C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

二本松市歴史資料館

 

二本松市歴史資料館は、二本松の歴史を展示する資料館である。

 

 

入場料は100円とお安いが、館内撮影禁止。

公の資料館で撮影禁止とは(憤怒)。

 

なので館内の模様は画像を引用しつつ、書きます。

展示室画像の引用元はインターネットミュージアムmuseum.or.jp)、なのだが当該ページが消えてしまって居る模様。

 

 

1Fは二本松出身の芸術家の作品が置いてある。

さっそく歴史資料館じゃ無くなってますが。

 

 

歴史関係は2F。

縄文~古墳で半分で、戦国時代が残りの半分。

それ以外の時代は特にめぼしいものが無かったので、スルーされたと思われる。

 

まぁ縄文~古代の展示は、ほかの地方でもありふれたものばかりだったので、私もスルーしますね(雑)

 

 

二本松城があったと言うことで、戦国時代の展示は豊富。

 

もともとこの城は二本松氏が築いたものだが、1586年に伊達政宗のものになる。

この二本松vs伊達の争いの時、(政宗の父)伊達輝宗が二本松に拉致られてしまい、政宗が父もろとも二本松家の当主 義継を射殺したという、かの有名な事件が発生した。

 

 

そんなんで二本松城は伊達の物になったわけだが、秀吉が天下統一すると戦後処理が為されて、二本松城は没収されて蒲生氏郷のものになる。

そのあとは蒲生→上杉→蒲生→天領→加藤と、野球の継投策ばりに領主が変わっていく。

 

この間に関ケ原が挟まれたりと、権力がいろいろ動いたからね。

それに基づく人事異動もバタバタである。 

 

wikiから) 

 

安定するのは、1643年に丹羽光重が入城してからである。

丹羽長秀くんの孫ですね。

 

前任者である加藤家(加藤義明の子孫)は、農業・財政政策でかなり盛大にやらかしており、領内は脱走と身売りが相次ぐ終末的状態だったらしい。

しかし丹羽光重は有能だったようで、なにをどうやったのかは分らんがこの危機を脱し、二本松藩の基礎は固められた。

 

キセル盆のイメージ)

 

丹羽光重が使っていたというキセル盆が館内にあるが、この盆の一部がへこんでいる。

1683年、かの赤穂浪士の発端となった、浅野内匠頭吉良上野介を斬りつけて「殿中でござる」事件が発生したのだが、浅野内匠頭は丹羽家の親戚であった。

 

この事件を聞いた丹羽光重は、「斬りつけずに突き刺せば吉良を殺すことができたのに、なぜ突き刺さなかったのか」と悔しさのあまりにキセルを盆に叩きつけて、それで凹んだのだそうだ。

光重もなにか怨みでもあったんだろうか。

ちなみに剣技は突くのが基本だそうです。

 

 

「ふくしまの旅」 より) 

 

二本松では「日本三大提灯祭り」と呼ばれる、提灯祭りが行われるが、これの発端は丹羽光重とされている。

二本松神社への敬意の心を領民に持たせ、ナショナリズムを形成して統治しやすくしようという狙いがあるような気もする。

 

ただそのときはこんなに提灯たくさん無かったようで、19世紀前半頃から今の様式が見られるようになったとか。

なお提灯屋台は資料館の1Fに飾られています。

 

二本松城にある少年隊の像。wikiから) 

 

時代は一気に飛んで、幕末の戊辰戦争

東北の諸藩とおなじく幕府側に付いた二本松藩は、周囲の藩の援護をするためあちらこちらに派兵した。

 

だが派兵先で片っ端から新政府軍に敗れ続け、二本松城まで来られた時、城内に兵士が僅かしかいない。

苦し紛れに老人・13歳以上の少年までも徴兵して何とか1000人集めたが、討幕軍は7000人。

玉砕戦闘を仕掛けるも、少年兵14名を含む500名以上が戦死する悲惨な結末となってしまった。

 

天保銭。wikiから)

 

このとき16歳の少年兵が戦場にいたのだが、天保銭を入れた袋をお守り代わりに持っていた。

戦地で敵兵から激しく銃撃を受けたのだが、敵の銃弾がこの天保銭にあたって、死を免れたという。

 

RPG等で使い古されまくっている話かと思いきや、実話があるんですねぇ。

 

 

(明治の福島県庁。国立国会図書館HP より)

 

明治時代の廃藩置県がなされると福島県においては1871年会津の方の若松県・福島藩二本松藩を中心とする二本松県・海側の磐前県の3つが誕生した。

 

のだが、その12日後くらいに、なぜか二本松県は県庁が現在の福島市に移り、県名も福島県に改められる。

そして1876年に、福島県に若松県・磐前県が統合されて、現在の福島県が誕生したのであった。

 

なので突然の配転がなければ、今でも二本松県であった可能性が微レ存。

福島藩も幕府側だったんだが、二本松は新政府軍に逆らいすぎたので、嫌われたんだろうか。

いずれにしろ福島最大の都市は、郡山になるのであった。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】二本松駅から徒歩10分

【入館料】100円

【滞在時間】30分

【混雑度】★(だれもいない)

【URL】歴史資料館 | 二本松市公式ウェブサイト

 

 

旧堀切邸

 

