C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

植村冒険館

エベレストやマッキンリーにモンブランなど世界屈指の山々を制覇しまくったり、犬ぞりで北極圏を1万キロ走破してみたりと、無謀な挑戦に定評のある冒険家 植村直己の記念館です。

 

 

概要

 アクセス

植村冒険館があるのは板橋区都営三田線蓮根駅から徒歩10分です。

赤羽駅西口と成増駅北口(東武東上線)からバスもあり、どちらも15分で「志村健康福祉センター入り口」停留所につき、徒歩5分。

国際興業バスなので、下記リンクから時間を調べてどうぞ。

【リンク】国際興業バスの運賃・経路・時刻表検索|国際興業バス

 

駐車場

無さそうです。周囲は住宅街で道路もかなり狭い(車の行き違いが厳しいレベル)。公共交通機関で来ましょう。

入館料

無料です。さすがエベレスト登頂者は心の広さが違う。

 

展示内容:冒険の道具いろいろ

常設展示は無くて、すべて企画展になっています。数か月おきに変えているようです。植村直己は様々な冒険をしているので、ネタが尽きることは無いと思われます。 

このときは北極圏とグリーンランド犬ぞり制覇ネタですね。

冒険の模様は館内で放映されているんですけど、上映時間が75分であった。もはや映画鑑賞でござる。

余裕のある人は見てって欲しいが、冒険の記録本もいっぱい出版されているので、忙しい現代人はそちらを読むと捗ります。

冒険で使用した犬ぞり・・の実物大模型です。これに荷物を積んで、1人&犬たちで何もない雪原を移動するのだ。壊れたら次の町まで辿り着けなくなり、食料が尽きて死ぬことになります。まさに命綱である。

それを引っ張っていくのが犬の皆さん。10匹以上は必要だそうです。

冒険の途中で食料が尽きると、彼ら自身が撃ち殺されて晩御飯になり、ケガして動けなくなった犬は平気で見捨てられます。なので犬に感情移入は禁物だそうです。

これはニコン製の特注カメラ、その名も「ウエムラスペシャル」。昭和らしいネーミングでたいへんよろしい。

普通のカメラだと、レンズの油が凍結して死ぬそうです。 製作費なんと数千万!冒険にはお金が要るんですねぇ。

一方、こちらのブーツは現地で知り合ったエスキモーに作ってもらったものです。冒険家なるものコミュ力の塊なので、現地人と友達になれるのだ。

北極圏に住んでいるのはエスキモーですが、植村直己エスキモー語が使えたようです。 

おや、これも北極圏で使ったのかな?(すっとぼけ)

世界屈指の冒険家である植村直己へは、国民栄誉賞が授与されているのです。ただ、1984北米マッキンリー挑戦中に消息を絶っており、そのため死後の受賞になっております。

 

展示はそんな感じでした。冒険を記録した本や作品はたくさん出ているので、それらを見てからの来館だと一層楽しめると思います。そのときやっている展示内容を公式HPで確認してから、関連する冒険の作品を選ぶのが良いかと。

再掲ですが私が予習したのはこれ。しかし読んでて思ったのが、冒険家ってずぼらやな、ということです。

道中で死にかける→植村さん「明日からは用心深く行動しないと!」→(10ページ後)また不注意で死にかける。

 

300ページの本なんですけどね、20~30ページに一回くらい死にかけてまして、サウスパークのケニーでももうちょい生きてるんじゃないかと思うのでした。

価値観が一般人とあまりにも違っていて最高なので、お勧めです。

 

おしまい 

 

【滞在時間】30分

【混雑度】★★★(他の客がちらほら)

【URL】植村冒険館 Uemura Museum Tokyo

 

福岡河岸記念館

 

ふじみ野市にある福岡河岸記念館は、この地域の回漕問屋である福田屋の建物を記念しているところ。

入場料は100円。

 

 

この建物のすぐ近くに新河岸川が流れており、その船着き場である福岡河岸を、吉野屋・江戸屋・福田屋の3問屋が幕府の公認のもと利用していたそうな。

その福田屋の問屋の母屋がこれ。

 

