あまちゃんハウス
朝ドラ『あまちゃん』舞台の一つになったところである。
かのドラマが放映されていた当時はこの辺も相当にぎわったそうだが、5年経った今ではさすがに落ち着いていますね。
あたりまえか。
私も当時ドはまりしていた民の一人なのだが、さすがに5年も経つと記憶があいまいである。
駅前のこのビル、観光協会だか何だかで出ていたような・・
飾られている絵はドラマで使われていたと思うが、いまだに残してあるんですね。
まぁ外したところで代わりに付ける看板もゲフンゲフン。
ドラマで出てくるのはこちらであり、隣にあるJRは全く出演していなかったはず。
そして久慈駅から徒歩3分くらいのところに、あまちゃんハウスなる施設。
撮影に使われた道具などを展示している。
ドラマ効果を骨までしゃぶりつくそうという貪欲な感じがとても良く出ているが、まぁそれほど影響の大きかった作品であるともいえる。
ハウス前にはドラマポスターが展示。
「放送終了」の張り紙がなかなか寂しい感だしてますね。
そもそも放送開始前のポスターである。
顔はめ看板があるが、顔が無いともう何のネタか分からないかもしれない。
入館しました。
入場料は無料。
んで入口すぐ右手にアニメ絵があるけれど、こんなキャラあまちゃんに出てなかったと思うのだが・・
さっそく関係ないキャラぶちかましてくるって、どういうことなんですかね(困惑)
しかしちゃんと関連道具は置いてあるので安心。
駅のシーンで使われた道具たち。
三陸鉄道は、ドラマ内では「北三陸鉄道」という名称で登場している。
隠す気まったく無い感。
ただ名称を完全同一にしてしまうと、事実関係を現実とドラマ内で一致させないといけなくなって面倒になるのだろう。
漁協の看板。
あまちゃんや婆ちゃんが所属しているところですね。
福士蒼汰あたりが被っていた気がする潜水ヘルメット。
衣装もあるのでコスプレ可能です。
北三陸鉄道の制服は、名札が大吉サン(ドラマの登場人物)になっている。
登場率が非常に高かった駅内の喫茶&スナック。
観光協会のなんとかさん(忘れた)が組み立てていたジオラマそのものだろうか。
館内にもポスターがあります。
あまちゃんハウス専用に撮り下ろされたものは無く、過去の在庫が全て。
新しい写真とか撮ってしまうと、肖像権とか権利関係がごたつくのでやってないのかもしれない。
特に主演の人の関係で。
置いてあるのは東北編の品が殆どで、東京編のグッズは無いな。
NHKの保管庫に没収されてしまったのだろうか。
カラオケで「潮騒のメモリー」を歌った人も多いのではなかろうか。
机の上のプラレールは破壊尽されていますけど・・
お土産コーナー。
あまちゃんならぬアマリンとかいう、ドラマまったく関係ないキャラのぬいぐるみが投げ売りされている。
やっぱり権利関係が面倒なんですかねえ。
お菓子もドラマ系にちなんだものはなく、パンチが薄い物が多い。
ちょっとこれではお土産にしづらいな。
施設の奥の方はイベントスペースになっており、このときはフリマをやっていた。
以上、館内おしまい。
ちなみに久慈の町にはあちこちに、あまちゃんネタのペイントがされている。
あまちゃん気分から抜けてないのだろう(批判しているわけではありません)
しかし関係なさそうなペイントもチラホラあり、一体どういうことなんだと訝しむ。
こんなシーンあったっけ?
やっぱり海女の格好してないと分らんな(ファンとしてあるまじき発言)
以上。
【交通手段】久慈駅から徒歩3分
【入館料】無料
【滞在時間】20分
【混雑度】★★★(ちらほら)
【URL】あまちゃんハウス | 観る | 北いわて広域観光ポータルサイト 来て! 観て! 北いわて わいわい探訪
水戸市埋蔵文化財センター
大串貝塚ふれあい公園の中にある。
なんだか柱が砕け散ってますけど、これは演出ですよね?
