C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

川越市立博物館

 

川越市の博物館です。

川越城とは道路を挟んで向かい側にあるけれど、川越駅などからは徒歩30分かかる。

駅からはバスが出ているので利用しよう。

 

 

入館料は200円です。

なかなかお洒落な内装だけれど、トイレは1世代前のもののような気がした。

本質はトイレにこそ表れるのである(ことわざ)

 

 

さて、展示室です。

 

 

どうせ古代からでしょ、と思ってたら、まさかの江戸時代スタートです。

そんなんアリかね。

 

「江戸図屏風」という、17世紀前半の江戸近辺を書いた屏風だそうな。

巨大です。

 

 

デカすぎて画面に収まらないので、説明用の縮小版を見よう。

川越は右上。

ずいぶん浅草や江戸城に近くないですかねと思うのだが、道路や水運の発達を含めて、心理的な距離感は近かったのかもしれない。

 

 

川越藩の大名一覧表。

家康の末裔に連なる松平大和守家であったり、松平信綱柳沢吉保など老中に出世した人々ら、有力者が藩主を務めていたことが分かる。

 

江戸に近い分、信頼のおける譜代大名を置いていたということであろう。

 

 

17世紀半ばに藩主を務めた松平信綱くんの伝記。

新河岸川の水運発展・川越街道の整備・入間川の堤防強化など、インフラ面で川越発達の基礎を築いた。

 

川越の祭はこの人が提案者だと言われていて、「町に活気が無いから祭りでもやってどうにかしろ」というのがきっかけだと。

どんちゃんやりましょうね。

 

 

家康の次男 結城秀康の家系に連なる松平大和守家は、1767年から100年に渡り川越藩を治めた。

それまで前橋にいたのだが、前橋城は利根川を利用した天然の要害として築いたにもかかわらず、利根川があまりにも氾濫しすぎて城が水没してしまい、修理に金がかかるからいっそ放棄して川越に異動してきた。

 

異動について、当主の藩主 松平朝矩がとても喜んでいるというのが上掲の手紙である。

ただこの人、川越に到着してから1か月で急死してしまった。

悲しいなぁ。

 

 

ご立派な甲冑が展示されております。

中級武士の所有物だったらしい。

 

上級武士はもっと兜がBOOWYの氷室みたいに派手なんだろう。

加藤清正の兜とかそんな感じである。

 

 

この兜は新製品だそうなので、こんな札つけられています。

ケーズデンキかな?

 

 

屋根が外されてしまっている家ですが、町の名主の家だそうです。

大きいねぇ。

大都市 江戸が近い川越は商品の供給元として栄えたので、夢のある家を構えられたとさ。

 

(市の様子)

 

江戸時代の初期頃は、決められた日にちに市を開催していたと。

川越には10の町があり、それぞれ開催するもんだから、1か月に12日はどこかしらで開かれていたようです。

それもう毎日やったら良いんじゃないかな。

 

(巨大下駄、ではなくて看板)

 

時代が下って来ると、自前の建物で毎日販売を行う店が出てきたもんだから、市の意義は無くなって衰退したよ。

毎日売買が行われるほど、経済が発展したということかしら。

 

 

武士が居るところには刀鍛冶も居そうなものだが、川越出身の刀工については良く分かっていない。

だいたい川越藩お抱えの刀工は群馬県出身の集団だったらしい。

まぁこの辺、砂鉄とか出なさそうだよね。

 

 

そんな群馬の刀工が残した、刀製作図がこれ。

朱書きでコメントまで入ってるよ。

刀づくり勢は参考にしよう(提案)

 

 

完成型はこちら。

格好いい(ボキャ貧)

 

 

寺社が多かった関係か、学問も盛んです。

数学専門家である「和算家」という人々がおり、算術を教えたり、研究したりしていた。

 

 

自身の研究成果を書いて、寺社に奉納したりするらしい。

こんな感じで額に図式が描かれている。

きっと、なんとかの定理なんでしょう(文系脳)

 

喜多院の図)

 

寺社と言えば、川越には喜多院無量寿寺・氷川神社と大きなのが幾つもありますな。

 

 

理由としては喜多院の住職を、天海上人がやっていたから。

1608年に家康と対面する機会があり、そのときに議論をして学識を認められ、関東における天台宗喜多院を頂点として組織されたということである。

 

家康が死去して日光へ移送する途中、わざわざ喜多院に立ち寄って法会だなんだで4日間も費やしたらしい。

早く運びなさいよ。

 

ただ家康死後の1625年に上野の寛永寺に、その頂点は移されちゃいましたが。

 

 

そんな天海上人、手になにか持っているんですが。

煩悩から解脱できない坊主をこれでブッ叩いて涅槃させるのかな?