 

 

その奥には1900年頃に建築された、賓客接待用の離れがある。

これまでは1F部分しか公開されていなかったのだが、耐震工事が終わったとのことで、2Fと3Fも2018年から見学できるようになった。

ただし公開日が決まっており(月1回ペース)、事前予約制なので、公式HPで確認しよう。

 

 

この日は特別公開日。

まず母屋の中を通り抜けて、離れへ向かう。

 

 

 

離れ。

2F3Fに一度に上がれる人数は決まっている。

古い建物なので、みんなで上がると床が抜けるのだろう。

 

ここは1Fの入り口。

現在は作り変えられているが、もとは風呂だったらしい。

身を清めてからでないと離れには入れないのだろうか、まるで神域である。

 

 

風呂から出て、右手に行くと・・

 

 

 

トイレだった。

陶器スリッパが床に固定されているようで、立ち位置を決められているようだ。

 

 

 

トイレの木の窓には、ヒョウタンの模様。

豊臣秀吉の大勝利にあやかって、施している。

 

トイレだし、ヒョウタンから駒が出るような快b(以下略)

 

 

 

風変わりなガラス窓。

1900年頃は障子がまだ主流だったはずだが、お金持ちは素早く舶来物を入手して自慢したかったのだろう。

 

 

1Fの部屋。

4畳程度なのでサイズはさほど無い。

 

 

 

欄間の模様は各階で異なる気合の入れ方。

 

 

あとこんな装飾がところどころあるのだが、これは板を止めている釘を隠すため。

釘が見えていたら格好悪いから、ひと手間加えてみたようだ。

さすが神域。

 

 

庭の風景。

いまでこそこの規模であるが、往時は問屋の倉庫や蔵が大量にあったわけだから、amazonの物流倉庫ほどではないにしろ多大なスペースを所有していたことだろう。

 

 

上階にいた見学客が下りてきたので、入れ替わりに3Fへのぼる。

しかし急だな。

 

 

3Fに着きました。

来客がお泊りするところだろう。

 

 

この場所でお客さんと飲み会をしていたそうな。

1F入口で風呂に入ってサッパリしてから、ここに上がったのだろう。

神域ではなく、吞むためだったんだな(納得)

 

 

 

すぐそこに流れているのが新河岸川

かなりサイズが無いようにみえるが、明治以降に輸送手段として鉄道が主流になり舟運が廃れていく中で、氾濫を防ぐためにいろいろ改修した結果、今では小さい川となった。

 

最盛期では1日150隻の船が通過しており、輸送手段と言えば陸路では無くて船であった。

 

 

また変わった襖してますねぇ。

どうしてもガラスを使いたいのだろう。

 

 

こちらも色ガラスを使用して市松模様なノリで仕上げている。

和室に緑と白のガラス?うーん(審議中)

 

 

板間。

 

 

このスペース、下が塞がれていなくて危ないように見えるが、

階下から食事を持ってきた中居が盆をこの場所に置き、階上にスタンバってる別の中居がそれを受け取って座敷に出していたらしい。

連係プレイ。

 

 

3Fを見終わったので、2Fへ。

階段の途中にあった装飾。

亀が剣道している。

 

 

2F。

1Fも3Fもそうだったがさほど派手さはない。

ただ木材とか建築資材にはガンガンに金をかけており、だから100年経っても大丈夫!という造りになっている。

 

 

この階の窓もガラスだが、こっちは白黒。

 

 

1Fに降りました。

併設されている蔵は展示室となっている。

本来は土間だったが改造したようだ。

 

 

蔵の入り口にスズメバチの巣が飾られている。

どうして記念にしようと思ったのだろうか。

 

 

この人が福田屋10代目にして、離れを建築した星野仙蔵。

屋号は福田屋だけど、苗字は星野さんだった。

阪神は関係ないと思う。

 

 

