鵜原理想郷(千葉)
意外と近くにあったんだな、理想郷。滝に打たれたり念仏唱えたりラザロを復活させなくても行けるじゃないか。やったね。
本当のところは、ハイキングコースです。
大正時代のころ、鵜原の付近はリゾートして人気があり、政治家連中が別荘をニョキニョキ建ててバブリーな生活を送ってましたとさ。
今じゃそんな見る影もない、さみしい寒村と化してますけどねぇ。
ただ鵜原駅は鈍行しか止まらず、本数は1時間に1本あれば良いってレベル。理想郷に行くにはやはり困難な道を抜けねばならぬのだろう(迫真)
さっそく怪しげなトンネルをくぐり抜けていきます。
トンネルを抜けた先には、鵜原館という老舗の温泉旅館があります。敷地内に駐車場がありますが、停められるのは宿泊者だけです。
それ以外の方は、さっきのトンネルの前に駐車場があるので、そこに置いてきましょうね。
理想郷への道を進みます。
また陰鬱としたトンネルが出てきた。
おお暗い。雨上がりの後にいったので湿気もあってジメジメしており、足元が怪しいでござる。
イエスも処刑されてから復活するまでの3日間は墓の中に安置されていたそうなので、「理想郷に出る前は暗黒の世界を通る」という再現なのかもしれませんね(適当)
まぁトンネルを抜けても空気はむぁっとしているし、植物の匂いが立ち込めていてあまり変わりませんでした。雨上がりだし。
こんな天気だから客なんて他に居ないだろうと思ったら、途中で何組かと行き会った。
意外に知名度はあるのかもしれないな。マツコの番組でやってたらしいし。
二手に分かれる道が出てきました。
左に行くと手弱女平、右は黄昏の丘へ向かいます。なんとなく右から先にすることに。
道を進んでいくと、脇に謎の門扉が登場した。ここから先は私有地なので立ち入り禁止、と書いてある。
理想郷って国定公園なんですけどね、そんなところに土地持ってるなんて、さっきの旅館関係の人なのかなぁ。
ちなみに、門の向こう側はガケです。立ち入り禁止って言われなくても行かない、もとい行けませんがな。本当の理想郷に連れていかれるのは申し訳ないがNG。
更なる分岐点が登場しました。
意外と枝分かれしてるんですね。疲れたくないんだけどな(老並)
分岐点にあるマップを見ると、けっこう枝分かれしておりますね。
今は右から2つ目の「毛戸岬」の付近に居ますので、そこから順に左へ行きますか。
1分も歩けば毛戸岬に着きました。ちょっと広くなっていて休憩スペースな感じ。
岬からは海がよく見えますね、それ以外なにもないくらい。
ところで理想郷って、三島由紀夫の小説の舞台になっているんですよ。
十数ページの短編だけれど、『岬にての物語』という作品です。
当時11歳の三島が家族に連れられて鵜原に遊びに来て、そこで出会った若い男女2人とかくれんぼをするストーリー。ぼくのなつやすみですかね。
(次の白鳳岬に向かっています)
まぁその若い男女2人は、崖から飛び降りて自殺するんですけどね。
やっぱり三島じゃないか。安心した(感覚麻痺)
とんだ11歳の夏休みである。
ちなみに「理想郷 心霊」とかで検索すると結構出てきますね。
もともと自殺スポットなのだろうか。「悩み事があったら相談して」「命の電話」といった看板は立ってませんでしたが。
こちらが白鳳岬になります。
柵とか付いておらず飛び降りるのに手ごろな崖だし、人家は近くに無いから気づかれる心配もないし。照明は無いので夜は真っ暗だと思う。
近くに漁港があるので、朝になったらイワシと一緒に網に掛かってるかもしれません。ソーランソーラン。
しかし岬の先端まで来てしまうと、意外と防護策が取られていた。胸元くらいの高さがある植物が生垣のように並んでいて、行く手を遮っているのである。
これならダイナミックJUMPERも防げますね。ただ視界も遮られてしまって、海がまったく見えませんけどね。
白鳳の岬の近くに、黄昏の丘がありました。
景色を見るならあの上からの方がよさそうである。
ハイキングコースはまだ西の方へ続いていて、明神岬という地点が終点になります。
が、その通り道となる山が鬱蒼としてそう&高くて疲れそうなので、ここで引き返しました(貧弱)
