箱根北原おもちゃミュージアム
箱根湯本に、北原照久のコレクションを飾ったおもちゃミュージアムがある。
箱根湯本駅から徒歩5分程度だが、この辺のスポットを回る無料バスもある。
駅からここまでは結構きつい上り坂なので、行きはバス利用の方が良いかもしれない。
2館構成であり、左側が①で右側が②。
どっちの館でも受け付け出来るけど、順路通り①から。
入館料は2館共通で1300円。
同じ北原照久シリーズである「横浜ブリキのおもちゃ博物館」は入館料200円であり、けっこうな差があるが、観光地ということで多少はね?
鉄人28号がお出迎え。
受付を通って最初の展示室へ。
予想通りの、ブリキのおもちゃコレクションである。
なお相変わらず逆光しまくりの写真ばかりになってますが、申し訳ナス。
まずは明治~昭和までのブリキのおもちゃたち。
おもちゃミュージアムは写真撮り放題なのが嬉しいところである。
アメリカ人の額にハチが乗っている「好人物」。
ハチは日本を表しており、ちっぽけな日本が暴れたところでアメリカは気にしないという風刺であるらしい。
時代を感じさせる兵隊さん。
これまた時代を感じる近未来もの。
小田急もしっかり宣伝しています。
部屋の真ん中にあるバイク。
これだけはおもちゃでなく、本当にバイクだった
2Fへ。
ダンボではなくて、マンボ。
これならディズニーは気づかないと思ったのだろうか。
お馴染みの、シンバルもった猿
昔のミッキーは、中国も驚きのクオリティである。
ハチミツ食べるどころか、ハチミツに浸かっているプーさん。
みなさん、だいぶお変わりになられたようで。
大量の人形(焦燥)。
白い人たちだけでなくて、アフリカンな方々もいます。
やけにいかつい赤ん坊たち。
「忠実なる犬」
忠実要素はありましたか(すっとぼけ)。
フロアの真ん中あたりに、北原照久氏のインタビュー映像。
ブリキのおもちゃ集めが高じて横浜山手にミュージアムを作ったのが、大ヒット。
全国に同様のミュージアムを開設し、好事家があっという間に実業家になってしまったのだと。
2F奥の方はアメコミなど海外作品もの。
サンダ~バ~ド~。
蛍光灯では無くて、ライトセーバー。
1Fに降りたら、お土産コーナー。
ウナギイヌのケース。
でも中に置いてある商品は全然違った。
2館目へ。
こちらは企画展であり、このときはミニチュア展だった。
舞台は、昭和や大正など、昔懐かしな時代が多め。
クリエイターらによる展覧会である。
原稿を散らかしているのは、江戸川乱歩らしい。
左側の編集者に追われているというネタ付き。
とにかくミニチュアハウスが続くので、以下だらだら貼ります。
豆腐屋。
店番の婆さんは爆睡中。
路地裏。
正統派ドールハウスげなやつ。
ニューヨークの廃墟じみた高層ビルの間にぽつんとある北原おもちゃミュージアム、という設定。
こちらも仮想ミュージアムだが、横浜のおもちゃミュージアムと似ている。
これは実在の、北原照久の別荘である。
もとは宮家の所有であり、8億円もしたそうだ。
おもちゃって儲かりまんなあ(小並)。
映像コーナーでは、機械仕掛けで動くおもちゃの展示。
このおもちゃでは、右側に女性が横たわり、その左側に電気ノコギリがある。
機械が動くと、女性が電ノコの方に流されて処刑されるという、だいぶろくでもない展開。
最後のゾーン。
まずは巨大なキューピー。
なにか企んでいる感じの目をしている。
昔のレコードやCDがずらずら。
古い人も居れば、まだ現役の人も居ます。
レコードで埋まらなかったスペースには、おもちゃを敷き詰めている。
これにて2号館もおしまい。
想像以上にボリュームがあるので、観光地設定の入場料でもまぁ納得というところ。
しかし同様のミュージアムを全国に建てているので、北原氏のコレクションの多さには呆れる驚くばかりである。
以上。
【交通手段】箱根湯本駅から徒歩5分
【入館料】1300円
【混雑度】★★★(館内にちらほら)
【滞在時間】60分
【URL】箱根北原ミュージアム/トップ
深澤銭洗弁天
社があるのは箱根湯本方面のホーム。
湯本方面から来た人は、あの階段を登って上り線側のホームへ。
グーグルマップだと湯本駅から塔ノ沢まで徒歩15分ってあるんだけど、完全に山の中だから15分じゃ着かない気がする。
この銭洗弁天は、松井証券の創業者である松井房吉が建てたもの。