剣道の名手であり、一刀流中西派という流儀の免許皆伝を受け、この地域でも福岡明信館という道場をオープン。

なお中西派との稽古の音楽性の違いから、独立して北辰一刀流を創成したのが千葉周作

 

星野仙蔵は衆院議員にもなったのだが、学校教育に剣道を入れるよう建議をし、それが採用されている。

なので現代の我々も中学校で剣道をする羽目にことになったのであった。

 

 

 

青年期に東京に住んでいたことがあり、大都市の西洋化っぷりをみて、彼もまたハイカラな人になったのです。

 

 

電気灯が登場したとき、この地域で最初に導入したのが福田屋であった。

まぁ金持ちじゃないと出来ないだろう。

 

地域住民が珍しがって見学に来たので、アピールするためか、電球に自分の名前を載せている。

庶民だったら恥ずかしくて躊躇すると思うが、さすが政治家は違いますね(棒)

 

 

カバンにも「S.H」とイニシャルを入れてみたのだが、周りの人は英語しらないので、あまり分かってもらえなかったようだ(哀愁)

 

 

船問屋だったが、鉄道が日本上陸すると舟運をさっさと捨て、東上線の敷設活動に尽力する。

事実、舟運は衰退して鉄道の世の中になるので、勘の良さはさすが商人。

 

このあたりは新河岸川の舟運で儲けた大商人のほか、近くを通る川越街道の宿場町もあり、各方面からの誘致活動で喧々諤々したようだ。

そんなんで当初は予定の無い寄居・坂戸・小川町などにも駅をつくることになり、だから路線がやたらウネウネしたり、資金が足らなくなって計画頓挫しそうになるのであった。

 

 

そして駅が開業すると、内国通運(現 日本通運)から委託を受けて、駅前に配送所を作るのであった。

船の次は、鉄道&陸である。抜け目ないねぇ(呆れ)

 

 

蔵も終わったので、母屋へ。

 

 

 

ここは帳場。

奥の広間では、箒づくり体験会をやっているので、けっこうにぎわっております。

 

 

 

帳場のすぐ隣にある部屋。

普通の部屋かと思いきや。

 

 

窓に鉄格子がはめられている。

 

 

その窓の下は石づくり。

やたら頑丈になっているのは、この部屋自体が金庫だかららしい。

 

帳場で勘定がすむたびに金をこの部屋に投げ込んでいたそうな。

いちいちその場では数えている暇が無かったのだろう。

どんぶり勘定どころか部屋勘定である。

 

 

広間は人が居すぎて俯瞰写真を撮る余裕が無かったので、細部だけ。

 

 

 

この紋様、よくみるとところどころ違う色を用いている。

写真だと陰っているだけのように見えてしまうが、ちゃんと別の色を使用しています。

細かいところにこだわりを見せている。

 

 

こちらの襖は、当時の有名絵師が作成したもの。

桃太郎のようだ。

 

 

これが鬼ヶ島だそうです。

やっぱり山なんだな、平地に鬼が住むわけ無いか。

 

 

ずらーっと貼られているのは、水戸藩藤田東湖が書いたという書物。

これはレプリカだが、本物は上福岡郷土資料館で眠っている模様。

 

 

2Fにのぼります。

 

 

1Fは従業員が働くところで、2Fは星野家の居住スペースとなっている。

6畳くらいの部屋が4つあるだけだが、農家と比べるとやはり豪華であるようだ。

 

 

母屋も築100年以上たっているが、そうは感じさせない頑強さである。

 

衆院議員であった星野のもとへは、犬養毅などの高名な政治家・財界人が遊びに来ることもあり、そういう強い人達は本物と偽物の違いを見抜いてしまうため、離れと同様に建築材や家財にも一級品を使用して、お眼鏡にかなうようにしたようだ。

 

 

 

あとはあちらの台所。

 

 

問屋では大勢の人が働くため、その食事を作るためにこれだけの大きさの台所が必要だったのだろう。

 

ちなみにこういう大規模な回漕問屋はそれだけ多くの人を雇用しており、よその地域で犯罪をやらかして逃げてきたアングラ人間の集まる場所でもあったらしい。

港湾や炭鉱に似た点があるようだ。

 