さてさて最初の分岐点まで戻って、残った岬である手弱女平に向かっております。
その道中に、また謎の門扉を発見した。表札まで出ているが、文字はかすれて読めない。向こう側には階段が続いていて、崖を下りていっている。
石垣もあり、まるで家の門扉。昔は崖の下に家でもあったのかね。
手弱女平に到着しました。今までで一番広いスペースである。お弁当ゾーンに使えそう。晴れてれば。
このゾーンでは雛人形をずらーっと並べるイベントが行われる。毎年2月~3月に開催される「ビッグひな祭り」の一環だそうな。
勝浦市では使われなくなった雛人形を受け入れてこの催事で使ったり、供養したりしているのです。
もともとは観光資源に乏しい徳島 勝浦町が始めたもので、”勝浦”つながりで千葉の勝浦市・さらには和歌山県の那智勝浦町もコラボし始めたというもの。
べつに勝浦市が人形師の多い街です、とかではないらしい。小浜市がオバマの応援するのとあんま変わらん。まぁ人形の使い道が出来て良いんでないの。
なお徳島 勝浦町の雛祭りイベントが当たって以来、他の市町村もマネしだしたというので、勝浦町さんは激おこの模様です。
丘の上には鐘が置いてあって、「恋人たちの聖地」的なサムシングを醸し出しています。
理想郷で永遠の愛を誓う、なんと美しい。そのあと飛び降りるのは、やめようね。
鐘のところから海側を見ております。
あれ、民家があるぞ?あんなところで本当に生活しているのだろうか。それとも昔の別荘の名残だろうか。
あの家がAMAZON注文したら宅配員は涙目になるであろう。最寄りの道路まで徒歩15分はかかるのだ。冷蔵庫とか絶対に頼むなよ!ピザですらイヤだけど!
そんな感じでした。
おしまい
【交通手段】鵜原駅から徒歩10分
【入場料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】40分
【URL】千葉県勝浦市 鵜原理想郷
サドヤワイナリー
甲府駅から徒歩5分の距離に、サドヤのワイナリーがあります。
見学ツアーがあるというので、行ってみた。
敷地内にはワイナリーのほかショップ・レストランなど施設があり、だから広い。
目の前の教会っぽい建物もそうだが、結婚式も出来るらしい。
この日もそれっぽい人々がわらわらしていた。
山梨県民はワインでお祝いなのである。
見学ツアーの受付は、その結婚式集団とは反対側、敷地右手にあるショップにて。
この建物です。
予約制だけれど、枠が空いていれば飛込み参加も可能なようだ。
そもそも1時間に1本ペースという高頻度で開催しているので、団体客と被らない限り、たいていは参加できるのではないかしら。
ツアー料金は500円です。
ここから地下に潜っていく模様。
そんな地下ですが、暗いので写真ぼやけます。
めんごめんご。
そしてさっそく、赤ワインの香りが漂ってくる。
しかし暗いのと内装が相まって、ホラーゲームのダンジョンみたいですね。
ガイドさんの指示に従って動いているわけだが、内部は結構複雑な構造しているようで、迷子になると面倒である。
セラーNo.4
こんな鉄格子なセラーの中に、ワインがしまわれています。
一緒にゾンビとか出てきそうだけれど、居たとしてもたぶん酔っ払ってるから大丈夫だろう(適当)
中にあるのは1955年製のワイン。
めちゃめちゃ古いんですが、その時代のブドウって長期保存できるクオリティあるんですかね(疑問)
ガイドさんによると、「飲めるかどうかわからんが、もはや歴史モノのワインとして残してある」のだそうだ。
やっぱり飲めないじゃないか(悲憤)
さらに1962製もあるが、こちらは飲めるものとして販売されています。
5万円だとさ。
長期間のわりにかなり安い気がするんですが、味は大丈夫なのかしら・・
より現代的な保管庫に来ました。
普通に保管されてますね。
ワインの瓶は通常720mlだが、セラーでの保管用としては一升瓶サイズも使用しているらしい。
店頭に並べる時は720mlに移し替えるが。
まぁ日本酒じゃないんだし、一升瓶のワインってかなり警戒しますね。
ペットボトルに入っているのは、飲むと翌日死ぬやつなのでそもそも論外な!