旧堀切邸は、福島市飯坂温泉にある屋敷跡である。

 

 

江戸時代から当地に住む豪商農 堀切家の邸宅跡を、観光地として2010年に整備したもの。

4000㎡あるからデカいのだが、もともとはこの2倍の敷地面積であったらしい。

 

 

入場は無料です。

 

 

入って右側にあるのは案内所になっている、離れ。

 

見るからに新しい。

江戸時代からの邸宅ではあるが、古くから残っている建築物と、観光地として整備したときに新築したものが同居している模様。

 

 

さっきの表門は、昔からある建造物の1つ。

 

 

 

門を入って正面に見える「十間蔵」は一番古く、1775年に建築された米倉。

 

 

 

中身。

県内では最大規模、最古レベルのもの。

 

 

そんな名誉ある蔵では、昔の遊びができます。

スペースあるからね、ダイナミック駒回しとかできるんじゃない(適当)

 

 

 

蔵の窓は重厚である。

 

 

十間蔵のとなりにある小屋。

 

 

使用人の休憩所として使われていた。

囲炉裏もある。

 

 

 

奥の方へ。

 

 

さっきの十間蔵を後ろから見た図。

 

 

この柱、必要あるんだろうか。

樋管ではなさそうだが。

 

 

井戸小屋。

 

 

井戸にはふたがされて、東屋になっている。

 

 

 

舞台みたいなのがあるな。

 

 

土蔵が建っていたそうだが、イベント用に変身した。

半日で1200~1600円で借りられるそうな。

 

 

 

横に付いている部分は利用者が待機室として使うんだと思うが、会議室もあるらしい。

どういう会議をここでやるんだろうか。

 

 

 

音響装置も付いているので、ライブハウスつかえないバンド勢は検討してどうぞ。

 

 

あの大きな施設は、足湯。

 

 

飯坂温泉の源泉からひいています。

タオルは案内所である離れで借りられるので、安心。

 

なお飯坂温泉の源泉はスーパー熱いのだが、ここも50℃くらいある湯を引いてきている。

ただ足湯の位置ではさすがに40℃まで下がっているので、悶絶することは無いだろう。

 

 

 

これはなんだろうか。

 

 

トイレだった。

 

 

あと残っている建物は、住居である主屋。

1881年の建築だが、そのあと何度か改修している。

 

 

 

館内図。

 

 

 

4畳程度が7部屋ある。

 

 

当時の部屋の用途。

各部屋、半日500円で借りられる。

研修するには、4畳は狭い気がしますがね。

 

 

 

そういえば正面玄関はこれ。

表門から入って左手にある。

 

 

その正面玄関から入ると、この取次の間にでる。

 

 

通り間。

奥に来客用の座敷があるので、そこへの中継地点。

 

 

 

中の間。

書院造になっているので、来客用の部屋と思われる。

 

 

こけし

県内では土湯温泉こけしで有名らしいのだが、近隣である飯坂にもその波及があったのだろうか。

 

 

シャレオツな欄間。

通り間側には意匠がなかったので、やはりお客さん用な感じ。

 

 

 

こっちは納戸。

 

 

物置なはずだが、それだけだと飾り気がないので、襖に絵を貼っております。

 

 

ここは裏部屋。

物置や使用人部屋という感じがする。

机は現代のもの。

 

 

館内には冷房装置ががんがんについているので快適です。

さすが豪商農の家。

 

 

一番奥に2部屋ある。広い。

手前が奥座敷で、向こう側が次の間。

 

 

この奥座敷が、来客を迎えるための最も格式高い部屋だろう。

習字でかいっすね(こなみ)

 

 

右側の襖は、一部分だけやたら豪勢な造り。

 

 

欄間も相当気合はいってますね。

 

 

外に蔵がある。

入ることができます。

 

 

これは新蔵。

1887年建築で、敷地内の蔵では最も新しいので、新蔵と呼ばれている。

中に展示されているのは、堀切家の歴史。

 

堀切家は16世紀に、もともと福井県にいたところをこっちに移住してきた。

当時は堀切さんではなく、梅山さんであった。

とはいえ武士階級以外は苗字を公の場で使うことを禁じられていたので、公的には苗字名無しさんではあったのだが。

 

 

苗字帯刀を許されたので、大名行列みたいなことをやって自慢する堀切氏)

 

堀切と言うのは地名で、近くの川が氾濫したときに堀を切って堰き止めたことに由来している。

 

1742年になると苗字帯刀を許され、公的に堀切家と名乗ることにした。

苗字帯刀は有力な町人百姓に特別に許されるものだから、この時代に堀切家はよほど地域で力を持つに至ったのだろう。

 

 

 

 

蔵は他にもあるので、新蔵からそちらに移動する。

トイレに行きたいわけではありません。

 

 

こちらは道具蔵。

文字通り、家具什器をしまうところ。

 

 

外からみると、こんな感じ

 

 

ここでは堀切家の人々を紹介している。

 

 

14代目当主 堀切良平。

江戸時代ですでに豪商農としての地位を確立していた堀切家は、明治になっても地域に多大な影響を及ぼす。

 

この人は私塾の開校・災害復旧をはじめとした寄付をじゃんじゃん行い、明治草創期の

飯坂町を支えたそうな。

福島県議にも就任し、その影響力が周辺地域にも及ぶことになる。

 

