誠之堂・清風亭
誠之堂・清風亭は、大正時代の建築物である。
深谷市の大寄公民館の敷地内にある。
まずは公民館の窓口で受付。
入場料は無料。
こちらが誠之堂。
渋沢栄一の喜寿(77歳)のお祝いとして、渋沢が頭取をしていた第一銀行の銀行員たちが建てたものである。
・・渋沢って、80歳の誕生日祝いにも建物プレゼントされてたなぁ(王子にある渋沢史料館の青淵文庫)。
そんなにポンポン家や倉庫を建ててもらっても、貰う方は困るんじゃなかろうか。
側面からみたところ。
壁面に「喜寿」の文字が描かれている。
レンガは狙っているのか、色がバラバラでカラフル仕様。
ちょっと出っ張ったりしているのは欠陥ではなく、デザインだそうです。
なおレンガには「上敷免製」という刻印があり、これは深谷市に所在する日本煉瓦製造株式会社の品であることを意味する。
つまりレンガには深谷産のものを使用したのだな、ということ。
レンガは普通に積まれているだけでなく、ところどころ弧を描いたりとオシャレな動きをしており、やっつけ仕事では無いことを示している。
屋根の上には風見鶏。
よくみると、東西南北が漢字で書かれている。
屋根瓦を触らせてもらえる。
あんがい重い。
館内に入ります。
渋沢のために建てた家であるが、その建築場所は第一銀行の保養施設「清和園」の中である。
そして喜寿を迎えて渋沢は頭取を辞職したので、渋沢が私的に使うというよりも、保養施設の中の1棟という扱い。
なんだ、プレゼントと言いつつ、送った側が自分達で使ってるじゃん。
やっぱり銀行員って信用ならんな(偏見)
テーマは「西洋風の田舎建築」だそうだ。
英国の農家住宅をイメージしたらしい。
顔のレリーフまで彫られている。
私がこんなことされたら恥ずかしくてたまったもんじゃないが。
天井にもさりげに「寿」の文字?
英国風といいつつ、窓にはどうみても東洋チックな絵柄。
風見鶏の漢字表記といい、英国meets東洋の要素である様子。
こっちが本来の玄関側。
外側の煉瓦はところどころ飛び出していたが、さすがに館内で飛び出されると邪魔なので、平坦になっている。
小部屋。
新聞記事の抜粋。
先述の通り、この建物は世田谷区の第一銀行保養施設にあったものだが、隣の清風堂ともども1997年に深谷市が引き取って、この地に移築したものである。
レンガ構造の建物の移築は国内でも例がほぼ無く、難航を極めたが、建物を分断して小分けにして運ぶ方式が取られた。
なので建物を外から見ると、その切断部分がありありと分かる。
さっきの新聞記事は、建物が移築され、この地でオープンしたときのもの。
深谷市が引き取った経緯。
1970年代に第一銀行は保養施設の敷地大半を、聖マリア学園に売却しており、この誠之堂は外人教師の居宅として使われていた。
隣の清風堂は、集会所。
その聖マリア学園が施設を拡大するにあたってこの2棟が邪魔になり、取り壊されそうになっているところを、渋沢栄一大国である深谷市が待ったをかけたということ。
貴重な建築物をあっさり壊そうとするとは、やっぱり南蛮人は斬り捨てるべきだな(尊王攘夷)
この建物、1F建てなんだけれども、2Fがあるかのような張り出しがある。
あれは屋根裏に繋がっていて、メンテナンス用とのこと。
次の建物は清風堂。
スパニッシュ建築なんだそうです。
はえ~。
こちらは1926年に、第一銀行2代目頭取である佐々木勇之助の古希(70歳)祝いで、これまた銀行員から送られたもの。
人の家を建てるためにカンパを求められる銀行員、やっぱりブラックやな(偏見2)
佐々木勇之助という人は28歳にして第一銀行本店の支配人になっており、かなりのチート能力者だったと思われる。
まぁ岡倉天心もそれくらいの歳で東京美大の学長やってたし、そういう時代か。
