宇宙科学研究所
相模原市にある宇宙科学研究所(宇宙研)は、JAXAの組織として宇宙研究を行う機関である。
組織時代は1964年に東大の宇宙航空研究所として始まり、相模原に移転したのは1989年のこと。
2003年にJAXAの一機関として改組され、大学と連携のもと宇宙研究・衛星等の開発打ち上げまで行っているようだ。
入り口手前の守衛所で入館証をもらう。
見学は無料。
敷地自体は広大だが、見学者が入れるのは一部のみ。
この建物が研究棟で、1階部分が見学コーナーになっている。
左手には職員用の宿泊所・食堂があり、平日であれば見学者も食堂を利用できるようだ。
さっそく入館しましょう
入り口の左側が見学コーナー。
右側は研究棟として立ち入り禁止。
まず目立つのが、惑星探査機として世間をにぎわせた「はやぶさ」。
逆光で見えづらくなってしまったが。
宇宙に関する知識がまったく無いので、Wikipediaで調べた程度なのだが。
「はやぶさ」は小惑星イトカワを観測・試料採取する探査機として2003年に打ち上げられ、2010年まで運用された。
ナメコみたいな形であり、形状が判明したときに科学者たちもビビったんだとか。
ちなみに名前は日本のロケットの父である糸川英夫氏から取られているが、別に糸川さんが発見したわけではない。
はやぶさ自体は実験機としての扱いであり、このイオンエンジンの搭載だとか・・
採取した試料をカプセルに入れて、大気圏突入させて地球に送るなど、世界的に前例のないことをやってのけたそうだ。
なおカプセルは無事生還して貴重な資料は得られた一方、はやぶさ自体は大気圏突入時に燃え尽きて最期を迎えた(涙)
はやぶさを組み立てたときに使われた台車。
実物とのこと。
はやぶさが2010年に結果を残してから4年後の2014年に、その後継機である「はやぶさ2」が運用開始。
はやぶさ2計画については早期から存在したが、JAXA内での予算紛争や、民主党による仕分けのため、当初は計画挫折に向かっていたらしい。
しかしはやぶさの成功で一気に世論が沸き立ったので、それに乗っかってはやぶさ2の予算が付いたんだと。
民主党による熱い手のひら返しに対し、読売新聞は「それってどうなの」と疑問を呈したようだが、まぁはやぶさ開発チームにとっては良かったね、という話。
これは、はやぶさ2との通信画面。
波打ってるので、大丈夫そうですね(こなみ)
展示品は、基本は探査機or人工衛星だった。
これは太陽光を拾って機械を動かすというイカロス君。
月面観測機の「かぐや」。2009年まで運用されていた。
クレーターや月の裏側を観測したらしい。
月の裏側では重力異常が起こってるらしいが、なにそれこわい。
かぐやは月面着陸まではしなかったので、計画されている次号機ではこの月面着陸ロボを搭載し、さらに詳細に調査するようだ。
カニとかクモっぽいな。
この「あかり」は、電波天文衛星。
赤外線をもって天体を広くスキャンするように写し取り、5年にわたって膨大なデータを取得し続けた。
こちらの「はるか」も8年にわたり、宇宙空間の電波を観測し続けた。
当初は3年で寿命のはずだったが、8年にもわたって運用され、まさにはるかに(以下略)
宇宙研ではできる限り本物にこだわって展示しているようだ。
でも「触れると良くありません」とは、やんわりとしながら痛烈な拒絶ワードである。
オーロラを観測するのに運用中の「れいめい」。
これも試験モデルとはいえ、ガラスケースもなしに展示できるとは。
狭いスペースに、これでもかというくらい衛星がドガドガおかれている。
カラフルなので、ぱっとみゲーセンに見えなくもない。
ノーズフェアリング自体が分からないんですが。。
