C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

下鶴間ふるさと館

 

下鶴間ふるさと館は、大和市にある古民家展示施設である。

 

 

 

 

 

施設敷地への入り口はこちら。

公衆トイレかと最初間違えてしまった。

 

 

 

 

建物は1856年に建築されたものだが、なんだか新しめに見える。

屋根とか特にツルツルした感じ。

 

 

 

横にある蔵は1918年の建築だが、こちらは入れない模様。

 

 

 

というわけで母屋の方に入場。

土間がコンクリート打ちっぱなしなんですが、江戸時代って現代的だったんやなぁ(すっとぼけ)

 

 

 

まずは郷土資料館おなじみの模型。

「とりあえず模型」的な思考が行政にはあるのだろう。

 

 

 

矢印が付いているのが、下鶴間ふるさと館である。

左側にある大きめな道路は、「矢倉沢往還」。

 

 

 

矢倉沢往還は、江戸の赤坂から相模を経て、静岡の沼津へ至る、昔からの主要道である。

その街道の殆どは、現在の国道246号となっているので、相当な大動脈であったことが伺える。

 

整備されたのは江戸時代だが、道自体は平安時代から存在していたらしい。

南足柄の矢倉沢というところに関所が設けられていたため、それで矢倉沢往還

 

 

 

下鶴間は矢倉沢往還の宿場町として栄えた土地であった。

そしてこの建物は街道に面する商家だったという。

 

 

 

今の246号は少しそれた位置にあるため、建物が面しているのはこの狭い道路。

ただ狭いわりに交通量は結構あり、油断していると轢かれてミンチにされそうになるので、当時は大街道であったことを否が応でも思い起こさせてくれる。

 

 

 

模型横の広大なスペースは、テナント募集中。

展示品入れ替え時期だったのだろう。

 

 

 

見取り図。

 

 

 

商家の店部分。

 

 

 

置いてあるのは主に薬。

 

 

 

毛生え薬は当時からあったらしい。

まーた髪の話してる。

 

 

毒掃丸

ネーミング(直球)がよろしい。

 

 

 

正露丸の展示解説。

日清・日露戦争で陸軍は大量の脚気による死者を出したが、それがビタミン不足だということが分からず、なんの効果もない正露丸を患者に服用させていたとのこと。

一方で海軍は脚気の原因が米食にあることを把握しており、麦食に変えたので脚気被害者は殆ど出なかった。

補給線という考えも無かったし、やっぱ日本陸軍ってクソやな(便乗)。

 

 

でもこの展示って、下鶴間自体に関係あるのかしら(当然の疑問)

 

 

 

なお当時の陸軍軍医だった森鴎外は、現在でも戦犯にされている模様。

 

 

 

 

ちょうちん。

 

 

 

ごりごりと粉末にする道具。

薬関係の展示が多いから、薬メインの商家だったのだろうか。

 

 

 

なんど。

通常は物置スペースだけど、この建物では居室としても使う。

 

 

 

座敷にも展示品いろいろ。

 

 

 

送り状というもの。

強制送還とかではなく、住所を移すときに発行する。

住民票の移転手続き書類みたいなものか。

 

 

 

なんとピストルである。

往来が多いと、悪いものも現れたんだろうか。

こわいなー、とづまりすとこ。

 

 

 

この座敷の床の裏側に、なぜか漫画みたいな落書きがあったらしい。

写真の真ん中にある板がそれなのだが、逆光で見えなくて申し訳ナス。

 

 

 

神棚。

建物がやたら新しめな中、これだけは時代相応な感じがする。

 

 

 

奥座敷

 

 

1月なので破魔矢破魔弓が飾ってある。

 

 

 

奥座敷からみえる景色。

広い庭ですねえ(適当)。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】鶴間駅からバス5分「下鶴間」下車。徒歩1分。

【入場料】無料

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】大和市/大和市下鶴間ふるさと館

 

 

尾崎咢堂記念館

 

