浦山ダム・資料館うららぴあ
秩父の山奥なので公共交通機関で来る人なぞ殆ど居ないと思うが、浦山口駅から徒歩25分で来れないことはない。
まずダムの手前に「浦山ダム資料館うららぴあ」というのがあるので、入館。
この資料館、1Fは食堂になっていて浦山ダムカレーを食べることができる。
ただ休業日があるので、浦山ダムHPから要確認。
2Fが資料館。
行政おなじみの説明パネルが床に転がっている。
荒川ダムの流域図。
浦山ダムは左下。
様々な河川が荒川に流れ込んで、巨大な河と化しているのがわかる。
出ないときは出ないが、出る時はドバーっとでる、大変迷惑なケチャップ川である荒川。
その流量を管理し、洪水・渇水の防止を主な目的としている。
ダムにはいろんな形式があるようだ。
浦山ダムはこれ。
ダム湖に貯めている水の圧力は相当なものであり、それを支えるために三角形の大規模なコンクリート構造をしている。
正面から見たお写真。
こちらは秩父の観光案内。
石の展示。
石界では有名らしい三波石が取れたり、山地なので多様な石が採取できるので、関東では石と言えば秩父の名前が上がるのだろう。
ダムの模型。
結構大きいな。
水を流す口はココ。
よくみたら本当に水を流している。
ダム構造のイラストがあったので、それと照らし合わせ。
上の写真で水を流しているのは「常用洪水吐き」といい、通常水を流すところ。
んで橋げたの下に空いているスペースは「非常用洪水吐き」であり、ダムの貯水可能量を上回る水が来てしまったときに、ここから流すものと思われる。
まぁそうならないように、ダムの貯水量を日ごろからコントロールしているのであろうが。
水を流すゲートはこの2か所の他に、水力発電用のものがあり、ここを通る水もある。
常用洪水吐からの時と違って、ダムの下部からしれっと流すので、あまり派手さはない。
順路通りに行くと、いやに暗いトンネルに到達。
謎の演出である。
ダムを横から見た図が、トンネル内に飾ってある。
トンネル暗くする必要はあったのだろうか。
縦の線はエレベーター。
下部にある横の線は、ダム管理・点検用の通路。
エレベーターの横には、同じく縦穴があって、そこにプラムラインという装置が入っている。
このプラムラインは振り子。
ダムが水圧の影響で歪んでしまうと、振り子の揺れる角度が変化するので、それで僅かな歪みでも検知できるというもの。
ダム歪むとか、なにそれこわい。
歪んだら一体どうするんだろうか。
貯水量を減らせば直るものなんだろうか。
トンネルを抜けると、写真館だった。
下久保ダムはアニメイラスト責めだったが、ここは硬派に写真展と来ている。
この部屋はダムの機材を展示しているところ。
いろいろあるけど、細かすぎて分かんないや(投げやり)
ダム式万歳なるものがあるそうです。
自分自身をダムと思い込み、こんなポーズをとる。
もうのっけから難易度高いんですが。
そこから素直に万歳をするのではなくて、一度腰を下げて、そこから持ち上げるように手を広げるらしい。
みなさんも宴会でやって、どうぞ。
誰かいる。
語尾にダムが付いている。
面倒だなぁ(直球)
資料館おしまい。
ダムの堤体の方へ。
上流・ダム湖方面。
下流方面。
ダイナミックジャンプしたら、もう後戻りはできないだろう。
ダム内部には見学用通路があるので、この建物からそこへ。
エレベーターホール。
これに乗って、ダムの下部へ。
さすが人工物の極みであるダム、エレベーターの無機質さがハンパない。
田舎なのでサルが出ます。
1FとBFしかないという潔さ。
1分間かかります。
ついたところ。
目の前にあるこれは、水面下100m地点における水圧のすごさを示す装置。
ボタンを押すと装置の中で水が噴出して、中にある重りを上に押し上げるというもの。
重りはこの取っ手をもって、上に持ち上げることができるのだが、かなり重いのでなかなか持ち上がらない。
それを水圧で一瞬にして持ち上げますよ、という説明。
なのでダム湖に貯められた水の強い水圧でダムが壊されないよう、設計を考えねばならないというもの。
気温は30℃近くあった日なのだが、ダム内部は15℃。
年間通じてこれくらいの温度だそうな。
貯水されている水の温度の影響でこうなっている。
装置の裏に部屋がある。
さきほど展示のあった、プラムラインがこの部屋にあるようだ。
こっちは管理用通路なので、一般人は反対側にある見学用通路を歩く。
階段をのぼります。
足の不自由な人用に、昇降機が備わっている。
通路。
秩父の熊かな。
ところどころにモニュメントちっく。
ダムが出来るまでの時代順の写真。
1967年から調査が始まり、計画策定。そして10数年にわたる用地取得交渉と続く。
ダム本体の工事は1990年から始まり、1996年に完成。
試験的な貯水も成功して、ダム運用スタート。
おめでとうございます。
ダムあれこれ。
西武ドームより圧倒的に広い。
地元のライオンズファンを煽っていくスタイル。
日本で六番目の高さだそうです。
リアクションがとりづらい!