タイル張りの部屋に来ました。
なんとこの部屋、ワインを貯留するコンクリート製タンクなんだそうな。
今ではステンレスによるタンクが一般的だが、戦後はこのようなタンクが主流であり、サドヤでは一部まだ使用しているところもある。
こっちも、ワイン貯留タンクだった部屋。
真ん中にあるのはブドウを潰す機械です。
この中に入れてグルグルして潰す。
ただ種は潰してしまうと苦みが出て美味しくないので、溝をもうけてそこに種が入り込み、潰れないようにしてある。
サドヤサドヤサドヤサドヤ
天井をみると、一部分だけタイルでは無いところがある。
あれが地上と繋がっている穴であり、ワインの出し入れを行うそうな。
照明が赤いせいでホラー映像になっております。
ブドウ畑開墾当時の写真。
大正時代と思われる。
甲斐善光寺から土地を貰って開墾した、という話だった気がする。
ツアーの展開が早いのでね、写真撮影して且つガイドさんのコメントをメモしてだと、なかなか間に合わんのですよ(言い訳)
というわけで、色々うろ覚えで書いているところがあります。
記録ガチ勢にはボイスレコーダーの装着をオススメしませう。
照明が赤いのでサイレントヒルになってますが、これはコルクの元の板です。
こんな風に木の皮を乾燥させて、コルクサイズに打ち抜いて作ります。
くらいよ!
・・なんの部屋か忘れてしまったが、確かここもワイン貯蔵庫だったと思う。
ところでこの部屋、入口めちゃめちゃ狭いのだが、中に入って掃除しているんだと。
ガイドさん曰く「肩を目いっぱいすぼめて、両手を同時に差し込んでいく感じで行けば入れる」。
それ、もう忍者みたいに肩外してるんじゃないの。
中の風景。
うむ、見えない。
そして入れたところで、出てこれなかったら本当に恐怖である。
明るいところに来た。
ここでは酒石の説明。
ワインに含まれている「酒石酸」という酸と、ミネラル分が結合して結晶が出来るそうな。
これがあると酸が豊富な良いワインらしいのだが、酒石自体はザラザラした口当たりになってしまうため、それは飲まないようにビンの底に沈めておく。
(サドヤの昔の写真も見れます。ワインづくりを始める以前の洋酒店時代のもの)
酒石については最近ブラタモリの甲府編でもやっていたのだが、軍事利用が可能である。
酒石に含まれる物質に音波を捕える特性があり、これがソナーとして、敵船の魚雷や潜水艦を探知できる。
第2次世界大戦でドイツ軍が使用しはじめ、日本も1942年以降に導入した。
もっとも、ミッドウェー海戦でズタボロに負けた後なので、もう転落始まってますけどね。
(戦後、サドヤ社長の息子が欧州視察に出かける際、見送りに来る行政関係者・・だったはず)
酒石製造の拠点となったのが、まさにこのサドヤである。
軍事目的でワイン製造とは思わぬところであり、さすがのタモリも知らなかったのであった。
そんなんだから甲府は米軍に派手に爆撃されており、サドヤの醸造所も地上部分は全焼したそうな。
一方で政府との強いパイプが出来上がり、戦時中は皇室関係者が視察に来ているし、戦後もサドヤ社長の息子が欧州に研究視察に行く際に、わざわざ甲府駅前で行政関係者含めて送迎式なんてやっている。
喉が渇いてきたので、お待ちかねの試飲会場へ。
その前に、樽を鑑賞。
いろいろ書かれているが、意味は1番上から
・収穫年月(2018.12.1)
・収穫年とブドウ品種、畑番号(2018年のカベルネ、畑1-B)
・樽番号(975)
・リットル数(228リットル)
最下段だけ和暦で書かれているが、これは税務署の記録だそうだ。
H26は2014年なので、そのときに申告してます、って意味かしら。
そんなことより試飲である。
3種類のワインが試せます。
ただ一番右側はブルーベリー果汁がブレンドされているので、殆どジュースみたいであった。
