ現地にまで採取にいったのだろう。
生活圏ひろいですねえ、徒歩4時間以内なら自分の庭とか言い出すレベル。
山形まで取りに行った石材がこちら。
仙台とは違うのだよ、仙台とは。
見つかった石の破片をパズルみたいにつなぎ合わせて、元の石の形を知るという、気が遠くなる作業も考古学ではやるようです。
地味な作業が多いので、ちょっとカッコつけて飾ってみました。
石器の端々を顕微鏡で見れば、何のために用いたかということまで把握できるらしい。
肉きり・皮切り・骨削り。
しかしさっきからこの絵はなんなんでしょうね。
次の展示室。
遺跡では「トミザワトウヒ」なる植物が発掘されたが、これは現代では絶滅してしまったそうな。
比べてみよう。
うーん、トミザワトウヒのほうが焦げてますね??
こういうのいらないから(半ギレ)
発掘された木の根っこ。
さっきも地下で見ましたが、もう見せたくてしょうがないんでしょうね。
鹿のフンも発掘されている。
普通であれば鹿のフンはすぐ乾燥して白くなるのだが、やはりここは湿潤な環境であったため、乾燥せずに黒いまま残っていたようだ。
だから、なんなんすかね、この絵は。
フンに人格まで与えておる(驚愕)
変な絵を見たので、気分転換にどうぞ。
ジオラマっぽいものが出てきた。
ボタンを押すとホログラムで人が現れた。
旧石器時代人なのだろう。
焚き火をして、石器を打ったり、道具を直したりしている。
旧石器時代人の1日、みたいなシナリオ。
でもこれ、さっき地下で見たビデオでも同じような内容だったんだよなぁ。
もうちょっと変えても良かったんじゃない、シルバー巻くとかさ。
展示室はこれでおしまいです。
旧石器時代人にしてはシャレオツですね。
腰巻一丁とかじゃないのか。
顔はめ看板は、やたら勢いのある感じ。
左上の人は鼻が長い海賊団にでも居そうですね。
外には広大な植物園が広がっております。
「氷河期の森」というタイトルで、まさに2万年前にこの地に生息していたであろう樹木を植林して、再現しているというもの。
散策もできます。
2万年前の森林の再現とはいえ、絶滅済みのものもあるので、その場合は似通っている植物を代打で起用している。
さきほどのトミザワトウヒの場合は、種類が似通うアカエゾマツを北海道から取り寄せており、予算が心配である。
池もありますが、水質についてはお察しください。
庭園を抜けると、入口方面に出ます。
これにておしまい。
以上。
【交通手段】長町南駅から徒歩10分
【入館料】460円
【滞在時間】90分
【混雑度】★★(館内に2~3人)
【URL】
仙台市電保存館
仙台市電は1926年~1976年まで営業した路面電車である。
富沢駅から徒歩20分ほど。
入場は無料です。
保存館の手前に守衛所があるので、一声かけてから入館します。
入館。
館内には車両3台のほか、関係機材がぞろぞろ。
1台目は、この1号車。
見た目や名称からして古いが、1926年の開業時から存在する車両である。
製造費は9450円で、現代の価格に直すと1800万だそうだ。
高いのかどうかは分からんが、館員さんによると宮大工が製造に関わっているとのことなので、きっとお高いんでしょう。
開業時はこれが10両いた。
1976年、仙台市電営業終了のラストラン時にご登場したようで、こんなタスキかけています。
乗車人員が満員になったら、こういう札を前面に掲げていたようだ。
車内の風景。
椅子は座るところが結構狭い。
予算不足で敷設が10年弱先延ばしにされていた路線なので、車両幅は金の幅を示しているかもしれない(察し)
運転台。
その横にはヒモがある。
ヒモを引くと、鐘がカランカランなるシステムです。
むかしの路面電車でよくあるやつですね。
つり革は引っ張ると壊れるシステムなので、触らないように。
乗務員は車両と違い、国産では無いようだ。
乗務員のコスプレをして写真撮影ができるよ!
