神奈川Cスポ探索日記

C級スポット探索日記

C級スポットを主に巡るブログです。C級スポットとは、「メジャーな観光地(A級スポット)・ちょっと変わった観光地(B級・珍スポ)ですらない、楽しめるかはその人次第の場所」という意味です。と言いつつ、普通の観光地にも行きます。地域別カテゴリは最下段から。

入間市博物館 ALIT

 

入間市にある博物館ALITです。

入間市駅からバスで20分ほど。

途中でアウトレットモールがあるので、バスの本数自体は結構多い。

 

 

2F建てとなっており、1Fにある受付で入場料200円を払います。

常設展は2F。

 

 

最初の部屋は「こども科学室」です。

 

うーん、大の大人なのでとても入りづらいが、館員さんに「順路そちらです」と言われてしまったので、やむなく入るか。

 

 

名前から察しの通り、子供向けの簡単な科学展示ですね。

 

 

たとえば、この穴の奥に宝物があるよ。

 

 

しかしこの宝物、手を伸ばしても届かないのだ。

残念だったな強欲なガキども(急激な性格変更)

 

 

そそくさと出てきて、本チャンの展示室へ。

広いなぁ。

 

 

縄文時代からのスタートです。

だいたいどの資料館にもイメージ絵が置いてあり、漫画路線・萌え路線など様々だが、ここは真面目ですね。

 

 

縄文土器

 

 

普通に展示するのではなく、「動物を探せ」とかなり煽ってきている。

ぼやぼやと展示を見るな、という教育的視点だろう。

 

 

土器はいっぱいあるので、ゆっくりみていってね!

 

 

耳飾りを付けた土偶と言う、面白い出土品。

耳飾りなんかより、イキっているような表情と、取って付けたような冠の方がインパクトありますが。

 

こういう珍しい品は県立の施設に持ってかれてしまうので、写真だけでお楽しみください。

 

 

代わりの土偶を置いとくから許してね。

子供の工作じゃないよ。

 

 

奈良・平安時代まで飛びますが、東金子と言う地域に大規模な窯跡がある。

9世紀頃までは須恵器など土器をメインに作っていたが、武蔵国国分寺が出来た関係で、そこへ瓦を供給する役割を担いました。

 

 

国分寺では50万枚もの瓦が使われていたとされており、そのためには延べ2万人以上の工人が必要と考えられている。

東金子だけで2万人と言うわけではないが、それでもかなり盛況だった模様。

 

とはいえ時代的には、農民が徴発されて製造を命じられていたので、盛況だと地元民は逆に嬉しくなさそう。

 

 

瓦造りの様子です。

 

 

粘土をこねて瓦の型にはめて、乾燥させます。

 

 

乾燥させた瓦を、竈で焼成します。

 

 

焼きあがったら竈を壊して、取り出しておしまい。

 

 

ふらふら歩いてサボってる奴もいます。

 

 

続いて鎌倉時代は、こちらの部屋。

 

 

椅子があってシアタールーム感が強いが、モニターがあるわけではありません。

なんなんだ?

 

 

武蔵国では「武蔵七党」という武士団がゴロゴロ転がっていたわけだが、そのうち「丹党」に属する加治氏・「村山党」に属する金子氏や宮寺氏などがいたそうな。

 

しかし特に何をしたわけでもないから、書くこと無いんだな。

板碑をいっぱい残しており、そこに当時の情勢など刻まれていたので、情報源としては使えますねくらい。

 

 

八王子千人同心の衣装。

あれ、もう江戸時代になっちゃったよ。

 

 

というわけでここから近世です。

 

 

それも幕末の方なんだが。

この柱は打ちこわし襲撃を受けた商家のもの。

 

商人たちは農家から買い取った品を町で高く売り、それを元手に金貸などやっていた。

一方で農民はヘロヘロだったので、借金帳消しを求めて打ち壊しや!

