吉野ヶ里歴史公園
吉野ケ里遺跡は邪馬台国だった!!・・・かもしれないところの1つだそうです。
邪馬台国が登場する『魏志倭人伝』の中に「倭の村の様子はこんなんじゃった~」って記述があるわけですが、吉野ケ里で発掘された村の様子がそれに一致するのだ。1980年代調査時は大いに盛り上がり、マスコミが殺到するわヘリコプターは飛んでくるわ、見学会をやったら2日間で1万人来るわの大騒ぎだったらしい。ワラスボの売上も5倍増くらいになったかもしれない。

(最初にワラスボ食べた人はよほどの猛者か、酔っていたに違いない。写真はwiki)
アクセスですが、この公園かなり大きいので入場口が幾つかあります。
電車民は吉野ヶ里公園駅から東口、もしくは神埼駅から西口。メインゲートは東口ですが、公園を西→東へと無駄なく横断したい方は西口入場もアリ。ただ店やレストランは東口に集中しており、たぶん西口には何もない。

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あと吉野ヶ里公園駅、駅名のわりに公園に近くなくて体力無い勢には大打撃である。
吉野ケ里町のコミュニティバスが数時間に1本。北口の案内所にレンタサイクル(電動は無いかも)、タクシー会社直通の無料電話機あり。この日はかなり暑かったので私はタクシーにしましたが、片道700円程度でした。

東口ゲートに到達。2001年開業と比較的新しいこともあって、施設はきれいです。入場料は460円で中学生以下は無料。国営公園なので料金は全国統一なんですな。
写真撮り忘れたけど東口にあるレストランでは古代米「赤米」や、当時の人々も食べたと思われる有明海の魚貝類を使ったメニューがあるよ。なぜかチャンポンもあるけどそれは長崎だよ。

では公園に入っていきますが、敷地が相当巨大ですので、全部回ると半日はかかるだろうし足の逝去が予想されます(軟弱)
公式HPを見ると、西口の方は遊具場、北の方は木と林と森。遺跡として重要なのは東側一帯のようなので、青矢印のとおりに回ることにしました。


東口ゲートを通ると環濠集落の入口。吉野ケ里は弥生時代としては国内最大級の遺跡ですが、その周囲をぐるっと囲む形で環濠が掘られてます。幅は5~6m、深さは3m。この規模を掘るには、大人10人で1日1mしか進めないそうです。環濠の総延長は数㎞あるようなので、大人数を動員できるパワー系権力者の存在を伺わせます。


集落に入って南側に行くと「弥生くらし館」。館内では遺跡の概要ムービーが流れているので、このあと回るスポットの予習として見ておくといいかも。
勾玉づくりなどの体験プログラムが行われているようですが時間の関係でカット。


西方向へ向かうと集落「南の村」。親の顔より見た竪穴住居と高床倉庫が並んでいます。集落は他にもありますが、あとで見るような厳重な警備が敷かれていないので、吉野ケ里の一般弥生人男性が生活していたようです。

竪穴住居では、室内に入って飲食ができます。これは他地域の竪穴住居にはない区別化要素ですね。普通は飲食禁止だからね。まぁ土煙がこもる暗い室内で食べる食事はどうなのか知りません。弥生人も使ったと思われるコンセントがありますが、現代人は使用禁止とのことです。

北に向かうと、環濠と柵で囲まれている「南内郭」に当たります。さっきの集落と違い防衛機能が備わっているので、吉野ケ里における高貴な身分の方々が居たようです。

環濠集落の入口と同じく、ここにも鳥居がありますが、たぶん現代オリジナルと思われます。神社じゃないから一礼しなくて良いよ。
公園HPによると古代では鳥が信仰対象となっており、鳥をかたどった木製人形・姿の描かれた絵画がよく見つかるそうな。稲を加えて飛び立っていく鳥の姿がなんか神のお使いみたいに見えたんですかね。そいつ稲を盗んでるんだと思うんですが。
そんなんで、鳥をモチーフにして鳥居を建ててみたんでしょう。


大層なやぐらも建っており、一帯を見渡すことができます。周囲は佐賀平野なので障害物もなく、遠くまで見渡せたのかもしれません。現代でも高い建物が無いので、観光に来た福岡県民あたりから「弥生時代と変わらないじゃん」などと煽られてしまいそうであり、鳥栖市民は佐賀県民にもかかわらず福岡に同調しそう。