ただし市電の制服じゃなくて、いまの市営地下鉄の制服だけど。
路線図。
いまの市営地下鉄の路線図とだいたい重なっている。
地下鉄の建設計画ができたあとに、市電の廃止が決定されているからね。
足りないところはバスで補っている。
車両から降りて、前面部へ。
列車の下に人が入り込まないよう、こんなネットが車両の前後部についている。
車高が低いので、巻き込まれたら最期、被害者はペースト状になって出てくるであろう。
次は123号車。
戦後に登場した。
車内はさっきとくらべて、かなり進展している模様。
収容人数も、1号車の40名から、84名と倍増させている。
椅子の幅は相変わらず狭いが、座るとフカフカ。
文明の発展を感じる。
運転台。
こちらには運賃箱がある。
もとは車掌がいたのだが、1960年代後半から経営悪化によりワンマン運転に切り替えはじめたので、その折に設置されたもの。
運賃箱の中身を見せてもらった。
右側の円筒の中に、お釣り用の小銭が入れられる。
運賃箱の後ろ側(乗務員側)
左下の3色レバーが釣り銭用円筒と連動しており、レバーを動かすことでお釣りを出す。
運賃を入れる箱。
乗客はまずここに運賃を投入し、それを確認した運転手が、レバーを操作してお釣りを出す。
さきほどの黒いレバーを動かすと、運賃箱の底が抜けて、お金をボッシュート。
ふむ、実演は初めて見たな。
この123号車なのだが、トラックに派手にぶつけられて壊されたことがある。
展示してないやつだけど、他に客が居なかったので、館員さんが特別に見せてくれたものです。
ことの顛末が書かれている。
トラックが時速60kmでぶつかってきよったので、派手にぶっ壊されている。
60kmってだいぶ飛ばしてたなあ。
復旧のお写真。
費用は現在価値に直すと600万円程度だったと。
しかしあれだけ壊されても、ぱっと見分からないくらい綺麗に直されている。
すばらしい技術ですねぇ。
電線復旧作業の写真。
竹の梯子を電線に立てかけている。
竹は絶縁体だけども、少しでもバランス崩して電線に手が触れようものなら一発で感電するであろう。
あぶないあぶない。
3台目の415号車は1958年製造で、仙台市電としては最後の新車となった。
車両の横面に、ルートの案内板。
右下に書いてある「バッジはアキバ」というのは広告で、アキバという商店があったんだそうな。
内装はさらに進歩している。
ただ椅子の幅は(省略)
飽きずに運転台を撮影します。
車両の外には停留所名の看板コレクション。
プレートのコレクションも。
こちらは車両の台車。
この穴に柱を立てて、車両の上部部分を被せているだけなんだと。
プラレールみたいだな。
この鋼板を外すと、
ここにも穴。高さ調節用らしい。
Nゲージもそれなりのサイズ。
もちろん仙台市電もいます。
圧力計。
さっきみた運賃箱のつり銭いれ。
2階もあります。
上から、行先表示の幕を垂れ降ろしている。
自由だなぁ。
2Fからの風景。
パンタグラフがついており、係員さんの実演で動かすところも見せてもらった。
最古の1号車のパンタグラフにはヒモが垂れ下がっていて、そのヒモを動かして上げ下げするという、文字通り手動。
