豊島屋本店ギャラリー鳩巣
鎌倉の鳩サブレで有名な豊島屋本店の2Fには、鳩のギャラリーがある。
お客さんの大半は鳩サブレ目当てなので、店内は混雑していてもギャラリー自体は空いてたりする。
ギャラリー名は「鳩巣」
やっぱ(鳩)好きなんスねえ
ライトアップが激しいので、写真がテカテカするでござる(安カメラ並感)
まず目につくのは、鳩をモチーフにした工芸品。
外国のハトと思わしきものたち。
これも白鳥では無くて、鳩である。
鎌倉の鶴岡八幡宮は白いハトが居ることで有名なので、鎌倉民にとっては白い鳥=ハトなのかもしれない。
鶴岡八幡宮に詣でるハトの皆さん。
別のケースには、西岸良平の『鎌倉ものがたり』がずらーっと並んでいる。
映画化するそうなので、企画モノかもしれない。
『鎌倉ものがたり』は1984年から連載している超ロングな漫画である(ボキャ貧)。
この作品の鎌倉では、妖怪や幽霊が跳躍跋扈したり、江ノ電が異界へ繋がったりするなど、ずいぶんとんでもないことになっているらしい。
田舎を馬鹿にしすぎなのでは(白目)。
いきなり文字が多くなるが、鳩サブレ誕生の経緯を説明したものである。
公式HPでも読むことができる。
明治時代、豊島屋の初代である久保田久次郎が外人から貰ったビスケットの美味しさに感動し、日本にはまだ存在していないこの菓子を作ろうと思ったのがきっかけだという。
試作品を知人の船長に食べさせたところ、おフランスのサブレーなる菓子に似ていると言われた。
ちなみにビスケットはバター:薄力粉=1:2だが、サブレーは1:1なんだってさ。
サブレーの由来は分かったが、なぜハトなのかというと、この久保田久次郎が鶴岡八幡宮を信奉しており、ハトは八幡神の使いである。
そして鶴岡八幡宮の境内にはハトが沢山おり、子供たちが親しんでいたため、ハトをモチーフにお菓子を作ろうと思い立ったと。
ついでだが、ハトは1万年前ほどから人類によって飼育化されており、人間との関わりは深い模様。
強い帰巣本能・優れた方向感覚から、遠方に連れて行っても家に帰れる。
よって伝書鳩としての役割が有名だが、第二次世界大戦では小型カメラを装着させて偵察として飛ばした軍もあり、案外最近まで使われていたのだった。
あと食用にもなるけど、雑食なので、野生のハトは美味しくないと思われる(残当)。
ハトリョーシカ。
なお久保田久次郎さんは頑張って鳩サブレを作ったものの、時代を先取り過ぎて明治時代の日本人はサブレに馴染まず、当初は人気なかったらしい。
評判が上がり始めたのは鳩サブレ売り出しから10年後のこと。
なぜかネコ。
関東大震災では店舗が倒壊するなど壊滅的被害を受けたが、めげない久次郎どのにより鳩サブレはヒット商品に。
なんて書いてあるか分らんが、初代の時代のものかと思われる看板。
そんなんで発展した豊島屋も、戦争の被害は甚大。
お菓子工場は軍需産業の下請けとして使われてお菓子製作どころではなくなり、戦争中は当然の事、終戦後も物資が限られる。
久次郎は鳩サブレ復活の夢を見つつ、それが叶う前に亡くなったという。
かなしいなぁ(哀悼)
ところで鳩サブレばかり有名な豊島屋だが、それ以外にも良いお菓子は沢山あるので、そっちの方もみてくれよなーたのむよー。
白黒の器。
ハトの色をベースに豊島屋が作ったのかと思ったら、この店舗敷地で発掘された焼き物だった。
なお鳩サブレのライバルとして、ひよこサブレなるものがあるらしい。
歴史的には明治時代からある鳩サブレの方が古いのだが、ひよこサブレ発祥の地である福岡ではサブレといえばひよこであり、また東京にも進出して着々と鳩サブレの隙を窺っている模様。
以上
【交通手段】鎌倉駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】20分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
市ケ尾横穴古墳群
横穴墓とは、段丘とかに文字通り横穴を掘って、そこを墓とするものである。
5世紀後半から九州で始まり、8世紀頃には終焉した。