 

 

15代目の堀切善兵衛は、慶応卒・ハーバード留学。

衆議院議員となり、大蔵大臣秘書官として「財政立て直しダルマ」である高橋是清を補佐したり、政府要職を歴任するなど、実は大物である。

 

ただ戦時中はイタリア大使として日独伊三国同盟の成立に関わったため、戦後は公職追放されてしまった。

あらあら。

 

 

 

慶応に居たので、福沢諭吉と知り合いである。

写真中央の福沢の左側に座っている。

 

 

 

堀切善兵衛の弟である、堀切善次郎

兄は議員になったが、こちらは内務省に就職した官僚で、のちに神奈川県知事・東京市長を務めた。

兄弟そろってすさまじいな。

 

あともう一人、五男が衆議院議員になっており、「堀切三兄弟」と呼ばれていた模様。

 

昭和天皇に説明する堀切善次郎。顔怖い)

 

ちなみに早稲田の中学・高校の校長にも就任している。

兄は慶応なんですが、兄弟で早慶戦したんですかね。

 

 

 

奥の方に旅行ケースおいてあったけど、特に説明が無かった。

堀切家伝統のケースなんだろうか。

 

 

あともう一つ「中の蔵」という蔵があり、展示物がこの中にもあると思うのだが、このときは何故か閉まっていた。

 

 

 

主屋おしまい。

出口に向かう途中でこんな部屋があったが、実際に使っているのだろうか。

施設の稼働率をあげるために、わざわざ設置したのかもしれない(疑念)

 

 

 

帰りは裏門から出ることにする。

表門と違って、こちらは新しく設置したもののようだ。

 

あと堀切家はこのように大変な権力をお持ちであったが、東京の堀切菖蒲園とは関係がありませんので悪しからず。

 

 

 

以上。

 

 

【交通手段】飯坂温泉駅から徒歩10分

【滞在時間】45分

【混雑度】★★★(園内にまばらに人が居る)

【入館料】無料

【URL】旧堀切邸公式ホームページ | 福島市 観光文化交流施設

 

お札と切手の博物館

 

お札と切手の博物館は、王子にある国立印刷局の博物館である。

 

 

国立印刷局の工場は全国に6か所あり、この博物館の隣に王子工場が位置している。

博物館自体は当時工場のあった市ヶ谷で1971年開館と結構な古さであるが、2011年にこっちに移転してきた。

 

んで印刷局が紙幣と切手の製造を所管しているので、お札と切手を一緒に展示しているわけ。

 

 

1Fはお札や切手の製造方法、2Fは歴史を扱っている。

まずは製造方法から。

 

(江戸時代のお札)

 

紙幣の作り方は版画の原理。

模様を描いた原版があり、それにインク・墨を付け、紙を押し付けて写し取る。

仕組み自体は簡単なもの。

 

 

あまりにも簡単だと、あっさり偽造されてしまうので、複雑な絵柄にしている。

まさに職人技。

 

そんな高度技術を用いて作られる原版であるが、紙幣製造のために版画され続けると、摩耗してダメになってしまう。

それが大きな問題であった。

 

 

 

それなら原版自体をたくさんつくればいいじゃない、ということになるが、原版複製技術が爆誕したのは19世紀になってから。

転写法という手段であり、金属で作った原版に、鋼鉄ロールを圧しつけて模様を写し取り、それをまた複製用板に圧しつけて、模様をつける。

話だけ聞くと簡単そうなので、なぜ19世紀まで待たねばならなかったのかと思われるかもしれないが、まぁ理由がいろいろあるのだろう(投げやり)

 

 

原版複製方法はもう一つ、電胎法というやり方があるのだが、これは電子でアレをアレすればアレになるんだって。

なるほど、完全に理解した。

 

 

よってもう原版崩壊による作り直しを気にせず、彫刻師は高度な原版を作製できる。

活躍したのはビュランという彫刻道具。

これで金属の原版をホリホリ。

 

 

やけに小さい道具だなと思ったが、刃の種類は豊富。

でもこんなキノコみたいな形で、手が滑らないだろうか。

 

(手彫りと機械彫刻のハイブリッドお札)

 

19世紀では機械による彫刻も登場。

幾何学的な紋様を幾重にも刻み、偽造の難易度はガンガンに上がった。

 

機械あるなら手彫り要らないのでは?と思うのだが、手彫りはロマンなのだろう、きっと。

 

 

原版作成とその複製技術が登場したら、あとはその板から紙に模様を印刷する技術である。

お札に凸を作ってそこにインクをつけて印刷する技術が伝統的だったが、19世紀以降は逆にお札に凹を作ってインクを流し込み印刷する方法。

 

凹版印刷の方が原版を細かく印刷できるらしく、また凹部分に入れられた沢山のインクを写し取るので、紙幣に多くのインクが載る。

載った部分はザラザラするので、触感で偽札を判別できるようになった。 

 

 

凹版印刷によって出来たザラザラを体験してみようコーナー。

 

 

きっとヒゲのあたりがザラザラしてるんでしょうね(確信)。

なおこの絵のタイトルは「陽気な酒吞み」だそうです。

そうなんでしょうね。

 