夢枕に白い蛇が現れたことがキッカケなんだと。
なんで蛇の夢を見て弁才天になるのかというと、蛇は弁才天の使いだったり、弁才天が蛇そのものだったりするからである。
もともとインドでは弁才天は川の神様。
一方、日本では蛇は湿地に生息してネズミなどの害虫を食べるので、水神として崇められたりしていたらしい。
それで両方の信仰が結びついて、蛇=弁才天という繋がりになったんだと。
また蛇=竜という考えもされていたため、手水は竜である。
手水は2か所あったんだけど、もう片方はずいぶんと簡素である。
伊勢原の比々多神社にもあった絵。
当時の神社界で流行った絵なのだろうか。
本堂。
なぜかカエルの石像がたくさん。
蛇を祀る神社だから、蛇にエサとして捧げる用なんだろうか(無慈悲)
沢の水を引いているので、たいへん水気のある神社である。
足を踏み外したら即死。
奥の方へ。
5mほどで、中宮。
ちなみに冒頭で話した松井房吉だが、この人は凄腕の投資家であった。
1920年に株価が大暴落した際、投資家の中でただ一人その変動を読み切って巨万の富を築き、日本橋兜町でその名を恐れられたという。
塔ノ沢駅前に福住楼という旅館があり、そこへ松井房吉は毎週のように通っていたらしい。
蛇の夢も、そこで見たのだろうか。
なおこの旅館は1泊25,000円以上する高級旅館である。
やっぱ投資家ってクソやな(貧並感)
その松井氏も、2次大戦終戦時には持っていた株券が紙くずになってしまい、所有する不動産以外には財産が無い状態になってしまったという。
仕方ないね(ゲス顔)
それで、こちらが奥宮。
玉子を捧げると、その玉子が薬に変化するらしい。
なんということでしょう。
奥宮の参道の脇には、池。
水がとても澄んでいる。
キングボンビーみたいなのが居る。
ここで銭を洗って、その銭を使うと、お金持ちになれるらしい。
さっそく、ホームの売店でお札を買いましょうね(販促)
以上。
【交通手段】塔ノ沢駅構内
【入場料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】20分
【URL】
横浜市八聖殿郷土資料館
この建物は、政治家である安達謙蔵が別荘として建築したもの。
安達は熊本藩士の家に生まれ、1902年に衆議院に初当選すると、それから14回連続当選。
所属した政党では選挙対策役を務めて勝利を導きまくったため、かの徳富蘇峰くんからは「選挙の神様」と呼ばれている。
「憲政の神様」とか「選挙の神様」とか、神様が多い時代である。
この八聖殿、みるからに変な形をしているが、これは法隆寺の夢殿という建物を模倣しているという。
これが法隆寺の夢殿。
どりーむ。
玄関。
別荘として使われたのは1F部分で、2F部分は講堂であったり、また精神修養の場として利用されたという。
精神修養?
安達は長期にわたって憲政会および後身の民政党という政党に所属して辣腕をふるっていたが、この別荘ができる前年の1932年は彼がその民政党から追われて脱党した年であった。
当時は軍部が台頭していた時期であり、それを不穏に思った安達は対立政党の政友会と結んで挙国一致内閣を作り、軍を抑えようと画策した。
しかし音楽性の違いのため構想は頓挫して、安達の権威も失墜する。
1Fの写真。
そのあと安達は政治の中枢から外れ、そのまま1942年に議員を引退。
そういう時期なので、メンタルを落ち着かせるために精神修養していたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない(投げやり)。
ただ1937年には早くも横浜市に寄贈されており、わずか4年しか本人に使われていない。
郷土資料館として整備されたのは1973年とのこと。
それまでどうしていたのかは知らないが、ともかく郷土資料館らしく横浜の歴史を飾っている。
横浜はとにかく埋め立てまくっている土地なので、当時このあたりは岬だったらしい。
you are here
だから別荘として使われていたのだと。
これが1949年の航空写真。
真ん中下段に張り紙ついているが、これが八聖殿の位置。
これが1997年。
さあ、海が余ってる子は、どんどん埋め立てちゃおうねー
ちなみに八聖殿の裏の丘から海方面をみるとこんな感じ。
工場萌えする人以外はあまり得しない風景である。
埋め立てネタはいくつか。