真ん中と左も辛口表記されているけれど、割と果実感が強くて甘かった覚えがある。
日本人向け。
ちなみに飲めない人へはブドウジュースが出されるので、ぐびぐび飲みましょう。
テイスティング用のメモも配布されるので、ソムリエごっこも出来ます。
まぁ考える前に飲み干してしまいましたが。
ここで割引券も貰えるので、お土産を買いたい人は使いましょう。
こうして見学ツアーは終了で、地上に戻ります。
しかし道中気になる道具とか、もっと細かく見たいものが沢山あったが、ツアーの進行上、時間の余裕が無かったのが残念であった。
今回参加した回は人数が多かったが、参加者の少ない回に当たれば、自由度は増すかもしれない。
1時間に1回ペースでツアー開催されているので、空く回は出てくるはずである。
最初に受付をしたショップに戻ってきて、お土産コーナー。
ワインだけでなく、ブランデーもあります。
ただし1万円。
試飲で出てきたブドウジュースはこちら。
「ぶどう液」って・・攻めてるタイトルですな。
ワインジャムなんてのもあったよ。
ワインはこちらで試飲することも出来ます。
有料で500円くらい~ですがね。
結局飲むんですけどね(既視感)
以上
【交通手段】甲府駅から徒歩5分
【ツアー料】500円
【混雑度】★★★(ちらほら)
【滞在時間】1時間
【URL】
井口喜源治記念館
明治時代の穂高に啓蒙精神を植え付けた学校教師 井口喜源治の記念館です。外装がかなり古い上に屋根がトタンっぽいので戦後のバラックかと一瞬ビビりましたが、ちゃんと営業しております。
穂高駅から5分ほど。歩いてすぐです。12月~3月は土日しかやってないので注意。
喜源治さんの像です。明治時代の穂高で学校教師をやっていて、周辺の若者・子供に啓蒙思想を植え付けた先進的な人物。その頃の穂高には、開化した日本で身を立ててゆこうとする若者たちの青春ストーリーが展開しており、この人もその一人でした。
妻と2人だけでぶっつけ上京し、カレーで有名な新宿中村屋を作り上げた相馬愛蔵。和風で伝統的な作風ばかりが権力を持つ日本彫刻界に、西洋的技法を持ち込んで風穴をブチ開ける傑作を残しながらも、名声を得る前に病で若死にした荻原守衛。
その荻原守衛は相馬愛蔵の妻に横恋慕するという三角関係もあり、午後3時の韓国ドラマ風ねっとり仕立て、愛と憎悪が激しくまじりあうロッテワールド!
ちなみに新宿中村屋のカレーはこれです。・・と言いつつ、私は食べたことなかった。スーパーに行くといつもボンカレーか銀座カリーになってしまうのだ(ハチャメチャ安いから)
日本のカレーって、インドのカレーを日本人の口に合うようにアレンジしたものなんだけど、その開祖みたいな存在が中村屋だそうです。聞いた話です。食べたことないので(こなみ)
そんな多ジャンルの話が広がっていく中心の一人に、井口喜源治はいたわけです。相馬愛蔵の親友、荻原守衛の恩師って立ち位置で。小説にも幾つかなっており、読者にとってはここは聖地なわけです。ありがたやありがたや。まぁ何一つ知らずに来る客もいると思いますし、私がそうでした。
入館料は400円です。このとき他に客が居なかったので、館員さんがマンツーマンで私にレッスンする流れとなった。いろいろ情報を貰えます。40分ほど居たんですけど、その間ほかに誰も来客が無いってのはどうなんでしょうね。いちおう土曜日だったんですけどね(遠い目)
(創立当初の研成義塾のスケッチ)
喜源治さんは学校教師と先ほど書いたんですが、なんと自分で学校経営してたんですね。「研成義塾」という名前です。28歳の頃。
なんでかというと、勤めていた学校から半ば追い出されたから。
この人キリスト教徒で、「酒と芸者は FULL OF SHIT」という考えから禁酒・芸者反対運動おこしてたんですが、田舎のオッサンから2大娯楽を奪うのはなかなか難しく、ウザがられて逆に排斥されてしまったのだ。JESUS!