日本における初代衛星の「おおすみ」の部品。
なお、おおすみは打ち上げ翌日に通信不能になり、そのまま終わったと知って、失礼ながら笑ってしまった。
こんな感じで衛星や探査機など、人の乗らない機械ばかりであるので、他に置き場のない宇宙服である。
映像コーナーもあります。
館内についてはおしまい。
外に展示してあるのは、衛星を打ち上げる際に使われるロケットである。
でかい。
Wikipediaの情報を切り貼りするばかりの文章になったので、ここらで終わり。
展示品がら、ほとんど子供連れだったと思う。
で、あまりスペースが無い中を子供たちが元気に動き回るものだから、展示品と子供たちにぶつからないよう立ち回るのが結構忙しかった(笑)
しかし「れいめい」の試験モデルにぶつかって壊したらどうなるんだろうね。
数百万じゃ済まない気がするけど。
以上
【交通手段】淵野辺駅から徒歩15分
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【土日の混雑度】★★★(写真撮ると他人が映り込む)
【URL】
観音崎自然博物館
観音崎自然博物館は、観音崎の自然と動植物を片っ端から紹介する博物館である。
トンネルをくぐり、
坂道を下り
これである。
見るからに昭和の行政施設という感じがして、わくわくする。
受付で入館料を支払い、入場。
館内はフラッシュを焚かなければ撮影可能。
まずは観音崎の植物コーナー
本物を置いているようで、植物の匂いがすごい漂ってくる。
となりにあるのは昆虫コーナー
特に説明もなく置かれているハチの巣。
生き物も普通に飼育されている。
ここからは海洋生物。
養殖漁業の方法などが詳細に掲示されているが、細かすぎるので本気で読んでると、退館まで数時間かかりそう。
突然あらわれるイカのホルマリン漬け?
目がすごい不気味だし、一番右とかでかくなりすぎて怖い。
タイも漬物になっている。美白。
動物ゾーンでは、ペット色々。
最後のカメは、箱のガラスに甲羅ガンガン当ててて、常にその音が響いてた。
熊とかワニも登場。
なんでもありだな。
いきなり脳が出てきてびっくりする。
文字がすごいチープで、昭和っぽさを感じる。
突然の暗闇ゾーン
深海ゾーンだった。
この巨大ガニはボス戦で出てくる気がする。
水族館要素もあり。
ほんとにいろいろあるな。
でもやっぱりホルマリン漬けは好きらしい。
最後は船ゾーンでおしまい。
というわけで展示の種類がやたら豊富なうえに、普通に生き物が動いているので軽い動物園や水族館要素も楽しめたのであった。
観音崎では遊泳客が多いけど、ここは空いてるし。
なにより昭和っぽい建物がイイネ
以上
【交通手段】横須賀駅・京急大津駅等から京急バス「観音崎」行。終点「観音崎」から徒歩10分
【入館料】400円
【滞在時間】30分
【土日の混雑度】★★(他に数名)
【URL】観音崎自然博物館(横須賀市)
信楽寺 坂本竜馬の妻おりょうの墓
坂本竜馬の妻である楢崎龍(おりょう)の墓が横須賀のお寺にあるのです。竜馬って土佐の人なのに、なぜ横須賀?と不思議に思いますが、一通り見て行きましょう。
復習
そもそも、おりょうって?
下記はWikipediaで読んだ知識です(こなみ)
1841年京都生まれ。父は富裕な医者だったけれど安政の大獄で捕縛されたのちに病死。一家は貧窮に陥り、尊王志士たちの通う旅館で働いていたところを竜馬と出会いましたとさ。おりょうは美人だったので、竜馬側がベタぼれだったそうです。
なお、おりょうの写真は↑だと長年言われていましたが、どうも違うらしいと読売新聞が2014年に報じております。
なぜ横須賀に墓が?