 

 

しかしこの柱、「打ちこわしを物語っています」というには、あまりインパクトの無い壊され方ですな。

もっと根元からブチ折られるとか、迫真の演技が必要です。

 

 

織物の産地だそうで、「川越唐残」「所沢飛白」という銘柄であった。

川越でも所沢でもないだろうという指摘があるかもしれませんが、原産地証明とかない時代なので諦めください。

 

 

明治時代には20もの工場が出来たそうだが、現代では殆どありません。

安価な輸入品に負けてしまったのだろう。

技術も失われてしまったようである。

 

 

中でも石川組の製糸工場は巨大であり、愛知や三重にも工場をつくったり鉄道業に関わったりしていましたが、世界恐慌の影響で終了しました。

この石川組が建築した迎賓館は入間市駅前に現存しており、公開日限定だが見学もできるよ。

 

 

江戸末期~明治頃の展示はもうちょっとあります。

この辺は養蚕関係。

 

 

養蚕関係だと、やっぱり蚕の写真が出てくるな!

油断していた観覧者は、ここでダメージを受けるであろう。

 

 

蚕にはデカい葉を与えとけば良いと思っていたのだが、入間では刻んで食べやすくしていた模様。

喉に詰まらせて死んでしまっては情けないからね。

 

 

木の枝に、なにか白いものを付けているぞ。

 

 

白いのは団子。

1月14日~16日の小正月に、繭の豊作を願って枝に突き刺すそうな。

そのあと団子は美味しくいただくのかな?(もったいないの精神)

 

 

この辺は戦時中関連ですが、控えめな量になっています。

 

 

入間には陸軍の航空士官学校や飛行場がありましたとさ。

終戦後には接収されて米軍ジョンソン基地にされ、返還後は航空自衛隊の基地に。

 

そのジョンソン基地の時代に米兵の家々が周辺に建てられ、今でも古民家としてアメリカンな街並みを維持しているのがジョンソンタウンですね。

 

 

あと郷土の有名な人の展示があるけど、誰も知らないからスルーで(疲労

 

 

2Fの展示は終わりだが、まだ1Fがあるのだ。

というより、この“茶”に関する資料室が、入間市博物館の最大重要要素である。

 

博物館の名称“ALIT”は、

A:art,archives

L:library

I:information

T:TEA !

 

というわけでお茶の資料館なのである。

ようやくフラグ回収したな。

 

(お茶の樹。中国の雲南省で見つかったのが最初と言われている)

 

なんでお茶かと言うと、入間は狭山茶のメイン産地だからです。

狭山茶は、静岡・宇治と並んで、「日本三大茶」を自称している。

あくまで自称です。

「日本三大うどん」だって、確定しているのは讃岐と稲庭だけでしょう?

 

(茶の葉っぱ)

 

お茶が中国で広まったのは6世紀頃だが、流行りだしたのは8世紀頃と言われている。

陸羽と言う人が『茶経』という書物でお茶の何たるかを説いたのがキッカケ。

たぶんお茶大好きが高じて書いてしまったのだろう。

 

 

お茶は発酵の程度によって緑茶・ウーロン茶・紅茶に分かれるのはお馴染み。

その3種類の茶葉を並べております。

蓋を開けて、手触り・香りから、どの種類の茶葉なのか考えようクイズ。

 

 

緑茶は分かりやすいのだが、紅茶とウーロン茶の区別は難しかった。

というか、茶葉のにおいなのかケースの臭いなのかすら分らん(難嗅)。

 

 

中国では発酵の段階はさらに細分化されており、6種類あるようです。

 

 

白茶。

緑茶を少し発酵させるとこうなる。

 

 

さらに発酵させると、黄茶になります。

黄色か、これ?