これは横浜市金沢のあたりのbefore
after。
なんということでしょう。
埋め立てネタで一番ポピュラーなのが、吉田新田。
関内のあたりは入江だったが、江戸時代に吉田さんが埋め立てちゃった。
埋め立ての経緯。
完成。
真ん中オレンジ部分に外国人を閉じ込めておき、本土に上がるには関所を通らないといけない。
こうして外国人居留地は関所の内側=関内、という地名の出来上がり。
というわけで昔は海だったので、この辺の住民は漁師であった。
漁に使われる道具たち。
郷土資料館って農具は沢山置いてあるけど、海関係の道具はあまり見ないな。
貝の中身を取るのに使う包丁。
便利そう。
船。
五郎丸と書いてあるが、ラグビーの人とは関係ないと思われる。
突然のオルガン。
上にはまた何故かトトロ。
1Fのもう一つの部屋。
パズル。
誰か途中で諦めたらしい。
ここは海苔特集。
本牧では海苔をよく作っていたらしい。
海苔づくりの道具たち。
作り方まで書いてあった。
なんでも、海苔の胞子は冬になると海から勝手に海上へ上ってくるので、網を張ってその胞子を捕まえて育てるらしい。
光の反射で見えづらいが、海苔を捕まえる網の模型。
左側に付着している黒いのが、海苔だと思われる。
そのあとは海苔がちゃんと育つように注意しつつ、収穫。
網を引き揚げる際にちぎれて海に入ってしまった海苔も、ちゃんと拾う模様。
市電の写真も。
詳細は市電保存館にGO!
2Fへ。
壁には、横浜で行われる祭りの写真。
かなりの数がある。
こんな感じ。
最初に置いてあるのは「お馬さま」である。
本牧あたりの祭祀で、災厄をこの馬に乗せて海へ流してしまうというイベント。
「馬」と言いつつ、馬なのは頭だけで、身体は亀である。
ウマガメ。
本牧の6つの村の分を、羽鳥家の当主が代々作るらしい
イベントは8月に行われる。
まず馬を本牧神社へ連れていく。
失礼の無いように、馬さんは頭の上に担いでお連れしないといけない。
神社で祈祷。
馬さんはそのまま神社で一泊する。
夕飯はスイカ。
翌日になると、馬さんは氏子である各村を回り、災厄を引き受ける。
もちろん、馬さんには失礼の無いように、頭上に担がないといけない。
そんで村を回って災厄を馬に乗せたら、船で海へ出て馬を流す。
なお海まで来たら、ダッシュで船まで走って大急ぎで出航し、海に出て馬を流したら、また大急ぎで陸まで戻ってくる。
馬に乗せた災厄がこっちに戻ってこないよう、急いでやってるらしい。
さっきまでさんざん馬をもてなしていたのに、熱い手のひら返しである。
そして気になるのが、この像たち。
これらは安達謙蔵が、「僕の尊敬する最高の8人」を選出して、ここに飾るために作らせたものである。
メンバーはこちら。
左から順番に記載している。
一番左に飛び出ている観音菩薩像だけは、別に安達リクエストではなく、知り合いから頼まれて預かっただけらしい。
像の製作者にも相当こだわっており、さっきのメンバー表にも書いてあるが、錚々たるメンツで固めている。
そのうち一番右の日蓮像を作ったのは、日本サッカー協会のトレードマークたるヤタガラスをデザインした日名子実三であるという。
あとはお決まりの農具コーナー。
ぬり絵。
難易度すごい高そうなのは気のせいだろうか。
「ジャモカモ」。
「蛇も蚊も」。
由来は不明らしいが、これを編んで担いで泥の田の中に入り、そのあと各家の表から裏へ抜けて、最後は海中に流すと、家の中の悪神が退治できるという祭祀。
蛇はともかく、泥まみれで家上がられるくらいなら蚊の方がマシな気がするが(震え)
2Fおしまい。
外に出たら、水道も八聖殿の形してた。
以上。
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★★★(1部屋に2~3人)
【URL】横浜市八聖殿郷土資料館
馬の博物館
馬の博物館は、根岸森林公園内にある、馬全般についての博物館である。
この公園は、戦前まで横浜競馬場として、競馬が開催されていたところである。
色んな理由があって今は公園になっているが、それは後述。
馬をそこかしこに潜ませている。
入館料は100円とお安い。
競馬で儲かっているから余裕があるのだろうか(偏見)
入館そうそう大きな馬がお出迎え。
建物は外から見ると小さい感じなのだが、地下に展示室が3つあるので案外広い。
1Fは受付の他、この第1展示室。