 

明治40年頃の河岸の様子。

3軒で完全に支配しておるな。

 

 

最後に、こんなのを見つけた。

けっこうイライラさせてくる絵柄なので、一刀流で叩き斬ろう。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】上福岡駅からバス10分

【入館料】100円

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★★(写真撮るのに苦労する。ただし特別公開日)

【URL】福岡河岸記念館トップページ | ふじみ野市ホームページ

 

 

ふじみ野市大井郷土資料館

 

ふじみ野市として合併した上福岡市大井町のうち、大井町ネタを扱うのがこの資料館。

 

 

大きな建物ですが、それは図書館が併設されているからです。

というか図書館が本体で、資料館は付随要素である。

 

 

入口からみて左奥が展示室。

入場無料。

 

 

竪穴住居の模型。

 

 

その背後には縄文土器がぞろぞろ。

 

 

説明パネルに、こんな強気のコメントがかかれている。

縄文文化の痕跡がよほど多く発掘されたのだろうか。

大井の発掘技術は世界一ィ!

 

 

縄文土器には幾つか種類があります。

これは阿玉台(おたまだい・あたまだい)式土器といい、縄文時代中期に千葉・茨城で流行ったそうな。

 

土をこねる時に粘土以外の物質粒を混ぜ込んで粘度が調節されているのだが、何の物質を混ぜたかというのが重要な要素らしい。

阿玉台式は雲母を混ぜることが多く、それでキラキラしている。

 

 

こちらは勝坂式土器。

中部~西関東あたりでみられる。

サイズがあって派手な装飾が特徴であるが、資料館サイドの解説によると「縄文中期は温暖な気候で食物が育ち、人口も増えて豊かな生活を送っていたことが一因」。

トロピカ~ナなノリで盛大な土器を作り上げたということだろう(意訳)

 

キラキラ粒が光っているんですが、こっちにも雲母が入ってるんですかね。

これだと阿玉台式の特徴は、「勝坂式に比べて地味」ってことになってしまいそうである。

 

 

石器たち。

 

 

ピアス。

本当にこんな重そうなものを耳から下げていたんだろうか。

そして右上は粘土クズでは?(困惑)

 

 

 

まるで宝石の展示のようなケースに入れられている石器たちも。

 

 

ここまで縄文時代ですが、弥生時代奈良時代の遺跡は見つかっていないそうです。

平安時代鎌倉時代も、さほどめぼしいものが見つからなかったので、一気に戦国時代まですっ飛ばします。

うーん、この。

 

 

とはいえ川越街道の沿道にあるなどで交通網に組み込まれているので、鎌倉時代あたりから武士が住み着いて町を形成している。

 

戦国時代には北条氏の支配下となり、大井町の有力町民が北条氏から委託を受けて町の管理をしていたようだ。

写真は、かの北条幻庵が有力町民に宛てた委託状のようなもの。

 

 

こちらは戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めが迫る中で、北条氏直大井町に対し、緊急の軍事動員の準備をせよと命じた文書。

動員対象には、兵役義務のない百姓も含まれていた。

うーむ、やっぱり味噌汁もろくに掛けられない奴の息子らしい、畜生プレイだな。

 

 

江戸時代には正式に川越街道の宿場町となった、大井宿の模型です。

緑の部分、もっと減らしても良かったのでは(提案)

 

 

 

映像資料もかつてはあったようですが、きっと予算がついても図書館に取られてしまうのだろう。

 

 

経済圏的には川越だったので、川越藩お抱えの商人もいて、江戸の商人と対等に張り合っていたとか。

大井町ほこらしい。

 

 

観音講の帳簿。

市沢という地域では毎月行われ、各世帯の戸主だけが参加できたという。

 

本来の観音講は、皆で集まってお経を読むなどの信心深いものではあるが、実際には仲間内で集まって普段言えないようなことをネタに話しあうという面があった。

つまり飲み会をやってたんじゃないかな、戸主だけだから嫁さんもいないし(断言)