 

 

もっとも偽造防止という観点から、凹版印刷のみではなく、地紋印刷という手法を合わせて紙幣を製造しています。

 

地紋印刷の説明が館内に一切無かったのだが、この印刷手法は知ってて当たり前のものだということだろうか(焦)

 

この手法では、背景に大量のドットを埋め込んでいる。

ドットが小さければ目立たないが、大きくなると目に見えて模様を形成するというもの。

「複写禁止」とか用紙の背景に入っている場合があるが、あれはこの手法を利用している。

 

 

文字は凹版印刷、他は地紋印刷にしている紙幣。

 

文字だけが浮かび出て、あとは背景のよう。

その背景は大量の大小ドットの組み合わせでできている。

 

 

印刷の手法は、紙幣のみならず切手にも援用された。

これはさきほどの地紋印刷の一種、オフセット印刷のもの。

 

 

 

網上のドットを大量に配置して、ぴか~と配色しております。

 

 

こっちは凹版印刷の中の、グラビア印刷という手法。

 

 

 

ひし形をした「セル」を並べて形作っている。

セルは大小を自在にでき、そのためインクの量を調整しやすく、これまで以上により細かい色彩表現が可能になった。

高価な切手にはこの手法を利用している。

 

 

輪転機の模型。

 

 

いっぱいボタンがあるが、一番下のスタートを押すと、模型が動き出す。

他のボタンを押しても、ただ模型の該当部分が光るだけで、あとは微動だにしない。

 

まずは上段のボタンを押す→模型が動かないのを見てポカーン→ハッとしてスタートボタンを押す→模型が動き出して、安堵する

 

というのが見た感じ、観覧客の大半のパターンです(経験談

 

 

透かしは、13世紀のイタリアで始まったもの。

日本に入ってきたのは17世紀という記録がある

 

しかしこの透かし、「ツカレ」にみえるな。

きっと私が疲れているのだろう(老人)

 

 

紙幣の中で、紙の厚さが薄い部分を設ける。

紙が薄い=光を通しやすいので、その部分に模様を描いて光にかざせば、模様が浮かび出るという仕組み。

これを「白透かし」と呼ぶ。

 

一方で紙に厚い部分を設けて、そこを利用したのは「黒透かし」と呼ぶ。

 

(1885年のお札)

 

黒透かしがこれ。打ち出の小槌みたいなのが浮かんでいる。

 

なお「すき入紙製造取締法」という法律により、国立印刷局以外による黒透かしは禁止されている。

紙幣に利用されている技術なので、偽造防止のためということだろう。

そしてその一環か、黒透かしのやり方については殆ど展示が無く、ネット上でも情報が見つからない。

おお、こわいこわい。

 

 

 

白透かしはこれ。白トンボ。

こっちは禁止されていないので、一般人が透かしを作るときは白透かしを用いている。

ただし紙幣や収入印紙と同じ紋様の白透かしを作ることは、さっきの法律で禁じられています。

 

 

 

というのが製造方法でした。

展示を読むのが面倒な人は、上映されているビデオをみればいいんじゃないかな。

 

 

紙幣に仕掛けられている様々な策を体験できるコーナー。

 

 

いきなり日本の紙幣では無いのだが、海外ではポリマー(プラスチック)紙幣を採用している国がある。

紙幣用の紙を漉くときに、合成樹脂を混ぜることでこうなる。

 

丈夫で汚れに強いというメリットはあるが、静電気が発生しやすいらしい。

冬、お金さわれないじゃん。

 

 

こっから日本の紙幣。

まずは透かし。

真ん中に肖像画がもう一つ出てきている。

 

 

それだけなら有名な話だが、肖像画の横に線の透かしも入っている。

千円札は1本、5千円は2本、1万円は3本。

 

 

 

お札にマイクロサイズの文字が入っているので、それを顕微鏡で見るところ。

なお、このお札は私のです。

入場無料だからといって財布なしで来ると、このゾーンは楽しめないので注意。

 

 

 

顕微鏡でズームすると、たしかに微細な文字が入っている。

直ではただの線にしか見えないレベルだろう。

 

 

マイクロ文字はいろんなところに隠されています。

 

 

 

この中にお札を入れてボタンを押すと、ブルーライトが光ってお札の特殊照明インキが浮かぶというもの。

お札は自分のですよ(念押し)

 

 

 

いろいろ光ってますなぁ。

 

 

異なる角度から光を当てると、別の模様が浮かび上がるというもの。

これは箱の中にすでに札が入れられています。

給料日前で現金無いお父さんも安心。

 

 

5千円札の場合は3パターンある。

これと、

 

これと

 

これ。

この仕組みは知っている人、多いんじゃなかろうか。

 

 

 

1億円の重みを思い知れ、というもの。

まぁ10kgなんで、大したことないですね(富豪並感)

 

 

2Fでは紙幣の歴史を扱っています。

 

 

紙幣が最初に登場するのは、10世紀の中国(宋)で、交子と呼ばれた。

ただこの時点では、通貨と言えば金銀などの金属類であるため、交子は「金銀の預かり証」でしかなかった。

 