ここでは横浜競馬場および日本競馬の歴史が話されている。
日本競馬の歴史は、横浜開港からである。
外国人たちが居留地で競馬をはじめ、1866年には江戸幕府主導でこの根岸に競馬場の建設が決定。
これは1870年の写真で、中央に競馬場が写っている。
でも周囲ほとんど砂っぽいんですが、それは大丈夫なんですかね。
初期の競馬運営体は外国人ばかりだったが、それら組織をまとめて1880年発足した日本レースクラブには日本の政府要人や宮家なども加入。
社交・外交の場となり、不平等条約改正に貢献したとも言われる。
伊藤博文の馬主服。
ここ根岸を発祥として、日本各地に競馬が広まった。
しかし賭博行為は違法であったため、日本人による競馬では馬券販売が認められず、収益を上げられないそれら競馬場はアッサリ廃れた模様。
一方で治外法権を得ていた外国人たちは、日本国内法に拘束されず、馬券販売を行っていた。
おかげで横浜競馬は発展したわけだが、なんか皮肉な感じもする。
競馬場の模型。
そんなんで賭博禁止な明治政府だったが、一転して1905年から馬券発売を容認する。
理由は、馬匹の育成のため。
日本在来の馬は、西欧のと比べると大層貧弱だったらしく、日清日露戦争でそのことが明白になる。
競馬業界で優秀な馬を育てて富国強兵ww的なノリである。
その競馬業界を活性化させるため、馬券販売を「黙認」したという大人の事情。
これを受けて各地で競馬が盛り上がり始めるが、ずさんな運営・賭博中毒者の続出・アウトレイジな方々のご登場などが続出し、1908年には馬券禁止になる。
はえーな、オイ。
写真の嘆願書は、横浜競馬の日本レースクラブさんサイドが「うちは昔から馬券販売をやっていて、他のポンコツ競馬場とは違うから、販売認めてクレメンス」と書いてある(意訳)。
とはいえ政府としては馬をどげんかしないといけない。
実際、馬券禁止したことで観客は激減していた。
よって馬券販売は禁止するが、その代わりに補助金を出すことで、競馬場の運営を支えようとする。
ただ競馬場は競馬場で、「景品」を用意した馬券を販売していた。
どこかのパチンコみたいである(遠い目)
天皇賞のトロフィーとやら。
まぁしかし今度は補助金が増大して財政を圧迫したり、陸軍が強く主張したので、1923年に競馬法が成立し、馬券販売が再び合法となる。
ギャンブル厨歓喜。
1936年には軍部統制が強まる中、競馬場も全国の組織がまとめられて「日本競馬会」が誕生。
居留外国人のみの競馬だった時代から、複数の組織を統廃合して続いてきた日本レースクラブ(1906年からは「日本レース倶楽部」)の歴史はここで終わることになる。
2次大戦が激化していくと、横浜競馬場の運営も1942年に休止。
翌年には「港が見下ろせてしまう」という理由で海軍に接収される。
終戦後は米軍に収用されてしまい、返還は1969年である。
戦後当時は競馬場として復活が望まれていたが、さすがに20年以上たつと競馬もより大規模化してきて、横浜競馬場を近代的に作り直すのは無理っぽくなってきた。
というわけで、森林公園として整備したんだと。
以上、歴史おわり。
なお日本競馬会は、終戦間もない8月29日に日本政府に対して競馬場の払い下げを求めている。
早すぎィ。
ここまでで既に文量が多くなっているが、まだ地下があります(白目)
第2展示室はかなり広い。
なお個々の展示品は著作権が発生する可能性があるので、撮影は限定されている。
大っぴらに撮影できるのは、民家を移築したゾーン。
川崎民家園にもあったが、東北地方にあるL字型の家である。
室内の様子。
馬の餌を煮たり、洗体用のお湯を沸かす窯。
縦も横もでけえなあ。
馬もいます。
廊下に戻る。
左は企画展で、撮影禁止。
右に行くと、第4展示室。
廊下にはずいぶんな馬車が置いてある。
外国の大使公使を送迎するためのもの。
休憩室は、いきなり会議室っぽい内装。
こちらが第4展示室。
ここでは馬そのものの歴史を扱っている。
ジェネラル・スタッドブック。
サラブレッド馬の品種を記載している。
この厚さだと、サラブレッドってやたら多いんでしょうね(計算放棄)。
馬の骨(真)
馬に鐙などの馬具を付けるコーナー。
なお付けるだけで、この馬に乗ってはいけない模様。
乗りたい人はこちらへ。
公園の遊具みたいだけど。