 

 

なんだか立派な鷹の絵もあるよ。

江戸城の中にあった東照宮に奉納されていたが、紅葉山東照宮の設立に伴い城内の東照宮は無くなったようで、絵は仙波東照宮にやってきた。

 

やっぱ寺院って金もってますね(ひがみ)

 

 

舟の絵。

アメリカ国旗が付いているので、外国船ですね。

 

幕末の頃には外国船がやたら日本に押し寄せてきているということで、沿岸警備を命じられた藩が幾らかあった。

川越は海なし県だから安心、ではなくて、神奈川の横須賀あたりの警備を命じられたのである

 

 

警備のときの絵。

外国船が右上に立派に描かれているのに対して、日本側はなんかフニャフニャしてて弱そう。

 

川越藩では藩兵のうち2/3も、この湾岸警備に回さねばいけなかった。

おかげで出費が増大。

藩主 松平大和守家ではただでさえ財政が厳しく、すでに給料減額とかやっていたので、たいへん人気が無い大名だったそうである。

 

 

もう嫌になっちゃったのか、藩主 松平斉典は「別の土地に異動させてクレメンス」と幕府に工作。

庄内への異動が内定したものの、なんと庄内藩の人民が「来るな」と反対運動を行い、幕府でも将軍死去による交代があったため、内定取り消しになった。

どんだけ人気なかったんですかね。

 

 

展示室の中央には、川越のジオラマが。

 

 

この辺は喜多院東照宮

さすがにサイズがでかい。

 

 

城はこっち。

本丸御殿は幕末に建てられたもので、当時のままのが残っております。

 

 

江戸時代おしまい。

次の部屋は、町屋通りみたいになっていて、とても良い。

 

 

店に入る感じで展示室に入ります。

 

 

太田道灌の人形があるのだが。

あれ、江戸時代から昔に遡っていくんですか?

変化球な展示順序だね。

 

 

川越城を築城した人と言うことで、太田道灌の一生がビデオ放映されています。

でも3台もTVを横に並べる必要は、あったのかな?

 

築城は1457年のことで、太田道灌が仕えていた扇谷上杉家関東管領 山内上杉家と組み、鎌倉公方足利成氏と関東を二分して争っていた時代。

鎌倉公方は古河とか行田とか東よりだったので、それへの牽制として川越城を建てましたとさ。

 

なお江戸城も同時期に建てられたが、こちらは千葉方面に鎌倉公方の勢力(馬加氏)が居た為、それへの牽制だとか。

 

(河越館の跡地)

 

どう見ても農地ですが、川越城より昔の時代には、河越館というのがありました。

源頼朝に仕えていた河越氏の本拠である。

こちらは南北朝時代関東管領と争って敗北し、フィナーレ。

 

 

平安時代になった。

伊勢物語』の中で、三芳野という土地を舞台した話があるそうな。

川越城の隣に三芳野神社があるが、この辺一帯をかつては三芳野と呼んだのだろう。

 

しかし都の人々が、川越の一地方を知っているなんて、大した知名度である。

 

 

太鼓ではなくて硯です。

やたら広いけど、これだけの墨を摺るのが面倒である。

 

 

ついに縄文時代にまで来てしまった。

 

 

耳飾り。

もはやどうやって耳に飾るのか分からないが、祭祀用なので実際には着用したりはしないのだろう、きっと。

 

 

櫛も、これで髪を梳いたら頭皮グサグサしそうである。

 

 

さきほどの町屋通りみたいなところに戻る。

これらは消防団の掲げるやつ。

 

重さ8kgくらいだそうだが、上部の方に重心があるので、持ってみると結構重いそうな。

火事場にそんなもの持ってかないで、ちゃんと消火に専念しましょう。

 

 

川越城下というか、蔵町通りの模型である。

 

 

ちゃんと時の鐘もあるよ。

 

 

営業業者一覧も残っている。

明治時代のもの。

 

 

はっきり名前まで書いてあるな。

これはプライバシー侵害かな(提起)

 

 

火事の絵。

1893年に大火に見舞われ、町の1/3が焼失したという話である。

燃えすぎだよ。

 

 

焼けた家は赤で示しているそうだが、もうこれ全部燃えてませんかね。

 

この大火事の後、耐火性のある家を建てようということで、いまの蔵町になりましたとさ。

 

 

1895年に川越鉄道(西武線)をはじめ、1914年には東上鉄道も開通。

江戸時代の舟運から、鉄道輸送メインになっていきました。

 

ただ川越の住人は「鉄道なんかいらねえ」と当初言っていたので、駅は中心街から遠いところに出来てしまった。

おかげで今日、川越城とか蔵町通りとかへの駅からのアクセスが面倒なことになっているのである。

 

(川越~大宮を結ぶ川越電車の時刻表)

 

そのあと、街の中心機能の方が駅前に動いて行ってしまい、もとの中心街は侘しくなっていったとさ。

過去の人間の、先見性の無さが光る。

 

これじゃまずいということで1980年代に町おこし運動が始まり、国からは「重要伝統的建造物群保存地区」とかいう、良く分からんがお墨付きっぽいのを貰って、観光地として盛り立てましたとさ。