だから自分で始めました。
これが時間割ですが、教師は他にいないので、喜源治さんが全部やることになります。しかも複数学年を同じ時間帯で見ていたそうだ。ブラックな塾講師バイトでもそこまでやらせないと思う。
キリスト教はまだ“耶蘇”と呼ばれ警戒されており、保護者達からは「キリスト教関連の授業なんてやるなよ?絶対にやるなよ?」と言われていたのだが、時間割には週に2回も「道話」って科目がありますね。いったい何を話したのかな?
研成義塾の設立趣意書にも「四.宗派の如何に干渉せず」って世俗派っぽいこと書いてるんですけど、賛美歌もじゃんじゃん歌っていたそうです。隠しきれない喜源治アニキの啓蒙欲。
当時の教科書が置いてあります。
右側は三省堂のNEW CROWN。これ現在でも英語の教科書として使われいるシリーズですね。中学で使った方もいるのではないでしょうか。私はNEW HORIZONでした。
英語をバシバシ授業でやっていたので、卒業生で海外に渡った人も結構いたようです。34年間の学校経営で、卒業生800人、シアトルに行ったのが70名。みんなシアトル好きすぎ。
そして上の写真は、そのシアトルに渡った教え子たちが撮ったもの。なんだかアーティスト写真みたいにポーズ取っている。1stアルバムでも出したんですかね。
そんな感じで喜源治さんのやっていた学校風景を知ることができます。安曇野を扱った小説の中で、喜源治さんは基本的に脇役に過ぎないんですが、この人の学校について詳しくなると違った理解になるかもしれんね。
最後にこのオルガンは、相馬愛蔵の妻である黒光が嫁入り道具として穂高に持参したもの。100年くらい前の製造だと思うのだが、調律しているのでちゃんと音は出ます。
おしまい
【交通手段】穂高駅から徒歩5分
【入館料】400円
【滞在時間】45分
【混雑度】★(誰も居ない)
【URL】井口喜源治記念館(長野県安曇野市)
【歩いて行ける近隣施設】
川越市立博物館
川越市の博物館です。
川越城とは道路を挟んで向かい側にあるけれど、川越駅などからは徒歩30分かかる。
駅からはバスが出ているので利用しよう。
入館料は200円です。
なかなかお洒落な内装だけれど、トイレは1世代前のもののような気がした。
本質はトイレにこそ表れるのである(ことわざ)
さて、展示室です。
どうせ古代からでしょ、と思ってたら、まさかの江戸時代スタートです。
そんなんアリかね。
「江戸図屏風」という、17世紀前半の江戸近辺を書いた屏風だそうな。
巨大です。
デカすぎて画面に収まらないので、説明用の縮小版を見よう。
川越は右上。
ずいぶん浅草や江戸城に近くないですかねと思うのだが、道路や水運の発達を含めて、心理的な距離感は近かったのかもしれない。
川越藩の大名一覧表。
家康の末裔に連なる松平大和守家であったり、松平信綱・柳沢吉保など老中に出世した人々ら、有力者が藩主を務めていたことが分かる。
江戸に近い分、信頼のおける譜代大名を置いていたということであろう。
17世紀半ばに藩主を務めた松平信綱くんの伝記。
新河岸川の水運発展・川越街道の整備・入間川の堤防強化など、インフラ面で川越発達の基礎を築いた。
川越の祭はこの人が提案者だと言われていて、「町に活気が無いから祭りでもやってどうにかしろ」というのがきっかけだと。
どんちゃんやりましょうね。
家康の次男 結城秀康の家系に連なる松平大和守家は、1767年から100年に渡り川越藩を治めた。
それまで前橋にいたのだが、前橋城は利根川を利用した天然の要害として築いたにもかかわらず、利根川があまりにも氾濫しすぎて城が水没してしまい、修理に金がかかるからいっそ放棄して川越に異動してきた。
異動について、当主の藩主 松平朝矩がとても喜んでいるというのが上掲の手紙である。
ただこの人、川越に到着してから1か月で急死してしまった。
悲しいなぁ。
ご立派な甲冑が展示されております。
中級武士の所有物だったらしい。
上級武士はもっと兜がBOOWYの氷室みたいに派手なんだろう。
加藤清正の兜とかそんな感じである。
この兜は新製品だそうなので、こんな札つけられています。
ケーズデンキかな?