最終段階が、紅茶になるというわけ。 

 

 

お茶は飲み物としてだけではなく、茶器や茶室など文化とも関わっています。

これは中国の福建省の茶室。

 

 

福建では小さいお椀でウーロン茶を飲むそうです。

地方ごとに違うので、中にはデカい丼ぶりで飲ませるところもあるらしい。

大酒のみ選手権かな?

 

 

ミャンマーでは茶葉そのものを漬物にして食べるそうな。

ニンニクやピーナッツも一緒に置きます。

味すっごい濃そう。

 

 

チベットの茶室。

8~10世紀頃に中国から伝わったとされており、団茶(後述)を主に飲んでいます。

 

 

ティーポットは炉か何かで温めている様子。

 

 

パッと見でイギリスである。

伝わったのは17世紀に入ってからと、割と新しい。

そもそもヨーロッパへ茶を伝えたのは中国ではなく、日本であった。

 

長崎で貿易していたオランダが持ち帰ったのが最初。

ただ日本は鎖国中なので貿易量は増えず、代わりに欧州は中国から買っていましたとさ。

 

(マダム達のお茶会のご様子)

 

イギリスへは1630年頃に伝わったとされるが、高価だったので最初は殆ど飲まれなかった。

1662年にチャールズ2世のところへポルトガルからお姫様が嫁ぎに来るが、この人がお茶好きだったので、それで英国の上流層に広まり。

100年後の1760年代には総輸入額の4割を茶が占めるほど、ブームになる。

 

 

お茶は薬用として流入してきたこともあって、健康にいいとされてマダム達の間で大人気。

朝食はお茶+パンのセットが(上流層では)一般的になる。

 

ちなみにそれまでは、朝から牛肉を食べていた。

どういうことだよ・・

 

(茶葉は高価なものなので、箱に入れて鍵をかけてしまっております)

 

なんでイギリスで茶が流行ったかについて、いろいろ説が存在するが。

 

・水とエールビール以外ろくな飲料が無いので、まさに救世主だった(大陸にはワインがある)

・イギリスの水は軟水なので、お茶を煎じるのに相応しい(硬水だとお茶の成分が溶けださないので味がダメ)

・ハッカやキイチゴの葉を煎じて薬として飲む土俗の習慣があったので、煎じることに抵抗が無かった。

 

 

お茶は次第に一般階層にも広まっていき、消費量が膨大に。

唯一の輸入元である中国(清)はお茶代をまけてくれないのでイギリスから銀が取られまくり。

 

もうアヘンを売って銀を取り戻せ!ということになりました。

あとは気のまま歴史のまま。

 

 

ところで茶が西欧に渡ったことで、茶器たちも一緒に中国から渡っている。

それ以前には西欧には碌な食器が無く、中国製の磁器も人気商品として輸入されまくったそうな。

 

そうやって東洋から渡った品が西洋で定着して、数百年経ってそれをまた「ヨーロピアンのティー道具だ」って東洋が輸入する。

まわってますねぇ。

 

 

こちらはロシアのティーポット。

ウォッカばかりのイメージなロシアですが、19世紀以降はお茶の消費量が増大して、それなりに嗜んでいるのです。

 

 

しっかしお茶に何入れてるんですかね(すっとぼけ)

 

 

 

ここからは日本における茶の話。

 

日本へ最初にお茶が伝わったのは8世紀頃、中国の寺院で飲まれていたのを遣唐使である僧侶たちが持ち帰ったとされている。

 

(団茶の作り方)

 

このときは「団茶」というもの。

茶葉を蒸して、潰して、型にはめて乾燥させて、固形にして保存する。

 

 

こんな感じ。

飲むときには、これを砕いて釜に入れ、煮るんだってさ。

まるで硬貨みたいである。

 

 

真ん中に穴をあけているのは、ヒモを通して保管するためである。

本当に硬貨だな。

 

儀式の際に飲まれていたそうなのだが、遣唐使廃止後に廃れてしまいました。

この団茶はさきほどのチベットやシベリアでまだ継続中です。

 

 

