C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

郡山市開成館

 

郡山市開成館は、明治時代の西洋建築物をベースにした資料館である。

郡山駅からバスで15分ほど。

 

 

敷地内にはメインの開成館のほか、3棟の建物が存在する。

 

 

計4棟の間には庭園が整備されている。

がんばって管理していますねぇ。

 

受付で入場料200円を払い、まずは開成館を見に、左手へ。

 

 

これが開成館かな?

 

 

事務棟だった。

 

 

開成館はこちら。

 

 

1874年の建築。

一見西欧風ではあるが、中は思いっきり畳である。

 

明治初期、誰が言ったか知らないが「西欧風の建築にしろ」という命が下ったようで、ただ大工たちは和風建築しか知らんもんだから、とりあえず西欧建築がかかれている錦絵とかをみて、あとはイマジネーションで造った模様。

 

 

 

この開成地区一帯を開墾するために、福島県が開拓事務所として設置した。

つまり役場。

 

 

入館。

靴は脱ぎましょう。

 

 

ハチが出るそうです。

お知らせはいいから、退治してクレメンス。

 

 

1Fは4つの部屋がある。

 

 

薄暗い写真だが、実際に薄暗い部屋であった。

展示品の保護のためだろうか。

 

 

置いてあるのは昔の屋根なんですけどね。

そんなに照明あててはダメな物なんだろうか 

 

(初代開成館)

 

この開成館は2代目である。

初代開成館は1873年に建築されたが、いざ使ってみたら思ったより狭かったことに気づき、翌年に現在の開成館が建てられた。

ちょっと使用人員の予測ガバガバすぎませんかね。

 

写真の継ぎ方についてはスルーでお願いします(郡山市からのお知らせ)

 

 

奥に進むと、縁側にでる。

 

 

遊び道具は民家系資料館ご用達。

 

 

 

オランダの風車が何故か置いてあるが、その理由はのちほど。

 

 

2つ目の部屋は民芸関係。

 

 

 

養蚕の展示。

開成地区を開墾した際に、北は田んぼ・南は桑園にして、蚕の食べる桑の葉を育てていたそうな。

生糸輸出全盛期ですからねえ。

 

 

生糸を取るまでの一連の流れも掲示されています。

 

まずは夏ごろ、蚕が卵を植え付けた「種紙」を業者から農家が買ってくる。

これを春になるまで、涼しいところに保管しておく。

長期視点の育成である。

 

( http://web.tuat.ac.jp/~kaiko/rear/hatc.html より)

 

春分過ぎに、種紙を冷所から室内に出して20日くらい経つと、卵が孵って蚕が生まれます。

孵化した時点の画像がこちら。

ギャー。

 

 

 

生まれた幼虫には桑の葉を与えておくと、勝手に食べて大きくなります。

1か月半経つと葉を食べるのをやめ、首を振るようになる。

これが「糸を吐く」の直前段階である。

 

 

この段階になったら、用意しておいた蔟(まぶし)という人工の巣に入れる。

すると蚕が糸を吐き出して、繭ができていく。

 

 

出来ました。

あとはこれを高温の鍋に突っ込んで中の虫をあぼーんし、繭から生糸を紡げばよい。

 

 

もちろん全ての繭が有用なわけではなく、ダメなのも存在します。

見分ける基準が、これ

 

 

 

汚い、くさそう。

 

 

優秀な繭からは、このように美しい生糸が取れます。

 

 

イマイチな繭の場合は、虫をあぼーんさせたあとに更に煮て、繊維を引き延ばして真綿にする。

保温性があるので防寒着や毛布に使われていますな。

 

 

繭の一生という展示。

 

 

スケッチがやたら昭和チック、というか気持ち悪い(石直球)

 

 

その他民芸品がぞろぞろ。

 

 

 

3つめの部屋。

 

 

郷土ゆかりの文学者を扱っております。

 

 

大江健三郎は愛媛出身だけど、この地区の開拓の歴史を扱っているのでランクイン。

 

 

ずいぶん子供っぽいのもいるな。

若くして亡くなった詩人だそうだが。

 

 

この開成館は1886年~1925年まで桑野村役場として利用されたが、役場機能は2Fであり、1Fは貸家としていたらしい。

そしてこの部屋に、久米正雄という文筆家が少年時代すんでいたそうな。

 

 

 

皆さんは知っていますか、久米正雄

私は知りませんので、書くことがありません。

そのうち著作を読んだら、なにか追記しませう。

 