屋根が外されてしまっている家ですが、町の名主の家だそうです。
大きいねぇ。
大都市 江戸が近い川越は商品の供給元として栄えたので、夢のある家を構えられたとさ。
(市の様子)
江戸時代の初期頃は、決められた日にちに市を開催していたと。
川越には10の町があり、それぞれ開催するもんだから、1か月に12日はどこかしらで開かれていたようです。
それもう毎日やったら良いんじゃないかな。
(巨大下駄、ではなくて看板)
時代が下って来ると、自前の建物で毎日販売を行う店が出てきたもんだから、市の意義は無くなって衰退したよ。
毎日売買が行われるほど、経済が発展したということかしら。
武士が居るところには刀鍛冶も居そうなものだが、川越出身の刀工については良く分かっていない。
まぁこの辺、砂鉄とか出なさそうだよね。
そんな群馬の刀工が残した、刀製作図がこれ。
朱書きでコメントまで入ってるよ。
刀づくり勢は参考にしよう(提案)
完成型はこちら。
格好いい(ボキャ貧)
寺社が多かった関係か、学問も盛んです。
数学専門家である「和算家」という人々がおり、算術を教えたり、研究したりしていた。
自身の研究成果を書いて、寺社に奉納したりするらしい。
こんな感じで額に図式が描かれている。
きっと、なんとかの定理なんでしょう(文系脳)
(喜多院の図)
寺社と言えば、川越には喜多院・無量寿寺・氷川神社と大きなのが幾つもありますな。
1608年に家康と対面する機会があり、そのときに議論をして学識を認められ、関東における天台宗は喜多院を頂点として組織されたということである。
家康が死去して日光へ移送する途中、わざわざ喜多院に立ち寄って法会だなんだで4日間も費やしたらしい。
早く運びなさいよ。
ただ家康死後の1625年に上野の寛永寺に、その頂点は移されちゃいましたが。
そんな天海上人、手になにか持っているんですが。
煩悩から解脱できない坊主をこれでブッ叩いて涅槃させるのかな?
なんだか立派な鷹の絵もあるよ。
江戸城の中にあった東照宮に奉納されていたが、紅葉山東照宮の設立に伴い城内の東照宮は無くなったようで、絵は仙波東照宮にやってきた。
やっぱ寺院って金もってますね(ひがみ)
舟の絵。
アメリカ国旗が付いているので、外国船ですね。
幕末の頃には外国船がやたら日本に押し寄せてきているということで、沿岸警備を命じられた藩が幾らかあった。
川越は海なし県だから安心、ではなくて、神奈川の横須賀あたりの警備を命じられたのである
警備のときの絵。
外国船が右上に立派に描かれているのに対して、日本側はなんかフニャフニャしてて弱そう。
川越藩では藩兵のうち2/3も、この湾岸警備に回さねばいけなかった。
おかげで出費が増大。
藩主 松平大和守家ではただでさえ財政が厳しく、すでに給料減額とかやっていたので、たいへん人気が無い大名だったそうである。
もう嫌になっちゃったのか、藩主 松平斉典は「別の土地に異動させてクレメンス」と幕府に工作。
庄内への異動が内定したものの、なんと庄内藩の人民が「来るな」と反対運動を行い、幕府でも将軍死去による交代があったため、内定取り消しになった。
どんだけ人気なかったんですかね。
展示室の中央には、川越のジオラマが。
さすがにサイズがでかい。
城はこっち。
本丸御殿は幕末に建てられたもので、当時のままのが残っております。
江戸時代おしまい。
次の部屋は、町屋通りみたいになっていて、とても良い。
店に入る感じで展示室に入ります。
太田道灌の人形があるのだが。
あれ、江戸時代から昔に遡っていくんですか?
変化球な展示順序だね。
川越城を築城した人と言うことで、太田道灌の一生がビデオ放映されています。
でも3台もTVを横に並べる必要は、あったのかな?