 

 

 

 

あと川越と言えば、さつまいも。

江戸ではそもそも焼き芋が人気であったところ、距離的に近い川越が供給元として芋の増産を行ったようである。

 

ちなみに焼き芋売りのリヤカーは戦後からの登場。

 

 

さつまいもの増産には、赤沢仁兵衛という人が考案した技法が大きく貢献したそうな。

しかし赤沢氏、子供が好きなおイモを作ってる人と呼ぶには、少し表情が怖いっすね。

 

 

イモの歴史マップなるものも。

青木昆陽が江戸で広めたのが、なぜか千葉と所沢経由で川越に入ってきている。

あと浦和では突然変異でベニアカという甘いのが出来てますね。

 

 

焼き芋と言えば石焼いものイメージだが、江戸時代では平たい鍋で、いも丸ごと焼いていたそうな。

なお夏場は売れないので、その間はかき氷屋をしていた。

 

 

こっちは芋を薄切りして焼き、砂糖や蜜を塗って乾燥させた「芋せんべい」。

 

 

ポテチみたいである。

うまそう。

 

 

展示室の終わりは、やたら大仕掛け。

 

 

蔵造りの過程を示しているそうな。

2Fまでぶち抜いて、木組みを立てているよ。

 

 

地盤がちょっと緩い地域なようなので、関東ローム層が出てくるまで掘り下げて、そこに基礎となる石を突き込んでいます。

 

 

柱や梁を組み上げたら、無事の完成を祈って上棟式

酔っ払って、柱へし折らないように気を付けましょうね。

 

 

これまた2Fまでぶち抜いて、大掛かりに外壁工事である。

 

 

 

そろそろ出口だが、ここで祭りネタ。

ただ馬鹿デカい山車祭は、まつり会館の方に展示が集結しているので、ここでは別の祭りである。

 

「南田島の足踊り」というもの。

 

 

なんと人形を足に括り付けて、頭を床にして、人形を上に突き出して行う劇である。

・・誰がそんなん考えたんですかね。

毎月1回上演会があるそうだから、こんな奇特な演芸に興味がある人はどうぞ。

 

 

展示室おしまい。

最後に視聴覚ゾーンに出た。

 

 

ここではクイズが出来るようだ。

では、展示室を見てきた成果を試すかな。

 

 

わかるか!

 

 

以上。

 

【交通手段】川越駅本川越駅からバス20分

【入館料】200円

【混雑度】★★★(ちらほら)

【滞在時間】90分

【URL】

museum.city.kawagoe.saitama.jp

甲府市藤村記念館

 

甲府駅前にある、藤村(ふじむら)記念館です。

 

↑ なんで「藤村」にわざわざフリガナを付けたかと言うと、長野県の方では島崎藤村という小説家が居るため、「藤村」を「とうそん」と読ませたりするからです。

 

 

この記念館は、明治初期に山梨県令・県知事を務めた藤村紫朗(しろう)を扱っております。

入館料は無料。

 

wikiから)

 

藤村は熊本藩士の子に産まれたが、脱藩して尊王攘夷運動に参加。

維新後は明治政府の官吏になり、1873年から14年間に渡って山梨県令を務めた。

なかなか長い期間なので、山梨県政の基礎を築いたと言える。

 

 

入館して左手の部屋に展示があります。

なんだかムーディーな照明だな。

 

 

山梨県令になる前は関西で勤務していたのだが、京都では当時小学校教育に力を入れていた。

その影響で藤村も学校教育の重要性を説いており、全国で4県目というかなり早い段階で、学校開校を行った。

 

この記念館も、もとは睦沢町というところにあった学校の校舎です。

 

日本画風に描かれる藤村氏)

 

藤村は「土木県令」と呼ばれており、道路工事をじゃんじゃん進めて主要道路の整備を進めていった。

 

「土木県令」というと栃木や福島県で鬼畜悪人扱いされている三島通庸が思い起こされるが、藤村に関してはさほど悪評は出ていない。

工事の費用を民間人から徴収して行ったので不満分子を作り出し、のちのち資金不足に陥っているが、どちらかというと県民からの評価は良いように見える。

 

おそらく甲州の街道は武田時代・江戸時代からそこそこ整備されていたので、本格的ど田舎だった東北ほど強硬手段をとる必要が無かったんじゃないか。

 

(県営製糸場の写真。1870年代頃)

 

藤村は、甲州でもともと盛んだった製糸業を奨めて近代的工場を建築したり、ワイン醸造も勧奨。

教育・土木・産業と様々な分野で功績を残したので、こうして記念館を作ってもらえましたとさ。

 

 

 

あと、この部屋には藤村先生ご愛用の品々が置かれております。

青龍が刻印されている手あぶり。

 

 

印鑑たち。

 

 

頑張ったので、天皇陛下から袱紗(ミニ風呂敷)も貰えちゃった。

 

 

 

2Fに登ります。

とても傾斜の激しい階段である。

 

 

甲府の夜景がみれるよ。

よかったですねぇ。

 

 

バルコニーには出られません。

 

 

外の展望は、甲府駅がまあよく見えますねって感じ。

 

 

なぜか昔のオモチャ。

 

 

小部屋があるけど、特になにも使われていない様子。

 

 

大部屋へ。

もと学校と言うことで、それっぽくされてますね。

黒板ないけど。

 

 

なぜか雨戸も閉められています。

子供に見せられない風景でも、あるのかな?