 

従軍作家として満州に渡った時に使っていたカバン。

生還できてなによりです。

 

 

 

1F4つ目の部屋は、映像ゾーン。

あとで出てくるが、安積疎水についてだった。

 

 

なお映像は自動で止まってくれないので、終わったらボタンを押しましょう。

 

 

上の階へ。

階段はとても急である。

 

 

2F。いきなり洋間っぽくなったな。

このフロアでは、郡山の歴史を扱っている。

 

 

江戸時代の郡山は二本松藩に属し、宿場町となって人口を増やしていく。

結果、水不足に悩まされるようになり、次第に村同士の水争いにも発展した。

 

 

 

当時の水マップ。

いろいろ水源を探したあげく、ダメなところは「不毛」と記録している。

まーた髪の話してる。

 

 

 

地域の富豪が金を出して水道管を作ってみたけど、木管だと腐食や汚水混入が頻発するので、悲しいかな戦力外であった。

 

 

明治時代。

郡山は宿場町ではあったが、町が出来ていたのはほんの一角であり、だいたいは残念な荒野が広がっていた。

東京ドーム∞分はありそうですね。

 

(玉砕した二本松藩の少年兵たち@二本松)

 

郡山は二本松藩であったわけだが、二本松藩戊辰戦争で新政府軍に対抗し、玉砕して巨大なダメージを負っている。

そして俸禄を失った旧士族がふらふらしており、こいつらが暴発すると治安がヤバそうな雰囲気であったため、仕事を与えるという意味もあって開成地区の開拓が始められる。

 

 

主導したのは福島県県令となった安場保和と、県の典事(課長クラスらしい)の中條政恒。

 

安場は熊本藩の出身であり、1871年岩倉使節団に同行して税務関係を視察に行ったのだが、英語が苦手で現地の話が良く分からず、「これ以上いても無駄」といって一人で帰ってきてしまった。

だからあんまり税務の経験にはならなかったようだが、代わりにアメリカで見た開拓現場に感銘を受け、それが福島で役に立ったようである。

 

(両名が出した、開墾の指南書。5種類もあるが、それだけやらないと明治政府から資金貸与を受けられなかったようだ)

 

中條のほうは課長クラスなので、現場の責任者的な立ち位置だろう。

開墾対象地は近隣住民がすでに使用しているところであったので、そやつらの猛反発を受け、中條暗殺の危機まで生じるトンデモ状態だったが、なんとか住民を説得するに至った。

苦労する中間管理職である。

 

 

開墾をするにしても、まずは農業用水が無いと話にならんので、最初に着手したのが開成沼の整備。

なおこの沼は今では埋め立てられて、開成山公園の一部となっております。

 

 

県主導だけでは手が足りないので、民間を参入させることにした。

地元の富裕商人に依頼を掛け、発足したのが「開成社」。

 

 

そうやって開拓は進んでいき、道路や住居が出来ていく。

現場の近くに住まわされて働く二本松士族。

 

 

 

開拓は進むが、まだまだ盛大な原っぱである福島の状態に、風穴を開けたのが大久保利通

明治天皇の地方行幸の先発隊として全国各地を視察していた大久保は、東北での大規模開拓ができる地域を探しており、郡山の安積(あさか)という土地に白羽の矢が立った。

 

そして、その開拓の用水確保の手段として持ち上がったのが、安積疎水事業である。

 

http://suido-ishizue.jp/kindai/asaka/06_1.html より) 

 

先述の通り郡山の周辺は水不足が積年の課題。

だから猪苗代湖から水を引いて、画像のように安積地域に水路を張り巡らせようという計画である。

 

水不足が無くなるだけでなく、全国各地で燻っている不満士族たちを片っ端からこの開拓事業にぶっ込んで解消できるし、技術や産業の発展で殖産興業にも貢献する。

やったぜ、と大久保利通とその仲間たちは思ったことだろう。

 

 

と完全勝利モードの大久保利通であったが、事業着手あたりで暗殺されてしまった。

これで事業自体も一時期危ぶまれたが、計画を継ぐものが少なからず居たため、安積開拓と疎水工事は進められることに。

 

 

安積疎水のように猪苗代湖から水を引く計画と言うのは、江戸時代にも存在していた。

ただ計画が起こるたびに、猪苗代湖の周辺住民や所管する会津藩との対立があり、実現はしなかった。

 