鎌倉時代になると、南宋で流行っていた抹茶を栄西が持ち帰り。

よほど気に入ったのか『喫茶養生記』という本まで記しており、将軍 源実朝に献上しているのだが、「二日酔いに効く薬です」と伝えている。

 

つまり宴会前にはウコン、宴会翌朝には抹茶を飲めば効くというわけです(大発見)

 

 

抹茶は室町時代には一般民衆にも飲まれるようになって、町中でもこうした茶屋ができましたとさ。

でも江戸時代になると、宇治の茶職人に製造を独占されてしまった。

 

 

わびさび的なサムシングである茶道も追究され、千利休が大成しました。

茶室はこちら。

 

(煎茶の茶室)

 

抹茶を宇治に取られてしまった皆の衆だが、中国からやってきた僧 隠元が来日して煎茶を伝える。

茶葉を急須に入れて飲む、今日の主流の飲み方である。

これを1738年に永谷宗円(永谷園の先祖)が改良して、蒸し性煎茶としてブレイクさせましたとさ。

 

 

こうして抹茶メインの茶道とは別に、煎茶ガチ勢は「煎茶道」なるものを作り上げ、茶室もこんな感じにしております。

茶道(無印)と何がちがうのかは、まぁそのうち調べよう(適当)

 

そして当の永谷園はお茶ではなくお茶漬けをつくるのであった。

 

 

茶室の横にいきなり無骨な機材が置いてあるのだが、放置されているのではなくて、茶畑で霜を防止するファンです。

 

 

あとは国内の珍しいお茶の展示。

これはJRの自販機でも見かける、加賀棒茶。

 

高級かと思いきや、葉の固くなった2番茶の茎の部分を焙じて使っている。

味の微妙な部分を上手く利用しています、っていうことか。

別に騙す意図は無いと思うのだが、なんだかやられた気がする、棒ほうじ茶

 

 

沖縄で飲まれているブクブク茶。

名前通り、泡がブクブクしすぎである。

玄米や沖縄県産の煎茶、落花生の粉などオリジナリティあふれている。

 

しかしここまで茶筅で泡立てる必要がありましたかね。

飲むときはまず泡から飲んで、そのあとお茶を飲みます。

ビールかな?

 

 

あとは富山のバタバタ茶とか、島根鳥取のボテボテ茶とか、挙げて行くとキリがない。

ボテボテ茶に至っては、茶の中に黒豆や沢庵をいれるらしい。

これもう(お茶かどうか)分かんねぇな。

 

展示室おわったので、もどります。

 

 

お土産コーナーもお茶です。

終わってみると、お茶のことしか頭に残らないのであった。

ちなみに外にカフェがあって、狭山茶が飲めるよ。

 

館内おしまい。

 

 

 

あ、肝心の狭山茶について書いてなかった。

 

1800年頃に入間の辺りの茶農家が集まって、かの永谷園の先祖が発明したお茶を見習って、開発したそうな。

明治時代になると、茶は生糸に次ぐ輸出の目玉であったため、入間の茶農家たちは「狭山会社」なる組織を作り、「狭山茶」という名称で海外へ輸出した。

 

茶は普通温暖なところで作られるので、埼玉は生産地としては北限である。

だが寒さの厳しい環境に耐えることによって茶葉が肉厚になり、甘みが強く濃厚な味わいがするというのが特徴である。

「静岡や宇治に味では負けない」ということ。

 

 

 

ところで現在では、埼玉県内で作られるお茶であれば「狭山茶」名乗っているらしい。

なんじゃそりゃ。

まぁそもそも「狭山」と言いつつ、生産地は入間市だけど。

 

そして「狭山茶コーラ」なる商品も出しているのであった。

挑戦者求ム。

 

以上

 

 

【交通手段】入間市駅からバス20分

【入館料】200円

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★(ちらほら)

【URL】

www.alit.city.iruma.saitama.jp