かなり貴重なシーンだと思ったが、見るのに夢中でろくな写真撮ってませんでした、申し訳ナス。
2Fへの階段と足場の手すりは、線路を再利用したもの。
営業終了直後は、道路上の線路を取っ払うのが面倒だったので、上からアスファルト被せて誤魔化そうとしたらしいのだが、車のタイヤの摩擦でアスファルトが剥げて線路がむき出しになり、そのたびに撤去したり舗装してたりしたらしい。
その方が面倒そうにみえますが。
ほかにも機材の展示があったり、
パンタグラフが放られていたりと、いろいろ。
私あまり機材に詳しくないので何も書けませんが、鉄オタ歓喜な場所であることには違いない。
当時の業務日誌もあるよ。
詳しくは見なかったけれど、係員さんに頼めば見せてくれそうな雰囲気はあった。
パンタグラフや運賃箱の中身など、こちらが特に頼んでいないのに、好意で説明してもらえたからね、感謝感激。
グッズも売ってたようだけど、Nゲージは特に置いてなかった。
以上。
【交通手段】富沢駅から徒歩20分
【入館料】無料
【滞在時間】60分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】仙台市交通局 仙台市電保存館
さいたま市立博物館
大宮駅西口から徒歩15分くらいの場所にある博物館。
氷川神社の参道のそば。
入館は無料。
館内での撮影は、受付で申請すれば可能です。
展示室へは階段を下りていく。
こちら。
入口に「学習ノート」がある。
ぼけーっと展示を見てないで、ちゃんと学習しろという、博物館側のお気遣いである。
中3用までしかありませんがね。
大人は大人なので、自力で集中力を保ちましょう。
縄文時代。
6000年ほど前にピークを迎えた縄文海進の影響で、いろんなところが水没していましたとさ。
河川も、渡良瀬川がこんなところまで来ているなど、現在と様子がまったく違っている。
貝塚。
貝がじゃらじゃら。
自由に触って良いという展示かしら。
違った。
目の前で物をぶらつかせておいて、お触り禁止とは。
縄文人の人骨と、予想される頭部の像。
縄文人はオールバックだったようです。
土器。
初期の頃は食べ物を煮炊きするための、大柄な器ばかり作られていたが、6000年前頃から盛り付け用の小さな食器が登場したようです。
縄文後期の、食器類たち。
これは注口土器とのことだが、ドーナッツ型という前衛スタイル。
投網はこんなのを海に投げ込んでいたようだ。
耳飾り。
相変わらず巨大すぎる飾りであるが、それよりも展示の仕方が怪しい。
安定の石棒(下ネタではありません)
土偶のみなさん。
これは人面。
こっちは、ミミズクらしい。
うーん?
埋蔵文化財の発掘調査現場を再現したもの。
発掘の仕方も書いてあります。
ブルドーザーで掘っている。
ブルドーザーに頼り過ぎると、遺跡ごと破壊しかねないので、途中から自重して人手で掘り下げます。
たいへんですねぇ。
私はこの時点で発掘を諦めます(貧弱)
どこで何が見つかったのかを記録しています。
なにもみつからなかったら「ボウズ」とかいうんだろうか。
発掘し終わったら、埋め戻しましょう。
穴ぼこだらけ。
空撮写真。
団地の横に思いっきり穴開けてしまっていますが、多少はね?
