佐賀県立 九州陶磁文化館
陶器と磁器は「陶磁器」と一緒くたに呼ばれてますが、違いってなんでしょうね。
簡単に言うと、陶器は粘土をこねて焼いて作るもので、土があればできるから日本全国で作られてきました。1万2000年前の縄文土器が既にそれ(写真は長野の博物館で撮ったもの)
(左が陶石、右が磁器の有田焼)
一方で磁器が国内で初めて生産されたのは1610年代と、縄文時代に比べればかなり最近です。陶石というガラス質の岩石が原料だから、明らかに土である陶器とは質感が全く異なり、金属質。皆さんが普段家庭で使っている食器も磁器なんじゃないですかね。
んで、この磁器が国内で初めて生産されたのが佐賀県の有田焼。江戸時代には海外にばんばん輸出されて西欧の貴族や富豪らの蒐集品となり、世界的な名声を誇るようになりました。なお伊万里にある港から出荷されたので、江戸時代では「伊万里焼」と呼ばれます。
なんだ、佐賀にも誇れる所があるじゃないか。佐賀県民は自虐的過ぎて世間へ宣伝しないのが問題なので、もっと自己肯定感を高めるべきである。毎日佐賀牛を食べることで福岡県民にマウントを取るとか、はなわを抹殺するとか。
なので九州陶磁文化館という磁器の博物館が有田にあります。
有田駅からは徒歩10分ちょっとですが、山の上にあるので暑い日の往路は軽く死ねる。私は駅前のタクシーを使いました。
けっこう規模が大きいですが、入館料はなんと無料(特別展開催時のみ有料)。すごいぞ佐賀県。
館内で特筆すべきは第5展示室の「柴田夫妻コレクション」。夫婦そろって有田磁器を収集しており、それが博物館に寄贈されているんですが、数が10,000点以上。あなた方それまでその磁器どこに仕舞ってたんですかね。尋常なじゃない収納スペースをお持ちのようだ。
なお柴田さん自身は大富豪ではないようで、100円ショップで買物する姿が目撃されています。(インタビュー記事)
このコレクションがすごいのは、有田焼が登場した1610年代から幕末にかけて、各年代の品を網羅的に揃えているので、完成精度や作風の変遷が分かるようになっていることです。
左の写真は1610~30年代の有田焼草創期に製作されたもので、背景の白が濁っており線描が太くて色塗りもはみ出していますが、1660~80年代に作られた右の写真ではそうした点が全て洗練されており、技術の進歩を感じ取れます。
有田焼の変遷については後段でまた触れます。
コレクターはもう一人いて、蒲原さんという方は海外輸出された有田焼の収集家。西欧の王侯貴族むけに作られた高級品は海外でないと手に入らないので、ひたすら買って国内に戻す。そんな苦行の成果がこちら。「王宮に置かれていた」等の付加価値まで上乗せされているからお値段を訊く気になれません。
磁器の製造方法や変遷の歴史を学ぶコーナーですが内容がかなり細かいので結構な覚悟が必要です。私はこの「陶器磁器の大陸からの変遷」図を見ただけで頭が痛くなりました。
九州各地の陶磁器をまとめた展示室がこちら。磁器は有田の生産力が強すぎたり、鍋島藩が保護政策を取ったこともあって産地の数は限られるようですが、陶器を含めると古代から作っているだけあって九州だけでも相当な数になるようです。
あとちょっとした休憩処が館内にあり、カフェと軽食メニューがあります。食事はカレーとスパゲッティくらいしか無いので、思いっきり食べたい人向けではないね。
写真撮ってないですが、当然のように器は磁器での提供。普段使いのスーパードライも味変する可能性が微レ存?
このカフェで休憩している時、地元のおじいちゃんと思わしき人が他の唯一の客で、「どこから来たの?」と話しかけられたんですが、あとで店員さんから「あの人、人間国宝の方ですよ」と教えられたのが今回のハイライト。
館内については、こんなところですね。
有田焼の変遷について。
なぜ有田が国内磁器発祥の地かというと、材料である陶石が見つかったことの他、豊臣秀吉が朝鮮出兵で連れ帰った朝鮮人職人が有田へ磁器製造方法を伝えたからです。磁器は陶器よりも高い温度で焼成するけども、その温度が出せる「登り窯」が必要だったのだ。朝鮮出兵にも良い面があったということが意外でならない。
(草創期の有田磁器)
褒められてしかるべき朝鮮人職人。しかし当時の磁器は中国からの輸入に頼っていたので、日本市場で需要があるのは中国風の青い染付の品。朝鮮ではそんなの作ってないから、職人たちは苦労しながらそのスタイルを追求したと思われる。かわいそす。
(柿右衛門様式の作品)
草創期の17世紀前半はなんだかやぼったい作品ばかりだが、半ばを過ぎてくるとかなり洗練されるのはさっきも見ました。この頃、中国では明末の混乱期で、貿易できなくなった西欧各国の磁器需要が日本にやってきます。純白の余白を活かしつつ絵画のように繊細なタッチ、明るい色合いが外国人好みだったようで、これに適合して確立されていくのが有名な「柿右衛門様式」だそうな。
ただ17世紀末には全然違うことになっちゃうんですけどね。金や赤などのカラーを用い、びっしりと紋様を描きこむ、見た目にもド派手な「金襴手」が席巻します。高校の時はまじめだったのに都会の大学に進んでチャラくなった。
なお海外ではこれが「古伊万里」(有田焼のこと)と呼ばれたので、古伊万里=金襴手と認識されているそうな。地元にいる時とイメージが違うよ。
輸出品製造業者はウハウハだったと思われますが、18世紀も半ばになると中国の動乱も終わって磁器輸出が再開しており、日本へのお問い合わせは減っていきましたとさ。国内市場開拓の必要が生じ、柿右衛門は相変わらず高級路線だが、庶民の手に届く安価な品の大量生産も行われました。
装飾は唐草模様がブームになりますが、たこ足とも言われるウネウネした絵柄や、ここまでする必要があったのかと疑うほど画面全体ビッシリ葉で覆いつくす強者も登場します。右の写真は解説文で「ゲジゲジみたい」と書かれている。食器として使ったら食欲減退間違いなし。嫌いな客が来た時に出すと良い。
文字数多くなってしまったので、こんなところですかね。
という感じでした。最後の写真がゲジゲジなのもアレなので、柴田夫妻寄贈のウサギさんで心を落ち着けましょう。
おしまい
【滞在時間】3時間(喫茶ふくむ)
【混雑度】★★(ほかに数人)
【URL】
【読んだ本】
「古伊万里入門」 九州陶磁文化館
「日本やきもの史」 矢部良明