そうじゃなかったらヤバいことに。
入館は無料です。
内部。
「縄文くらしの四季館」という名称がもともと付いていたそうなのだが、現在では「埋蔵文化財センター」に改められている。
どうして無味乾燥な方にしたのだろうか。
ダイダラボッチ縮小ver。
実物よりも表情が凛々しい感じがあるが、実物もきっと最初はこうだったのだろう。
(実物)
実物はどこか放心状態だったり、憐みを感じさせる眼差しをされてますが、これは風雨のせいなのだろう、きっと。
展示室にはいる。
もとの名称が「四季館」というだけあって、季節それぞれの縄文時代の暮らしを展示しているらしい。
ブースごとに「春」とか「夏」とか書かれている。
最初は春ゾーン。
穴が開いているぞ。
顔面把手つきの縄文土器だった。
この顔、どこかのキャラに似ていると思うのだが、思い出せない。
棚上には貝殻が放られている。
きっと貝塚を表現しているのでしょうが、なんだか単なるゴミ置き場に見えますね。
まぁ貝塚もゴミ置き場だけど。
旨そう。
夏ゾーン。
丸木舟。
あぁ海に出るのね、夏だからね。
釣り針は鹿の角から作っております。
完成型がこれ。
J。
秋。
そもそも春ゾーンからなのだが、これ季節関係ないのでは?
土器なんて別に年中作れるだろう。
土器パズルも年中できるだろう。
それとも水戸では、秋しかパズルが出来ないルールになっているのだろうか。
冬。
イノシシ狩りは冬に行うそうなので、いちおうここは季節とマッチしている。
季節ゾーンおしまい。
ここまで殆ど郷土要素を感じなかったが、ここから地元ネタが増えていきます。
縄文時代から一気に近代的になったな。
おはじき。
のらくろか?
顔が一刀両断されて怖いことになっている。
これは偕楽焼という焼き物で、水戸土産。
てっきり江戸時代からあるのかと思ったら、昭和初期に誕生したらしい。
「名前からして歴史ありそう」詐欺である。
なお世間には「偕楽園焼」という焼き物もあるそうなのだが、こちらは紀州徳川家の特産らしい。
ややこしいな。
レンガとか漆喰とか、外壁建造用。
水戸城の三の丸では「なまこ壁」という、漆喰を半円状に盛り上げたスタイルが取られていたため、その関係。
こちらはタイル。
関東大震災でレンガ造りが貧弱すぎることが分かってしまったので、鉄筋コンクリート造が増加し、その外壁にタイルを張るのが主流になりましたと。
水道の樋管。
水戸の水道は、古くは徳川光圀が整備したもので、笠原という土地の湧水を引っ張ってくるものだったので「笠原水道」と命名。
これで当時の水不足が解消されたよ、さっすが黄門様。
樋管は石を用いた「岩樋(いわひ)」というもの。
樋管にはあちこち隙間が空いており、ここから周囲の湧水を取り込む。
それバイ菌ヤバいのではと思うのだが、ちゃんと砂利を敷いて濾過していました。
さっすが黄門様(2回目)
この水道は今でも使われており、1891年~1968年まで改良工事をしていたらしい。
断続的とはいえ、時間かかり過ぎじゃないですかね。
さらに工事完了の直後から断水が多発し、もう一度修理をしている。
あのさぁ。
水門橋という橋にかかっていたプレート。
水戸市章が刻まれている。
「スマートな水戸市章」。
自分で言うな。
ガラス製品ぞろぞろ。
明治以降、食事が洋風化していく過程で需要が急増し、水戸にもガラス鋳造所ができました。
なので、これでもかとガラスを並べております。
歯ブラシもたくさん発掘されております。
使う気にはなれませんが。
革製品。
すさまじくボロボロ。
これとかもう展示する意味あるんですかね(慧眼)
便器。
廃屋の写真、ではなくて日新塾の母屋です。
加倉井砂山(かくらい さざん)という人が水戸に開いた塾。
幕末の水戸学全盛期の時代なので、全国から塾生がやってきたという。
その卒業生の名称はサザンオー(以下略)
突然すさまじい絵画が出てきたが、大戦中の水戸空襲の絵。
水戸には陸軍の訓練所があったので、1945年8月2日に大空襲をうけている。
終戦まであと2週間、逃げ切れませんでした。
なおtop of 悲惨な空襲都市は小田原で、8月15日に攻撃を受けております。
ポツダム宣言通知後じゃないか。
んで占領されてしまった水戸。
他の地域から御多分に漏れず、弘道館のあたりにはテニスコートが作られて占領軍の遊び場になりました。
なお占領軍の記録では「数本のドラム缶窃盗を除けば、茨城では指令違反事件は無かった」と、県民の秩序正しさに驚いている。
自動車運転が荒い今の茨城県民は、占領時代を見習いましょうね。
そしてまた突然の銅鐸。
なにこれ、叩いて鳴らして良いの?