尾崎咢堂記念館は、相模原で尾崎咢堂を記念している館。

尾崎咢堂とは、「憲政の神様」尾崎行雄(1858-1954) のこと。

 

相模原と言っても左上の 田舎 津久井の方なんで、もう少し行けば山梨県突入である。

ひろいなぁ相模原。

 

尾崎行雄記念財団ホームページ から) 

 

国会発足したばかりの明治期から、大正デモクラシー・昭和のファシズム・戦後の混乱とGHQによる再構築まで、日本国政をフルコースで経験してきた人。

 

選挙区は三重。

第1回目の選挙(1890年)で当選し、1953年に落選するまでずっと衆議院議員の座を保ち続けた。つよい。

高校サッカーでいうと青森山田であろう。

 

 

三重県の人だけど、尾崎家はもともと津久井の人であり、尾崎行雄もここで生まれている。

その尾崎家の屋敷敷地に、記念館を建てましたとさ。

 

外観だと開いているのかどうか結構わかりづらいので、看板で開館を知らせています。

こちとら橋本駅からバスで40分近くかけて来ているのだから、閉館してたらガッカリである。 

 

 

入場料は無料です。

館内に入ると、まずは15分程度のビデオ上映。

尾崎行雄についての概要紹介である。

 

 

 

 尾崎家は、この村の名主だった。

写真の右側に居る、サンタみたいな帽子被っている人が尾崎の父である。

 

この父親、自分の村のことなどよりも天下国家を論じる方が好きだった模様。

時代は幕末で戊辰戦争の頃、新政府軍に所属していた安岡良亮という人物に惚れて付いてってしまい、会津にまで戦いに行っている。

あんまり責任感とか無さそう、部下としてはいいけど上司にすると面倒なタイプ(社員並感) 

 

しかしこの行動が功を奏し、戦後は新政府から東京にて官職をあたえてもらった。

というわけで尾崎一家そろって上京(11歳の時)。

 

 

 

 親父の方はそのあと高崎→伊勢→熊本と転勤が連続。

伊勢の時に土地を買い、ここがのちのち尾崎家の本拠となり、選挙区となる。

 

熊本転勤は16歳の時だが、ここで尾崎は父について行かず、上京して慶應義塾に入学。

ところが1年半で退学してしまった。

能力は高かったが理想も高すぎて教師たちと衝突していたのが原因だという。

これは反抗期だな(確信)

 

 (尾崎のヒット作『尚武論』)

 

そのあとは工学寮に移るも1年で辞め、次に塾講師の仕事を得るがここでは評判が良くなく、尾崎の授業は「幽霊講義」とか言われていた。

きっと暗いトーンで授業をしたのだろう、私の学校にもそういう先生が居て「ゴースト」と呼ばれていた。

 

しかし一転して20歳の時、新潟新聞の主筆(首席記者)に就任する。

明治時代は若くして重要な公職に就く人が多数いたが、20歳で主筆はこの時代でも大抜擢だろう。 

ここで『尚武論』なる論文を出すと結構ウケて、中央政界に出ていく基礎となる。

 

福沢諭吉と尾崎の記念切手) 

 

新潟新聞に推薦したのは福沢諭吉だった。

慶応時代の尾崎は反抗期だったわけだが、有能さは福沢の目に留まっていたらしい。

このあともたびたび力添えを得る。

 

そういうわけで、尾崎と福沢の記念切手がセットにされております。

 

(尾崎先生の像)

 

尾崎の20代は1880年代だが、民権派が「国会開設しろ」と大盛り上がりしている時代である。

尾崎も立憲改進党に所属するなど活動に加わるが、民権派の活動は活発になり過ぎて、中には集会に刀を持ってくるようなおバカさんまで出てきてしまい、政府の監視の目が強まる。

 

「保安条例」なる法規が施行され、危険分子の東京追放が断行。

尾崎は別に過激な事してなかったようだが、民権派の中心に居たので追放の対象に。

この命令の理不尽さに愕然としたので、「愕堂」という雅号を名乗り始める(それまでは「学堂」と名乗ってた)

 

(雅号の印。まったく読めないが)

 

なお「“愕”堂」を「“咢”堂」に改めたのは1912年のこと(54歳)。

りっしんべんを、“愕”の字から取り去った形なのだが、「老いて立身の気持ちが衰えてきたから」という理由。

つまり自虐ネタ。

 

(教科書にも登場するが、近年の「暗記科目やめよう運動」の影響で名前削除の恐れが微レ存?) 