そこで見つかったのは弥生時代の方形周溝墓で、古墳の走りともいわれている。
中央の小高い部分に偉い人を埋葬し、周囲の溝にお供え物を入れて埋める。
偉い人の家族を、溝の部分に埋葬することもあるって、別の資料館で聞いた。
溝じゃなくて高いところに埋めてあげてクレメンス。
巨大な土器。
謎の絵が記されていて、誰も解読できていないらしい。
その絵が、こちら。
絵というより、汚れでは?(てきとう)
こういう酒器あるよね。
ハニワたち。
首が砕けているのもありますが。
これが男性の埴輪。
こっちが女性。
うん、わかりやすい(棒)
馬の方が立派に作られていたりする。
偉い人>偉い人の馬>>>(越えられない壁)>>一般ぴーぽー、なのだろう。
中世に来ました。
さいたま市域は、岩槻だけが埼玉郡、残りは足立郡に属していた。
修羅の国 足立。
立派な雲版。
寺で、時刻を知らせるようにボーンって叩くやつ。
鐘ではないよ。
氷川神社などの大きい寺社があるので、土地の寄進など様々な文書がそこに保管されており、そのおかげで昔のことを調べることができる。
自分の勢力により関東を治めることを祈願して、寺に土地を寄進するという内容なのだが、その中に農民の屋敷が含まれている。
人の家を勝手に他人に与えるとは、さすが足利持氏きたない(確信)
幕府の命に背いて武士の粛清・討伐を勝手にやり、そのため幕府に討ち滅ぼされるもさんざん火種を残して行って、戦国時代はじまりの一因をつくっただけある。
こっから江戸時代で、これは朱印状。
社会科の授業で朱印船貿易ばかり取り上げられているが、寺社の所領を安堵するために江戸幕府が発行したという性格を持っている。
以前は印鑑ではなく花押(サイン)がメインだったが、戦国時代から朱印を押すブームになったようだ。
奈良時代では印鑑が使用されていたので、印鑑リバイバルともいえるかも。
解説付きなのはめずらしい。
なにげに見ざる聞かざるは様々な場面に出演している。
中山道の宿場町、大宮宿の模型。
なお「大宮」という地名は、「氷川神社の大宮」から来ている。
もともと氷川神社参道付近に集落があったのだが、江戸時代になってから西へ移転して宿場町本格オープンとなった。
説明音声が流れるボタンがあったようだが、故障中の様です。
宿場町の位置を、現在の地図におとしたもの。
駅の位置はわかったけど、「デパート」ってだけ書かれても、どのデパートか分からないんだよなぁ・・
そもそも現存しないデパートの可能性も。
宿場町の本陣である、山崎さん宅の家の見取り図。
こちらが脇本陣。
本陣よりも大きいようにみえますが、気のせいですかね。
中山道は戦国時代から往来として存在はしたようだが、江戸時代になってから整備された。
西方に行くには、東海道よりも40kmほど距離が長くなるうえに山道が多いのだが、東海道と比べて幕府の監視の目が強くなく、宿賃も安かったので、こちらを通る人も多く、とくに女性が多かったので「女人街道」とも呼ばれた。
旅道具。
便利なのはわかったが、頭が砕けそうな枕である。
携帯用そろばんも発売中。
農家ゾーン。
水車を足で回す人。
高いなぁ。
実際のお写真。
米俵を持ってみよう選手権が開催されています。
重いです。嫌になるくらい。
蔵がありますな。
中はやっぱり農機具だらけ。
調度品の数々。
とっくりも数々。
明治時代に入ったぞ。
1868年に武蔵県が発足、そのあと数か月単位で大宮県→浦和県となぜか改称があり、1872年に岩槻県を吸収して埼玉県で落ち着いた。
大宮駅は1885年に設置された。
いまでこそ「鉄道の町」を自負する大宮であるが、1883年に鉄道が上野ー熊谷間で開通した際、浦和の次の駅は上尾になっていて、大宮駅は存在しなかった。
すでに大宮宿のあたりが廃れ始めていた大宮住民は、慌てて大宮駅の誘致活動を開始。