 

 

 

伊勢原の大山の阿夫利神社にちなんだ灯篭。

さきほどの市沢地区では、代表者数人で大山参りをするという慣習があったそうな。

 

昔は徒歩で行っていたが、鉄道が登場すると鉄道利用をするようになり、最後には自動車で現地まで参るようになったらしい。

もはや慰安旅行である、やっぱり飲み会じゃないか。

 

 

上福岡の資料館にもあったが、こちらも箒の生産地。

 

 

ホウキモロコシという、稲の一種が材料。

これで箒を作って畳を掃くと、植物の油で畳にツヤがでるということで、用いられていた。

江戸時代の建築で畳が多い関東ではホウキモロコシ、一方で関西では板間が多かったのでシュロなど別の植物を利用している。

 

 

作り方としては、束をつくって、まとめて固定するような感じ。

農家の副業なので、さほど高難易度ではなさそうだ。

 

 

なおホウキモロコシのうち籾殻は使わないので取り除くが、稲の一種なので食べることができる。

まぁ雑穀なので美味しいかどうかは別。

 

 

完成した箒に被せる箒袋。

製造者ごとにいろんなパターンがあるようだ。

 

 

 

という感じで、小規模な資料館でしたとさ。

 

以上。

 

 

【交通手段】ふじみ野駅西口からバス10分「文教学院大学前」下車

【入館料】無料

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】大井郷土資料館へようこそ! | ふじみ野市ホームページ

 

 

上福岡歴史民俗資料館

 

ふじみ野市にある資料館である。

2005年に上福岡市大井町が合併して誕生した市だが、そのうち上福岡部分を扱っているもの。

 

 

 

外観がすさまじく「○○信金」みたいなのでモロに素通りしそうになった。

入館料は無料です。

 

 

 

入って正面にいきなり登場するのが、この模型。

 

 

陸軍の弾薬工場があったそうな。

55万㎡、建物600棟以上の巨大施設、就労人口は数千人。

 

意外と上福岡市は軍需都市だったようだ。

 

 

各建物の周りにコンクリートの塀が仕切られているが、火薬が爆発したときに隣の建物に燃え移るのを防止するためである。

なにそれこわい。

 

 

案内パネルがあったようだが、調整中。

はたして回復する日は来るのでしょうか?

 

 

戦争末期になるともう弾薬すら作れない物資不足だったので、かの風船爆弾のほか、陶器製の手投爆弾も製造していたらしい。

陶器なんて壊れやすいから、輸送中に爆発してしまうのでは。

 

 

もう一つある模型は、明治初期の学校。

金があった村は自分たちで建設したが、無い村は共同で資金を出し合って建てた様子。

 

 

おもちゃコーナー。

 

 

なんだこのキャラは。

 

 

展示室。

 

 

 

最初に祭りの囃子があるが、これ下福岡地区のものらしい。

すでに上福岡じゃないんですが、大丈夫ですかね。

 

 

 

展示室の1/3くらいを土器で埋めている感じである。

 

 

この地域にも縄文時代貝塚はあるので、発掘されたものたち。

 

 

縄文時代の櫛には、髪を梳くというよりも頭皮をボロボロにしそうな攻撃的な品があったりするが、この地域のはまともそうである。

 

 

 

片方に注ぎ口のついている「片口土器」は国の重文にも指定されている、この地域一番の掘り出し物ですが、貴重なものなので国立博物館に没収されたようです。

 

 

代わりに、バンザイしてる深鉢土器でもご覧ください。

 

 

底に穴が開いている、古墳時代の土器がある。

作ったやつが無能というわけではなくて、祭祀用と思われている。

 

資料館の解説によると、「穴が開いている土器は普通ではない=あの世に行く人達は普通ではない」という連想ゲームで、この土器を葬式で使ったのだろうとのこと。

このブログの記事も穴だらけなので(チーン)

 

 

 

貝塚周辺にあった住居の復元模型。

オオカミが来たら飛ばされそう。

 

 