弥生時代に突入した。
縄文→近代→戦後→弥生、という順番ですか。
水戸の時間軸は変わってますねぇ。
展示内容に縄文時代ほどの情熱はないけど、いちおう色々飾られています。
青銅の印。
畑耕していたら見つかったもの。
なんのものかサッパリ分らんらしい(虚無感)
というわけでした。
展示室の出口にこんなのあった。
ブラタモリ出演に乗じて、この資料館でも1年前に企画展をやっていて、それを今でも残してある。
ブラタモリに取り上げられた全ての地域が、こういうパンフレット作ってくれればいいのに(切願)
以上。
【入館料】無料
【滞在時間】40分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】
大串貝塚ふれあい公園
貝塚がメインなのかと思いきや、なんだかバカでかい巨人像がある。
これは「ダイダラボウ」、つまりダイダラボッチ。
巨人像の下に展示室があるので、そこへ。
ところでダイダラボッチの尻のあたりに穴があるんだが、これ倫理的に大丈夫ですかね。
展示室に入りました。
なにこれ、棚?プレステ?
説明は特になし。
こちらは消防の道具。
とくに説明なし。
展示室の中を進む。
巨人伝説は各地にあるので、その一覧のようだ。
巨人の、地域ごとの呼び名。
関東は基本、ダイダラボッチの語形変化みたいになっている。
しかし滋賀県は「伊吹弥三郎」と個人指定されているんですが、なにかやらかしたんですかね伊吹弥三郎。
土偶の部屋なるもの。
なんだこのミラーハウス。
中に入ると突然ライトがぱちぱちと点灯する。
要る?このアトラクション。
資料館のキャラ、ひろし。
ああ、そう。
ダイダラボッチの手、と思わしきもの。
しかしさっきから説明が何も無いんだよなぁ。
これだけは説明があって、「水の彫刻」という作品。
上部が“過去”、下部が“現在”となっており、上から下へ水が流れる仕組みとなっているのだが、肝心の水は「衛生上の問題」ということで流れておりません。
芸術よりも衛生や予算の方が大事だからね、きっと。
では、ダイダラボッチの上の方に登ろうか。
たいへん無機質な階段をあがっております。
最上階に着いた。
ダイダラボッチの手の部分に出たようである。
なんだ、頭部まではいけないのか。
頭部は高さ15mだそうです。
下におりる途中で、もう一か所出口がある。
この出口は、さっき外から見たダイダラボッチの尻の穴のようだ。
排出されてしまった(小並感)
尻の方から正面にまわってみます。
なんと股の間から、ダイダラボッチを眺められるのだ。
サービスショット(白目)
ダイダラボッチも見られてこの表情。
まんざらでもなさそうである。
展示室から出て、正面から改めて眺めてみました。
こういうポジションを取っていたのか。
和式トイレな感じもするけど、あまりそういうことは言わないようにしよう。
奥の方に、貝塚の断面がみれる施設があるそうなので、向かう。
150mか、わりと遠いな(老人)
右横は学校の様です。
生徒は毎日あのダイダラボッチと顔を合わせなきゃいけないのか、可哀そうに(意味深)
坂を下っていきます。
鬱蒼とした林に突入したのだが。
そして出てきた「大串貝塚」という石碑。
あれ、断面観覧施設は?