 

 

どばーっと写真が並べられていますが、全国の擬洋風建築を集めてみたものです。

 

藤村県令は建築大好きだったようで、とにかく甲州に擬洋風建築を取り込みまくっており、この建物もそれです。

瓦とか漆喰壁など和風要素を使っているのだが、全体としては西洋風に仕立て上げるというのが、擬洋風。

 

とくに藤村が主導したものはバルコニーあり、てっ辺に塔が付いている等、いくらかお決まり要素があって、「藤村式建築」と呼ばれている。

 

 

しかし思いっきり民家がランクインしてるけど、これどこだか分らんな。

実際に行けないところを見せられても、どうしようもできんのです。

 

 

熊本のジェームズ邸に至っては地震で倒壊したあとの写真である。

 

 

座っちゃいけないんかい!

 

 

1Fに降りてきました。

最後に残った奥の部屋にも、若干の展示がありそうです。

 

 

こちらは企画展のようだが、展示と言うよりバザーみたいな感じで、オバチャン向け製品を扱っておりました。

 

 

武田氏の本拠、躑躅が崎館の地形ジオラマのようです。

 

 

記念館の木組みを再現してみたよ。

擬洋風もなにもあったもんじゃないですね。

 

 

またまた学校ネタ。

というのを見ておしまい。

 

 

以上。

 

【交通手段】甲府駅すぐ

【入館料】無料

【混雑度】★★(他に2~3人)

【滞在時間】20分

【URL】

www.city.kofu.yamanashi.jp

 

川越城

 

川越城です。

川越駅本川越駅から歩いてくると20分~30分はかかる。

観光地周遊バスとか出ているので、それを使おう。

 

 

川越城は1457年に太田道灌が築城しましたが、そんな古いものが現存しているわけはなく、ここに建っているのは1848年のものです。

ただ復元では無く、れっきとした本物なので価値は高いというわけ。

 

 

入場料は100円。

安いなあと思うのだが、その理由はあとで分かります。

 

とりあえず廊下を奥に進む。

 

 

最初の部屋は、使番詰所。

 

・・とくに説明が書いて無いので分からんのだが。

「使番」というと文字通り伝令・使者な役割りだが、幕府においては監察官として諸国を回る役職でもあった。

ここでは前者の意味で、領内や他の藩からの使者の待機室みたいな感じじゃないのかね、たぶん。

 

 

次は、番抜・老体詰所。

これまた説明がないですけど、あれですかね、自分で考えろというのが川越藩の方針ですかね。

 

ググったところ、

番抜というのは、「使番」みたいな「番」を抜けた人=退職者。

老体は文字通り老体で、これも退職者。

 

退職したけれど、何らかの役割を与えられた人々の部屋かもしれない。

現代で言うと再雇用枠である、年下の上司と上手くやってくださいね。

 

 

物頭は足軽大将のことなので、歩兵隊長の部屋である。

 

・・しかし、どの部屋も変わり映えしないなぁ。

1部屋10秒くらいで終わってしまう。

 

 

南側に来ました。

ここは「明治棟」といい、まんま明治時代に増築された部分。

 

川越城明治維新を持ってお取り壊しになったが、この地域は川越県・そのあと入間県の管轄となって県庁が設置されたので、庁舎として城の一部分を残して利用した。

その庁舎時代に増築されたと考えられている。

 

 

なお役所として使われた後は、タバコ工場→武道場→学校→武道場とたらい回しにされ続け、1967年から城跡として公開されましたとさ。

 

そんな明治棟は、入城して最初の展示室となっています。

 

 

ただ展示されているのは、川越城修復の模様である。

城の歴史とかは特になし。

そんなものは市立博物館であらかじめ学んで来いということでしょうか、不勉強ですみませんでした。

 

 

修理の時に取り外した、屋根の下地。

明治時代の建築当初からのものらしい。

はえーさっすが太田道灌(間違い)

 

 

庭もありますが、立ち入り禁止です。

きっと白砂の上で成敗されてしまう。

 

 

では江戸時代の部分に戻ります。

 

 

ここは第二展示室。

 

 

子供の落書きでは無く、川越城の見取り図です。

赤い枠線が入っているところが、現存部分ですね。

いまは右下の建物にいます。

右上は家老詰め所。

 

第2展示室もこれくらいでおしまい。

 

 

さっきの旧図だと家老詰め所は離れた位置にあったけど、移築して近づけたので、渡り廊下で繋がっています。

 

 

ところで川越城には本丸と二の丸が元々あり、本丸は将軍来訪時に使う御殿・二の丸は実際の仕事をするところ。

しかし18世紀初頭に書かれた文書によると、本丸に関する記述が無い為、「本丸は取り壊して二の丸オンリーにしたのではないか」と考えられている。

 

将軍の接待所、潰しちゃったんですかね。

お金なくなった?