竜馬の死後、おりょうは竜馬の実家に引き取られましたが、そりが合わずに3か月で出てしまったそうです。それから妹の嫁ぎ先→京都→東京と知人を頼って転々とし、神奈川宿の料亭で働いていたとき、呉服屋の若旦那 西村松兵衛と再婚して横須賀に移住しました。
しかし竜馬の妻なのだから、横須賀なんぞに行かんでも手を差し伸べてくれる人がいくらでもいると思うわけですよ。↑このへんとか(左は勝海舟です)。
おりょうさんはどうも性格が悪かったらしい。海援隊の志士からは「竜馬を笠に着て威張ってやがる」、おりょうの妹婿からは「品行が悪く、面倒などみたくない」とボロクソの批評をいただいております。
(晩年のおりょう。この写真は本人だそうな)
横須賀に来たおりょうさん。50代の頃にはアル中になっていたそうで、「私は坂本龍馬の妻だぞ」と再婚相手に悪がらみしていたらしい。面倒くせぇ・・
そこへ夫に先立たれたおりょうの妹が転がり込んできたのですが、なんとこの妹とおりょうの再婚相手(西村)がデキてしまい出奔!取り残されたおりょうは、ひとり狭い貧乏長屋で晩年を送りましたとさ(完)
お寺の概要
意外にも胸くその悪い話でしたが、気を取り直して信楽寺を見たいと思います。
京浜急行の京急大津駅から徒歩10分です。住宅街の中にあり、分かりづらいかもしれないのでグーグルマップと相談して来ましょう。
入場料は掛かりません。普通の寺院であり、観光地仕様ではありません。
勤王志士の皆様におかれましては墓参りの方々の迷惑にならぬよう、穏便にご来場いただきたい。境内での尊王攘夷は法律で禁じられています。
おりょうのお墓
寺院に入って左奥、これがおりょうのお墓。
横に付いている説明板によると、葬儀はささやかに行われたそうな。
石碑には「贈正四位 阪本龍馬之妻 龍子之墓」と書いてある。墓碑が建てられたのは、おりょうの死から8年後のことで、有志の政治家らによる資金援助のもと、おりょうの妹&西村松兵衛が主体となって建てたそうです。
お前ら、おりょう見捨ててたやろ!内幕がひどすぎて笑ってしまう。
それに、おりょう死去時の苗字は西村なんですけどね、坂本として墓碑が刻まれてますね。まぁこの方が分かりやすいし、何より西村松兵衛さんが嫌がったのかもしれない。
そんなわけで横須賀はおりょうにとって不憫な晩年の土地なのですが、知ってか知らずか、大津の街では「おりょうさん祭り」を毎年秋にやっております。おりょうの怒りを鎮めるには良いかもしれませんね(適当)
おしまい
【滞在時間】10分
【混雑度】★(だれもいない)
澤田美喜記念館
澤田美喜記念館は、その名の通り、澤田美喜さんと彼女のコレクションを記念する館である
「そもそも澤田美喜って誰?」ということであるが、
この人は三菱の創業者である岩崎弥太郎の孫娘にあたる。
クリスチャンの外交官と結婚したことでキリスト教に改宗し、海外生活をしていた際に訪問した孤児院の活動に感銘を受け、自らも国内で1948年から孤児院の経営を行った。
孤児の多くは、進駐軍と日本人女性の間に生まれながら放置された「GIベビー」であり、孤児院は周辺住民だけでなく日本政府・進駐軍からも当初は冷遇されて、経営は窮乏していたそうだ。
それでも澤田さんの頑張りにより、1955年には昭和天皇も来園されるなど、活動は実を結んでいった。
1958年には、NHK紅白歌合戦の審査員にも選ばれている。
その孤児院からはじまったのが、この入り口右手の「エリザベス・サンダース・ホーム」で、敷地内には学校も建つ。
記念館に行くには入って左手に進むのだが、間違えて右手に行くと警備員さんから怖い目で見られるので気を付けないといけない。
階段をのぼっていく。
けっこう険しい(大汗)
そしてどかんと現れるのが記念館。
こんな形をしているのは、ノアの箱舟をイメージしたんだと。
玄関への手すりが十字架だらけでびっくりする。
館内は澤田美喜さんについての展示というより、この人が持っていた隠れキリシタングッズが殆どだった。
まずは有名な踏み絵。
もともとは信者から没収したキリスト系グッズをもとに、右上のような紙に絵を描いて、それを踏ませていたらしい。
だが紙だとすぐぼろぼろになるので、その後は教科書で見られるように、十字架を板にはめ込んでそれを踏ませることにしたようだ。