他にも説明版あるけど、フェンスよりだいぶ向こうにある上にさびれていて読めない。
さらに奥に進むと社についてしまった。
どう考えても、この先に無さそうだな。
いったいどこにあるんだ、断面。
見つからなかったので、戻ってきました。
まぁ他の人さまのブログとか見ると、施設自体はあるようなので、正解は君の目でたしかめよう!(攻略本)
ダイダラボッチの足跡、という池。
渇水状態ですが。
ところで、貝塚とダイダラボッチ伝承というのは関連があるようで。
貝塚は海から離れた地点で見つかるわけだが、古代人からすると、どうしてそんなところに貝殻がたくさん落ちているのか分からない。
だから「きっと巨人が居て、海まで手を伸ばして貝を取って、殻をここに捨てたんだろう」と推測し、そこから巨人伝説につながったと考えられている。
そんな想像力豊かな古代人の住居を、このゾーンでは再現している。
縄文時代。
内部。
砂埃がすごい。
竈の石がでかい。
弥生時代。
中身は縄文時代と変わらず砂埃がすごいのでスキップ(雑)
古代人の像もあります。
こちらの子供は、手首に糸まかれて繋がれてますけど。
バンザイが助けを求めているように見える。
ラストが、古墳時代。
いきなり立派になったな。
でも内部は砂埃が(略)
以上。
【入場料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】40分
【URL】
常陽銀行 常陽史料館
茨城を中心に展開している地銀 常陽銀行の資料館である。
銀行の創立60周年を記念して、1995年開館したもの。
みるからに銀行の建物なので、入館した瞬間に「本日はどのような御用でしょうか?」訊かれるんじゃないかと身構えたけど、受付すら不要で普通に入れたのであった。
無料だしな。
(2Fの吹き抜けから下の展示室を眺めたところ)
入館は無料。
B1F~2Fまであって、展示室はB1Fと1F、2Fは図書館になっている。
B1Fと1Fの展示物は写真禁止だったので、2Fから全景だけ撮影。
B1Fには常設展があって、国内における貨幣の歴史・常陽銀行の成り立ちについて語られており、ハイテクな雰囲気を出した内装であった。
意外と力入れたんだな(意外)
常陽銀行の歴史。
1935年、水戸を拠点とした常盤銀行+土浦の五十銀行が合併して成立したもの。
1876年に国立銀行条例が改正されて銀行開設が緩和されて以降、日本中にアホの数ほど誕生していき、茨城県だけでも60を超える銀行が存在していた。
それ茨城県民の数より多いんじゃない?(差別発言)
第一次大戦の頃は好景気だったのでまだよかったが、1920年代に入ると1923関東大震災・1927昭和金融危機・1929世界恐慌とろくでもない事件ばかりが続く。
小規模銀行ではすぐ潰れてしまうので合併が相次ぎ、常磐銀行・五十銀行ともに県内の銀行をパクパク吸収。
1920-30の間だけでも前者は14行、後者は18行を合併している。
(2Fに置いてあった鹿島の鹿)
それでもまだ茨城県という小さいパイを複数行が争っていたため、大蔵省の介入もあり、1935年に両行は合併。
戦後GHQにより爆発させられることもなく存続し、2016年には足利銀行系と経営統合して、地銀界No.3の勢力を誇っております。
あと鹿島アントラーズの当初からのスポンサーですが、人形の扱いはテキトーの模様。
(史料館企画展のチラシ)
1F部分は企画展で、四半期ペースで変わっている様子。
このときは竹細工グッズが陳列されていた。
茨城県内では養蚕が重要産業になっていたが、そこで籠・ザル・箒など竹製品がやたら必要となり、それで竹産業が興隆したと。
一時期は需要があり過ぎて供給が間に合わないレベルであったが、お察しの通り、やがて竹バブルは終わっていくのです(諸行無常)
(史料館企画展のチラシ)
なので竹が余って仕方がないので、奇抜な竹製品を使ってどうにか消費しようという運動である。
いつもどおりのザルや籠のほか、竹製のスマホケースやオーディオセットまで展示されていた。
それ燃えないのか不安になるが、きっと不燃加工をしているのだろう。
(史料館企画展のチラシから)
竹で作った木琴、竹シロフォンも置いてあって、自由にならせるよ。