市ヶ尾の古墳は6世紀~7世紀にかけて作られたものであるという。
646年大化の改新の一連で「薄葬令」が出された。
身分ごとに作って良い墓の規模を決め、人馬の殉死を禁止するなど、葬礼を簡素化するものである。
これによって大規模な古墳は作られなくなり、その代わりに横穴墓が増えていったという。
ベンチ兼地図なのだが、古墳なみの年代物のようなやられっぷり。
入口は右下。
まずは左奥のA群から見に行く。
こんな感じ。
A群には12の墓がある。
塞がれてしまっている穴もあれば、
ガラス越しに見られるのもあり、
そして中に入れるものもある。
中は当然だが、なにがあるわけでもない。
ガラス張りの箇所にもパターンが幾つかあって、ここは窓の上に人感センサーが設置されている。
近づくと内部の照明が点灯する。
中には副葬品としてこんなものがあるらしいんだけど、暗くてよく見えないのよね。
あと穴の内部は3か所に分けられている。
一番奥の棺桶安置場所が、玄室。
そこに至る廊下部分が、羨道。
入り口部分が、前庭。
横穴墓は家族の墓であり、亡くなった家族は共通して1つの穴に葬っていた模様。
A群から、B群へ向かう。
こちら。
基本は先ほどと同じだが、こちらは人感センサーの他に、窓にワイパーが付いている。
内部と外の気温・湿度差で窓に水滴がガンガン付着しているので、右上の黒いのを動かして自分で拭けということ。
こちらの窓は人感センサーがなく、窓の上のボタンを押して明かりをつけろとのこと。
予算尽きたのかしら。
ただそのボタンが破壊されていたり、クモの巣だらけだったりしたので、無事スルー。
横穴墓からの景色図。
でも目の前おもいっきり山林で、まったく見えないのですが(困惑)。
以上。
【交通手段】市が尾駅から徒歩10分
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
つる舞の里歴史資料館
ここは大和市にある歴史資料館である。
入口。
しかし屋根の材質が、下鶴間ふるさと館の古民家と同じ気がする。
あちらは江戸時代の建築で、こちらは平成になってからの開館なのだが。
中は古民家っぽい。
なぜかキンチョールの看板。
事務室側。
ご自由にご覧下さいの資料ゾーン。
TVのうしろにヤマトン@スライムverが潜んでいる。
すごろく。
資料ゾーンの横には、なんだか盛大な建物が。
トイレだった。
その盛大なトイレの前には、蔵っぽいものがある。
こちらは資料保存室となっており、中には入れない。
写真は公式HPから。
しかし平成年代につくられたせいか、やたら内装は凝っており、こちらが予算状況について不安になってしまう。
盛大なトイレの前には、展示が色々。
まずは鶴間の変遷。
現在でこそ鶴間は町田市・相模原市・大和市の3市に分かれているが、15世紀までは1つの郷だった。
それがこんな感じで、3分割されてしまったらしい。
つまり鶴間民は、欧米によって国境を線引きされてバラバラになってしまった中東の民族と同じだということだろう(論理飛躍)。
次は鶴間の名の由来について、2説書いてある。
その②説では、「鶴間地域を通る境川が大きく蛇行している形が弓の弦(つる)を思わせる」ため弦間→鶴間という。
室町幕府の目録に「弦間郷」という名で記載されているらしいので、この説が有力な気はする。
地名に関しては伝説が書いてあるが、いずれも「鶴が飛んだから」みたいなノリになっている。
そしてここから本格的な展示コーナー。
動物たちとの大きさ比べ。
鹿も象もでけえなあ(当然)。
木の冷蔵庫。
上の段に氷を入れて、下の段に冷やすものを入れるらしい。
隣に三菱の箱があるが、特に説明は無し。
明かりシリーズ。
こちらは電話シリーズと、余ったスペースにタイプライター。
おなじみ、石器の皆さん。
ただ貸し出し中の道具が結構あるので、イメージでお楽しみください。
林間都市計画について。
戦前、中央林間のあたりは雑木林であったが、小田急が江の島線を開業することに伴い、その一帯を都市開発しようとした。