 

 

二の丸も1846年に火事で燃えちゃったので、もともと本丸が建っていた空き地に、この本丸御殿を1848年建てましたとさ。

城主の住まい・仕事場も備わった巨大なオフィス兼ホームにリニューアル。

 

 

そして家老が実際に仕事をしたり常駐していたのが、この家老詰め所なんだけれど、展示品はやっぱり何もないな!

これではただの和室である。

 

 

庭の風景はちゃんと整備されています。

 

 

いちおう家老っぽい人形が地図を見て睨めっこしてますけどね。

しかし展示品の少なさである。

これなら確かに、入場料100円だわ。

 

 

庭とは反対側に出ると、生け垣が盛大に覆っています。

ここは大名様がおられる場所なのだから、農民に外から見られては困るのです。

 

 

さっさと廊下を戻ります。

 

 

最後に大広間。

来客の待機場所として使っていたそうな。

 

藩主との対面は「大書院」という部屋で行いましたが、解体されてもう無いよ。

 

 

襖には絵が描かれているが、もうボロボロである。

修復してあげてどうぞ。

 

 

埃取りかと思ったら、これ槍を入れる鞘だそうです。

それも日本三大名槍の1本、御手杵(おてぎね)の槍。

 

下総の結城家が所有していたが、そこに徳川家康の次男 秀康が婿入りして槍をGET。

なお結城家は秀康の後、子供の直基に継がれたが、直基は苗字を「結城」から「松平」に変えている(前橋松平家)。

 

 

その前橋松平家は、1767年から100年に渡って川越藩主をしているのだが、大名行列の際にこの鞘を見せびらかして歩いており、絵図にもそれが残っているため、レプリカを作ったんだとさ。

川越の春祭りでも使用されている模様。

 

ちなみに本物は戦時中に焼けてしまいました、残念。

 

 

 

と言うのを見て、おしまいです。

 

しかしあまりにも展示が無く、和室が並んでいる程度である。

市立博物館では様々な展示を扱っていて城に特化している感じでは無いので、川越城の方で城メイン展示をやればいいのにと思いました(客並感)

 

あとはボランティアのガイドさんに喉が枯れる勢いで説明しまくってもらうか、入館チケットを焼き芋つきにして500円で売ろう。

 

以上。

 

【交通手段】川越駅本川越駅から徒歩30分、バス20分

【入館料】100円

【滞在時間】20分

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】

museum.city.kawagoe.saitama.jp

 

 

新しき村美術館

 

ここは毛呂山町にある、「新しき村」です。

何を言っているのか分からないかもしれませんが、ここは新しき村なのです。

新しい!

 

(公式HPより)

 

真面目に話をすると、明治~昭和にかけて活動した小説家 武者小路実篤が提唱したコミュニティです。

自ら住居を建て、食べるものを作り、自然の中で和気あいあいと自給自足な生活をしつつ、芸術的な創作活動も行おうというもの。

 

最初は宮崎県にて1918年から15人の村民により始められたが、そこがダム建設で水没してしまうことになり、1939年に毛呂山町に移ってきた。

なんで毛呂山にしたのかは、知らん。

分かったら追記します。

 

2018年時点でも、8名の村民が居住しているとのことである。

 

 

そのコミュニティの中に、武者小路実篤による絵画を展示する美術館があるので、そこに行った。

武者小路は小説家であるが、作品の中に絵画の話が頻繁に出てくるほどの愛好家であり、自身も製作していた様子。

 

 

ところで美術館の行き方なのだが、徒歩で行く場合、グーグルマップだと「武州長瀬駅から徒歩40分」と出る。

これは罠である!ワナ!

 

まずは上のマップで、Aの地点まで行ってほしい。

A地点の南側にうっすらと点線が続いていると思うのだが、これが農道となっていて、美術館まで繋がっている。

おそらくこの農道は私有地(新しき村の所有地?)であって公道では無いからマップ上出てこないのだろう。

 

 

美術館側もその問題は把握しているのか、武州長瀬駅からの道中、ところどころに案内看板が出ております。

しかし毛呂山町キャラの名前「モロ丸くん」、もうちょいどうにかならんかったかね(嘆息)

 

 

上掲マップのA地点はここです。

一瞬進入をためらう農道ですが、看板は指さしているから堂々と通りましょう。

 

 

周囲は完全に現代的な住宅街と化しているが、ここからは田畑風景である。

村の建設当初は、こんな風景がずっと広がっていたのかもねえ。

 