静かすぎる資料館でそれをやる勇気があれば、ですが。
私はありませんでした(チキン)
んで2Fは図書館になってるよ。
郷土資料や金融関係を扱っている。
そして図書館手前の展示ケース。
常磐線が全線開通してから120周年ということで、関係グッズを並べていた。
こんなの。
以上。
【交通手段】水戸駅から徒歩20分
【入館料】無料
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】60分
【URL】常陽史料館|常陽藝文センター
偕楽園
水戸の偕楽園です。
日本三大庭園の一つである。
「三大庭園なのに門しょっぼ」と思われたろうが、この門は南門であり、正門的なのは東門である。
普通に東門から入れば良かったのだが、人生いろいろあって、今回は南門に来てしまった。
南門から東方向へ。
公園内は一部を除いて無料なので、普通にウォーキングしている人がちらほら。
斜面には梅の木が植わっており、これをみて正岡子規が
「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」という俳句を残している。
え、見たまんま書いただけじゃん・・
まぁ私にはきっと俳句心が無いから、こういう感想になるのであろう。
柿を食っても鐘は鳴らないのである。
階段を登って、園の中心部の方へ。
偕楽園は、水戸藩主9代目の徳川斉昭が1842年に造園したもの。
この人は弘道館も作っているが、「文武で頑張った人たちが休息に使えるように」ということが、造園のきっかけである。
階段を登ったところ。
まぁ水戸藩は壊れた家も直さずに放置しておくような質素倹約ぶりで、弘道館の建設すら賛否両論だったのに、よく造園費用だせましたねという感じなのだが、そこは藩主のパワーで決めたのだろう。
石碑には偕楽園造園にむけた徳川斉昭の気合が書かれているそうだが、薄れてしまって読めません(こなみ)
偕楽園というのは、「領民の皆とともに楽しめるように」という意味が込められている。
上述の通り、休息の場なのである。
そのわりに、開園当初は武士および認められた一部の階層しかダメで、一般ピーポーは入園できなかったけどね!
思いっきり名前詐欺である。
さて、奥に見えるのは好文亭ゾーンの入口。
園内唯一の課金部分である。
入場料200円を払って中へ。
これが好文亭。
催し物などをおこなうイベントゾーンとして徳川斉昭みずからが設計したもの。
大戦中に殆ど焼けてしまったが、戦後に再建して1958年に元通り。
そのあと1969年に奥御殿へ雷が当たって全焼という、アンラッキー極まる事件もあったが、彼は元気です。
各部屋の襖には花々の絵が描かれていて、それで部屋の名前が決まっております。
ここは菊の間。
お次は桃の間。
食事の準備場所として使われていた。
建物の襖に関しては2016年から3か年をかけて大々的に修理を実施していた。
芸術の偉いせんせーとかを招いて、新しい襖に絵を描きなおす等。
つつじの間は、すごい岩山みたいに見えますね。
庭の風景もちょろっと。
松の間。
藩主婦人が好文亭にきたときの、休息の間。
心静かに待たれよ、という感じである(なんとなく)
一方で紅葉の間は、藩主夫人のお付きのものが控える間である。
お付きの者、こんな艶やかな部屋に居てよろしいのかしら。
まぁ松の部屋に比べると心落ち着かない感じはするので、「お付きの者は休んでなんかおらずに注意力を維持しておれ」な意図なのかもしれないし、別に違うかもしれない。
竹の間。
紅葉の後だと田舎臭く感じてしまうが、まぁ素朴な味わいで良いんで無いの(タケノコのイメージ)
また艶やかな雰囲気になったのは、梅の間。
藩主夫人の居室として使用され、大正天皇が皇太子時代に訪問した際もここに宿泊している。
梅が有名な偕楽園だけあって、梅の間は地位が高いのだろう。
いきなり落ち着いた。
清の間。
ここまで鮮やかな襖ばかりだったので、すこしは白いのをみて落ち着け、という粋な計らいなのかもしれない(?)
メインディッシュばかり続いても疲れますからねぇ。
そしてまだまだ部屋数はあるのだ。
うげー(疲労)
この萩の間も、紅葉の間と同様に、藩主夫人のお付きの者が控えている部屋である。
良い御身分ですねぇ。
桜の間。
特に説明は無し!