南内郭の中にはさらに柵で防護されている区画があります。吉野ケ里の指導者たる「王」の邸宅です。勢力範囲はこの公園内だけでなく、周辺地域一体まで含む「クニ」の支配者なのです。

王の屋敷はどこが違うのかというと、なんとベッド付きなのだ。いや写真では分かりづらいですが、左下に布が敷いてあるところは他の床より一段高いのです。高級ホテルのようだ。ハイアットリージェンシー吉野ケ里。

なお王の家のすぐ横には王の妻の家が作られているので、王は妻に逆らった瞬間に家庭内別居を突き付けられる恐怖と戦うことになります。妻問婚なのかどうかは知らないよ。心なしか、王の家より大きい気がするよ。


遺跡展示室がありました。何が嬉しいかって、冷房があることです。公園内に日陰があまりないので暑い日はだいぶ死ねる。
館内では吉野ケ里に関する具体的な解説を見られます。自販機もあります。


遺跡で見つかった人骨たち。刀傷や矢傷を受けているものが多く、また右の写真の骨は首が無いそうです。稲作の始まりは良い土地を巡っての争いの始まりでもありますが、吉野ケ里でも大乱闘、粉砕玉砕大喝采が多かったことを示しています。


そんな争いの日々でも弥生人はオシャレには気を遣っていたようで、頭にガラス製菅玉を巻いてみたり、腕にシルバーじゃなくて貝の輪っかを巻いてみたりしています。頭にガラス、太陽を浴びて額の温度だけ90℃くらいになりそう。

さらに北へ進むと、また柵で囲まれた「北内郭」があります。住居があった南内郭と異なり、巨大な楼閣や祭殿をはじめとした祭祀施設で占められています。
ちなみに楼閣とかやぐらとか本当に当時あったの?と疑問が浮かびますが、発掘された柱穴のサイズや設置間隔から建物の階層や規模が分かり、あとは中国の古代建物記録を参考にしてどういう用途の建物なのか推定しているそうです。楼閣の姿は、奈良で発掘された土器に描かれたものをベースに設計されましたとさ。


楼閣は2階層になっており、中層階(左の写真)では宴会じゃなくて政事の最中です。最上階では巫女さんがお祈り中です。
邪馬台国の模様を再現しているようです。魏志倭人伝では「一人の女王が居て、その下に長官やら次官やらが居る」って記述があるそうですが、女王たる卑弥呼はお祈りする仕事をしていて、その下の階で幹部連中が政務を執っているという感じ。
さて、「吉野ケ里=邪馬台国」説ですが、北内郭・南内郭などが根拠になっているようです。
魏志倭人伝「女王が就任して以来、その姿を見た者は少ない。楼観・城柵があり、守衛が付いている」旨の記述があるらしい。ここまで見てきた環濠・やぐら等の防衛機能から、城柵や守衛は当てはまりそうです。楼観はさっき見た楼閣ですかね。んで祭祀者たる女王は北内郭に籠り、それ以外の重臣たちは南内郭で生活。それなら一般人は普段会わないね。
そんなんで、吉野ケ里の姿は邪馬台国の記述と合うところが多く、発掘当時は盛り上がったとさ。
ところで邪馬台国は畿内説と九州説に分かれていて、九州説=吉野ケ里かと思いきや、九州説もさらに分化してるんですね。糸島・太宰府・大分の宇佐神宮・熊本、など様々。ありすぎだよ。もう大川隆法先生に頼んで卑弥呼の背後霊を召喚して訊くしかないのではないか。それで全然違う場所いわれたらどうしよう。「群馬」「港区」「テノチティトラン」とか。


もう疲れたので終わりにしたいですが、最後に「北墳丘墓」を見ます。
BC1世紀に作られ、大規模なので権力者の墓と目されますが、100年にわたり13の棺が埋葬されています。棺は甕棺という北九州特有のもので、甕の中に遺骸や副葬品を入れて葬るスタイル。だから2000年たっても風化せず、保存状態のいい人骨や道具が発掘できるそうです。新鮮で活きのいい人骨。

墳丘墓を見終わったら東口に戻りますが、ナイスタイミングで園内バスが来ていた。20分に1本と、けっこうな頻度で走ってます。広い園内を行ったり来たりしてHP尽きたら乗りましょう。
おしまい
【混雑度】★★★(他の客がちらほら)
【滞在時間】3時間
【読んだ本】
【URL】