明治になると猪苗代湖は若松県、郡山・安積は福島県にあったので、両県の対立が危ぶまれたが、大久保利通によって若松・磐前県が福島県に統合されたので、対立問題は生じなくなった。

このためだけに統合したわけでは無いと思うが、あまり関係ない磐前県はどんな気持ちだったろうか。

 

 

 

ただ大久保暗殺の影響はやはりあり、当初計画だと2000戸の士族が全国から安積に移住してくるはずだったが、計画縮小により500戸となった。

安積町は1965年に郡山市に吸収されたが、もし2000戸だったら安積が郡山を併呑していたかもしれない(適当)

 

 

開拓計画は縮小しましたが、疎水計画は元気です。

延べ85万人を動員し、130kmにも及ぶ水路を3年で作り上げ、1882年に完成した。

現代でも利用される安積疎水は「日本三大疎水」と呼ばれており、このように模型もあります。

 

 

疎水事業に携わったのが、オランダ人技師ファン・ドールン。

だから風車あったのね。

 

 

移住してきた士族の中には農業に精通している者もおり、彼らによって他地域の食物がもたらされた。

サツマイモも移住士族らによって栽培され、県内でブームを起こしている。

 

 

 

3Fへ。

 

 

ベランダから外を見る。

 

 

でもベランダには立ち入れません。

 

3Fを誰かが歩くたびに、2Fの天井がかなりギシギシいうレベルなので、いろいろ危ないのかもしれない(察し)

 

 

安積開拓・疎水に携わったえらい人たちを銅像にしてみました。

 

 

大久保利通にいきなり肩を叩かれてキョトンとするファン・ドールン。

 

 

1876年明治天皇行幸の際、この開成館を宿泊場所として使っている。

これはそのゾーンだそうだ。

 

 

中に入ることができます。

さすがに当時の内装や畳ではない。

開成館は1925年まで役場兼貸家だったわけだし、戦後は一時的に引揚者の住宅として使用されたので、記念品を置いておくわけにはいかなかったろう。

 

 

 

それでも天皇滞在を示す看板は現存。

看板の書式や大きさについては政府からの指示で決まっているが、大きさも書式も毎年少しづつ違うというブレっぷりである。

 

これで開成館おしまい。

 

 

 

あとは3棟そとにあるので、ちゃちゃっとみよう(疲労

 

 

建物はどれも、安積開拓時の入植者の住居を移築したものである。

 

これは明治政府が助成金を出した上級ランクの住居。

鳥取からの移住者で作る「鳥取開墾社」の副頭取が使っていた。

 

 

天井の柱はさほど強くなさそうである。

 

 

でも土間や板敷はさすがに広い。

10畳以上ある。

 

 

2つめは官舎。開成館で働く公務員用の宿舎である。

 

 

さっきの家より広々としているが、シェアハウスみたいに複数人で使用していた。

 

 

安積疎水の起工式の際、伊藤博文松方正義がここに宿泊しているが、テンションが上がった松方がこの書を残したという。

「茂松清風舎」と書いてあり、意味は「松が茂って清らかな風が吹いてくる」だそうだ。

松って、松方のことじゃなかろうな。 

 

 

縁側も庭園に向いていて、たいへんよろしい。

 

 

板間。

右のドデカ行灯が気になる。

 

 

 

2Fにもあがれます。

 

 

あがりました。

 

 

いろいろ立ち入り禁止が多いので、老朽化を疑ってしまうのは仕方ない。

 

 

 

帰りの階段。

手すり無いのでめちゃめちゃ恐い。

 

 

降りると正面に池が見えます。

 

 

 

最後の家。

 

 

愛媛県から移住してきた士族の家。

この敷地の中では最低ランクである(上から目線)

 

 

でも庭はシャレオツですね。 

 

 

内装。

説明展示にも「必要最小限の設備しかない」と、かなりあっさり言われてしまっている。

 

 

 

天井もまぁまぁ簡素な造り。

 

 

 

ところでこの家、囲炉裏が無い。

福島の冬は寒いはずなんだが、暖房設備が無いのである。

 

有力説としては

「この家主は愛媛から来たので、福島の寒さが分からず、経費節約のためもあって囲炉裏を付けなかったのであろう」だそうだ。

 

そしてこの家主、冬を一度過ごして身に染みたのか、結局囲炉裏を設置している。

もうちょい考えてぞなもし。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】郡山駅からバス15分

【入館料】200円

【混雑度】★★★(一部屋に他に2~3人)

【滞在時間】2時間

【URL】郡山市開成館/郡山市