見学用通路を抜けました。
ここにも駐車場がある。
ダムを見上げる。
日本6位の高さの迫力。
というのを見たら、また通路を抜けて上に戻ります。
おしまい。
【交通手段】浦山口駅から徒歩25分
【滞在時間】60分
【混雑度】★★(施設内に他に数人)
【入館料】無料
【URL】浦山ダム見学案内 | 浦山ダム
東京都埋蔵文化財センター・縄文の村
多摩センターにある、東京都の埋蔵文化財センターに資料室がある。
また遺跡庭園として「縄文の村」が併設されている。
多摩センター駅から徒歩5分、ピューロランドのとなりです。
敷地入口にいきなりこんなオブジェ。
雨水の排水路っぽいが、古墳アピールだろうか。
こちらは江戸時代の井戸。
江戸時代の木製の水道管。
木製なので、水が漏れたり、雑菌が入ったりは日常茶飯事である。
資料室は2F。
入場料は無料です。
入口すぐ左側に居た人。
肉食系男子らしい。
あぁ、そうですか。
多摩ニュータウン周辺の遺跡の位置を示している模型。
オレンジの球体があるところが、遺跡の位置。
大量にありますな。
資料室へ。
1985年の設立だが、綺麗な内装である。
石器によく利用された黒曜石についての展示。
黒曜石は、粘度の高い流紋岩質のマグマが、地表に噴出されて一気に冷やされたもの。
ガラス質で鋭利なため、ナイフや矢尻として重宝された。
しかし山地が限られており、東京周辺では神津島(こうづしま)産のものが9割を占めているそうな。
ずいぶん遠いところから持ってきている。
大きい塊で、各地へ運んでいる。
遺跡によってはこの塊が多く見つかっているところもあるので、そこは中継地点としての役割があったのだろう。
定住がはじまったばかりで、狩猟がまだ中心の社会ではあったが、こうした地域間交流が既に存在したと言うこと。
これを根拠に、縄文時代に商人が存在した説もあるのだが、さぁどうなんでしょうね(雑)
火山灰が降り積もったローム層、この地域では4mもある。
その凄さを表すため、土をたくさん積んでみたのだが、4mやろうとすると建物自体が埋もれてしまうので、ひとまず床から天井までにしました、という展示。
落とし穴。
イノシシがかかっている。
底には竹を埋めており、落ちたイノシシの足に絡まって動けないようにしている。
八王子にある遺跡の、落とし穴の位置を示した図。
ちょっと掘り過ぎじゃないですかね。
昨日掘った穴に、自分がハマりそうである。
天井には時代順に土器の写真が貼り付けられていますが、気づく人はあまりいないようです。
土器ぞろぞろ。
さわれます。
実際に触れる資料館はなかなか無いので、さすが東京都である。
ただ奥の方に置いてある土器には、手が届きません。
多摩丘陵の縄文遺跡を復元してみました模型。
なぜかバックは現代の多摩ニュータウンでお送りしております。
ここにも落とし穴。
木をくり抜いた丸木舟は縄文時代おなじみであるが、こんなちゃんとした船着き場もあったのだろうか。
模型の遥か情報に、なにやらグラフが置いてあるが、遠くてよく見えません。
縄文土器のやたら凝った装飾は、どうみても祭祀用にしか思えない。
しかし土器内に食べ物の痕跡がみられるなど、煮炊きに使っていた節がある。
こんな口元が波打っている器でどうやって食べるんだろうか。
とにかく縄文土器の装飾性は謎に満ちている。
弥生土器さんのご登場です。
弥生土器に装飾性が無いのはお馴染みだが、器の厚さも薄いようである。
こっちは縄文土器。
たしかに分厚い。
安定の石棒。
このスタイルの竈は古墳時代に登場。
家の内壁に粘土や石で作りつけている。
こんな仕組み。
甑という器・蒸すという選択肢が出現した。
甑は蒸気が器に入ってこれるよう、底に穴を穿っている。
古墳時代グッズいろいろ。
鋤は、柄を木製にして、先端に金属を付けているようだが、これ先端部分すっぽぬけないですかね。
粘土を地層から掘っているときに、ワラジが粘土にハマって取れなくなり、その跡が残っていたというもの。
現代人もセメント固め中に足跡を残せば、未来人に見つけてもらえるかもしれない(近未来ロマン)
時代が飛んで平安末期。
勃興しだした武士たちは、仏教経典をこんな筒に入れて、それを納めた経塚をつくり、その大きさで勢力の規模を誇示したんだそうな。
突然縄文時代にもどりますが、土鈴を鳴らす音をここで再生できます。
江戸時代の羽子板。
持った途端に折れそう。
高い下駄。
背が高くなる効果があるので、現代のハイヒールに相当するかも?