馬には余すところがない、ということで、馬から作られる製品。
まさかの馬肉。
モンゴルなど遊牧民地帯では、馬乳酒という酒があるらしい。
その際に使う道具だとか。
文字通り、馬の乳から作るが、アルコール度数は1%しかない。
モンゴルでは赤ん坊にも飲ませているので、宴会用では無くて最早ヤクルトである。
あなたの馬力をはかる機械。
このバーを手前に引く。
馬力の定義はこれらしいが、この定義は国ごとに異なるので、これもうわかんねえな。
こちらは馬のコミュニケーションの仕方を表現する機械。
ボタンを押すと、いろいろやってくれる。
ボタン押さなくても、耳の部分動かすとか、勝手にやっているが。
以上で博物館終わり。
公園内にはポニーセンターなる施設があり、馬と遊べたり乗馬できたりする。
誰もいないが、けっこう広い。
厩舎を覗くと、ちゃんと馬がいた(当たり前)。
ちなみに馬は食物の消化効率が悪いため、一日の6~8割ほどの時間を食事に費やすらしい。
確かに、彼らもずっと食べていた。
公園内は馬にちなんだ名前やオブジェばかりだが、なぜかトイレへの標識だけはお化けである。
以上
【入館料】100円
【滞在時間】45分
【混雑度】★★★(一部屋に2~3人)
【URL】馬の博物館
横浜市三殿台考古館
三殿台考古館は、横浜市磯子区にある三殿台遺跡に関する資料館である。
地下鉄の弘明寺駅から徒歩15分。
三殿台遺跡は高台にあるため、険しい階段を登っていくことになる。
くぅ~疲れました(老並感)
敷地入って右手にある建物は、たぶん事務棟だから関係ない。
遺跡はこちら。
その左手にあるのが、考古館である。
建物内部は左半分が事務室であり、資料館部分は右半分という結構なミニチュア。
三殿台遺跡には、縄文・弥生・古墳の各時代のムラ跡が残っている。
BC25世紀~AD6世紀まで対応するという、相当な幅の広さ。
写真小さくて分かりづらいが、古代の横浜近辺は海である。
三殿台は下側の半島の付け根あたりだが、高台にあって海も近いため、防衛や食料入手が容易い位置として人が住みやすい場所だったようだ。
縄文時代の土器や石器。
自由に触れます。
黒曜石は相当鋭いので、扱いを間違えるとYOU DIEDされてしまうかもしれない。
クソの化石。
そんなの残さないでクレメンス。
狩猟時代だからか、絵がやたらダイナミックである。
市立博物館もそうだったが、横浜市は説明用漫画には気を使っているようである。
弥生時代。
磨製石器なので、すべすべしている。
カビでも培養しているのかと思ったら、炭化した米だった。
稲作の証拠である。
土器の蓋。
まれなものらしい。
古墳時代の土器。
縄文や弥生と異なり、もう紋様はほぼ付いていない。
付けるの飽きたのだろうか。
古墳時代以降は大型の土器は少なくなり、小さな器が増えていったらしい。
カマドの作り方。
ご丁寧に断面図まで。
弥生時代には漏れなく須恵器も付いてきます。
壁には貝塚を写し取ったのが飾られている。
張り付いている貝の数はさほどない。
埋蔵文化財センターのやつは気味悪いくらいビッシリだったが。
アホそうな人形。
考古館おしまい。
外の遺跡を見て回る。
イノシシがいる。
近くにあるバケツの中には弓矢。
これであのイノシシを仕留めろということだろうか。
地面に打たれている杭は、別にこの上を歩いて平衡感覚を鍛える用ではなく、古代の住居があった範囲を示している。
なおこの遺跡で、ゆずがアルバムブックレットの写真撮影をしたらしい。
彼らも遺跡好き兄貴なのだろうか(適当)
奥に見える建物の中にも住居跡がある。
なにかの実験で使っているので、ここだけ建物で保存している模様。
建物の向こう側には、復元住居が。
中に入ることもできる。
これは弥生時代の住居。
暗いなあ(当然)。
さらに奥に2棟ある。
ゲルみたいな形。
壊れかけの住居なので、入れなかった。
修復のための予算付けてくれよなー、たのむよー。
3つめ玄関に屋根があって、他よりもスタイリッシュ。
古墳時代のだからだろう、きっと。
中にはカマド。
便器ではない。
縄文~古墳時代にかけて、270もの住居跡が見つかっているのだと。
穴だらけですねえ。
以上。
【交通手段】弘明寺駅から徒歩15分
【入館料】無料
【滞在時間】40分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】