伊賀上野城
「こうずけ」でも「うわの」でも無く、普通に「うえの」と読みます。
1608年に藤堂高虎が建て、今の天守は1935年に復元されましたが、公式HPによると「白鳳城」「伊賀のランドマークタワー」と呼ばれているそうです。2つ目はちょっと背伸びし過ぎで背筋断裂しないかヒヤヒヤしますが、高層階には三菱地所や野村證券のオフィスがあるのかもしれません。遠き日の戦国武将の雄たけびが、今日では部長の怒号に代わり、伊賀の街を賑わせます。
(天守から旧城郭あたりを見下ろす図)
真面目に説明すると、伊賀上野城は1585年に当時の城主 筒井定次が築城。この筒井君、筒井順慶の養子ですが悲しいことに無能だったようで、もともと大和国に領地があったのに国衆にバンバン反乱されたため伊賀国へ左遷。関ケ原では東軍に付いたため生き延びましたが部下の統率が全然とれておらず、重臣の1人が幕府に讒言したことでお家取り潰し。その後、大坂の陣で豊臣側に内応したと疑われ、切腹。どこをどう切り取っても残念と言わざるを得ない一生でした。
そんな筒井君の築いた旧城郭は天守から見下ろせますが、今では緑生い茂り、生き物が暮らす豊かな森になっています。緑の丘の素敵なお城!シルバニアファミリー!
(た伊賀ー君と言うらしい)
伊賀国を継いだのが藤堂高虎ですが、外国から来たのでマスクして縄の中で自主隔離中です。
筒井定次が築いた城を拡張し、来る豊臣家との大坂の陣に備えました。家康は藤堂高虎を非常に信頼していて、自身が死ぬ間際の枕元に呼ぶレベルだったそうですが、伊賀をvs大阪(豊臣)の前線ラインと考え、そこに高虎を配置したと言われています。
高虎は建築の名手で、江戸城や大阪城の改築・修築、日光東照宮の造営、あと家康に命じられて日本各地あちらこちらで城づくりに携わっています。
伊賀上野城は1611年に竣工しましたが、翌年の暴風雨で天守崩壊。そのあと大坂の陣が終戦したので、伊賀の戦略拠点としての地位も低下し、天守は再建されず屋敷が作られただけでした。まぁ藤堂家は伊賀とともに伊勢も拝領しており、港湾都市の津が本拠になっていたということです。
天守が復元されたのは1935年まで下ります。
入場料600円を払って城内に入るわけですが、その前に底が見えない深い井戸がありました。
単なる井戸ではなく、城外四方へ通じる抜け穴を兼ねているそうな。包囲されたときに食糧を運び入れたり、城を奪われたときにこの穴から侵入して奇襲する目的があったと。超重要機密なので一般藩士には非公開だったそうです。
防衛機能も備わった城ですが、明らかにくせ者がいますね。そこめっちゃ歩きづらくないですか。侵入経路考えなさいよ。
もう1人いたんですけど、こちらは足場が無いのでSASUKEのクリフハンガー状態。指すごい辛そう。侵入先で修業しないで欲しい。ケインコスギはだいたいここで落ちます。山田さんは1stステージで落ちました。
藤堂高虎が豊臣秀吉から賜ったという兜。ちょっと首を回すだけで側近が巻き込まれて死ぬタケコプター仕様です。上司との距離感はわきまえましょう。
館内展示は知名度があるためか藤堂家多めです。最初に築城した筒井家も思い出してあげてください。
高虎が治めていた伊賀・伊勢・伊予の市町村で「高虎サミット」を2年に1回開いているそうです。そんなに話すことある?オリンピックより高頻度だぞ。次回はSDGsに配慮した高虎・withコロナにおける高虎・脱炭素高虎を議論してもらいたい。
なお高虎は近江の出身でその辺りの大名にも使えていますが、だいたい同僚を刺し殺したり上司と給与でモメて出奔したりしているので、出身地の甲良町しか参加していません。
ぜんぜん話が変わりますが、伊賀の焼物です。山を隔ててすぐ北側にある信楽が焼物で有名ですが、伊賀でも同質の土が取れるようです。作庭建築で有名な小堀遠州は高虎の養女を嫁にしているので藤堂家と繋がりが深く、その遠州の指導のもと作られた焼物が「遠州伊賀」(写真左)。
ただ伊賀焼は江戸初期に興隆→その後100年衰退→過去の伊賀焼や他地域を模倣した「復興伊賀」が登場(写真右)→また沈滞という経緯を辿っています。江戸時代のタピオカ、またはウーパールーパーと言えるかもしれない。
あとは最上階にのぼり、伊賀の街並みを眺めておしまいです。山の中に街があるのがよく分かる風景ですね。盆地なので夏は40度近くまで上がるのに冬は大雪になるそうです。この環境を生き延びたものが忍者になれるのだ(適当)
おしまい
【滞在時間】30分
【混雑度】★★★(城内に人がちらほら)
【読んだ本】
【URL】