築城は1457年のことで、太田道灌が仕えていた扇谷上杉家は関東管領 山内上杉家と組み、鎌倉公方の足利成氏と関東を二分して争っていた時代。
鎌倉公方は古河とか行田とか東よりだったので、それへの牽制として川越城を建てましたとさ。
なお江戸城も同時期に建てられたが、こちらは千葉方面に鎌倉公方の勢力(馬加氏)が居た為、それへの牽制だとか。
(河越館の跡地)
どう見ても農地ですが、川越城より昔の時代には、河越館というのがありました。
源頼朝に仕えていた河越氏の本拠である。
平安時代になった。
『伊勢物語』の中で、三芳野という土地を舞台した話があるそうな。
川越城の隣に三芳野神社があるが、この辺一帯をかつては三芳野と呼んだのだろう。
しかし都の人々が、川越の一地方を知っているなんて、大した知名度である。
太鼓ではなくて硯です。
やたら広いけど、これだけの墨を摺るのが面倒である。
ついに縄文時代にまで来てしまった。
耳飾り。
もはやどうやって耳に飾るのか分からないが、祭祀用なので実際には着用したりはしないのだろう、きっと。
櫛も、これで髪を梳いたら頭皮グサグサしそうである。
さきほどの町屋通りみたいなところに戻る。
これらは消防団の掲げるやつ。
重さ8kgくらいだそうだが、上部の方に重心があるので、持ってみると結構重いそうな。
火事場にそんなもの持ってかないで、ちゃんと消火に専念しましょう。
川越城下というか、蔵町通りの模型である。
ちゃんと時の鐘もあるよ。
営業業者一覧も残っている。
明治時代のもの。
はっきり名前まで書いてあるな。
これはプライバシー侵害かな(提起)
火事の絵。
1893年に大火に見舞われ、町の1/3が焼失したという話である。
燃えすぎだよ。
焼けた家は赤で示しているそうだが、もうこれ全部燃えてませんかね。
この大火事の後、耐火性のある家を建てようということで、いまの蔵町になりましたとさ。
1895年に川越鉄道(西武線)をはじめ、1914年には東上鉄道も開通。
江戸時代の舟運から、鉄道輸送メインになっていきました。
ただ川越の住人は「鉄道なんかいらねえ」と当初言っていたので、駅は中心街から遠いところに出来てしまった。
おかげで今日、川越城とか蔵町通りとかへの駅からのアクセスが面倒なことになっているのである。
(川越~大宮を結ぶ川越電車の時刻表)
そのあと、街の中心機能の方が駅前に動いて行ってしまい、もとの中心街は侘しくなっていったとさ。
過去の人間の、先見性の無さが光る。
これじゃまずいということで1980年代に町おこし運動が始まり、国からは「重要伝統的建造物群保存地区」とかいう、良く分からんがお墨付きっぽいのを貰って、観光地として盛り立てましたとさ。
あと川越と言えば、さつまいも。
江戸ではそもそも焼き芋が人気であったところ、距離的に近い川越が供給元として芋の増産を行ったようである。
ちなみに焼き芋売りのリヤカーは戦後からの登場。
さつまいもの増産には、赤沢仁兵衛という人が考案した技法が大きく貢献したそうな。
しかし赤沢氏、子供が好きなおイモを作ってる人と呼ぶには、少し表情が怖いっすね。
イモの歴史マップなるものも。
青木昆陽が江戸で広めたのが、なぜか千葉と所沢経由で川越に入ってきている。
あと浦和では突然変異でベニアカという甘いのが出来てますね。
焼き芋と言えば石焼いものイメージだが、江戸時代では平たい鍋で、いも丸ごと焼いていたそうな。
なお夏場は売れないので、その間はかき氷屋をしていた。
こっちは芋を薄切りして焼き、砂糖や蜜を塗って乾燥させた「芋せんべい」。
ポテチみたいである。
うまそう。
展示室の終わりは、やたら大仕掛け。
蔵造りの過程を示しているそうな。
2Fまでぶち抜いて、木組みを立てているよ。
地盤がちょっと緩い地域なようなので、関東ローム層が出てくるまで掘り下げて、そこに基礎となる石を突き込んでいます。
柱や梁を組み上げたら、無事の完成を祈って上棟式。
酔っ払って、柱へし折らないように気を付けましょうね。
これまた2Fまでぶち抜いて、大掛かりに外壁工事である。
そろそろ出口だが、ここで祭りネタ。
ただ馬鹿デカい山車祭は、まつり会館の方に展示が集結しているので、ここでは別の祭りである。
「南田島の足踊り」というもの。
なんと人形を足に括り付けて、頭を床にして、人形を上に突き出して行う劇である。
・・誰がそんなん考えたんですかね。
毎月1回上演会があるそうだから、こんな奇特な演芸に興味がある人はどうぞ。
展示室おしまい。
最後に視聴覚ゾーンに出た。
ここではクイズが出来るようだ。
では、展示室を見てきた成果を試すかな。
わかるか!