金銀を補完する立場というのは、20世紀に金本位制が廃止されるまで続く。

西欧でも17世紀に紙幣が出回るが、金銀を実際に持っていると盗難の恐れがあるので、手元に置くのはその交換券という考えである。

 

 

わが国最古の紙幣は16世紀の山田羽書。

伊勢神宮の付近の商人たちが、小銭預かり証として発行した。

 

 

 

江戸時代では金銀などの貨幣が本来の通貨であったが、各藩は独自に、金銀と交換できる紙幣=藩札を導入。

幕府的には「公式の通貨である金銀を使え」とお怒りであったが、財政に余裕のない藩は金銀を調達するために藩札を発行し続けた。

 

だから藩札はあくまでローカルルールであり、一瞬で無価値になる危険性があった。

実際に紙くずになったこともあり、そうなると当然人民は激おことなり、打ち壊し不可避。

 

 

さて、グーテンベルク活版印刷が15世紀に西欧で生まれると、紙幣はそれで製造していた。

しかし古い技術だから時間がかかる。

そこで1800年に出たのが、スタンホープ印刷機

 

 

 

やり方は活版印刷と同じ版画方式で、Aに原版・Bに紙をセットして畳み込み、上から圧することで印刷する。

この「圧する」のが、活版印刷では何度も原版と紙を押し付けねばならんので面倒だったのだが、スタンホープ印刷機ではその名も「スタンホープ・レバー」を引くだけで

あっさり出来るようになった。

 

印刷スピードは、活版印刷に比べて倍に!

でも機械の、それもレバーに自分の名前つけるのって、どういう気分なんでしょうね。

そして紙を挟むところの名称は「チンパン」、馬鹿にしてるんかワレ(逆ギレ)。

 

 

youtu.be

 

グーテンベルク活版印刷のやり方はこちら。

動画時間6分もあるので、それだけ活版印刷は時間がかかったことを示している(迫真)

 

 

 

 明治維新になりました。

とりあえず政府は全国の通貨を統一したいので、この「太政官札」を発行。

わが国最初の、全国流通する紙幣である。

 

しかし庶民は紙幣の使い方をそもそも知らなかったので、あまり広まってくれなかった。

ようやく広まった頃になると、今度は偽札が横行して大騒ぎ。

 

 

次は勝つ!ということで、政府は国立銀行を全国に153設置。

偽造だらけの太政官札なんかは止めて、国立銀行紙幣を導入。

しかし価値は暴落し、またしても機能しなかった。

 

この頃、まだ税制度が固まっておらず、政府の歳入が安定しないので、とにかく紙幣を発行することで支払いを行っていた。

それが西南戦争勃発により、戦費がかさんだ政府は紙幣を大量発行。

当然のようにインフレになっておしまい、ということ。

 

 

 

 

ところで太政官札が偽造されまくったように、日本の紙幣製造能力はぺーぺーだったので、明治初期は外国に発注していた。

しかし国家としてそれはどうなのかという話になったので、国産へシフトする。

 

1876年に東京大手町に工場ができ、1877年に出来た国産第一号が、この紙幣。

水兵が2人ならんでいる。

 

 

 

国産化にあたっては、イタリアからのお抱え外人キヨッソーネを中心に行われた。

1881年に初の肖像入り紙幣ができ、モデルは神功皇后だったのだが、イタリアンが製造したおかげで日本人というよりも、どこのメディチ家ですか感が強い。

 

 

 

1882年に日銀が設立、紙幣の発行権限を握る。

 

紙幣の名前も「国立銀行紙幣」から、「日銀兌換銀券」にかわった。

このときは銀本位制を日本は敷いていたので、銀と交換できる券という意味である。

1897年から金本位制になったので、それ以降は「日銀兌換券」とまた名称チェンジ。

 

しかしこのサイズの紙幣だと、よほど財布はデカかったと見える。

 

 

当時の肖像として紙幣に描かれた人たち。

天皇家を肖像とすることは恐れ多いので、天皇補佐した人をピックアップしている。

 

 

 

1927年、昭和金融恐慌が発生。

当時の大蔵大臣が「あの銀行潰れるって言っちゃったねぇ」と某国のサッカー協会じみた失言をかましたため、みんな一斉に銀行から預金を引き揚げる騒動が発生。

 

 

銀行から紙幣が消えて、お金の流通がぶっ壊れる危機だったが、政府は2日間全国の銀行を休業させ、その間に印刷工場を限界まで回転させて大量に紙幣を印刷し、紙幣不足を回避した。

 

あまりにも急いだので、紙幣の裏側は真っ白であった。

 

 

戦後、「紙幣に書かれる人物から天皇家関係を外すように」GHQから指示があり、肖像メンバーの入れ替えが行われる。

日本の開国・民主化に関わったり、勤勉の象徴が選ばれる。

ただなぜか聖徳太子だけは天皇家関係にも関わらず、禁止されなかった模様。

 

 

戦時中に大手町の印刷工場は破壊されてしまったので、しばらく紙幣の発行は民間へ依頼。

このとき発行された紙幣をA券という。

 

印刷工場が復活して、1950年から発行し始めたB券がこれ。

 

 

その後、印刷機を新調して製造開始したのがC券。

枠のデザインを取っ払っているのが特徴である。

これについて印刷局は「軽快で開放的で斬新だ」と自画自賛のコメント。

 