分譲住宅の購入者には3年間小田急の乗車券が与えられ、また都市内に松竹撮影所のほか、力士育成所(強そう)なども作ろうとしたという。
しかし当時はまだ都心までの通勤時間が長すぎたり、住宅分譲価格が高すぎて、計画はポシャッてしまった。
開発が進むのは、1984年に東急の田園都市線が乗り入れてからで、中央林間の開発は東急によって進められることになる。
なお小田急は自社路線が通る中央林間一帯の開発を計画しており、鶴間はその中に入っていなかった模様。
模型。
大和市にあった深見城である。
まあ城といっても山城だし、築城時期も廃城時期も城主すらも不明であるという。
現在はその近くに下水処理場が建てられている。
以上。
【交通手段】つきみ野駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】大和市/つる舞の里歴史資料館
下鶴間ふるさと館
下鶴間ふるさと館は、大和市にある古民家展示施設である。
施設敷地への入り口はこちら。
公衆トイレかと最初間違えてしまった。
建物は1856年に建築されたものだが、なんだか新しめに見える。
屋根とか特にツルツルした感じ。
横にある蔵は1918年の建築だが、こちらは入れない模様。
というわけで母屋の方に入場。
土間がコンクリート打ちっぱなしなんですが、江戸時代って現代的だったんやなぁ(すっとぼけ)
まずは郷土資料館おなじみの模型。
「とりあえず模型」的な思考が行政にはあるのだろう。
矢印が付いているのが、下鶴間ふるさと館である。
左側にある大きめな道路は、「矢倉沢往還」。
矢倉沢往還は、江戸の赤坂から相模を経て、静岡の沼津へ至る、昔からの主要道である。
その街道の殆どは、現在の国道246号となっているので、相当な大動脈であったことが伺える。
整備されたのは江戸時代だが、道自体は平安時代から存在していたらしい。
南足柄の矢倉沢というところに関所が設けられていたため、それで矢倉沢往還。
下鶴間は矢倉沢往還の宿場町として栄えた土地であった。
そしてこの建物は街道に面する商家だったという。
今の246号は少しそれた位置にあるため、建物が面しているのはこの狭い道路。
ただ狭いわりに交通量は結構あり、油断していると轢かれてミンチにされそうになるので、当時は大街道であったことを否が応でも思い起こさせてくれる。
模型横の広大なスペースは、テナント募集中。
展示品入れ替え時期だったのだろう。
見取り図。
商家の店部分。
置いてあるのは主に薬。
毛生え薬は当時からあったらしい。
まーた髪の話してる。
毒掃丸。
ネーミング(直球)がよろしい。
正露丸の展示解説。
日清・日露戦争で陸軍は大量の脚気による死者を出したが、それがビタミン不足だということが分からず、なんの効果もない正露丸を患者に服用させていたとのこと。
一方で海軍は脚気の原因が米食にあることを把握しており、麦食に変えたので脚気被害者は殆ど出なかった。
補給線という考えも無かったし、やっぱ日本陸軍ってクソやな(便乗)。
でもこの展示って、下鶴間自体に関係あるのかしら(当然の疑問)
なお当時の陸軍軍医だった森鴎外は、現在でも戦犯にされている模様。
ちょうちん。
ごりごりと粉末にする道具。
薬関係の展示が多いから、薬メインの商家だったのだろうか。
なんど。
通常は物置スペースだけど、この建物では居室としても使う。
座敷にも展示品いろいろ。
送り状というもの。
強制送還とかではなく、住所を移すときに発行する。
住民票の移転手続き書類みたいなものか。
なんとピストルである。
往来が多いと、悪いものも現れたんだろうか。
こわいなー、とづまりすとこ。
この座敷の床の裏側に、なぜか漫画みたいな落書きがあったらしい。
写真の真ん中にある板がそれなのだが、逆光で見えなくて申し訳ナス。
神棚。
建物がやたら新しめな中、これだけは時代相応な感じがする。
奥座敷。
奥座敷からみえる景色。
広い庭ですねえ(適当)。
以上。
【交通手段】鶴間駅からバス5分「下鶴間」下車。徒歩1分。