古墳があったそうですが、いまは道路になっているようです。

車の走行音をレクイエムにしてるんですかね。

 

 

古墳時代の住居。

 

奈良・平安時代になると文明のレベルも上がってきたが、発掘結果を見ると、住民の生活レベルはあまり向上しなかったようだ。

というわけでこんな住居にしばらく住んでいたそうな。

 

 

 

そして中世の遺物はあまり見つかっていないようで、展示もほとんど無いのであった。

とりあえず板碑でスペース埋めておきますね。

 

 

気が早いですが江戸時代へ。

写真が黄色い気がするのは、そういう室内照明が使われているからです。

 

 

この地域と切っても切り離せないのは、新河岸川の舟運である。

川越を起点として、和光市で荒川と合流して、浅草まで流れ着いていく。

1日に150隻もの船がこの川を行き交い、川越街道をしのぐ交通量になったようだ。

 

 

沿川にはところどころに船着き場=河岸場があり、物流倉庫や様々な商店が設けられて、ぼろ儲けする商いもいたようである。

 

 

船道具。

船のサイズは15mほどなので、これはあくまで模型だが。

 

 

帆に使っていた布。

何も言われないと、ただのボロ布にしかみえんな。

 

 

舟運が捗る一方で、陸路である川越街道からは、そして誰もいなくなった

というわけではないが通行量が減って宿場町が鄙びるので、舟運を縮小させるよう幕府へ抗議もなされたり、なんやらこうやら(適当)

 

まぁ大名行列は街道を通るので、それで十分潤ったそうだが。

 

 

 

そんな新河岸川は、しかし良いことだけではなかった。

ご覧の通り、この川はとんでもなくクネクネしており、よって水があまり進まずに滞留して氾濫をしょっちゅう起こしている。

 

 

なので各家には脱出用のボートが必須です。

いまでは堤防や河川改修もされて氾濫の危険は激減しているので、「1LDK物件(ボート付き)」とかは無いと思うが。

 

 

舟運関係者は儲かっていたようだが、当然そうではない人たちもいた。

とくに幕末、海外との貿易が始まると物が輸出に回って物価が上がってしまい、グラフの数字も相当なことになっている。

 

 

様々な地方で打ち壊しが発生する中、1866年に武州でも大規模な一揆が起こり、総勢10数万人が蜂起したという(主催者発表)。

んでそれを鎮圧するために川越藩が放った大砲の弾がこれ。

こんなんあたったら、そりゃ死ぬわな。

 

 

箒がわんさか登場しますが、この地域では箒づくりが盛んだったそうです。

 

 

箒の各部にこんなに名称あったんだな。

 

 

 

 

やけにデカいのが1つあるなと思ったら、日本で最大のものらしい。

長さ3.04m。

いったい何に使うんでしょうか。

 

 

あとは小規模ながらも機織り業が流行ったそうな。

 

 

最後に、怪しい小部屋があるぞ。

 

 

江戸時代の民家だった。

資料館あるあるですが。

 

それにしても暗い。

昔の暗さを体験しろということだろう。

 

 

フラッシュ焚いてみました。

 

 

灰で壁や竈が白すぎて、終末感がしてならない。

やっぱり暗い方が良いんでしょうね。

 

 

以上。

 

【交通手段】上福岡駅から徒歩20分

【入館料】無料

【滞在時間】40分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】ようこそ上福岡歴史民俗資料館へ | ふじみ野市ホームページ

 

 

板橋区立郷土資料館

 

板橋区にある郷土資料館。

西高島平駅から徒歩15分程度。

 

 

赤塚溜池公園と接しており、資料館前には文字通り溜池がある。

だからこの時期、蚊がすごいことになっているので、はやく館内に入ろう(推奨)

 

 

入場は無料です。

展示室は1F。

 

 

鹿のはく製がお出迎え。

 

 

交流記念品らしい。

栗山村は栃木県日光市に吸収されたところだろうか。

栃木はわかるが、板橋に鹿がいるイメージありませんが。

 

 

ナウマンゾウの顎と歯。

言われないと歯だと分からない形状である。

 