 

1984年からはD券シリーズ開始。

2000年には沖縄の守礼門をモデルとする2千円札が登場し、人物だけがモデルではないボーダーレス化をアピールした。

 

 

 

 

現在使われている野口英世樋口一葉は、E券シリーズにあたるそうです。

 

 

 

番外編。

イノシシが紙幣に登場していたことがあるそうな。

 

 

 

小さいが、たしかにイノシシが枠の片隅を走っている。

 

 

縄文時代にもイノシシの土像を作るなど、なぜか愛着を持たれている動物である。

じゃけん鍋にしましょうね。

 

 

世界各国の通貨です。

 

 

レートが書いてあるけど、イランおわってんなぁ。

 

 

 ベリーズはなぜか10ドルに金箔をはってしまった。

どうしたの?

 

 

 

ここで紙幣はおしまい。

あとは切手。

 

 

ただ小さくて見えづらいので、虫眼鏡が用意されています。

 

 

世界最古の切手、イギリスの「ペニー・ブラック

1ペニーで、黒いので、そんな名前。

ブラックって名前が格好いいですね(中二)

 

 

 

日本で最初の切手は1871年です。

 

イギリスもそうだが、切手の登場以前に郵便制度はすでにあった。

それを料金の一律化・前払い制の導入という形で、切手が登場したのである。

 

 

外国郵便用切手は、だいぶデカいっすね。

 

 

世界初の記念切手は、意外にもペルー。

広く流通する切手なので、宣伝・啓蒙効果を狙っての事らしい。

 

 

 

日本でも発行されています。

 

 

 

ナショナリズムを喚起するものが多いようだ。

 

 

シャレオツなグラビア切手。

 

 

関東大震災の直後に発行された切手は、外のギザギザが無い。

機械こわれてしまったのかしら。

 

 

ここからは変わった切手シリーズ。

注目したいのはハリポタではなくて、切手の端に書かれているforeverの文字。

これは郵便料金が変化しても、この切手で出せることを意味している。

 

 

 

切手でぬり絵をしております。

そんなにやりたいんですかね。

 

 

逆に真っ白な切手。

ただよく見ると、文字が書かれており、意味は「私たちの未来はまだ白紙」ということ。

なにいってんすかね(無慈悲)

 

これ2枚ともオーストリアです。

君らコーヒー飲み過ぎたんじゃないかな?

 

 

 

フィンランドはシールになっており、もうわかんねぇなこれ。

 

 

現時点で世界最大の切手がこれ。

てっきりブラジルの切手かと思いきや、ニジェールのらしい。

ワールドカップ出られるようになってから、作ったら良いんじゃないかな(提案)

 

 

コルク生産世界一ィなポルトガルは、コルクの切手。

お洒落ですねえ。

 

 

 

最後にトリニダードトバゴ

切手に種が付録でついている。

ハイビスカスティーに使うので、これで茶でも飲めということだろう

つ 茶

 

 

てな感じで、盛沢山でした。

ちゃんちゃん。

 

以上。

 

 

【交通手段】王子駅から徒歩5分

【入館料】無料

【滞在時間】120分

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】

www.npb.go.jp

 

山武市歴史民俗資料館・伊藤左千夫 生家

 

千葉県の山武市にある郷土資料館である。

成東駅から徒歩15分の距離。

 

 

伊藤左千夫という歌人の出身地なので、その関係の展示がメインである模様。

 

 

受付で入場料130円を払います。

 

 

1Fは企画展で、2Fが常設展。

2Fにあがっています。

 

 

2007年にリニューアルしたとのことで、スギや珪藻土など自然色を出す内装となっている。

1Fはちょっと使い古された役所感がしてたが、まぁ予算の限度ってことで。

 

 

 

伊藤左千夫さん。山武市HPより

 

先述の通り、伊藤左千夫に関する展示がメイン。

というより、伊藤左千夫さん以外に関する展示は無いと言ってよい。

 

山武市自体に関する資料は特にありません。

だから山武市が一体なにでなんなのか、私はさっぱり分からないのだ!

まぁ土器とか飾っても他の郷土資料館と大差なくて面白げに欠けるし、それならいっそ伊藤左千夫に全フリしてしまおうということかもしれない。

心意気や、良し。

 

 

 

置いてあったパンフレット。

伊藤左千夫家系図が書いてある。四人兄弟の四男ですね。

 

親にあたる人も4人いますね。

どういう家族事情だよ・・

 

 

パンフレットの下部に目を移すと、左千夫の子供は13人いた。

しかも養子とかじゃなくて、全員夫婦の子なのね。 

凄まじい人数であるが、生まれて数年で亡くなってしまった子も何人かいるようだ。

 

 

 

山武市のキャラクターらしいのだが、こいつがちょくちょく展示に混ざって貼られている。

だいたいは展示についてセリフを述べているが、なんの言葉もなくただ貼られていることもある。

 

 

セリフも見た目通りのゆるゆる系統である。

いちおうてんとう虫ってことで良いのだろうか。

 

このキャラ、「子供が4人で子だくさん家族だね~」って話しているのだが、左千夫の子供は4人どころか13人いるんだぞ!

そっちに触れてあげてクレメンス。

それとも子供13人はさすがにやらしすぎるから、見ないことにしたのかな?