【入場料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】大和市/大和市下鶴間ふるさと館
尾崎咢堂記念館
尾崎咢堂記念館は、相模原で尾崎咢堂を記念している館。
尾崎咢堂とは、「憲政の神様」尾崎行雄(1858-1954) のこと。
相模原と言っても左上の 田舎 津久井の方なんで、もう少し行けば山梨県突入である。
ひろいなぁ相模原。
(尾崎行雄記念財団ホームページ から)
国会発足したばかりの明治期から、大正デモクラシー・昭和のファシズム・戦後の混乱とGHQによる再構築まで、日本国政をフルコースで経験してきた人。
選挙区は三重。
第1回目の選挙(1890年)で当選し、1953年に落選するまでずっと衆議院議員の座を保ち続けた。つよい。
三重県の人だけど、尾崎家はもともと津久井の人であり、尾崎行雄もここで生まれている。
その尾崎家の屋敷敷地に、記念館を建てましたとさ。
外観だと開いているのかどうか結構わかりづらいので、看板で開館を知らせています。
こちとら橋本駅からバスで40分近くかけて来ているのだから、閉館してたらガッカリである。
入場料は無料です。
館内に入ると、まずは15分程度のビデオ上映。
尾崎行雄についての概要紹介である。
尾崎家は、この村の名主だった。
写真の右側に居る、サンタみたいな帽子被っている人が尾崎の父である。
この父親、自分の村のことなどよりも天下国家を論じる方が好きだった模様。
時代は幕末で戊辰戦争の頃、新政府軍に所属していた安岡良亮という人物に惚れて付いてってしまい、会津にまで戦いに行っている。
あんまり責任感とか無さそう、部下としてはいいけど上司にすると面倒なタイプ(社員並感)
しかしこの行動が功を奏し、戦後は新政府から東京にて官職をあたえてもらった。
というわけで尾崎一家そろって上京(11歳の時)。
親父の方はそのあと高崎→伊勢→熊本と転勤が連続。
伊勢の時に土地を買い、ここがのちのち尾崎家の本拠となり、選挙区となる。
熊本転勤は16歳の時だが、ここで尾崎は父について行かず、上京して慶應義塾に入学。
ところが1年半で退学してしまった。
能力は高かったが理想も高すぎて教師たちと衝突していたのが原因だという。
これは反抗期だな(確信)
(尾崎のヒット作『尚武論』)
そのあとは工学寮に移るも1年で辞め、次に塾講師の仕事を得るがここでは評判が良くなく、尾崎の授業は「幽霊講義」とか言われていた。
きっと暗いトーンで授業をしたのだろう、私の学校にもそういう先生が居て「ゴースト」と呼ばれていた。
しかし一転して20歳の時、新潟新聞の主筆(首席記者)に就任する。
明治時代は若くして重要な公職に就く人が多数いたが、20歳で主筆はこの時代でも大抜擢だろう。
ここで『尚武論』なる論文を出すと結構ウケて、中央政界に出ていく基礎となる。
(福沢諭吉と尾崎の記念切手)
新潟新聞に推薦したのは福沢諭吉だった。
慶応時代の尾崎は反抗期だったわけだが、有能さは福沢の目に留まっていたらしい。
このあともたびたび力添えを得る。
そういうわけで、尾崎と福沢の記念切手がセットにされております。
(尾崎先生の像)
尾崎の20代は1880年代だが、民権派が「国会開設しろ」と大盛り上がりしている時代である。
尾崎も立憲改進党に所属するなど活動に加わるが、民権派の活動は活発になり過ぎて、中には集会に刀を持ってくるようなおバカさんまで出てきてしまい、政府の監視の目が強まる。
「保安条例」なる法規が施行され、危険分子の東京追放が断行。
尾崎は別に過激な事してなかったようだが、民権派の中心に居たので追放の対象に。
この命令の理不尽さに愕然としたので、「愕堂」という雅号を名乗り始める(それまでは「学堂」と名乗ってた)
(雅号の印。まったく読めないが)
なお「“愕”堂」を「“咢”堂」に改めたのは1912年のこと(54歳)。
りっしんべんを、“愕”の字から取り去った形なのだが、「老いて立身の気持ちが衰えてきたから」という理由。
つまり自虐ネタ。
(教科書にも登場するが、近年の「暗記科目やめよう運動」の影響で名前削除の恐れが微レ存?)