隠れキリシタングッズはかなり面白い。
続いては、剣の鍔である。
禁教がされる前の鍔は、このように堂々と十字架をあしらったものになっているが
禁教後は十字架要素はなくなっている。
しかし写真だと見づらいのだが、鍔の中に人が描かれていて、その人の胸のあたりに小さく十字架が金で刻まれている。
こんな風に、目を凝らさないと分からない範囲で、十字架をこっそり書き込んでいる。
こちらは、正面から見るとただの地蔵だが
背中にはおもいっきり十字架。
仏壇とかに置いとけば、この背中を見られることはないからね。
その発展形が、この観音像である。
テレビのリモコンみたく背中が外れ、中に十字架をしまい込む。
匠もびっくりの荒技である。
極めつけはこれ。
家康の像なのだが、なんと首が着脱可能で、その首の下に十字架が彫ってある。
禁教令を出した家康自身の首に描くこと自体がすさまじいアイロニーであるし、像とは言え家康の首を引っこ抜いたら幕府の武士たちも首チョンパである。
まさに灯台下暗し。
紹介するとキリがないほど、隠れキリシタングッズがあった。
というか、よくこれだけ集められたな、澤田女史。
十字架グッズもすさまじい量である。
東方の三賢者とおぼわしき像。
ロウソク台になっちゃってるけど、いいのだろうか。
あと、期間限定で展示されているのは、魔鏡。
見た目は普通の鏡なんだけれど、光に反射させてみると像が浮かび上がって、あら不思議というもの。(上の写真は鏡の裏面で、表面は普通の鏡になってる)
京極夏彦の京極堂シリーズで題材にされてたけど、実物をみれるとは思わんかった。
魔鏡に光を当てると、こういう像が浮かび上がる。
仕掛けを書くと長くなるので、Wikipediaをご参照ください(笑)
見た目は普通の鏡なので、幕府の武士たちもまさかキリシタングッズとは気づかないだろう。
こうまでして信仰心を守る隠れキリシタン、壮絶である。
ちなみに澤田美喜さんの経歴については、配布資料のように束になって部屋の隅に置かれている。
各自みといてくださいねーって感じ。
まぁ澤田美喜記念館というより、澤田美喜さんの隠れキリシタングッズ資料館になっているからね、仕方ないね。
2階部分は礼拝堂。でおしまい。
というわけで、思わぬ収穫を得られるマイナー資料館の鑑、といった場所であった。
あと(ほかに客がいなかったからだと思うけど)、スタッフさんが展示品について丁寧に解説してくれたのがありがたかったな。
大磯駅前にあるので、この駅で降りる際はぜひ寄って行ってもらいたい場所である。
以上
【交通手段】大磯駅から徒歩2分
【入館料】500円
【混雑度】★(だれもいない)
【URL】澤田美喜記念館
旧島崎藤村邸
国道1号を進んでいると、上り線側に突然案内表示が現れるのが、島崎藤村邸だ。
表記の通り進んでいく。
完全に裏道だが、大丈夫か?
また案内板。
最初の表示から徒歩2分。すぐ着いた。
しかし向かい側には・・
完全に普通の民家なんですが。
まわりも民家だらけなので、溶け込んでしまっていて最初わからなかった。
ただ入り口に小さな看板があったので、とりあえず安心。
ちなみに駐輪場もあるよ。
門をくぐると、人感センサーに反応して、「てれれれれ~れれれ~♪」とメロディが鳴り、ずっこけそうになる。
そのメロディを聞きつけて、おそらくこの建物の奥にいた受付の人が現れる。
島崎藤村といえば「夜明け前」なので、木曽のイメージしかなかったが、
本人は大磯をえらく気に入っていたようで、最後はここで没したようだ。
かなりの収入があったと思われる文豪にしては落ち着いた住まいだなと思いきや。
受付でもらったパンフレットによると、当時のサラリーマンの30年分の年収を費やしてこの敷地を買ったとのこと。
はんぱないな、文豪。
庭は昔のままであるようだ。
しかし建物の中へはあがれないのが残念だね。
縁側に座って中を覗き込むくらいしか許されないのである。
まぁこうして邸宅跡が残っているだけでも、執筆当時の風景を知れて良いのかもしれませんね。
以上。
【交通手段】大磯駅から徒歩10分
【入場料】無料
【混雑度】★(だれもいない)
【URL】旧島崎藤村邸/大磯町ホームページ