 

(10歳から通っていた小学校)

 

伊藤左千夫は江戸末期の1864年、農家に生まれた。

小学校・私塾を経て、明治法律学校明治大学)に進んでいる。

高等教育を受けさせているところを見ると、親は富農のようである。

 

 だが目の病を患い、療養のため学校を退学して帰郷し、そのまま22歳まで地元。

本人としてはこの引きこもり的な時間に相当な悔しさを感じていたようで、22歳の時に家出して上京する。

この家出の時に両親に宛てた謝罪の手紙があって展示されていたのだが、A4用紙で4枚もあった。

ちょっとエクストリーム謝罪になってますね。

 

錦糸町駅ではなく千葉県名物マザー牧場です。Wikipediaより)

 

んで上京して何したかっていうと、牛乳屋さん。

いまの錦糸町駅前で、牛舎を建てて乳牛育成して搾乳して販売してたって。

そんなことができたのか、錦糸町駅前。

 

22歳で事業を始めて、軌道に乗ったのが30歳の時。

1日18時間労働してたとは本人の弁。

 

またこの時に宣伝チラシを書いているんだが、その文句がだいぶブッ飛んでいる。

 

磐梯山が噴火しそうですが、その噴火のような勢いで当社は誕生しました」

「牛乳クラブ(他事業者?)のような計画は、我々としては大変恥ずかしい」

「万が一、当社の牛乳の質が他社より劣っているとすれば、金額は一切いただきません」

 

メンチ切り過ぎてますが、大丈夫ですかね。

 

 

正岡子規さん)

 

この牛乳屋をやっている合間に和歌と茶湯について学んだ。

そして新聞『日本』に投稿するようになり、同誌の記者を務めていた正岡子規と論争を行ったりする。

 

だがやがて、その論争相手の思想にドはまりするようになり、「絶対的な人格の持ち主」として尊敬するようになった。

すさまじい掌返しである。



 

基本は詩歌の人なのだが、1905年に『野菊の墓』という小説を発表すると、これがヒット。

夏目漱石は「あんな小説なら何百篇よんだってよろしい」とまでpower pushしている。

 というわけで松田聖子主演で映画になりました。

 

 

 『野菊の如き君なりき』という一見パチモン?と疑いたくなるタイトルの映画もありますが、これは『野菊の墓』を脚色した別作品で、こちらも評価は高いようです。

 

 

 若き日のピンチから一転、文学者・事業家として活躍した伊藤左千夫ですが、49歳の時に事業が傾き始めると、次第に友人や弟子とも疎遠になり、50歳で病死してしまった。

 

というのが伊藤左千夫の一生なのだが、館内に置いてあるのは左千夫の所有物・関係者のプロフィールばかりで、左千夫自身については殆ど説明展示がありません。

事前に伊藤左千夫について学んできたうえで訪問せよ、というスタイルなのだろうか。

斬新ですなあ。

 

 

 

何かと思ったら、これエレベーターらしい。

 

 

 

あれが昇降するのか。

これも変わってますな。

 

 

館内おしまい。

伊藤左千夫の生家があるので、見学。

 

 

これが生家。大きな農家住宅である。

 

 

家出をする22歳まで、ここで過ごしていたそうな。

親子げんかによる家出では無いので、何回かは実家に帰ってきていただろう。

結婚後、親と一緒に写っている写真もあったし。

 

 

部屋の中は、関係者以外立ち入り禁止だそうです。

関係者の中に、入場料払った人は含まれないのですか、そうですか。

 

 

どうでもいいが、英語の説明板は、家の間取りや奥行きが何mあるってやたら細かく書いている。

日本語ではそういうの無かったけどね。

細かく書けって、ALTの先生に教育委員会がドヤされたのかしら。

 

 

家の裏は土蔵になっている。

 

 

扉しまっているので、入れませんけどね。

 

 

もう1棟あるのは、茶室。

江東区にあった自宅に左千夫が建築していたが、これを移築してきた。

 

 

中は入れませんけどね。知ってました。

写真は撮れる。

 

ここを訪れた正岡子規が「塵一つない」と賞した茶室であるが、中でカマドウマっぽいのが死んでたりしていたので、資料館さんサイドは左千夫を見習ってぜひ頑張って整備いただきたい。

 

 

www.shinchosha.co.jp

 

 

実際に読んでみた。

 

主人公とヒロインは思春期まっさかり。キャッキャウフフする幸せなシーンが続く。

デートの途中で主人公がヒロインの事を「野菊のような人だ」と(たしか)喩える。

 

そこで読者の大半は、この小説のタイトルを思い出すであろう。

野菊の“墓”である。

タイトルがもうネタバレだったのだ。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】成東駅から徒歩15分

【入館料】130円

【混雑度】★(誰もいない)

【滞在時間】45分

【URL】歴史民俗資料館 施設案内 - 千葉県山武市公式ホームページ

 

 

 

