ふじみ野市大井郷土資料館
ふじみ野市として合併した上福岡市と大井町のうち、大井町ネタを扱うのがこの資料館。
大きな建物ですが、それは図書館が併設されているからです。
というか図書館が本体で、資料館は付随要素である。
入口からみて左奥が展示室。
入場無料。
竪穴住居の模型。
その背後には縄文土器がぞろぞろ。
説明パネルに、こんな強気のコメントがかかれている。
縄文文化の痕跡がよほど多く発掘されたのだろうか。
大井の発掘技術は世界一ィ!
縄文土器には幾つか種類があります。
これは阿玉台(おたまだい・あたまだい)式土器といい、縄文時代中期に千葉・茨城で流行ったそうな。
土をこねる時に粘土以外の物質粒を混ぜ込んで粘度が調節されているのだが、何の物質を混ぜたかというのが重要な要素らしい。
阿玉台式は雲母を混ぜることが多く、それでキラキラしている。
こちらは勝坂式土器。
中部~西関東あたりでみられる。
サイズがあって派手な装飾が特徴であるが、資料館サイドの解説によると「縄文中期は温暖な気候で食物が育ち、人口も増えて豊かな生活を送っていたことが一因」。
トロピカ~ナなノリで盛大な土器を作り上げたということだろう(意訳)
キラキラ粒が光っているんですが、こっちにも雲母が入ってるんですかね。
これだと阿玉台式の特徴は、「勝坂式に比べて地味」ってことになってしまいそうである。
石器たち。
ピアス。
本当にこんな重そうなものを耳から下げていたんだろうか。
そして右上は粘土クズでは?(困惑)
まるで宝石の展示のようなケースに入れられている石器たちも。
ここまで縄文時代ですが、弥生時代~奈良時代の遺跡は見つかっていないそうです。
平安時代・鎌倉時代も、さほどめぼしいものが見つからなかったので、一気に戦国時代まですっ飛ばします。
うーん、この。
とはいえ川越街道の沿道にあるなどで交通網に組み込まれているので、鎌倉時代あたりから武士が住み着いて町を形成している。
戦国時代には北条氏の支配下となり、大井町の有力町民が北条氏から委託を受けて町の管理をしていたようだ。
写真は、かの北条幻庵が有力町民に宛てた委託状のようなもの。
こちらは戦国末期、豊臣秀吉の小田原攻めが迫る中で、北条氏直が大井町に対し、緊急の軍事動員の準備をせよと命じた文書。
動員対象には、兵役義務のない百姓も含まれていた。
うーむ、やっぱり味噌汁もろくに掛けられない奴の息子らしい、畜生プレイだな。
江戸時代には正式に川越街道の宿場町となった、大井宿の模型です。
緑の部分、もっと減らしても良かったのでは(提案)
映像資料もかつてはあったようですが、きっと予算がついても図書館に取られてしまうのだろう。
経済圏的には川越だったので、川越藩お抱えの商人もいて、江戸の商人と対等に張り合っていたとか。
大井町ほこらしい。
観音講の帳簿。
市沢という地域では毎月行われ、各世帯の戸主だけが参加できたという。
本来の観音講は、皆で集まってお経を読むなどの信心深いものではあるが、実際には仲間内で集まって普段言えないようなことをネタに話しあうという面があった。
つまり飲み会をやってたんじゃないかな、戸主だけだから嫁さんもいないし(断言)
さきほどの市沢地区では、代表者数人で大山参りをするという慣習があったそうな。
昔は徒歩で行っていたが、鉄道が登場すると鉄道利用をするようになり、最後には自動車で現地まで参るようになったらしい。
もはや慰安旅行である、やっぱり飲み会じゃないか。
上福岡の資料館にもあったが、こちらも箒の生産地。
ホウキモロコシという、稲の一種が材料。
これで箒を作って畳を掃くと、植物の油で畳にツヤがでるということで、用いられていた。
江戸時代の建築で畳が多い関東ではホウキモロコシ、一方で関西では板間が多かったのでシュロなど別の植物を利用している。
作り方としては、束をつくって、まとめて固定するような感じ。
農家の副業なので、さほど高難易度ではなさそうだ。
なおホウキモロコシのうち籾殻は使わないので取り除くが、稲の一種なので食べることができる。
まぁ雑穀なので美味しいかどうかは別。
完成した箒に被せる箒袋。
製造者ごとにいろんなパターンがあるようだ。
という感じで、小規模な資料館でしたとさ。
以上。
【交通手段】ふじみ野駅西口からバス10分「文教学院大学前」下車
【入館料】無料
【滞在時間】30分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】大井郷土資料館へようこそ! | ふじみ野市ホームページ