 

農道を抜けて、普通の道路っぽいところに出た。

道は二手に分かれているのだが、正解はこちら側です。

 

 

 

林の中を抜けていくと、最上部に載せた写真のところへ出ます。

武州長瀬駅からは20分程度。

40分も掛かりませんがな、グーグルマップめ。

 

 

美術館の外には像が飾られているが、村人による作品なんだろうか。

 

なお会員については、村に実際に居住する人々のほか、「居住はしていないけれどお金は出資する」村外会員もおります。

作品は村外会員によるものもあるそうだ。

 

 

ニワトリくん。

村は最盛期で60名の居住会員がおり、養鶏で3億円もの収入を稼いだ時期もあったそうな。

 

 

では中に入りますか。

入場料は200円。

 

 

門の上部には武者小路の揮毫が。

ググったところ論語の一説のようで、「(学問を)楽しむ者は、一番上達する」的な意味があるそうな(意訳)

 

 

楽しむ以前に、扉しまってるし中が暗いから、そもそも開いているのかどうか不安なんですが。

とりあえず貼り紙が出ているので、遠慮なく開けます。

 

受付の人もちゃんといました。

絶対居ないと思ってた(直球)

 

 

内部は美術館部分と、資料室部分に分かれているようです。

まずは資料室から。

 

 

本棚が4台ほどあり、ぎっしり本が詰まっています。

さすが、創設者の全集は揃えてるね。

 

 

全集にも色々なパターンがある様子。

というか、本棚のうち7割くらいは武者小路の著作で埋められている感じであった。

 

 

他の本も読みましょうね。

武者小路がハマっていたトルストイとかドストエフスキーがあるよ。

ロシアでは、文学があなたを愛好する!

 

 

宮崎時代を含めると、1918年から100周年を経過したわけだ、めでたい。

しかし村民の高齢化も進み、人数も減ってきてしまった。

 

そして ↓ の記事にある村民のインタビューを読むと、なんだか消えゆく感じがしますねぇ。

 

withnews.jp

 

 

 

とはいえ熱意がある村民もいた様子。

この棚には、武者小路のどの作品がどの本に載っているかを示す、索引カードが入っています。

 

 

武者小路の作品は、小説だけでなく随筆や感想、他の作家のための推薦文など細かいものも含めると、12,000点にも及ぶらしい。

書きすぎだよ。

 

それら全てについて索引カードを作っちゃった。

気合入り過ぎだよ。

 

 

奥にはTVコーナー。

 

 

壁に掛けられているのは、ゴッホのひまわりの複製。

村外会員である実業家が本物を買い求めてくれたそうだが、その本物は戦災で焼失してしまった。

絵の写真は撮ってあったので、それをもとに復元したという。

 

しかしギラギラしていて恐ろしいヒマワリである。

「花壇にこんなヒマワリが居たら嫌だ」大賞にノミネート。

 

 

ビデオはご自由にご鑑賞くださいとあるんだけれど、肝心のビデオが無いよ。

 

 

メモ書きをなんで壁に貼ってるのかと思ったら、これ武者小路の筆だった。

 

ちなみに武者小路自身は、33歳で宮崎の村を始めたときは居住していたが、40歳で離村して以降、一度も住んでいない。

だから毛呂山の方は、村外会員に留まっている。

あんた言い出しっぺでしょうが。

 

なので村外会員として、時たま居住会員に手紙を送っており、それを残してあるというわけ。

資料室は以上。

 

 

(公式HPより)

 

美術館の方は撮影禁止な気がしたので、画像でお楽しみください。

武者小路による絵画が20点ほど、遺品が10点ほど飾られていたかな。

遺品は徳利とかお茶碗だった、だいたい皆そうだよね。

 

調布市武者小路実篤記念館HPより)

 

武者小路の絵画はこんな感じ。

たしか全部が静物画だったと思う。

野菜や花を、背景真っ白でまんま描いていて、そこに詩句を加えてある。

 

(同上)

 

特にカボチャや玉ねぎが多かったな、気に入ってたのだろうか。

館内には志賀直哉であったり、画家 中川一政からのお褒めのコメントも掲載されている。

 

中川によると、「端正で正面からかいて」いるのが良いのだそうな。

確かに、真正面からどっしりと向き合ってる感じがするよね。

小学生ってこんな絵描くんじゃないかな

 

 

以上。

 

【交通手段】武州長瀬駅から徒歩20分

【入館料】200円

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】

atarashiki-mura.or.jp

 

 

狭山市立博物館

 

狭山市の博物館です。 稲荷山公園駅から徒歩5分の位置にある。

 

 

 

 この公園はわりと規模が大きくて、季節がら花見会場になっており、元気にはしゃぐお子ちゃまや、昼間から飲んだくれるオッサン方の姿が見受けられました(報告)

 

 

入館料は150円。

 

 

展示室はまず企画展から始まるのだけれど、らせん状に1F→2Fへ続く通路に掲示されています。

シャレオツな構造にしてますねぇ。

 

 

2Fに上がって常設展示室に向かいます。

 

 

展示室の手前に茶室があるよ。

狭山には狭山茶があるから、その関連だろうか。

 

 

展示室でございます。

けっこうな規模だね。

 

 

最初に挨拶するのはマンモス君・・ではなくて、もっと小型であるアケボノゾウ。

入間川の沿川で見つかったらしい。

海外では発見されておらず、JAPANオリジナルとされている。

 

 

アケボノゾウの後ろにはステンドグラス・・ではなくて、なんだ?