八街市郷土資料館

八街市の郷土資料館に来ました。八街駅から徒歩20分程。

ずいぶん大きくて立派な資料館ですねぇ・・と思ったら、これ公民館らしい。資料館じゃないんかい。

資料館は駐車場を奥に行ったところにあります。

どうみても倉庫用のプレハブです。本当にありがとうございました。

ちょっとこの落差は大きすぎませんかね。八街市の郷土資料に対する姿勢がよく分かる一幕であります。

まぁ入場料無料です。牛小屋とかだったらさすがに意気消沈するけど、プレハブなら文句は言えませんね。

展示品は時代順に並べられているスタイルです。まずは古代から。  

古代コーナーは貝塚で見つかった貝のご紹介です。何種類もあったけれど、ツメタガイが気になった。

肉食性で、体内に持っている酸で他の貝の殻を溶かし、舌で穴をこじ開けて食べてしまうのだ。まさかのパワータイプ。

こいつのせいでアサリが襲われて漁業被害を今でも出しているそうです。しかもツメタガイ自体は不味くて食べられないそうだ。な、、なんという無能。

一方こちらのテングニシという巻貝は美味しいそうです。

ポスターモデルにされているけれど、宙に浮いていると天空の城か何かのように見えますね。八街は天空都市。

狩猟採集を絵にしたものです。この手のものって結構むさい感じのイラストが多いんですけど、萌え系の部類だと思います。普通にかわいい。

イラストは他にもありまして、縄文土器の文様とか描き方を手書きで説明している。

気合が入ってますねぇ。無味乾燥なパネル展示よりよほど良いと思います。

縄文の次は弥生時代の展示になると思うんですけどね、八街には弥生時代の遺跡がないそうです。しゅう~りょ~う。

館内ではこのスタンプ型のキャラが案内役になっているんですけど、「遺跡は無いのじゃ^^」って、笑顔で言う話じゃないんだよなぁ(呆れ)

スタンプおじさんの元ネタはコレです。奈良・平安時代に使われていた「郡印」。

上総国 山邊郡という郡役所の印鑑ですね(大網白里のあたり)。

郡は全国に600弱もあったから印鑑なんて大量にあるんじゃないかと思うんですが、現在残っているのはこれを含めて4つしかないそうな。というわけで国の指定重文です。

だいぶ時代が飛んで戦国になりました。

八街にも城はあって、根古谷城という・・のだが記録が殆ど無いので何の城だかよく分からんとのこと。

いちおう千葉氏が持っていたそうだが、千葉氏は北条氏に味方して秀吉に敵対していたので、小田原が落ちたときに根古谷城もマリオワールドの子クッパの城よろしく木端微塵にされた模様。

いきなり戦国時代の話になったのは、鎌倉~室町の間の記録が見つかっていないからだそうです。なので中世の八街は何があったのか誰も知りません。

だから笑顔で言う話じゃないんだよスタンプじいさん(叱責)

江戸時代になりました。八街には「御成道」という街道が整備されます。東金が将軍の鷹狩り場になったので、そこへ続く道路が必要になったのだ。

館内の展示によると「97の村から人々が動員され、3日3晩ぶっ続けで工事が突貫された」飛んでもない下請けイジメであるという伝承が紹介されています。なんというブラック。

しかしwikiをみると、その伝承はウソであるとか書いてある。 どれが正解なんだか。

家康関係の伝承も残っています。

東金に鷹狩りへ向かう途中、昼食休憩を取ることにした。その準備をしていた女中が近くの川で杓子を落としてしまい、どんぶらこっこと流れて行った杓子は下流に着くと芽を出して大樹になったという。ちょっと何言ってるのか分からない(真顔)。

 

しかも家康がすごいとかではなく、杓子が単に変身しただけの不思議話なだけである。最初にこれ言いふらした人は何を意図してたんでしょうかね。空飛ぶ杓子モンスター教だったのかもしれません。

さらに杓子が化けたその大樹、枯れてしまったので今では代わりに記念碑を置いときました(脱力) 

馬の放牧地「牧」の模型です。この地域には牧が複数ありました。

明治になると牧は農地として開墾され、それが町になっていくわけですが、八街のあたりは「8番目に開墾された場所」で八街になったそうです。たいへんシンプル。 

さてとうとう八街名産の落花生が登場です。千葉県だけで全国の8割を生産しており、八街は日本一なのだ。やっぱり八街がナンバーワン!給食のジャムは全てピーナッツバター。イチゴは非国民です。

明治になって南米から輸入されたのが始まりとのことで、歴史はそんなに古くなかったりする。

落花生の成長模様がわかりやすく展示されております。 

花が枯れたあと、茎が地面に向かって突き刺さり、地中で実をつけるのです。花が落ちて実がなるので「落花生」。なるほど。 

最後に地域行事の紹介です。「かやかや馬」という、旧暦七夕(8月7日)に行われ、農作業で頑張っている馬を労わるイベントです。 

藁で馬をつくる→これを持って草刈りに行く→刈った草を馬に負わせる→帰宅したら草を下ろしてあげて、馬は庭先や台所に飾る。

ここまでは良いのだが、そのあと馬を屋根に向かって放り投げたり川に流して終了です。馬を労わるどころかボコボコにしていて八街民の倒錯っぷりが伺える内容になっております。

 

おしまい

 

【交通手段】八街駅から徒歩20分

【入館料】無料

【滞在時間】40分

【混雑度】★★(館内に他に2~3人)

【URL】郷土資料館 - 千葉県八街市ホームページ