この資料室の中には企画展要素もあります。
今回は東京の離島関係。
これはオオタツノハという貝で、耳飾りなどの装飾用品に使われた。
オオタツノハから作る装飾品は憧れの品だったらしい。
縄文時代版シャネル。
こんな感じで貝を分割するそうな。
これは神津島沖で発見された、江戸時代に難破したと思われる船の積み荷。
北前船とか海運が流行していたが、命がけの時代である。
タコもいます。
江戸時代の船かと思ったら、マーシャル諸島の巨大カヌーだった。
もはや埋蔵文化財ではないのだが、戦前に皇室に献上された貴重なものなので、海繋がりでついつい出展されてしまったのだろう。
船とセットで献上されたものだが、海図である。
海流を竹で表している。
目的地にはタカラガイを括り付けている。
本来は他にも色々括り付けて、もっと情報量のある図になっているらしい。
いずれ、海流や風の動きを把握したうえでこの図を作成しているので、相当の知識が必要とされるであろう。
これらは大島でみつかった土器。
復元されて綺麗な状態になっているが、現地では打ち割られた状態であったらしい。
火山の神に捧げるという趣旨で、ぱり~んしたと考えられている。
この展示室はこれでおしまい。
反対側の資料室へ向かう。
ここは体験ゾーン。
模様のパターンはこちら。
ここでも土器に触ることができる。
貴重な機会である。
火おこし体験。
実際に発火したらどうするんですかね。
土器の復元パズル。
縄文人が食べていた、ドングリに関する展示。
茹でで灰汁抜きするのが一般的。
ドングリを砕いて調理することもしていたようだが、その砕く部分を体験できるコーナー。
石鉢のうえにドングリを置いて、石で打つ。
簡単そうに見えるが、ドングリめちゃめちゃ固いので、かなり難しい。
私はまったくできませんでした(貧弱)
ナッツアレルギー持ちの人には配慮してくれるので、早めに言いましょう。
ご丁寧にクッキーレシピもあるが、そもそも砕けない勢には関係ないですね(僻み)
縄文時代の着物。
麻製だと思われる。
ファッションショー。
どうみても無印良品です、ありがとうございました。
入口の「肉食系男子」といい、ちょくちょくネタを挟んでくるようである。
札も付いていますが、値段はプライスレス。
というか自分で作れというメッセージかもしれない。
まだ奥に展示があります。
これまた土器の復元パズルのコーナー。
こんな感じかな(適当)
縄文時代のおもちゃだろうか(すっとぼけ)
この木の実をボールとして使うようだ。
スタート地点の穴に入れたけど、あれ?
今月の一品はこちら。
蛇の紋様を描いた土器は多いが、サンショウウオと思わしき柄が付いている土器もあり、ただいま研究中とのこと。
クレーンゲームがあるぞ。
まぁプレイは出来ませんが。
遺跡から発掘された、大量の土器の破片である。
「一見何の価値も無さそうだが、この中に貴重な情報が眠っているかもしれないので、それを探索するのが埋蔵文化財発掘である」という意味がいちおう込められている。
唐突に拉致問題のポスター。
ガラスの向こうに、土器の保管室がある。
展示しているのはほんの一部であるというアピールであろう。
保管室への扉は、どうみても厳重そうである。
土器制作用の粘土を掘る人の図。
地下3mに達していた個所もあり、粘土を得るための縄文人の気合っぷりを示している展示なのだが、あまりそういう感じがしないんだよなぁ(直球)
一番奥まで来たのだが、ただの休憩所であるようだ。
完全に図書館の自習机である。
館内はこれでおしまい。
最後にアンケートを書くと、オリジナルのクリアファイルがもらえます。
ただ性別欄が、男性・女性・その他になっているんですが。
館内はようやく終わったが、そとに縄文の村があるんだった(疲労)
園内マップ。
復元住居は3棟あるようだ。
1棟目は入口すぐにある。
暗い。
昼間なのにすごい暗い。
火が焚かれているが、これは時期によってまちまち。
なお縄文人は煮炊きは必ず屋外でやっており、屋内では調理しなかったそうな。
にもかかわらず屋内の、しかも家の中心で火を焚いていた痕跡があり、これも祭祀的な要素かと考えられている。
この住居に関する説明。
右下に紙があり、ぱっと見おなじ内容を書いているように見えるのだが。
よくみると、木の板では敷居住宅の流行時期を「4200年前」としているのに対し、紙の方では「4500年前」となっている。
つまり木の板の記載内容を、紙が修正しているのだが、なんだか分かりづらいやり方になっている。
庭園を進んでいく。
便所(直喩)。
左にいくと湧き水があるのか。
湧き水の方へ。
枯れていた。
2軒目の住居へ来た。
さっきの住居は見えづらかったものの、床に石を敷き詰めていた。
こちらは土間スタイルな模様。
そしてやはり家の中心に炉を置いている。
天井を見ると、屋根裏っぽいスペースがある。
物でも置いていたのか。