こちらは南欧の農家建築をモチーフにしている。
聖マリア学園では集会所扱いだったわけですが。
暖炉。
の中にはまたレリーフ。
なんの紋様か分からないが。
自分の銅像もらうならともかく、渋沢の銅像もらって嬉しいのだろうか。
第一銀行の人たちはプレゼントと称しつつ、自分達の保養施設に建物をつくる人たちなので、その辺の音楽性はよくわかりませんが。
名探偵コナンのCM前後に出てきそうなドア。
奥にも部屋はありますが、トイレです。
移築当時の写真。
切断だあ。
以上。
【交通手段】深谷駅からコミュニティバスで大寄公民館下車(本数僅少)
【滞在時間】40分
【混雑度】★★★(館内にちらほら)
【入館料】無料
【URL】
尾高淳忠 生家
富岡製糸場の初代所長である尾高淳忠の生家である。
深谷は渋沢栄一の一族がそこらじゅうにいたが、尾高淳忠は渋沢の従兄にあたる。
んでこの人の妹が、渋沢の嫁。
秀才だった尾高淳忠は17歳のときから個人塾みたいなことをやっていたが、渋沢も青年期にはよく尾高のもとを訪れて、儒学などをお勉強していたそうな。
この辺一帯が「論語の里」と呼ばれているのは、尾高淳忠のせいである。
藍玉。水に浸して染料とする。
これ渋沢家で扱っていた商品だけど、尾高家に置いてしまっていいのだろうか。
商家なので、それっぽい道具が並んでいる。
しかし座敷に上がることはできないのだ。
深谷の古民家、片っ端からこれだな!
もっと論語を読んで客の気持ちを学んで、どうぞ。
渋沢や尾高は幕末の時代、流行りの尊王攘夷思想にかぶれていたので、高崎城乗っ取りからの横浜偉人街焼き討ち計画を、この家の2階で立てていたとされている。
桜田門外の変とか坂下門外の変とか、アンチ幕府テロが連発していたので、それに乗っかって俺達もデビューするぜ!なノリだと思われる。
まぁどう考えても爆死するだろうということを尾高の弟が必死に説いたので、この計画は無かったことにされた。
パネルではこの家の建築状況や、娘のゆうについて扱っています。
家は尾高の曽祖父の時代の建築ということなので、18世紀半ばころだろうか。
この時代は、外国人がワインを飲んでいるのを見て、「毛唐の連中は人間の生き血を飲みやがる」とファンタジーな妄想をするオッサンが大変多く、娘を製糸場にやりたがらない親がぞろぞろ。
だから尾高みずからが娘を工場に送り、その噂を払しょくする必要があったとさ。
1872年の開業から1876年まで、尾高は所長を務め、そのあと第一国立銀行の東北方面の支店長に転じた。
工場開業して間もないころは、女工が作業に慣れずパフォーマンスが悪かったり、お雇い外人がただ高給を取り過ぎて経営を圧迫していたが、外人を放出して日本人だけでチームを組んだところ、わりと結果が出るようになった。
調子が悪い時のJリーグのチームみたいだな。
結果は出ていたものの、政府側と養蚕性の違いがあり、決別する形で退任している。
家の裏側にはレンガ造りの倉庫。
深谷の煉瓦は世界一ィ、ではないかもしれないが、東京駅には使われているので日本一ィィを誇る建物である。
以上。
【交通手段】深谷駅からコミュニティバスで渋沢記念館、そこから徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(だれもいない)
【URL】
渋沢栄一生家 中の家
渋沢一族はこの周辺に分家していくらか住んでおり、その家の位置で「中」とか「東」とか呼んでいた。
ここは「中」にあたり、「中の家(なかんち)」という。
渋沢栄一は「中の家」で1840年に生まれ、20代に上京して尊王攘夷運動に巻き込まれるまで、この地で過ごした。
身長は150cm!