 

 

どうも市内にある植物の写真を細切れにして、タイル状に貼り付けている様子。

 

 

ちなみに、どこの写真が何を示しているかは、全部この表にまとめられているから、興味がある人は参照してね。

細かすぎて伝わらない熱意である。

 

 

その手前に並べられているのは、昆虫の標本です。

うぎゃー。

 

 

まぁチョウチョとかクワガタとか、人間にもフレンドリーな外見勢が主なので、多少はね。

 

 

打って変わってこちらには、古代生物が描かれている。

ぜんぶ狭山市内に居たのかな(すっとぼけ)

 

 

石炭紀の生物たちです。

 

 

なんとこの時代にはもうゴキブリがいる。

滅んでおけばよかったのに(真顔)

 

 

さて、ここからは歴史ネタです。

縄文土器の数々。

 

 

祭祀ものかと思われる人面把手は、たいへん憎らしくて良い表情をしている。

 

 

竪穴式住居の模型です。

 

 

縄文人の模型もあるよ。

なんかTシャツと半ズボンみたいなの着てるけど、ずいぶん先進的な縄文時代だね

 

 

より盛大な模型はこちら。

 

 

集落のジオラマです。

 

 

颯爽と駆け抜ける兄貴。

 

 

山からの風景。

なんだか広大な感じで撮れてしまった。

 

 

これは「敷石住居」の復元。

床に石を敷きならべる住居があったらしい。

 

それ床ぼこぼこ過ぎて足や尻が死んでしまうのでは?と思うのだが、建築数がごく僅かなことから、祭祀用では無いかと考えられている。

そりゃそうでしょうなぁ。

 

 

奈良・平安時代の住居に飛びました。

庶民の家は侘しいねぇ。

 

 

これは井戸の模型。

ぐるぐると螺旋状に地下へ掘っているが、これは下に向かって真っすぐ掘る技術が無かったから、と言われている。

 

 

ずいぶん下の方まで掘っているが、水が出にくい土地だったのだろうか。

西東京市の方でも似たような井戸があって、あちらも水が不足している地域だった。

 

 

蔵骨器といい、9世紀の骨壺。

やけに大きいし、住居跡から見つかっているから、1人分ではなく、家族・集落単位で骨を入れているのだろうか。

 

 

それにしてもジオラマが多いねぇ。

 

 

稲は1本1本細かく出来ており、製作者の気合を感じられる。

 

 

古銭ぞろぞろ。

寺院跡で発掘された。

こんなに金銭をため込んでいるなんて、やはり神社仏閣は打ち壊すべきである(一揆勢)

 

 

薄暗い空間に来たぞ。

 

 

ボードっぽいものが仕舞われている。

 

 

絵と文字が書かれているが、薄くて読めない。

 

 

傍の机がライトで照らされているので、そこにかざすと見えるという仕組みである。

・・この仕組み、要りますかね(横着並感)

 

 

刀です。

室町時代頃に話が進むが、入間川では砂鉄が取れたので、それを使った鍛冶業が発展した。

 

 

そういや常設展示室の外にも、見事な刀が飾られていたな。

戦国時代に北条氏が狭山を治めるようになると、鍛冶集団は税金を一部免除される代わりに、槍の製作を命じられたそうな。

また銅や鉄を用いた仏像を作るよう、寺社から依頼を受けて生活していた鍛冶集団もあったとさ。

 

 

鉄くずのあまりは「金屎」と呼ばれたようだ。

ひどい言われようだな(憐憫)

 

 

農家住宅です。

ずいぶん広い土地を持っているようで、羨ましいねぇ(僻み)

 

ただ江戸時代になると、狭山は尾張藩の鷹場とされ、鷹狩に来る大名連中を迎えるための費用を負担したり、家の建て方や木の伐採に細かいルールが課せられて面倒であった。

 

 

農機具いろいろ。

 

 

このジオラマは、お茶の製造ついて。

狭山茶ネタですね。

埼玉には中世「河越茶」「慈光茶」というブランド品があったが、どちらもバックアップをしていた寺院が戦国時代を経てボロボロになったので、お茶製造が途絶えていた。

 

その茶の伝統を復活させるべく、19世紀前半に農家が立ち上がって、完成したのが狭山茶でしたとさ。

明治時代には海外輸出も行って、知名度を上げたよ。

 