またこの家で4~5人住んでいたようで、だいぶ狭いからロフトで寝る形式を採用したのだろうか。
三軒目。
暗い、以上(適当)。
入り口方面へ戻ります。
ところどころ縄文土器の巨大版が置いてありましたとさ。
以上。
【交通手段】多摩センター駅から徒歩5分
【入館料】無料
【滞在時間】2時間
【混雑度】★★★(一部屋に数人)
【URL】東京都埋蔵文化財センター
UFOふれあい館
福島市にある、宇宙人・UFOに関する施設、UFOふれあい館である。
福島駅からバスで30分弱。
「UFOの里」というド直球なバス停が最寄りである。
よくこんなバス停つくれましたね。
最寄りのバス停といえども、ここからUFOふれあい館までは10分弱歩く。
しかも結構な上り坂。
UFOで連れてってくれないかな(老並)
お馴染みの看板。
この時点で来訪者は、いろいろ察することができるだろう。
汗だくで坂をのぼって、ようやく建物が見えた。
案内板。
商店街は宇宙人に侵略されてしまったらしい。
現在地から離れた場所にあるので、バス勢は行けませんが。
軽いノリの事業名である。
UFO目撃談はこの千貫森(せんがんもり)地域で出てきており、商店街の方では見つかっていないので、「町に”も”」宇宙人を呼んでお金を落としてもらおうという意味だろう。
たぶん行政が絡んでいるので、さっきのバス停も行政の要請により作られたんじゃないか。
ここにもロケットの石があります。
ふれあい館に入る。
「立体映像シアター」の文字が大きすぎて、むしろこっちが館名のように見える。
受付。
入場料は400円。
TVでも時たま取り上げられるので、芸能人の色紙が多い。
キャラクターも色々いるようだが、彼らが館内で登場することは無かった。
1名全裸なので、モザイクが掛けられております。
ふれあい館にある資料3000点を提供したのはこの人。
五反田でもともと「UFOライブラリー」なる資料館をやっており、2002年逝去後にその資料がこっちに来たようだ。
経歴。
「日本空飛ぶ円盤研究会」なんてのもやっているが、メンバーがだいぶ大層である。
本棚。
雑誌ムーみたいなのしか置いてないだろうと思い来や、案外まじめそうなものもあった。
さて、便所横にあるミステリーゾーンが館内への入り口である。
暗い。
青い。
天井にさっそくUFOがいる。
ところどころに展示がある。
この辺の開発計画図ですかね(すっとぼけ)
グレイタイプの宇宙人、とある。
近づくと宇宙人が現れる。
なんか怖い写真になってしまったが、実際はもっと明るいです。
ただお子ちゃまによってはモロに泣きだしたりするので、子連れは要注意。
ミステリーゾーンを抜けると、展示室。
宇宙人と記念撮影が出来る。
この人形、日清からプレゼントされたものらしい。
たぶんこのCMだろう。
ただ宇宙人はデリケートなので、記念撮影だけど「私に触るな」とのこと。
肩組んだりしたら、星屑にされてしまうかもしれない(棒)
この千貫森という地域は、UFO目撃談がやたら多いところだが、いかに特殊な地域かを主張している図。
周辺にある遺跡や古墳などから線を引くと、この千貫森に集結するそうである。
だから千貫森は神秘的な地域ね、証明終了。QED!
「これ別に千貫森じゃなくても、点を決めて各地点からそこに線引けばいいだけでは?」とか言ってはいけない。
UFOを飾っています。
1950年代にアダムスキーという人間がこのUFOの写真を公開して「遭遇して撮影した」と主張したので、アダムスキー型。
ミスチルの「UFO」という曲の歌詞にも登場する。
これがその写真。
UFOブームの火付け役である。
まぁランタンや模型を利用した偽造写真であることがバレてしまったが。
ボタンがあるぞ。
宇宙人が喋ってくれるのだろうか。
押してみたら、UFOが回転して、内部構造が出てきた。
説明した写真。
なおUFOからのメッセージは特に発せられなかった。
それとも「内部構造をみせてやる」というメッセージだったのだろうか。
もう一個あるのは、プレアデス星団から来たものらしい。
こっちもボタンを押すと、メッセージを返してくれるそうな。
というわけで押してみたが、UFOがピカピカ光るだけで、音は発せられなかった。
光の出し方だけで宇宙語は読まなければいけないらしい。
こんなUFOがあるかもしれません、という展示。
「実は無いかもしれない」という予防線も同時に張っている。
このキャラの説明は特になかった。
ピンカラ石という、地元の石。
強い磁力を含んでいるので、鮮度が長持ちしたり、金魚が強くなったりするらしい。
すごいなー磁力。
クララも立てるかもしれない。
石の上に絵が飾ってあるのだが、これも宇宙人なんだろうか。
宇宙人を描いてみたイラスト。
イギリスでみつかった宇宙人。
サルのような恰好という、ずいぶんな言われようである。
ベネズエラの宇宙人。
サウスポー。
消える魔球とか投げ出しそう。
メキシコの宇宙人。というか地球人では?