正面にあるのが母屋。
1895年に建て直されたもの。
座敷の中には上がれません。ケチだなぁ。
本来であれば長男である渋沢栄一が家を切り盛りするはずなのだが、上京して以来、一橋家に採用されて各地を転々としたり、パリ万博の随行員になったり、帰国して静岡に落ち着いたと思ったら大蔵省に呼び出されてバリバリ働かされたりと、深谷に戻ってくるヒマなど無かった。
渋沢には妹がいたので、妹に婿をとり、その婿殿に頑張って守ってもらったというわけ。
家の前には池がある。
また豪勢なコイを飼っていますな。
エサやり体験とかはありません。
母屋の裏側に、広大なスペースがある。
まぁ渋沢家は養蚕・藍玉づくりなど豪農だったので、当時はこれ以上に多くの敷地を持っていたかもしれないが。
記念碑っぽいものがいくらか建っている。
一番大きいものは、渋沢の養子にあたる平九郎のためのもの。
尊王攘夷運動に巻き込まれて、若くして命を落とした人です。
詳しくは「渋沢史料館」の記事に書いたので、そちらを見てください(宣伝)
奥の方にも幾つか蔵があるが、見学用ではなさそう。
敷地内には他にも建物がある。
どれも入れはしないけど。
これは正門の右手にある、副屋。
藍玉の取引をする「お店」として利用されていた。
一時期、村の農協の事務所代わりにもなっていた。
いろいろ改修されているような綺麗さである。
こちらは土蔵その1。
藍玉づくりの作業場。
ここで作られた藍玉は、群馬や長野方面に売りに出されていた。
渋沢も、13歳頃に商売の手伝いで各方面に営業に出ていたそうなので、ここで作った藍玉を背負って行ったのかもしれない。
そして土蔵その2。
中は入れないので、扉越しにせこせこと中を撮影。
なにもないわな。
これで敷地内はおしまい。
さて、帰る前にトイレに寄るか。
あれ、なにか置いてあるよ。
なんとトイレに展示室を併設しているのであった。
中の家敷地から発掘されたものたち。
そして農機具。
中の家に関する説明パネルまで。
あのさぁ、副屋とか母屋の座敷を閉鎖せずに開放して、ここの展示をそっちに移せば良いんでないの。
この扱いじゃあ、渋沢さんも深谷を出て上京してしまうのも納得です(大嘘)
以上。
【交通手段】深谷駅からコミュニティバス北部定期便で30分「渋沢記念館」下車、徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
長島記念館
熊谷市にある長島記念館。
公共交通機関だけで行こうとすると、熊谷駅からのコミュニティバスで40分かかる。
最寄りは吹上駅なのだが、路線バスなんか出ていないので、駅から4kmの距離を歩くか、諦めてタクシーを利用しましょう。
地元の豪農であり、埼玉銀行(いまの埼玉りそな)頭取を務めるなど埼玉経済界で活躍した長島恭助(1903-1992)に関する資料館である。
巨人の方は長“嶋”だからね、こことは関係ありません。
入場料は300円。
門をくぐってすぐ右手が受付になっている。
正面にある屋敷に入る。
ここは長島恭助の生家であり、晩年を過ごした場所でもある。
築300年近く経っているそうで、銀行頭取の家とは思えない農家住宅。
土間あるし。
長島恭助の人生についてはパネル展示を読んで理解する形式となっている。
長島自身が自伝を著しているので、それに沿ってパネルも作成されているようだ。
長島恭助は1901年に生まれ。
旧制熊谷中学(いまの熊谷高校)、山口高等商業学校(いまの山口大学)に進んでいる。どうして山口いったし。
熊中在学時にやっていた剣道は結構な腕で、前橋中学(いまの県立前橋高校)に遠征に行ったときに、たった一人で相手7人をぶちのめしてしまったそうな。
やっぱり群馬は埼玉には勝てないのですね(真理)
(昭和の道具を飾る展示室。長島が晩年ここに住んでいた時、お手伝いさんの部屋として増設された)