 

鹿の後ろに、映画館一覧が置いてあるが、遠くて見えないのであった。

 

 

その横に並んでいるのは換気設備かと思いきや、映画館の機材。

昔はたくさん映画館あったけど、だんだん都心の大型シネマに客を取られて閉館したという名残りかね。

 

 

唐突の招き猫ご登場。

郷土の象牙彫刻家の作品だそうな。

 

さっきからテーマがランダムなので、だいぶ置いてけぼりにされている。

 

 

東武東上線の模型。

そのうしろでイベント告知がされているけど、東上線じゃなくて都営三田線関連である。

会社違うけど電車で一括りにしてしまって居るあたり、イベント企画者は鉄オタでは無いことが予想される。

 

 

お面。こわい。

左が男で、右が女を表している。

こわい。

 

 

階段を登ると企画展室になりますが、このときは企画展をやっていない時期だったので、おあずけ。

 

 

展示室の左半分をみたので、今度は右

 

ここからは時代順に並んでいる、いつもの資料館である。

さっきのは、この順番にハマらないのを集めて置いていたのだろう。

 

 

毎度おなじみの縄文土器ですが、この資料館は所蔵数があまり無いようで、その中でも自慢の品を展示している模様。

この注口土器は、注ぎ口の角度がわりと急勾配な上に太く、不思議な主張感がある。

 

 

なめくじかと思ったら、勾玉だった。

国内最大級のごん太だそうだ。

 

 

ハート形土偶とされているが、それほどハートっぽくない。

 

 

マイクロウェア?

ずいぶんとビルゲイツなネーミングである。

 

極小土器とのことだが、本当なんだろうか。

粘土カスでは(直球)

 

 

中世に入ります。

 

 

焼き印。

家畜に押して印をつけ、オーナーが誰だか分かるようにする。

カイジが腕に押されたのより遥かに小さいな。

 

 

この焼き印は、「土」。

いたそう。

 

 

多田彦六さんのお母さんの土地を、円福寺という寺に寄進するという書物。

なお多田彦六さんが誰なのかは分からないそうです(小並)

 

 

中世のこの辺りは、板橋・赤塚・志村の3地域に分かれ、桓武平氏系である豊島氏が勢力を誇っていた。

ただ鎌倉時代中期に豊島時光という当主が、禁じられていた博打をやらかし、結果的に赤塚は北条政権にボッシュートされた。

やっぱりギャンブル厨ってクソやな。

 

ただ当時は博打がやたら過熱していて、家を賭けて失うマンや、殺人まで犯してしまうマンが多数おり、幕府も御成敗式目などで規制しまくったのだが、効果はいまひとつであったようだ。

 

 

 

そんな豊島氏は室町時代鎌倉公方にくっつくが、対立する関東管領側である太田道灌に滅ぼされてしまい、この地域は太田氏や主君である後北条氏の手中に収まっている。

 

この雲版(うんばん)は、寺で時刻を知らせるために打って鳴らすものだが、太田道灌が茶室で使ったという言い伝えがある。

あっそうですか。

 

 

江戸時代では川越街道や中山道の宿場町となった。

江戸時代のガイドブックにも載っています。

 

 

名主である豊田家に伝わるという茶器、中国の新の時代のものらしい。

1世紀の品物ということになるが、そんな大事なものをこの資料館に置いといて良いのだろうか(無礼)

 

ただこの茶器の名称、「白泥湯沸(はくでいぼーふら)」という。

ちょっとボーフラでお茶飲む気にはなれませんね。

 

 

豊田さんはよほどボーフラが好きだったのか、お絵かきまでしている。

 

 

江戸の各地をスケッチした屏風でございます。

 

 

板橋の付近は鹿だらけである。

というか、鹿しか居ない。

 

(狩りに行く人たちの絵)

 

鹿狩・鷹狩は板橋の名産だったそうな。

入口にあった鹿のはく製も、これで納得。

 

こういう狩場の付近に住んでいた人は、将軍たちが狩りを行うたびに準備作業や物資の拠出を命じられていた(涙)