駅となる土地の提供まで申し出る大盤振る舞いにより、誘致は成功した。
(上野ー熊谷間を最初に走った「善光号」。イギリスから輸入して、川口の善光寺にて荷揚げをしたので、この名前になっている。長野は関係ありません)
大宮駅が設置されて後、東北本線の開通に向けてルート選定が行われていた。
分岐点として、浦和・大宮・熊谷の3地点が候補に。
浦和案は、その場合の沿線となる岩槻住民が反発したので断念。
その結果、いまでも岩槻は域内を東武線がちょろっと走るだけの鉄道不毛の土地になってしまい、現在やっきになって埼玉高速鉄道の延伸を求めている。
一方で大宮は、駅の北側に車両工場が建設され、大宮住民の多くがその工場で働き、また鉄道関係者が市議会議員になるなど、まさに「鉄道の町」として発展を遂げた。
とりあえず当時反対した岩槻住民は、ダイナミック土下座でもした方がいいんじゃないかな(提案)
戦争時の展示。
大正時代の通信簿。
こんなところで成績を暴露される生徒さん、ご愁傷さまです。
駄菓子屋グッズだ。
泥で作っためんこ。
固まり方が悪いと、叩きつけて即遊び終了になりそう。
鉛になりました。
そしてお馴染みの形へ。
意外とめんこも進化しているのだなぁ。
石けりの石にも、装飾があるのか。
その辺の石を持ってくるだけではダメなのだろう。
射撃ゲームもあるよ。
輪ゴムを放って、的にぶつけるのが目的です。
モノはこれ。
パチンコにしてはまぁまぁ物騒なスタイルですね。
玩具ゾーンも充実しております。
こっちにも拳銃が。
教育上怪しそうなものをよく展示しております。
最後に、市町村合併の展示である。
2001年にさいたま市は、大宮市・浦和市・与野市が合併して誕生したのだが、そこに行きつくまでが紆余曲折しまくっていた。
(2004年に岩槻市を吸収して、現在の形)
浦和・大宮とその周辺を合併して「大埼玉市」を作ろうという構想は、1920年代からすでに存在していた。
だが戦前の議論はまとまらず、戦後の「昭和の大合併」のときでも話は進まない。
ようやく本格化したのは、国鉄の操車場を片付けて国家機関を移転する、さいたま新都心計画が決定した1993年のこと。
どんだけ時間かかってるんだという話だが、どう考えても大宮と浦和の仲が悪いからです本当にありがとうございました。
この間、与野村がひっそりと合併を大久保村に持ち掛けるもフラれたり、上尾市が断りの電話をいれるなどしている。
合併に必要な議論が片付いて、2000年から新市名の公募がはじまった。
3位は「大宮市」で6位は「浦和市」だったが、それぞれ得票のうち8割ほどは大宮市民と浦和市民が入れたようです。仲よくしろよ・・
なお「与野市」はトップ100にも入りませんでした。与野ェ・・
これを受けて「市名決めます委員会」のもと検討作業。
その過程で浦和市・与野市は「さいたま市で良い」と回答をしたのだが、大宮市は堂々と「大宮市」を提案しております。あのさぁ・・
「埼玉市」が消えておりますが、これは自らの土地を「埼玉」地名の発祥だと信じてやまない行田市サイドからクレームが入ったためです。
また「関東市」という名称も候補にあがっていました。だ埼玉のくせに偉そうだぞ。
(さいたま市合併パズル)
というわけで散々もめた合併論争は四半世紀どころか3/4世紀を超えて、2001年にさいたま市発足ということで、ようやく決着したわけです。
まぁ最近になっても、さいたま市議会の自民党が旧大宮vs旧浦和で内部分裂やらかしているようですが。
どこかのガザ地区みたいに、砲弾が飛び交うデイリーライフにならないことを願うばかりです。
あとそれぞれの区には、一応カラーが決まっているようです。
「~だから」という説明書きが全くやる気無さそうで大変好ましい。
緑区は公式で田舎宣言されてるし、西区は「川。以上」扱いなので、怒ってもいいのよ?