山口大学を卒業して実家に帰ると、親が“卒業祝い”として、就職先を確保していたという。
現代でもボンボンの家は高級車くらい買ってあげるのかもしれないが、就職先をプレゼントするというのは会社の経営者か、危ない橋を渡っている人くらいではなかろうか。
長島の方も「地主の長男として家を継ぐからいずれは実家に戻らないといけないし、どうせなら社会勉強のために働くか」程度の考えで、このプレゼントを受け取ったとのこと。
さすが、地主は違いますねぇ。
なお結婚相手も、親が探してきて勝手に決まったそうである。
就職先は、1918年創立され、渋沢栄一の甥が頭取をやっていた武州銀行。
ここの浦和本店に勤めることになったが、当時の県内にはアホほど大量の銀行があり、客も来なかったようなので、「いつ来るか分からない預金者を待ち続けるしょうもない仕事」などど回想されている。
棚にはおもちゃがいっぱいある。
長島が使っていたものだろうか。
現代視点だとたいした量に見えないおもちゃだが、当時の農村住民からすると膨大な量であろう。
それをさらっと所有している長島くん、さすが豪農の子は違う。
枡が置いてあるが、サイズ的に酒では無くて米用だと思われる。
そんな暇な武州銀行もなんだかんだで辞めずに6年目の1929年、世界恐慌が勃発。
ここからの数年間はハチャメチャに忙しい時期であったが、この経験を通して銀行の社会的影響力の大きさを実感し、銀行業に身を入れることを決めたという。
いままでの6年間、よほどテキトーに過ごしてたんだなアンタ。
(さっきから玩具ばっかりだな、展示)
ちなみに武州銀行は、1920年~1928年の間に7つの銀行を吸収して拡大している。
銀行乱世時代の埼玉県であったが、さすが渋沢栄一系列だけあって、生き残り策には長けていた模様。
しかし1943年に戦時統制。武州銀行は八十五銀行・飯能銀行らと合併を命じられて「埼玉銀行」となり、武州銀行の名は終了した。
さて、戦後になっても埼玉銀行の中では出身銀行ごとの派閥争いで、特に役員たちはフリーズしていた。
そこで長島も含めた従業員組合がクーデターを起こし、「旧態依然とした役員どもはさっさと帰るように」と三下り半を突き付けて、体制改革に成功。
おかげで預金がっぽがっぽや!
(10月末だからハロウィン仕様?)
その後の埼玉銀行は、国際化のビックウェーブに備えて一介の地方銀行から都市銀行へとレベルアップ。
この辺のイケイケの時代に、長島氏は頭取に就任し、勢力をさらに拡大させていったものと思われる。
埼玉県内で店舗数トップになるのはもちろん、大阪・札幌・さらにはニューヨークなどにも進出して行き、「もはやダサイタマではない」と誇らしかったことであろう。
(残念ながら座敷にはあがれない)
しかし91年にバブルが崩壊すると、同年に協和銀行と合併して「あさひ銀行」を設立。
これも2001年に巨額損失をぶち上げて経営破たん寸前になり、ぎりぎりのところで大和銀行との協力を得て、埼玉県内の営業は「埼玉りそな銀行」、それ以外は大和銀行と合併して「りそな銀行」となった。
まぁ、りそな銀行の方は合併直後に公的資金投入されているから、間に合ってないんだけど。
1992年に長島は没しているので、自分が盛り立てた埼玉銀行が最晩年にバブル崩壊で合併解消していく様を見ていたことになり、いろいろ思うところがあったかもしれないし、無かったかもしれないねぇ(雑)
長島は野球好きであり、巨人ファンであった。
巨人軍コレクションもこのとおり。
埼玉なんだから西武ライオンズでは、と思う人が居るかもしれないが、このとき西武はまだ所沢に来ていないからねしょうがないね。
いろんな選手のサインボール・色紙がずらずら。
やっぱ金持ちって違いますねえ(僻み)
あとは庭でも見ますか。
これが庭。
座敷の中には入れないけれど縁側から覗くことはできる。