廊下を抜けていきます。
中央が盛り上がっている?太鼓橋な廊下を通って、奥御殿に進んでいく。
大きな広間に着いた。
東広縁。
徳川斉昭が、80歳以上の家臣や老人を招いて労ったりしていたらしい。
通称「老人ホーム」(大嘘)
部屋は広いのにトイレは超絶狭い。
ここが藩主の間。
好文亭で謁見する場合は、この部屋を用いましたとさ。
藩主の間を挟んで、西広縁。
文人墨客を集めて、てんやわんややっていた場所。
西広縁を抜けたところには「対古軒」というゾーンがあって、客人が場に出る直前にここでスタンバイする。
舞台袖 兼 プチ控室な間なのだろう。
階段を登る。
まるで梯子のように急傾斜だ。
のぼりました。
のぼった矢先に、こんな小部屋。
配膳室であるようだ。
配膳用の手動エレベーターがあって、階下と繋がっている。
見下ろすと、こんな風。
ここがメインの間。
少人数の客人をここに上げて、酒肴でもてなしたのだろう。
VIP席。
こんな面白い形で廊下と繋がっております。
正面から見た図。
んで、東側を眺めた図。
良い案配で千波湖が視界にはいる。
西側はあんまなんもないな(雑)
階段をおりませう。
階の途中に、武者控室がある。
最上階にあがっている客人の部下が、ここでスタンバっているのだろう。
せまいせまい。
1Fまで降りてくると、配膳室部分にあたる。
あそこからエレベーターで上階に運んでいる模様。
このエレベーターは徳川斉昭の発案らしい。
てなわけで好文亭は見終わりました。
受付の方に戻ればよいわけだが、奥にまだ道がある。
「待合」という部分。
茶室に招かれた客が、いったんここで待機する場所。
建物の中にいれてあげなよ(憐憫)
さらに奥に進むと、こんな門があった。
茶室へはここからはいっていたのだろうか。
すごい勝手口感がしてならないが。
好文亭は見終わりましたが、偕楽園はまだまだあるのです(げっそり)
園の中央部分にいるので、西側を通って北の表門・御成門を経由して東門に向かいます。
あっという間に林に入った。
夏は涼しげ。
冬は寒い(直球)
吐玉泉というものがあるので、そちらに折れます。
階段を降りる。
道中で次郎杉なるものに出会いましたが、台風で根こそぎやられております。
渡り廊下っぽい道を行く。
これが吐玉泉。
あれ、思ったより現代的である。
いちおう徳川時代からあるものなのだが、樋管とか老朽化したからリフォームしたのだろうか。
説明書きを読むと、この水には眼病に効くという定評があるそうな。
しかし、あまり飲む気にはなれませんね・・
傍らには水質検査の合格書みたいなのが置いてある。
ふーむ、じゃあ大丈夫か。
と思って飲んだ。
味は普通。
んで飲んだ後に、この注意書き発見。
おい!そういうことはもっと早く言ってくれ。
ちなみにこの2日後に私、激しい胃腸炎に見舞われて、その週かなり寝込んだのですが、まさか・・
南方向へ行くと、入場してきた南門へ戻ってしまうので、
北方向へ戻ります。
降りてきた道を登るのだ。
いい加減暗くなってきて、灯りとともにもののけ姫感が増してきた。
夜は夜で別の趣がある。
たどり着いたのが表門。
ここが本来の正門であるが、まわりはもう住宅街であり、水戸駅からアクセスするには遠い入口なので、いまでは裏口みたいである。
北東方向へ。
梅林ゾーン。
すっかすかですねえ、冬だから当たり前だけど。
12月下旬から咲き始める種もあるそうだが、ちょうどその直前くらいなのでタイミングとしては最悪な時期である。
そして北東部分にあるのが御成門。
梅林を通って、ゴールの東門へ。
梅は種類にもよるが2~3月ころが一番良いらしいので、皆さんそれくらいの時期にお越しください。
私は混むのが嫌なので、こういう閑散期ばかり狙っていますが。
東門の近くにはお土産ショップなど、門前町っぽさを醸し出す。
東門にたどり着きましたとさ。
以上。
【入場料】無料(好文亭のみ200円)
【混雑度】★★★(ちらほら)
【滞在時間】90分(好文亭45分)