尾高淳忠 生家
富岡製糸場の初代所長である尾高淳忠の生家である。
深谷は渋沢栄一の一族がそこらじゅうにいたが、尾高淳忠は渋沢の従兄にあたる。
んでこの人の妹が、渋沢の嫁。
秀才だった尾高淳忠は17歳のときから個人塾みたいなことをやっていたが、渋沢も青年期にはよく尾高のもとを訪れて、儒学などをお勉強していたそうな。
この辺一帯が「論語の里」と呼ばれているのは、尾高淳忠のせいである。
藍玉。水に浸して染料とする。
これ渋沢家で扱っていた商品だけど、尾高家に置いてしまっていいのだろうか。
商家なので、それっぽい道具が並んでいる。
しかし座敷に上がることはできないのだ。
深谷の古民家、片っ端からこれだな!
もっと論語を読んで客の気持ちを学んで、どうぞ。
渋沢や尾高は幕末の時代、流行りの尊王攘夷思想にかぶれていたので、高崎城乗っ取りからの横浜偉人街焼き討ち計画を、この家の2階で立てていたとされている。
桜田門外の変とか坂下門外の変とか、アンチ幕府テロが連発していたので、それに乗っかって俺達もデビューするぜ!なノリだと思われる。
まぁどう考えても爆死するだろうということを尾高の弟が必死に説いたので、この計画は無かったことにされた。
パネルではこの家の建築状況や、娘のゆうについて扱っています。
家は尾高の曽祖父の時代の建築ということなので、18世紀半ばころだろうか。
この時代は、外国人がワインを飲んでいるのを見て、「毛唐の連中は人間の生き血を飲みやがる」とファンタジーな妄想をするオッサンが大変多く、娘を製糸場にやりたがらない親がぞろぞろ。
だから尾高みずからが娘を工場に送り、その噂を払しょくする必要があったとさ。
1872年の開業から1876年まで、尾高は所長を務め、そのあと第一国立銀行の東北方面の支店長に転じた。
工場開業して間もないころは、女工が作業に慣れずパフォーマンスが悪かったり、お雇い外人がただ高給を取り過ぎて経営を圧迫していたが、外人を放出して日本人だけでチームを組んだところ、わりと結果が出るようになった。
調子が悪い時のJリーグのチームみたいだな。
結果は出ていたものの、政府側と養蚕性の違いがあり、決別する形で退任している。
家の裏側にはレンガ造りの倉庫。
深谷の煉瓦は世界一ィ、ではないかもしれないが、東京駅には使われているので日本一ィィを誇る建物である。
以上。
【交通手段】深谷駅からコミュニティバスで渋沢記念館、そこから徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(だれもいない)
【URL】