展示室では無いのにけっこう飾ってあるな。
イベントでこの部屋を使ったりするんだろうか。
縁側から庭を見た風景。
まだ奥の方へ続きます。
庭園というより菜園サイズになってきたが。
でもやはり庭園である。
かっちり整備されているわけではないけど、和風庭園ってこんな感じなんだろうか。
受付横に蔵がたっていて、ここでは企画展をやってたり、長島家が所有する絵画や書画を置いてあります。
以上。
【交通手段】熊谷駅からバス40分
【滞在時間】40分
【混雑度】★★(館内に2~3人)
【入館料】300円
【URL】
カメイ美術館
カメイ美術館は、仙台駅から徒歩10分程度の距離にある美術館。
仙台市を拠点とする総合商社カメイがオープンしたものであり、会社のもつ美術品・創業家のコレクションを飾っているところ。
しっかし、どう見てもオフィスビルなので「本当に美術館あるのか・・(震え)」と一瞬入館をためらったのだが、勇気を出して7Fまでエレベーターで上がると受付があります。
エレベーターから降りると、受付前に大きなトラが居るので、またビビります(2度目)
何はともあれ、入館成功。
(7F展示室。公式HPより)
展示室は7Fと6Fに分かれているのだが、最初の7Fは画像の通り“正統派な”美術展示室。
宮城県にゆかりのある画家から、誰でも名前を聞いたことがある海外の有名どころまで幅広く絵画を扱っている。
公式HPの画像だと室内照明が明るくなっているけれど、実際は照明がもう少し落とされていてムーディな感じであった。展示作品次第で変えているのかもしれない。
(杉村惇『杜都晩秋』)
宮城県ゆかり系の画家としては杉村淳。
塩竃市や仙台市に居住して長きにわたり風景画を製作しており、仙台市名誉市民にもなっている。
仙台は通称「杜の都」なので、この『杜都晩秋』は仙台の景色を描いたものか。
右奥にやたら巨大な塔が見えるが、これは仙台に立つ「トリプルタワー」の1つと思われる。ちゃんと仙台人アピールしてますね。
え、仙台ってこんなフランスの地方都市みたいな風景だったっけ?となったのは内緒。
(佐藤隆春 『朝のサンミッシェル大通り』)
仙台出身の画家である佐藤隆春の作品。
また随分とヨーロピアンな仙台ですねぇと思ったら、こちらは本当にフランスだった。
建物や木々の彩りが鮮やかで豊かながら、空の澄み渡る青・道路の少し濡れて光っているようなところ(前夜の雨?)が、朝の冷えてスッキリした空気を画面全体に行き渡らせている。
なにより、人が全然居ないところがイイネ(人混み嫌い)
画家のHPはこちらから
(モーリス・ド・ヴラマンク『雪道』)
海外勢の作品としては、モーリス・ド・ヴラマンク。
通称「野獣」。
原色をガンガンに利用した強烈な色彩と激しいタッチはフォービズム(野獣派)と呼ばれており、ヴラマンクもフォービズムに分類されてはいるが、それ以上にこの人は他人に従うことを嫌い、絵画はほとんど独学で覚えたので、それもあいまって「野獣」呼ばわりされているのかもしれない。
別に目つきとかは関係ないと思う。
(富山恵美子『水惑星』)
あと印象に残ったのは富山恵美子の鉛筆画。
展示されていたのは別の作品ですが、この作品が個人的に好きなので載せております。
鉛筆だから繊細に描けるという面もあるかもしれないが、左下の泡だか水滴や、立体感がありすぎて逆に恐い重厚な花びらなど、よくここまで鉛筆で迫力を表現できるなぁと感心。
パックンフラワーみたいに蠢いて襲ってきそうな花びらと異なり、中央に居る羊の大群はボケーっとした表情で意思も生命が感じられないところが対照的で、白黒の背景と相まってなんとも不気味な構図が出来上がっていて非常に良い。
(6F展示室。画像は公式HPより)
しかしこの美術館の本質は、絵画ではないのだ。
1フロア降りて6Fの展示室にあるのは、世界中の蝶の標本コレクション。