 

保安条例のせいで東京退場にされてしまった尾崎だが、「東京どころか日本から退場してやらあ(意訳)」と欧米視察旅行に出かけてしまう。

ただお金は無かったので、立憲改進党のバックに付いていた三菱の人に支援してもらったらしい。

そんなんじゃ、こっちも愕然ですよ(座布団没収)

 

 

(いろんな書)

 

追放処分が解除されて帰国し、1890年の第1回選挙に三重県で立候補して当選。

以後、1953年の落選まで議員であり続け、日本記録となっている。

 

その間いろいろあり過ぎるので割愛するが、目立つ出来事としては

・1896年、外務省参事官をやっていたが足尾銅山鉱毒問題で田中正造とガチバトルになり危うく殴り合いをやりかける

・1898年に文部大臣になるが、失言して内閣総辞職を引き起こす戦犯になる

・所属政党や会派を20回以上も変えており、「おさき真っ暗」と揶揄される。政党なんてコロコロ出来たり消えたりするが、それでもズバ抜けた回数。

 

 

(演説をレコードにしてみました)

 

変な事ばかり書いたが、一番有名なのは1912年、桂太郎内閣の弾劾決議案。 

首相人事が山県有朋桂太郎ら長州の陸軍閥によって牛耳られており、特に桂は「天皇詔勅を使って政敵を攻撃する」という天皇利用をしていると批判轟々の時であった。

 

決議案の説明のため登壇した尾崎は「(桂は)玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とする」とぶち上げ。

玉座を胸壁とし(桂は天皇の影に隠れて)、詔勅を弾丸とする(天皇の発出する詔勅を操って政敵を追い落とそうとしている)、という意味だろう。 

 

国会史上屈指の名演説と言われている。

もっともレコードにされているのがその演説自体なのかどうかは分かりませんが。 

 

 

 (東京市長時代の尾崎。写真はwikiから)

 

その演説より前のことになるが、1903-1912まで東京市長を務めている。

就任直前の尾崎は、妻の病気が悪化しており、また自身のメンタルがだいぶヤバい状態であったので、「息抜きに東京市長にならないか」という誘いを受けて承諾した。

 

息抜きで市長やるって、シムシティ感覚ですかね。

この時は議員と市長の兼任が出来たので、議員記録も途絶えておりません。 

 

 

 

東京市長のときに、アメリカのワシントンへ桜3000本を送っている。

日露戦争の時にアメリカは外債購入・講和仲介など支援をしてくれたので、そのお礼にということらしい。

まぁアメリカはロシアが撃退された後の中国に進出したい思惑があっただけだが。

 

どうして桜かというと、時の大統領であるタフトの夫人が桜好きだったから。

だが桜寄贈の第1弾は、苗に害虫が付いていたので、アメリカの検疫所で全部捨てられてしまった(脱力感)

なのでそれ以降はかなり慎重に苗を選んでおります。

 

 

アメリカからもお礼でハナミズキを貰っているのだが、行方不明らしい。

人のお礼品を無くすとは、それこそ愕z(略)

ちなみに三重にある尾崎記念館には1本だけ残っているそうな。 

 

 

記念館の外に立っている桜は、ワシントンに送ったやつの子孫を分けて貰い、里帰りを果たしたとのこと。

 

 (メガネメガネ)

 

昭和になると軍部の台頭・ファシズムの暴走という風潮になり、5.15事件に代表されるような政治家暗殺事件も続発する。

尾崎は1931年から講演依頼を受けて渡米・滞欧しているのだが、日本にいる後援会の人たちからは「しばらく帰国しないように」と要請。

 