以上。
【交通手段】大宮駅から徒歩15分
【入館料】無料
【滞在時間】60分
【混雑度】★★★(一部屋に数人)
【URL】さいたま市/市立博物館
北区飛鳥山博物館
王子の飛鳥山公園にある北区の博物館である。
3F建て。
入口は2Fにあり、ここの受付で入場料300円を支払う。
展示室は階段おりて1Fです。
ちなみに3Fはカフェ。
石積みギミックのトンネルをくぐる。
高床式倉庫っぽいのが出てきたぞ。
倉庫の近くに来ると、わりとデカい音量で、この2人の会話音声もとい小芝居が流れ始める。
展示室についてのご説明。
倉庫の奥では映像も。
コントを見終わったら展示室へ。
ここでも映像が流れているけど、特別な仕掛けは特にない。
しかし郷土博物館にしては豪勢な造りである。
展示室。
毎度のごとく縄文土器です。
縄文時代 前期の土器。
文様が刻み込まれているが、全体的にはおとなしげである。
違い棚のノリでシャレオツに並べております。
気候が穏やかになった中期では、心身ともに余裕を持った人々によりプログレッシブ
な作品が製作されている。
勝坂式土器。
その派手さ加減に飽きたのか、後期になると、大袈裟ではないが細かい技術を駆使したハイスペック作品が登場している。
貝塚の表面を切り取ったもの。
近くで見ると、たいへん気味が悪い。
たまりませんねぇ(恍惚)
膨大な量の貝殻が捨てられていたことから、この貝塚の辺りでは複数の村が共同で貝を食用加工していたことがお察しされている。
加工方法としては、貝を入れた水に、焼いた石を放り込んで熱湯にすることで貝を開かせるか、
もしくは、こんなやり方で殻をこじ開けていたのだろうということ。
その貝の加工場の遺構がこちら。
ただの道路の段差だと思って素通りしそうである。
貝塚には人骨まで放られています。
貝塚は「使命を終えた者が行く場所」と捉えられており、だから死者をここに送ったのであろうという説がある。
別に生ごみ扱いしたわけじゃないんだからね、たぶん。
だからといって、人骨まるまる展示しますかね(困惑)
丸木舟も飾られている。
船底は5cmしかありません。
もはやビート版。
弥生時代なので暗くなりました(適当)
縄文時代と違って、大人しくなってしまった土器たち。
野生の中を歩く生活から、一つの地に安住してしまった者どもの成れの果てである(中二)
竪穴式住居。
住居の奥では、これまた映像が流れている。
弥生人が行き交う様子。
この映像、やけに長くて、最後まで見てたら5分くらいかかる。
最初の方は村人同士の会話シーンだが、途中から怪しい奴らが侵入してきて「ア゛ア゛ア゛」と野獣の咆哮を上げながら村人と格闘をし始める。
なんなのよ、もう(呆れ)
ガラスの玉の鋳型。
つぶつぶしていて、良い感じに気味が悪い。
完成型がこちら。
ライトアップされて目玉の親父みたくなっている。
履物。
履いた方がむしろ、足が壊れそうである。
さて、北区のあたりは武蔵国の豊島郡でしたよと。
その役所である郡衙(ぐんが)は、ちょうどこの付近の西ヶ原にあったそうな。
役所で使われていたと思われる器。
底には「厨」と書いてあるが、厨房で使っていたという意味。
「お前は厨である」という意味ではありません。
TVが置いてあるんだけど、入り口の高床倉庫の監視カメラであった。
倉庫の映像が流れたときの、来場者のぽかーんとしたリアクションがこれで丸見え。
郡衙で使われていたとされる文房具。
硯は、まるで桶である。
すりづらそう。
紙になる前は木簡に書いていたが、書き損じた場合は文字を削って消して、その上に書き直していたらしい。
さらに役目が終わった木簡は、文字を全て消して再利用していたそうな。
すばらしいリサイクル精神。
そんな貴族な時代も終わって、武士がご登場。
南関東には、桓武平氏系の秩父氏と、その分家が広がっておりました。
いわゆる坂東平氏である。
豊島郡は、坂東平氏のひとつである豊島氏によって支配されていた。