これだけ、どこの宇宙人か書いてなかった。
ただこいつが見た目一番こわい。
UFO目撃談は、日本でこんなにあります。
小学生2人が宇宙人に肩を叩かれたそうだ。
宇宙人という名の変態だった可能性が高い。
永井氏が太陽系外まで行って戻ってきたそうだ。
あんた誰だよ。
CIAの機密文書。
UFOふれあい館の情報収集能力の高さを見せつけている。
宇宙船が浮いているようにみえるという展示だが、よく分らんかった。
こっちはUFO浮いてます展示。
浮上しているそうだ。
へぇーすごいすごい。
浮いているところを、指で押さえつけることができます。
離陸妨害。
磁気空間がこの辺では狂っているそうな。
狂っているのはお前のあた(不可思議な力により削除)
ロケット型UFOは段ボール製。
だだっ広いコーナーだが、記念撮影スポットその2だろう。
こっちの宇宙人は触っても良さそうである。
シアターがあります。
上映時間8分で、UFO関連の映像を見られる。
時間になると係員が呼び込み始めるので、便乗すればよい。
あと大量のパネル展示。
館内にけっこうお客さんいたのだが、このゾーンに足を向ける人はいなかった(納得)
文字も小さくて大量なので、読むにはかなりの根気が必要である。
ちなみに「キャトルミューティレーション」とはアメリカで一時期発生した、牛などの動物が体を一部切り取られて死んでいるという怪奇事件で、これが宇宙人の仕業とされたもの。
ゼルダのムジュラで出てくる牧場イベントは、これが元ネタかもしれない。
宇宙人目撃者が書いた、宇宙人の似顔絵。
捕らわれた宇宙人として有名な写真。
散々騒がれたが、これはドイツの新聞が行ったエイプリルフールだそうな。
UFOは東本願寺に参観したそうです。
これが、最も信頼できるUFO写真とのこと。
思いっきり上から貼り付けてるんだよなぁ。
これも各所でネタにされているので、お馴染みであろう。
1Fおしまい。
2Fにあがる。
2Fは大浴場となっており、入浴料は入場料に含まれているので、入館者は自由に入ることができる。
タオルは受付で100円でもらえる。
休憩所もあります。
地元住民と思わしき人々がおり、彼らにはこの施設は銭湯として扱われているようである。
温泉では無いが、入浴料400円なら良心的であろう。
休憩所からの風景。
この山は標高460m程度ではあるが、周辺に高いものがなく、白河あたりから見えるらしいので、古くからランドマークとしての役割がある。
グッズが並べてあるが、これらは非売品とのこと。
宇宙食。
宇宙飛行士の方には申し訳ないが、正直おいしいとは思わない(経験談)
Tシャツ。
なぜか運動器具がある。
これと大浴場あわせれば、軽くジムみたいな感じである。
2Fもおしまい。
1Fに降りて入り口前の本棚を見ると、こんなのがあった。
奥の人は確かに宇宙人と言えば宇宙人だが、ドコモダケはどうなんだろうか。
ふれあい館のとなりにあるのが、食堂兼土産売り場である。
ここで食べたのだが、箸袋にもUFO。
この宇宙人は語尾が「ナリ」だったりするんだろうか。
バス停近くの看板にもあったが、ここのラーメンは結構旨い。
グルメブログじゃないんで写真撮ってないですが。
地元民にとっては、「風呂入ってラーメン食うか」というノリで来れる場所である。
帰りの、福島駅方面へのバス停。
待合所がUFOチックになっている。
ただ中は宇宙人ではなく、昆虫の住宅となっているので、人によっては宇宙人と触れ合った方がマシと思うだろう。
以上。
【交通手段】福島駅からバス30分(1~2時間に1本程度)
【入館料】400円
【滞在時間】90分(食事込み)
【混雑度】★★★★(すぐ横に人)
【URL】
郡山市開成館
郡山市開成館は、明治時代の西洋建築物をベースにした資料館である。
郡山駅からバスで15分ほど。
敷地内にはメインの開成館のほか、3棟の建物が存在する。
計4棟の間には庭園が整備されている。
がんばって管理していますねぇ。
受付で入場料200円を払い、まずは開成館を見に、左手へ。
これが開成館かな?
