菅公歴史館(太宰府)
太宰府天満宮といえば、宮中に祟りを起こしまくった菅原道真公をなだめるため祭神として祀っているところ。
祟りの内容としては
・道真の大宰府追放の首謀者、藤原時平が謎の熱病で、源光が泥沼に転落して溺れて死亡
・道真追放時の帝 醍醐天皇の皇太子さらにその嫡子が病没。
・宮中に落雷直撃して火災発生、醍醐天皇の側近 藤原清貫をはじめ死亡重傷多数。
落雷事件は道真死去から30年ほど経過しているにもかかわらず道真のせいにされているので、当時の人々がいかに道真にブルっていたか分かりますね。今朝お腹が痛かったことも、牛車がちゃんと動かなかったのも、岸田総理が何か発言するたびに日経平均が下がっているのも全部道真の祟りだから小泉進次郎あたりを人身御供にし「レジ袋有料化してすみませんでした」と謝っておいた方がよい。
というわけで(?)、天満宮本殿の裏手にある菅公歴史館で道真公の生涯その他いろいろ展示しています。博物館というより社員寮か事務所のような見た目なので気が引けますが、展示内容が道真の怒りを買って雷を落とされても非木造建築なので耐えられるメリットがあります。同じ轍は踏まぬのだよ(本殿に落とされた場合は除く)
入館料は200円。
展示の半分は菅原道真の生涯における重要シーン16場面を、伝統工芸の博多人形で再現したもの。なお現在は用いられていない古い工法で作られたそうな。見た目以上に凄まじい金額が掛かっていると思われる。
幾つか見てみましょうか。
弓矢を引いているのが道真26歳。官吏登用試験の受験直前、その試験官のホームパーティーで弓の会が行われ、道真がやったらど真ん中的中。いやあ文武両道ですね道真公^^ ってエピソード。
なおこの試験官と道真は不仲だった説もあり、そんな相手の家に乗り込んで弓矢打ち抜いて帰ってくるあたり道真けっこうなサイコパスと思われる。
官吏就職後は朝廷が発する文書の作成、そして道真の専門は紀伝道(歴史)なので、何事も前例主義である宮中において「こういうことやりたいけど前例あるの?」という意見照会への回答。つまり天皇や藤原氏の行動にお墨付きを与える重要な役割を担ってました。
なのでずっと京都にいたのだが、42歳の時に讃岐守に任ぜられ、うどん国へ赴任。現地では善政を敷いて民に慕われましたーという場面。
ただ本人はこの異動がよほど嫌だったらしく、出発前の送別会で悲しみのあまり号泣したあげく途中で家に帰る暴挙を果たしている。じゃあ残った人だけで二次会いきますか。
なお4年の任期を終えて戻ってきたときも「もうやりたくない」旨の言葉だか漢詩だかを残しており、慕ってあげたのにクソほど拒絶されてしまった讃岐の人々に憐憫の情を禁じ得ない。
讃岐から戻った後は宇多天皇により重用され政事の中心人物として君臨しましたがアンチ勢力も増え、突然の太宰府追放。道真の娘が宇多天皇に嫁いでおり、その子を天皇に担ごうとした罪で訴えられたので、左遷というより罪人扱いですね。
そんなわけで九州上陸。一番後ろで荷物担いでいるのは味酒安行(うまさけのやすゆき)という安居酒屋の神様みたいな名前のオッサンですが、道真を慕って九州まで付いてきて、死去後は道真の墓所に廟や寺を建て、それが現在の天満宮になりました。オッサン有能。
と、こんな感じの人形が16体あるわけです。
残りの半分は、天満宮のイベントとか、郷土グッズの紹介コーナー。
この雅な雰囲気の宴会は「曲水の宴」。8世紀に大宰府に赴任した大伴旅人くんが、古代中国で行われた歌詠みイベントを真似て開催したものですが、現在は毎年3月に実施されます。道真公は罪人として配流されてきたので、彼の時は開催されていないと思われる。
庭を流れる小川の上流から酒盃が流されるので、それが自分の前を通り過ぎる前に和歌を短冊に書き込み、盃を受け取る。これ実は、時間内に詩が作れないと目の前を延々と酒が通り過ぎてっていつまでも飲めないという、残酷きわまりない時限式ゲームではないか。
縁日の輪投げではなくて、神へのお供え物です。
米粉で作った餅に、赤・白・黄色の彩を施した「覧粢(らんじ)」で太宰府独自のもの。室町時代以降に献じられていたとされ、なので道真くんは知りません。
本人の知らんもの多いな。人の家に、本人が持ってない据置ゲーム持ち込んで本人が居ない間にみんなでスマブラやってる感がある。
最後に福岡特製の天神こけしですが、従来のこけしの定義をぶち壊すような体のつくりと前衛的ヘアースタイルです。怒髪天をつく。道真の怒りリスペクトでこうなったのかしら。
というわけでした。おしまい。
【滞在時間】30分
【混雑度】★★(ほかに数人)
【URL】菅公歴史館 | 太宰府天満宮
【読んだ本】
『大学的福岡・太宰府ガイド』