(源義家が豊島氏に鎧をプレゼントするシーンの絵巻らしいのだが、誰がどこに座っているのか分からない仕様)
坂東“平氏”ではあるが、彼らは源氏に従っていた。
1028年に千葉北部のあたりで、平忠常の乱が発生してゴチャゴチャ。
朝廷では源頼信(平忠常の元上司)を派遣すれば収められるだろうという話だったのだが、政争により別の人間が派遣されることになった。
しかしそいつが無能なため3年も乱を鎮められず。
結局、源頼信が派遣されると、元上司のお出ましに対して平忠常はあっさり降伏。
いつの時代も政治家ってくそやな(偏見)
乱をきっちり収めたと言うことで、坂東平氏たちはこれ以降、頼信の家系(清和・河内源氏)に従うのであった。
(豊島氏の活躍が書かれている、かもしれない吾妻鏡)
源頼朝が蜂起した際も、坂東平氏・豊島氏は頼朝のもとに参じた。
というわけで鎌倉幕府が始まると守護にしてもらったのだが、赴任先は紀伊や土佐。
いきなり単身赴任ってきつくないっすかね。
んで和歌山にはかの熊野神社があるのだが、紀伊に赴任した豊島氏は、熊野神社に名義上は所領を寄進しつつ実質的には自ら土地を管理することで、所領を確保しようとした。
なのでこの付近の土地が、熊野神社の当時の土地目録の中に入っていたそうだ。
そのあとは豊島氏10代目がギャンブルやらかして土地をボッシュートされたり。
鎌倉幕府滅亡時は、序盤は幕府側だったけれど途中から新田義貞に味方するという篤い掌返しをかます。
その関係で南北朝時代も新田のいる南朝側にいたが、途中で北朝に寝返っている。
豊島氏とは友達にならない方がよさそうだ(率直)
(太田道灌の書状。道灌自ら「俺はこんな功績成し遂げたで」と自慢する内容になっている)
戦国時代になっていくと、豊島氏ら秩父平氏の団結力を恐れた関東管領 上杉憲顕が襲ってきて対立する。
管領側に居たのが、江戸城の太田道灌であり、距離の近い石神井城の豊島氏と戦闘になって、これで豊島氏は破れて滅亡する。
まぁ道灌も、その才能を主君である上杉定正にビビられてしまい、殺されてしまったのだが。
いきなり座敷が。
玉子焼きが置いてあるぞ。
これを押すと・・
映像が流れ始める。
玉子焼きはボタンだったのだ(衝撃の真実)
殿さまはこの人。
桜が咲いている。
照明が暗いので夜桜っぽくなっていて良い。
飛鳥山公園は花見の名所だったので、シーズン中は賑わったようである。
将軍様はもちろんのこと、ひどい扱いを受けている農民たちにとっても最高のバケーション。
花見には食べ物がつきものだ、ということで王子には結構な料理屋がぞろぞろあった模様。
いま現在の王子駅前をみると、全く想像できませんがね。
奥に行くと、農家っぽい建物が。
これは水塚の母屋。
付近を流れる荒川がしょっちゅう氾濫していたので、盛り土をした高い地点に家を作っておりましたというもの。
隣にあるのは物置。
天井には脱出用の小舟がスタンバイ。
近代になると、軍事施設が多数設立。
板橋に火薬製造所が出来たのを皮切りに、工兵隊の駐屯施設・日露戦争で活躍した下瀬火薬の製造所などがぞろぞろ。
もちろん戦後に取っ払われましたが。
王子電気鉄道という鉄道も走っており、現在の都電荒川線の前身にあたる。
戦後に軍事施設を潰して余った土地に、団地を建てましたとさ。
これまたいきなりですが、超ロングな野菜。
意外と農業が盛んな土地であり、政府の農業試験施設も存在した。
いまでは筑波に移ってしまったようだ。
種物がとくに主流だった様子。
種物音頭とかいう曲まで作ってしまった。
これがずっと館内で流れているので、退館しても音頭が頭から離れない種物中毒にならないよう気を付けないといけない。
最後の部屋はやたら狭いな。
荒川の風景のジオラマだった。
河の様子を撮影したビデオが流れているけれど、部屋が狭いので、じっと見ていると後続の人の迷惑になったりするので、その場の空気次第で鑑賞時間を決めよう。
以上。
【交通手段】王子駅から徒歩10分
【入館料】300円
【滞在時間】60分
【混雑度】★★★(一部屋に数人)
【URL】