事務棟だった。
開成館はこちら。
1874年の建築。
一見西欧風ではあるが、中は思いっきり畳である。
明治初期、誰が言ったか知らないが「西欧風の建築にしろ」という命が下ったようで、ただ大工たちは和風建築しか知らんもんだから、とりあえず西欧建築がかかれている錦絵とかをみて、あとはイマジネーションで造った模様。
この開成地区一帯を開墾するために、福島県が開拓事務所として設置した。
つまり役場。
入館。
靴は脱ぎましょう。
ハチが出るそうです。
お知らせはいいから、退治してクレメンス。
1Fは4つの部屋がある。
薄暗い写真だが、実際に薄暗い部屋であった。
展示品の保護のためだろうか。
置いてあるのは昔の屋根なんですけどね。
そんなに照明あててはダメな物なんだろうか
(初代開成館)
この開成館は2代目である。
初代開成館は1873年に建築されたが、いざ使ってみたら思ったより狭かったことに気づき、翌年に現在の開成館が建てられた。
ちょっと使用人員の予測ガバガバすぎませんかね。
写真の継ぎ方についてはスルーでお願いします(郡山市からのお知らせ)
奥に進むと、縁側にでる。
遊び道具は民家系資料館ご用達。
オランダの風車が何故か置いてあるが、その理由はのちほど。
2つ目の部屋は民芸関係。
養蚕の展示。
開成地区を開墾した際に、北は田んぼ・南は桑園にして、蚕の食べる桑の葉を育てていたそうな。
生糸輸出全盛期ですからねえ。
生糸を取るまでの一連の流れも掲示されています。
まずは夏ごろ、蚕が卵を植え付けた「種紙」を業者から農家が買ってくる。
これを春になるまで、涼しいところに保管しておく。
長期視点の育成である。
( http://web.tuat.ac.jp/~kaiko/rear/hatc.html より)
春分過ぎに、種紙を冷所から室内に出して20日くらい経つと、卵が孵って蚕が生まれます。
孵化した時点の画像がこちら。
ギャー。
生まれた幼虫には桑の葉を与えておくと、勝手に食べて大きくなります。
1か月半経つと葉を食べるのをやめ、首を振るようになる。
これが「糸を吐く」の直前段階である。
この段階になったら、用意しておいた蔟(まぶし)という人工の巣に入れる。
すると蚕が糸を吐き出して、繭ができていく。
出来ました。
あとはこれを高温の鍋に突っ込んで中の虫をあぼーんし、繭から生糸を紡げばよい。
もちろん全ての繭が有用なわけではなく、ダメなのも存在します。
見分ける基準が、これ
汚い、くさそう。
優秀な繭からは、このように美しい生糸が取れます。
イマイチな繭の場合は、虫をあぼーんさせたあとに更に煮て、繊維を引き延ばして真綿にする。
保温性があるので防寒着や毛布に使われていますな。
繭の一生という展示。
スケッチがやたら昭和チック、というか気持ち悪い(石直球)
その他民芸品がぞろぞろ。
3つめの部屋。
郷土ゆかりの文学者を扱っております。
大江健三郎は愛媛出身だけど、この地区の開拓の歴史を扱っているのでランクイン。
ずいぶん子供っぽいのもいるな。
若くして亡くなった詩人だそうだが。
この開成館は1886年~1925年まで桑野村役場として利用されたが、役場機能は2Fであり、1Fは貸家としていたらしい。
そしてこの部屋に、久米正雄という文筆家が少年時代すんでいたそうな。
皆さんは知っていますか、久米正雄。
私は知りませんので、書くことがありません。
そのうち著作を読んだら、なにか追記しませう。
従軍作家として満州に渡った時に使っていたカバン。
生還できてなによりです。
1F4つ目の部屋は、映像ゾーン。
あとで出てくるが、安積疎水についてだった。
なお映像は自動で止まってくれないので、終わったらボタンを押しましょう。
上の階へ。
階段はとても急である。
2F。いきなり洋間っぽくなったな。
このフロアでは、郡山の歴史を扱っている。
江戸時代の郡山は二本松藩に属し、宿場町となって人口を増やしていく。
結果、水不足に悩まされるようになり、次第に村同士の水争いにも発展した。
当時の水マップ。
いろいろ水源を探したあげく、ダメなところは「不毛」と記録している。
まーた髪の話してる。
地域の富豪が金を出して水道管を作ってみたけど、木管だと腐食や汚水混入が頻発するので、悲しいかな戦力外であった。
明治時代。
郡山は宿場町ではあったが、町が出来ていたのはほんの一角であり、だいたいは残念な荒野が広がっていた。
東京ドーム∞分はありそうですね。
(玉砕した二本松藩の少年兵たち@二本松)
郡山は二本松藩であったわけだが、二本松藩は戊辰戦争で新政府軍に対抗し、玉砕して巨大なダメージを負っている。
そして俸禄を失った旧士族がふらふらしており、こいつらが暴発すると治安がヤバそうな雰囲気であったため、仕事を与えるという意味もあって開成地区の開拓が始められる。
主導したのは福島県県令となった安場保和と、県の典事(課長クラスらしい)の中條政恒。