以上。
【入館料】200円
【混雑度】★★★(ちらほら)
【滞在時間】90分
【URL】
甲府市藤村記念館
甲府駅前にある、藤村(ふじむら)記念館です。
↑ なんで「藤村」にわざわざフリガナを付けたかと言うと、長野県の方では島崎藤村という小説家が居るため、「藤村」を「とうそん」と読ませたりするからです。
この記念館は、明治初期に山梨県令・県知事を務めた藤村紫朗(しろう)を扱っております。
入館料は無料。
(wikiから)
藤村は熊本藩士の子に産まれたが、脱藩して尊王攘夷運動に参加。
維新後は明治政府の官吏になり、1873年から14年間に渡って山梨県令を務めた。
なかなか長い期間なので、山梨県政の基礎を築いたと言える。
入館して左手の部屋に展示があります。
なんだかムーディーな照明だな。
山梨県令になる前は関西で勤務していたのだが、京都では当時小学校教育に力を入れていた。
その影響で藤村も学校教育の重要性を説いており、全国で4県目というかなり早い段階で、学校開校を行った。
この記念館も、もとは睦沢町というところにあった学校の校舎です。
(日本画風に描かれる藤村氏)
藤村は「土木県令」と呼ばれており、道路工事をじゃんじゃん進めて主要道路の整備を進めていった。
「土木県令」というと栃木や福島県で鬼畜悪人扱いされている三島通庸が思い起こされるが、藤村に関してはさほど悪評は出ていない。
工事の費用を民間人から徴収して行ったので不満分子を作り出し、のちのち資金不足に陥っているが、どちらかというと県民からの評価は良いように見える。
おそらく甲州の街道は武田時代・江戸時代からそこそこ整備されていたので、本格的ど田舎だった東北ほど強硬手段をとる必要が無かったんじゃないか。
(県営製糸場の写真。1870年代頃)
藤村は、甲州でもともと盛んだった製糸業を奨めて近代的工場を建築したり、ワイン醸造も勧奨。
教育・土木・産業と様々な分野で功績を残したので、こうして記念館を作ってもらえましたとさ。
あと、この部屋には藤村先生ご愛用の品々が置かれております。
青龍が刻印されている手あぶり。
印鑑たち。
頑張ったので、天皇陛下から袱紗(ミニ風呂敷)も貰えちゃった。
2Fに登ります。
とても傾斜の激しい階段である。
甲府の夜景がみれるよ。
よかったですねぇ。
バルコニーには出られません。
外の展望は、甲府駅がまあよく見えますねって感じ。
なぜか昔のオモチャ。
小部屋があるけど、特になにも使われていない様子。
大部屋へ。
もと学校と言うことで、それっぽくされてますね。
黒板ないけど。
なぜか雨戸も閉められています。
子供に見せられない風景でも、あるのかな?
どばーっと写真が並べられていますが、全国の擬洋風建築を集めてみたものです。
藤村県令は建築大好きだったようで、とにかく甲州に擬洋風建築を取り込みまくっており、この建物もそれです。
瓦とか漆喰壁など和風要素を使っているのだが、全体としては西洋風に仕立て上げるというのが、擬洋風。
とくに藤村が主導したものはバルコニーあり、てっ辺に塔が付いている等、いくらかお決まり要素があって、「藤村式建築」と呼ばれている。
しかし思いっきり民家がランクインしてるけど、これどこだか分らんな。
実際に行けないところを見せられても、どうしようもできんのです。
熊本のジェームズ邸に至っては地震で倒壊したあとの写真である。
座っちゃいけないんかい!
1Fに降りてきました。
最後に残った奥の部屋にも、若干の展示がありそうです。
こちらは企画展のようだが、展示と言うよりバザーみたいな感じで、オバチャン向け製品を扱っておりました。
記念館の木組みを再現してみたよ。
擬洋風もなにもあったもんじゃないですね。
またまた学校ネタ。
というのを見ておしまい。
以上。
【交通手段】甲府駅すぐ
【入館料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】20分
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