軍拡反対・国際平和主義を唱えていた尾崎なので、日本に留まっていたら間違いなく襲撃されているだろう。

1933年に帰国し、当初神戸港に降りる予定だったが「右派が“歓迎”の準備をしている」情報が入ったので、横浜港に変更して逗子に滞在している。

 

なお不在中に選挙が行われたが、普通に当選した。

強い(確信)。

 

(1953年落選時。wikiから)

 

帰国後も翼賛選挙をこき下ろすなど歯に衣着せないスタイルだったので、特高警察が警護している。監視の役目もあっただろうが。

終戦時にはもう87歳になっており、本人はそろそろ辞めたかったようだが、周囲が勝手に選挙の立候補手続きをしており、出たら当選ということでまだ現役。

 

ただ95歳、1953年の選挙で落選。

その翌年に死去した。

90代まで議員をやるなんて、そもそも国会で発言できるのだろうか(驚)

 

 

というわけで津久井の大スターである尾崎だが、故郷には戻ってこずに最期は逗子で亡くなり、菩提寺は鎌倉の円覚寺である。

記念館のガイドさんも言っていたけど、この辺はど田舎だからね、仕方ないね。

 

 

参考文献はこれ。

 

以上。

 

 

【交通手段】橋本駅からバス40分「奈良井」下車、徒歩15分

      バスの本数は10分に1本程度

【入館料】無料

【滞在時間】40分

【混雑度】★★(他に2~3人)

【URL】

www.e-sagamihara.com


 

 

城山ダムと津久井湖

 

城山ダムと津久井湖周辺を歩いてみました。

 

 

 

とはいっても、津久井湖記念館から津久井湖観光センターまでのわずかな道のりである。

津久井湖の周り全部歩いたら疲れてしまう(老並感)。

 

 

 

城山ダムの概略は津久井湖記念館の記事で書いたので割愛。

一級河川というのは一級水系に属する河川であり、要するにクッソ重要な河川ということである(雑)。

 

 

 

 

ダムの天端の手前に展望台があるので、登ってみる。

 

 

 

 

登って、津久井湖を見渡したところ。

 

 

 

左手にはダムが見える。

この日は派手に放流していた。

 

 

 

なお津久井湖と反対側には何もないので悪しからず。

 

 

 

展望台から降りて、ダムの天端を歩く。

天端自体が国道413号であり、車の往来はかなり多い。

 

 

 

また津久井湖を眺める。

 

 

 

ダム方向を見上げた感じ。

周りに高いものが無いから、その分コンクリートの威圧感。

 

 

 

天端を渡って反対岸へ。

 

 

 

西側には山があり、ここに戦国時代まで津久井城なるものがあったらしい。

北条氏の支配下だったが、小田原攻めでやられてしまいましたとさ。

 

 

 

 

たぶん桜なんだと思うが、春には大層な景色になりそう。

フォトコンテストで勝ちたい人が一斉に来るかもしれない。

 

 

 

観光センターなるものがある。

 

 

中はご当地の物産展。

地元の野菜とか、お菓子とかである。

 

 

 

郷土料理としては、かんこ焼きというのがある。

ただこの写真見た過半数の人が「おやき」って答えると思うのよね。

 

あとはブランデー味の煎餅があった。

たまげたなぁ。

 

 

 

一帯は津久井湖城山公園となっており、観光センターあたりは「花の苑地」とされている。

この辺りもフォトコンガチ勢には良い場所かもしれない。

ただし冬は除く。

 

 

以上。

 

津久井湖記念館

 

津久井湖記念館は、津久井湖と城山ダムの歴史について記念する資料館である。

 

 

 

橋本駅からバスで30分弱の距離にある津久井湖は、城山ダムのダム湖である。

城山ダムは1960年に着工し、1965年に完成。

相模川の流量調節、県央部のみならず横浜・川崎など県東部の水需要に応えるための水源、さらに水力発電など多目的なダムである。

 

 

 

白鳥のボート。

以前はダム湖をこれで漕げたのだろうか。

 

 