安場は熊本藩の出身であり、1871年岩倉使節団に同行して税務関係を視察に行ったのだが、英語が苦手で現地の話が良く分からず、「これ以上いても無駄」といって一人で帰ってきてしまった。
だからあんまり税務の経験にはならなかったようだが、代わりにアメリカで見た開拓現場に感銘を受け、それが福島で役に立ったようである。
(両名が出した、開墾の指南書。5種類もあるが、それだけやらないと明治政府から資金貸与を受けられなかったようだ)
中條のほうは課長クラスなので、現場の責任者的な立ち位置だろう。
開墾対象地は近隣住民がすでに使用しているところであったので、そやつらの猛反発を受け、中條暗殺の危機まで生じるトンデモ状態だったが、なんとか住民を説得するに至った。
苦労する中間管理職である。
開墾をするにしても、まずは農業用水が無いと話にならんので、最初に着手したのが開成沼の整備。
なおこの沼は今では埋め立てられて、開成山公園の一部となっております。
県主導だけでは手が足りないので、民間を参入させることにした。
地元の富裕商人に依頼を掛け、発足したのが「開成社」。
そうやって開拓は進んでいき、道路や住居が出来ていく。
現場の近くに住まわされて働く二本松士族。
開拓は進むが、まだまだ盛大な原っぱである福島の状態に、風穴を開けたのが大久保利通。
明治天皇の地方行幸の先発隊として全国各地を視察していた大久保は、東北での大規模開拓ができる地域を探しており、郡山の安積(あさか)という土地に白羽の矢が立った。
そして、その開拓の用水確保の手段として持ち上がったのが、安積疎水事業である。
(http://suido-ishizue.jp/kindai/asaka/06_1.html より)
先述の通り郡山の周辺は水不足が積年の課題。
だから猪苗代湖から水を引いて、画像のように安積地域に水路を張り巡らせようという計画である。
水不足が無くなるだけでなく、全国各地で燻っている不満士族たちを片っ端からこの開拓事業にぶっ込んで解消できるし、技術や産業の発展で殖産興業にも貢献する。
やったぜ、と大久保利通とその仲間たちは思ったことだろう。
と完全勝利モードの大久保利通であったが、事業着手あたりで暗殺されてしまった。
これで事業自体も一時期危ぶまれたが、計画を継ぐものが少なからず居たため、安積開拓と疎水工事は進められることに。
安積疎水のように猪苗代湖から水を引く計画と言うのは、江戸時代にも存在していた。
ただ計画が起こるたびに、猪苗代湖の周辺住民や所管する会津藩との対立があり、実現はしなかった。
明治になると猪苗代湖は若松県、郡山・安積は福島県にあったので、両県の対立が危ぶまれたが、大久保利通によって若松・磐前県が福島県に統合されたので、対立問題は生じなくなった。
このためだけに統合したわけでは無いと思うが、あまり関係ない磐前県はどんな気持ちだったろうか。
ただ大久保暗殺の影響はやはりあり、当初計画だと2000戸の士族が全国から安積に移住してくるはずだったが、計画縮小により500戸となった。
安積町は1965年に郡山市に吸収されたが、もし2000戸だったら安積が郡山を併呑していたかもしれない(適当)
開拓計画は縮小しましたが、疎水計画は元気です。
延べ85万人を動員し、130kmにも及ぶ水路を3年で作り上げ、1882年に完成した。
現代でも利用される安積疎水は「日本三大疎水」と呼ばれており、このように模型もあります。
疎水事業に携わったのが、オランダ人技師ファン・ドールン。
だから風車あったのね。
移住してきた士族の中には農業に精通している者もおり、彼らによって他地域の食物がもたらされた。
サツマイモも移住士族らによって栽培され、県内でブームを起こしている。
3Fへ。
ベランダから外を見る。
でもベランダには立ち入れません。
3Fを誰かが歩くたびに、2Fの天井がかなりギシギシいうレベルなので、いろいろ危ないのかもしれない(察し)
安積開拓・疎水に携わったえらい人たちを銅像にしてみました。
大久保利通にいきなり肩を叩かれてキョトンとするファン・ドールン。
1876年明治天皇の行幸の際、この開成館を宿泊場所として使っている。
これはそのゾーンだそうだ。
中に入ることができます。
さすがに当時の内装や畳ではない。
開成館は1925年まで役場兼貸家だったわけだし、戦後は一時的に引揚者の住宅として使用されたので、記念品を置いておくわけにはいかなかったろう。
それでも天皇滞在を示す看板は現存。
看板の書式や大きさについては政府からの指示で決まっているが、大きさも書式も毎年少しづつ違うというブレっぷりである。
これで開成館おしまい。
あとは3棟そとにあるので、ちゃちゃっとみよう(疲労)
建物はどれも、安積開拓時の入植者の住居を移築したものである。