 

 

鷹狩のときなど、鳥のえさが必要になるので、そのためのオケラも住民に用意させたようである。

オケラが大量に上納される風景、たまりませんなぁ(卒倒)

 

 

18世紀から、大砲の練習場が整備される。

19世紀になると、長崎出身でオランダ人から砲術を学んだ高島秋帆(しゅうはん)により西洋砲術が導入されて、全国から関心を集める場所となった。

「高島平」という地名は、この高島秋帆から取られている。

 

 

 

その高島式砲術の教科書がこれ。

 

 

カルドーーース、カーーーゲルなど、やたら伸ばすところが高島流なのだろう。きっと。

 

なおオランダ語に通じていた高島は、訓練で号令をかける時もオランダ語を使用しており、これの名残りも今日いくつかみられるそうな。

有名な例だと、ランドセルはオランダ語の「背嚢=ランセル」が訛ったものである。

 

 

 

砲兵すごろくもできました。

 

 

ひたすら兵隊が構えているんだが、どうすれば双六要素になるんだろうか。

味方を誤射したら振り出しにもどるとか?

実際にやったら振り出しどころか「上がり」まで飛ばされそうであるが。

 

 

物騒なものも置いてあります。

 

明治時代になると、板橋周辺は東京近郊の割にやたら土地が余っていたので、火薬工場がずらずら並べられたようである。

 

 

軍事用の光学機との兼ね合いもあるようだが、フィルム工場も誕生して写真・映画業界

の発展に貢献している。

 

 

というわけで戦争になると、敵軍機の標的にもされたようだ。

ぐったり。

 

 

終盤になると物資が無いので、竹で兜をつくっている。

防御力2くらいかな。

 

 

千人の女性が一針ずつ縫って作る「千人針」は、無事の帰還を願って兵士に渡されたもの。

中には五銭・十銭硬貨が縫われているものもあり、これは「死(4)線をこえる」「苦(9)戦をこえる」という意味があると。

 

 

 

子供が疎開するときに荷物を詰める行李の、ふたの裏側。

中に入っているものをこうやって書いていた。

 

 

 

さっきから気になっているのだが、中央にあるこの円形の装置は何だろう。

 

 

中にジオラマが置かれている。

でもガラスが曇ってみえない。

 

 

ジオラマは3つあって、ボタンを押すと説明が始まる。

15分もあるようなので、遠慮しときますね。

 

 

しかし曇り過ぎて全く見えないんですが。

説明が進行すると晴れてくるんだろうか。

 

 

展示室おしまい。

外に出ると、古民家が2棟。

 

 

江戸時代の、規模のある農家住宅のようだ。

 

 

中は暗いので、フラッシュを炊いております。

どまどまどま~

 

 

石臼。

回せるけど、けっこう重かったり。

 

 

農具どかどか。

 

 

フラッシュで撮ると、灰の白さ加減がはっきりして結構驚く。

 

 

座敷に上がった。

 

 

リビングキッチンであるカッテは、荷物で溢れている。

整理が出来ない一家だったのかな?

 

 

囲炉裏に掛ける鍋の高さを調節する留め木は「カギツケサマ」と様づけで呼ばれ、縁起の良いものを装飾として用いるそうな。

 

鯉や鯛などの魚をよく見かけるが、これは火伏の意味となっている。

お金が欲しい人は打ち出の小槌や七福神の帆掛け船を用いているので、囲炉裏を見ればその家のがめつさが分かりそうである。

 

 

軒先には干し柿のノリで、おもちゃの飾り。

 

 

隣には農機具小屋。

 

 

こちらもどかどか置かれています。

 

 

トウミくんはサイズがあるので、資料館によっては部屋に収まらず屋外放置プレイもあるのだが、ここでは屋内に置かれてて良かったですね。

 

 

というわけでした。

 

以上。

 

【交通手段】西高島平駅から徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】60分

【混雑度】★★★(一部屋に数人)

【URL】

itabashi-kyoudo-museum.jp