 

記念館はこちら。

 

 

 

 

1Fの様子。

だだっぴろい休憩ゾーンと、ちょっとした展示コーナーがある。

 

 

 

会議室や和室もあるけど、予約制である。

 

 

 

受付ではダムカードをもらえる模様。

一気に3つも集まるよ!やっぱ好きなんすねぇ。

 

 

 

模型。

 

 

 

なんかチープな感じがするが、この記念館が出来たのはダム完成の翌年1966年である。

当時は模型の技術にも限りがあったのかもしれない。

 

 

 

たくさん説明展示があるけど、頭が痛いので割愛で(勉強嫌い並感)

 

 

 

毎年フォトコンテストをやっているようで、その写真。

 

 

 

航空写真。

 

 

 

すさまじい噴射。

ロケットみたいに飛んでいきそうである(難視)。

 

 

 

資料室がある2Fへ。

 

 

 

さっきから写真が暗いけど、きっと館内が省エネしてるからだろう。

 

 

 

まずは鎧くんがお出迎え。

 

 

 

部屋の半分は、昔使われていた道具シリーズである。

郷土資料館あるある。

 

 

 

消防隊のはっぴ。

 

 

焼けただれ過ぎでは(白目)。

 

 

 

だいたいはお馴染みの道具たちである。

 

 

 

もう半分は、ダム建設に伴う現地住民の立ち退きに関するもの。

 

 

 

ダム水没前の地域の写真。

ダムを建設する以上、周辺地域はダム湖の底に沈んでしまうので、この記念館はその経緯を残す役割もある。

 

 

 

相当なド田舎(石直球)にしては、立派な橋が建っていたようだ。

 

ど田舎ではあるけれど、この辺りを通る道路は昔から山梨方面と神奈川県央部方面を結んでおり、そのためか今でも交通量はかなりある。

バスも10分程度に1本というまさかのハイペースなので、アクセスはかなり良かったりする。

 

 

 

水没地域の住民は立ち退かなければいけないわけだが、すんなり住民が受け入れるはずもなく、城山ダムでは8年間にわたって反対運動が展開されたらしい。

 

 

 

それでも最後は補償の交渉がまとまって、めでたしめでたし。

 

 

 

もめた分だけ、工事着工は賑やかにやっている。

 

 

 

建設中。

 

 

そして完成しました。

初の見学会だと思うが、人多スギィ!

 

 

 

ちなみに立ち退いた住民は、転々バラバラではなくコミュニティで固まって引っ越している。

ダムでの水没はコミュニティを丸々潰してしまうことになるので、せめて皆でひと固まりで引っ越すことで人間関係は保とうという行政施策。

 

 

 

ガラスケースの中には、これまた当時の道具など。

この文書は土地に関するもののようで、ダム用地買収時に参照されたのだろうか。

 

 

 

 

トイレットペーパーではなくて、和紙である。

それにしてもぺらっぺら。

達筆すぎて読めないなぁ(すっとぼけ)

 

 

 

というわけで 隣の用紙に現代語訳が書いてあるようなのだが、これまた達筆すぎて読めない。

 

 

 

 

なんとピストルが。

住民交渉で血気にはやった人が手を染めてしまったのだろうか。

 

 

 

いまとなっては湖の雄大な風景だが、過去には壮絶なやり取りがあったことを忘れてはならない(唐突)

 

 

以上。

 

 

【交通手段】橋本駅からバス30分

【入館料】無料

【滞在時間】30分

【混雑度】★(誰もいない)

【URL】

www.samaria.com

東京湾フェリー久里浜港

 

東京湾フェリーは、横須賀市久里浜から千葉県富津市金谷を片道40分で結ぶフェリーである。

 

 

 

京急久里浜駅から久里浜港まではバスで10分弱。

徒歩だと25分くらい。

 

 

 

こちらが東京湾フェリー株式会社本社。

屋上の看板が大変な昭和臭を感じさせてくれる。

 

 

 

 

湾内には漁船がいろいろ。

 

 

 