これは明治政府が助成金を出した上級ランクの住居。
天井の柱はさほど強くなさそうである。
でも土間や板敷はさすがに広い。
10畳以上ある。
2つめは官舎。開成館で働く公務員用の宿舎である。
さっきの家より広々としているが、シェアハウスみたいに複数人で使用していた。
安積疎水の起工式の際、伊藤博文や松方正義がここに宿泊しているが、テンションが上がった松方がこの書を残したという。
「茂松清風舎」と書いてあり、意味は「松が茂って清らかな風が吹いてくる」だそうだ。
松って、松方のことじゃなかろうな。
縁側も庭園に向いていて、たいへんよろしい。
板間。
右のドデカ行灯が気になる。
2Fにもあがれます。
あがりました。
いろいろ立ち入り禁止が多いので、老朽化を疑ってしまうのは仕方ない。
帰りの階段。
手すり無いのでめちゃめちゃ恐い。
降りると正面に池が見えます。
最後の家。
愛媛県から移住してきた士族の家。
この敷地の中では最低ランクである(上から目線)
でも庭はシャレオツですね。
内装。
説明展示にも「必要最小限の設備しかない」と、かなりあっさり言われてしまっている。
天井もまぁまぁ簡素な造り。
ところでこの家、囲炉裏が無い。
福島の冬は寒いはずなんだが、暖房設備が無いのである。
有力説としては
「この家主は愛媛から来たので、福島の寒さが分からず、経費節約のためもあって囲炉裏を付けなかったのであろう」だそうだ。
そしてこの家主、冬を一度過ごして身に染みたのか、結局囲炉裏を設置している。
もうちょい考えてぞなもし。
以上。
【交通手段】郡山駅からバス15分
【入館料】200円
【混雑度】★★★(一部屋に他に2~3人)
【滞在時間】2時間
【URL】郡山市開成館/郡山市
古関裕而記念館
『栄冠は君に輝く』とか『六甲おろし』の作曲者 古関裕而が福島市出身なので、記念館があるのです。
福島駅からバスで10分「日赤病院前」停留所で降りて徒歩2分。 バスは本数が多いけど系統も多くて複雑なので気を付けよう。入場料は無料です。
古関裕而(1909-1989)は、クラシックから大衆音楽・スポーツの応援歌まで手広く手掛け、生涯で5000曲以上も作曲をした音楽家です。
・・と言いつつ、私は冒頭に挙げた2曲しか知りませぬ。まぁ活動していたのが1930年代~70年代ですからね。ただ今日でもテレビで使われている曲もあるから、聞けば意外と分かるかもしれませんな。
なお2020年前期のNHK朝ドラ『エール』は古関裕而が主人公なのです、すごいぞ!
しかし1点注意事項があって、朝ドラ主人公の名前が「古山裕一」とされているのだ。あれ、名前が違う・・ということはフィクション要素が強そうですね。
もしあなたが朝ドラ『エール』が完全なドキュメンタリーでないことや、ダンブルドアはセブルス・スネイプに殺されることを知らないのであれば、十分注意して、甲子園球場の砂やトラッキーを手放さないようにしてください。
(1Fの様子。画像は公式HPより)
館内はお高そうなソファやテーブルが並んでいて、なんだかホテルのカフェやサロンみたいです。作曲者の威厳ってやつですね。
展示されているのは当時の楽譜・古関裕而の持ち物など。生涯を詳しく説明するパネルはなく、代わりにビデオブースがあるので、そちらでご覧ください。
またヘッドホンブースもあって、古関裕而が作曲した音楽のうち100曲を試聴することができます。作曲したのは合計5,000曲だから、1/50ですね。
しかし5,000曲も作って、本人は果たしてぜんぶ覚えているんでしょうか。
この人、『六甲おろし』だけじゃなくて、巨人の『闘魂こめて』『野球の王者』って応援歌も作ってるんですよね。対立する敵のどちらにも肩入れするとは、命知らずだな古関裕而。
さらに早稲田と慶応の応援歌も手掛けてるんですよね。火中の栗を拾いに行きまくっており、このままだとカシミール地方とか北緯38度線とかにも飛び込んでいきそうなので少しご自愛されたほうが良い。
『君の名は』って作品がブームしたと思うんですけど、これの主題歌も古関裕而の曲だそうです。すごいな、現代の若者文化にまで影響を及ぼしているじゃないか。『六甲おろし』と『闘魂こめて』と『前前前世』。これテストに出ます。
すみません、間違えました。1952年のラジオドラマの方でした。 しかしこの時代のラジオドラマって生放送だったそうです。出演者のセリフ読み上げは全部ライブ放送。
BGMも古関裕而が担当したんですが、その演奏まで生中継だったそうな。毎回スタジオでバイオリンか何か弾いていたらしい。すごいなそれ。現代版『君の名は』も上映するたびにRADWIMPSがスクリーン裏で生演奏するとよい。
曲はこれです。おしまい
【交通手段】福島駅からバス10分(本数多数だが系統複数なので要注意)
【入館料】無料
【滞在時間】60分
【混雑度】★★★(館内にちらほら)
【URL】古関裕而記念館