保安条例のせいで東京退場にされてしまった尾崎だが、「東京どころか日本から退場してやらあ(意訳)」と欧米視察旅行に出かけてしまう。
ただお金は無かったので、立憲改進党のバックに付いていた三菱の人に支援してもらったらしい。
そんなんじゃ、こっちも愕然ですよ(座布団没収)
(いろんな書)
追放処分が解除されて帰国し、1890年の第1回選挙に三重県で立候補して当選。
以後、1953年の落選まで議員であり続け、日本記録となっている。
その間いろいろあり過ぎるので割愛するが、目立つ出来事としては
・1896年、外務省参事官をやっていたが足尾銅山鉱毒問題で田中正造とガチバトルになり危うく殴り合いをやりかける
・1898年に文部大臣になるが、失言して内閣総辞職を引き起こす戦犯になる
・所属政党や会派を20回以上も変えており、「おさき真っ暗」と揶揄される。政党なんてコロコロ出来たり消えたりするが、それでもズバ抜けた回数。
(演説をレコードにしてみました)
変な事ばかり書いたが、一番有名なのは1912年、桂太郎内閣の弾劾決議案。
首相人事が山県有朋・桂太郎ら長州の陸軍閥によって牛耳られており、特に桂は「天皇詔勅を使って政敵を攻撃する」という天皇利用をしていると批判轟々の時であった。
決議案の説明のため登壇した尾崎は「(桂は)玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とする」とぶち上げ。
玉座を胸壁とし(桂は天皇の影に隠れて)、詔勅を弾丸とする(天皇の発出する詔勅を操って政敵を追い落とそうとしている)、という意味だろう。
国会史上屈指の名演説と言われている。
もっともレコードにされているのがその演説自体なのかどうかは分かりませんが。
その演説より前のことになるが、1903-1912まで東京市長を務めている。
就任直前の尾崎は、妻の病気が悪化しており、また自身のメンタルがだいぶヤバい状態であったので、「息抜きに東京市長にならないか」という誘いを受けて承諾した。
息抜きで市長やるって、シムシティ感覚ですかね。
この時は議員と市長の兼任が出来たので、議員記録も途絶えておりません。
東京市長のときに、アメリカのワシントンへ桜3000本を送っている。
日露戦争の時にアメリカは外債購入・講和仲介など支援をしてくれたので、そのお礼にということらしい。
まぁアメリカはロシアが撃退された後の中国に進出したい思惑があっただけだが。
どうして桜かというと、時の大統領であるタフトの夫人が桜好きだったから。
だが桜寄贈の第1弾は、苗に害虫が付いていたので、アメリカの検疫所で全部捨てられてしまった(脱力感)
なのでそれ以降はかなり慎重に苗を選んでおります。
アメリカからもお礼でハナミズキを貰っているのだが、行方不明らしい。
人のお礼品を無くすとは、それこそ愕z(略)
ちなみに三重にある尾崎記念館には1本だけ残っているそうな。
記念館の外に立っている桜は、ワシントンに送ったやつの子孫を分けて貰い、里帰りを果たしたとのこと。
(メガネメガネ)
昭和になると軍部の台頭・ファシズムの暴走という風潮になり、5.15事件に代表されるような政治家暗殺事件も続発する。
尾崎は1931年から講演依頼を受けて渡米・滞欧しているのだが、日本にいる後援会の人たちからは「しばらく帰国しないように」と要請。
軍拡反対・国際平和主義を唱えていた尾崎なので、日本に留まっていたら間違いなく襲撃されているだろう。
1933年に帰国し、当初神戸港に降りる予定だったが「右派が“歓迎”の準備をしている」情報が入ったので、横浜港に変更して逗子に滞在している。
なお不在中に選挙が行われたが、普通に当選した。
強い(確信)。
(1953年落選時。wikiから)
帰国後も翼賛選挙をこき下ろすなど歯に衣着せないスタイルだったので、特高警察が警護している。監視の役目もあっただろうが。
終戦時にはもう87歳になっており、本人はそろそろ辞めたかったようだが、周囲が勝手に選挙の立候補手続きをしており、出たら当選ということでまだ現役。
ただ95歳、1953年の選挙で落選。
その翌年に死去した。
90代まで議員をやるなんて、そもそも国会で発言できるのだろうか(驚)
というわけで津久井の大スターである尾崎だが、故郷には戻ってこずに最期は逗子で亡くなり、菩提寺は鎌倉の円覚寺である。
記念館のガイドさんも言っていたけど、この辺はど田舎だからね、仕方ないね。
参考文献はこれ。
以上。
【交通手段】橋本駅からバス40分「奈良井」下車、徒歩15分
バスの本数は10分に1本程度
【入館料】無料
【滞在時間】40分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】