本社の横にはパチンコ屋。

どうみても廃墟にしか見えないのだが、店内から爆音がきこえてくるので営業している模様。

 

 

 

となりの中華屋は営業している感じはしない。

 

 

 

ターミナルはこちら。

 

東京湾フェリーは1960年から就航を始めており、千葉と横須賀をつなぐ貴重な足であった。

しかし1997年にアクアラインという強敵が開通。

当初のアクアラインは通行料4000円とかアホな値段でやっていたが、次第に減額をしたため東京湾フェリーの客足がそちらに取られてしまう。

 

 

 

フェリーも3隻で回していたが、2010年に「くりはま丸」の運行が終了。

写真の「かなや丸」と「しらはま丸」の2隻運行になっちゃった。

運行本数は1時間に1本。

 

 

 

ターミナルの中。

見た目にたがわずレトロな雰囲気。

 

 

 

 

お土産売り場と食事場。

 

 

 

搭乗口へはこの階段を登る。

 

 

 

徒歩で乗船する場合は、この道を直進。

車の人は待機列に並び、乗船開始になったら係員の誘導で乗ることになる。

 

 

 

通路を歩いて改札口で切符を見せる。

 

なお車は片道2,360円から、徒歩の人は720円。

アクアラインが800円なのを考えると、多少はね、では済まないクラス。

 

 

 

乗船。

 

 

 

このスペースはゴルフバッグ置き場らしい。

たしかに房総の方にはゴルフ場多いと思うが、スペースの広さからバブリーな感じを禁じ得ない。

 

 

 

客室入口。

 

 

こちらは前面部分。

久里浜港は前向き駐車なので、船の頭から港に突っ込んでいる。

出港するとバックしてUターンして千葉方面を目指すことになる。

 

 

 

上の階にも客席はあります。

 

 

 

 

売店スペース。

駅のキヨスクくらいのレベル。

 

 

 

バーカウンターみたいな構えだけど、繁忙時は使っていたのだろうか。

いまはTV置き場になっている。

 

 

 

カウンターテーブルっぽいのもあるし。

 

 

 

窓向きの座席。

 

 

 

大人数でくつろげるラウンジっぽいゾーンも。

 

 

 

甲板に出る。

 

 

救命ボート。

 

 

 

ここにもカウンターがあるので、繁忙してた頃は(以下略)

 

 

 

階段を上がってみると、上はビアガーデンみたくなっている。

奥の船室は操縦室である。

 

夏場はナイトクルージングとかイベントやっているので、そのとき使うのだろう。

 

 

 

操縦室の手前にグリーン車ならぬグリーン室があった。

1室3000円。

ゴルフ帰りのおっさん達が使うことを想定しているようだが、片道40分で3000円はやっぱりバブリーな気が。

 

 

 

階段を下りて船室へ。

 

 

 

そして40分すると、金谷港に到着である。

 

 

 

 

反対を見渡すと、かすかに神奈川が見える。

 

 

 

下船。

このとき切符を回収されるので、乗船中は保管必須である。

 

 

 

 

 

金谷港ターミナルのお土産売り場。

久里浜よりも本気出している感じ。

 

 

 

ターミナルの外から見た風景。

これから船に乗る車が待機している。

 

 

 

港の周りには、新しめな商業施設が。

やはり久里浜よりよほど頑張っている感がある。

 

まぁ千葉県知事はアクアラインを相当推してたからね。

その反動で金谷港周辺有権者から叩かれちゃまずいからね(すっとぼけ)。

 

 

 

恋人の聖地とかいう、ありがちな鐘。

恋人の聖地は、恋人じゃない人たちにとっての死地でもあると思うの。

 

 

まぁしかしフェリーでの移動は良いものですな。

金谷港の最寄りの浜金谷駅は1時間半に1本しか電車ないけど(白目)。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】久里浜港京急久里浜駅からバス10分

      金谷港:浜金谷駅から徒歩10分

【乗船時間】40分

【混雑度】★★★(船内にちらほら)

【URL】

www.tokyowanferry.com