壁に沿ってケースがずらーっと並べられていてレコードショップ感すらしますが、これ全部に蝶の標本がぎっしり入っているわけです。
その数なんと約14,000頭。
蝶が嫌いな人間は間違いなく悶死するであろう。
たぶんこれら標本を一つでも盗むか壊そうとした瞬間に、美術館サイドは「そうかそうか、つまり君はそういうやつなんだな」と言ってくれるはず(エーミール的な意味で)
あまりにも大量にチョウチョが居ますので、気になった蝶だけ挙げますね。
まずは日本の国蝶であるオオムラサキ。
名前通り紫なのかと思ったら、メスは全然ちがって酷い色である。(オスは紫)
これだとオオムラサキだと分からず、ただの蛾だと間違えられて倒されるであろう。
ちなみに蝶と蛾は、厳密には区別しきれないらしい。
「蝶は昼行性・蛾は昼行性も夜行性もいる。ただし蝶の中にも夜行性がいる」というように、但し書きに該当する奴らが多すぎるのだ。
そもそも蛾に該当する連中は、蝶の20~30倍にあたるので、蝶は蛾の一種だと思った方がよい。
「蝶は許せるけど、蛾はダメ」勢は、もう抵抗は止めて蛾と和睦しよう!
それで助かったりはしないけど。
(画像は山口県立山口博物館のHPから http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=380)
オレンジの羽をもつアカメガネトリバネアゲハ。
19世紀に東南アジアで発見されたものだが、当時はオレンジの羽をもつ蝶がいると誰も思っていなかったらしく、発見者であるウォレスという人は日記で「鼓動は激しく打ちなり、血が頭に上って失神しそうだった」と振り返っている。
興奮しすぎだよ。もうちょっと落ち着いてクレメンス。
世界最大の蝶は、アレキサンドラトリバネアゲハのメス。
上のHPの写真がインパクトありすぎるが、羽を広げると28cmにも達し、人の胸を覆ってしまうレベルの大きさである。
最初の発見者は、これを鳥と間違えて銃で撃ち落としたそうな。
帰宅して、家の中にこんなん居たら間違いなく逃げ出すだろう、私が。
(スカシジャノメ。画像はwikiより アケボノスカシジャノメ - Wikipedia)
他にも羽が透明なスカシジャノメなど、多くの仲間が皆様をお待ちしております。
大量にあり過ぎて紹介しきれませんので、ここまで。
というか、気分悪くなってきた(げっそり)
蝶の羽7000枚を使って製作した曼荼羅図みたいなものもあった。
昆虫虐待な気もしますが、昆虫なのでシーシェパードも何も言わないでしょう。
(画像はwikiから)
創業家一族のコレクションはもう一つ、こけしが6Fエリアの半分を占めております。
江戸時代から温泉場の土産品として製作された、東北地方の特産品。
もとは子供の玩具としての扱いだったが、明治以降になってやってきた西欧の人形の方へ子供の目がいってしまい、その代わりにコレクター達が民芸品として注目をし始めて、こけし収集家を生むこととなった。
(鳴子のこけし。画像はwikiから こけし - Wikipedia)
てきとーに見てると全部同じに見えるのだが、地域ごとに違いはある様子。
スタンダードなのは鳴子温泉のもの。
全体のバランスや重心がしっかりしていて、見ていて安定感がある。
(作並のこけし。画像は 作並こけし | でんとうずかん より)
一方で作並のこけしは、鳴子に比べると体が細く作られている。
玩具であるから、子供が握りやすいことを重視して、このような形にされたんだと。
顔もシュッとしていて、こうして並べると鳴子のものとはかなり形式が違うことが分かる。
そんなほんわかしたこけしちゃん達を見て、チョウチョ標本で荒んだ心をお癒し下さいませ。
以上。
【交通手段】仙台駅から徒歩10分
【入館料】300円
【滞在時間】60分
【混雑度】★★(館内に2~3人)
【URL】カメイ美術館(旧カメイ記念展示館)