(茶の葉を摘んでいる風景)

 

という茶の歴史は、お隣の入間市にある博物館ALITで見たのでした。

あちらはお茶展示だけで1フロアまるまる使っているが、名前を冠している狭山市は1部分の展示に留まっている。

これはお茶族議員からの突き上げ待ったなし。

 

 

摘んだお茶を蒸しております。

江戸時代初頭では茶葉を炒るのが一般的だったが、18世紀前半になって永谷園の先祖が蒸す方法を考案し、香りと風味をより爽やかにしたそうな。

 

 

冷ました葉を大きさごとに選別し、揉んでおります。

 

 

あとは壺に保存して、出荷である。

めでたしめでたし。

 

 

農家の中を覗いてみよう。

 

 

囲炉裏です。

 

 

これはきっと熱燗をつくる器具だな。

そうにちがいない(決めつけ)

 

 

置いてある徳利は「帝松」のほか、「部長の酒」「社長の酒」とかいうキワモノ気味な銘柄を出している松岡醸造ですかね。

日本で最も硬度の高い水で酒造りをしているという酒造であり、一風かわった味を出していると私は思っている。

 

ただこの酒造、狭山市じゃなくて小川町なんだよなぁ・・

 

 

盆栽みたいなものに白い団子?を突き刺している。

この団子はたぶん蚕を示しており、養蚕が上手くいくことを願う品じゃないかな。

 

入間市博物館にも似たようなのがあったからね。

なんだか復習をしているようである。

 

 

そして養蚕とくれば蚕の写真です。

うぎゃー(2回目)

 

 

養蚕についてもジオラマにしております、やっぱ好きなんスねぇ。

 

 

宿場町の模型。

日光街道脇往還が通っていたとのことで、八王子~行田~羽生~佐野と続いて、日光へつながる日光例幣使街道にぶつかる。

 

 

 

wikiに、現在版復元マップが載っていた。

わかりやすい。

全部の街道について、誰か作ってくれないかな(投げやり)

 

 

街道沿いと言うことで賑わっております。

特に結婚式などのイベントもの。

 

 

これが披露宴で出される食事、豪華だねえ。

嫁を迎えた家で行い、その家の女性たちが料理するそうな。

〆には手打ちうどんが出されたようです。

 

 

入間川の水運に関する展示。

何を運んでるかと言えば、飯能など山地で採れた材木である。

商品自体を筏にして、江戸まで搬送します。

 

これ、帰路どうすんのかね。

歩いて帰ってくるのかしら。

疲れそう。

 

 

そんな面倒くさがりなアナタに朗報なのは、電車とバスが通ったことです。

よかったね。

 

 

電車は1895年の話で、地元のマネー持ち達により、川越鉄道が敷設。

国分寺~川越間とのことなので、今の西武国分寺線新宿線の一部、と思っておけばいいであろう。

 

(丸慶自動車の乗車券)

 

バスは1926年から丸慶自動車が営業を開始し、入曽駅を中心にして川越や入間市駅方面に路線を伸ばしていた。

現在は西武バスに回収されております。

 

 

戦争が近づいた1938年には陸軍の航空士士官学校が作られたよ。

敗戦後にはアメリカ空軍に進駐されてジョンソン基地となり、全面返還は1973年。

現在では航空自衛隊の基地ですと。

 

 

もう終盤になってきたが、あとは狭山由来の商品についてである。

 

狭山には現在酒造は存在しないのだが、かつては「久星(きゅうぼし)」という大きな酒造があり、県内に幾つも酒造場を持ち、さらに兵庫の灘にも進出。

しかし1960年代頃に埼玉からは撤退し、灘に絞って「国冠酒造」として販売するようになった。

 

残念ながら1995年の阪神淡路大震災により蔵元が大打撃を受けて、そのまま廃業してしまったらしい。

 

 

酒瓶の隣には、バレーボール。

特に説明が無かった気がしたが、狭山市にボール会社でもあったのかな?

 

 

製品名は「入間ボール」ですけどね。

上部に「イルマボールイルマボールイルマボール」と無限ループで書いてあるのが、何となく狂気を感じる。

バグったファミコンの画面みたい。

 

 

思いっきり時代が前後しますが、馬車鉄道の大きな展示があります。

入間と飯能を結んでおり、1901年に開通して、1日15往復していた。

 

意外と本数あるな。

西武秩父線と良い勝負じゃない?(1時間に3本。うち1本は特急)

 

 

んで最後に、HONDAの車。

近未来型ですか?と思ったら、スポーツカーの上部部分だと。

紛らわしい!

 

そして特に説明が無いのだが、狭山にHONDAの工場でもあるのかな。

まぁいいや(雑)

 

 

以上

 

【交通手段】稲荷山公園駅から徒歩5分

【入場料】150円

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★(ちらほら)

【URL】

sayama-city-museum.com