塩の道ちょうじや、流鏑馬会館
大町市にある古い商家を利用した資料館です。大町には新潟の糸魚川~松本を繋ぐ千国街道がありますが、江戸時代に塩の輸送で使われたほか、上杉謙信が武田信玄に塩を送った故事でも登場し、「塩の道」と呼ばれています。その街道に関する資料展示をしています。
また市内の神社では子供が流鏑馬をする珍しいイベントが開催されているので、それを扱った流鏑馬会館も併設されています。
アクセス・入館料
アクセス
入館料
500円
展示1 国宝と同じ設計者による商家屋敷
入館するとまずは囲炉裏に通されて、館員さんから概要説明があります。
江戸時代に庄屋を務めていた塩問屋 平林家の屋敷です。ちなみに松本から北側には平林姓がとても多く議員の名前にも見かけるので、かつては強力な平林ワールドがあったことを思わせます。
(松本にある開智学校)
明治時代に建てられた屋敷ですが、設計したのは立石清重。2019年に国宝になった松本の開智学校の設計者と同じなのです。平林さんも自宅の株が上がってよかったですね。
塩問屋なので店の玄関は商家らしい造り。座卓の上に帳簿が載っていたりと、当時の雰囲気が再現されています。塩は必需品ですのでそれを商うということは、相当な権力を握っていたと推察されます(偏見)
展示2 塩の道と輸送の苦労話
2Fは塩の道に関する展示になっており、その歴史や塩を運んだ人々の様子が解説されています。
新潟の糸魚川~松本を結ぶ千国街道のことです。全長100kmちょっと。
江戸時代の松本藩は塩の流入を北側からに限定し、中山道など南側から入ってくるルートを遮断したそうな。税の徴収がやりやすいとか、南側からだと複数の他藩を経由するので手続きが面倒とか、そんな理由らしいです。
当時は軽トラありませんので牛とか馬に塩を詰めた俵を載せて牽かせていました。俵の重さは60kgほど。
運搬を担ったのは街道沿いの農家。この地域は気候が冷涼で農業的には芳しく無いので、農閑期に行うバイトとして貴重な収入源だったそうです。
足にはわらじを履いています。蹄鉄が登場するのは明治時代なので、牛の足を保護するにはこうなるんでしょうね。
口に付けられているのは「くちぐわ」。余計なものを勝手に食べないように嵌めていたそうな。輸送中に雑草食べ始めて歩みを止めてしまうのだろうか。
牛馬だけでなく、人も運搬を担っていました。「ボッカ」と呼ばれる人々です。背中に担ぐ俵の重さは60kg。あれ、牛馬の背負う重さと同じですね。
この模型、辛そうな感じがありありと滲み出ていて、現代を生きる社畜の我々としても悲しい感じがあります(涙)
冬は雪で道が険しくなり牛馬は通れないので、その時期はボッカが主な輸送手になりました。極寒の地域なれど足元の装備はこれっぽっち。凍傷にならないんですかね。
彼らが運ぶのは塩の他に海産物がありました。この表のとおり、何日以内に運ばないといけないというルールがあったそうです。
生魚は日持ちしないので糸魚川~大町まで24時間以内。距離にして70km。60kgの荷物担いで、この距離を1日で来いというのはキツいですね。グーグルマップで見たところ所要15時間。現在の舗装された道路&荷物なし計算でもこれだけかかる。徹夜で運ばないと間に合わなさそうです。
塩は糸魚川で採れるものかと思いきや、日本海では生産できないそうです。さすが悲しみの日本海、あなた追って出雲崎。
生産元は瀬戸内海でした。意外と遠かった。大阪から来る北前船に載せて輸入していました。
展示3 信玄と謙信の塩話
宿敵関係の両者ですが、塩の話が出たのは川中島の合戦も全て終わったあと。これ以降、武田と上杉の直接対決は無いです。
当時の武田は今川家・北条家と結んでいましたが、今川家が桶狭間の戦いで敗れたことで関係を切ろうとしたので、今川&北条が逆切れして塩の輸送をストップ。塩は必需品なので、さすがの風林火山もしおっしおにされてしまいました。
(信玄がお礼に謙信に送ったという刀。国立博物館所蔵)
そこで謙信が「戦うところは弓矢であり食料ではない」と戦闘狂らしい憤りを見せ、塩を輸出してあげたのです。無償提供ではないです。適正価格での販売です。
千国街道を経由して武田家に届いたというので、これもまた千国街道が「塩の道」と呼ばれる理由の1つになっているそうです。
この故事を記念して松本と大町では毎年お祭りをしているのですが、なぜか塩ではなく飴がならぶ「あめ市」になっているのです。どうしてすり替わった、、まぁ塩より飴の方が舐めやすいですね(解決)
展示4 流鏑馬会館
最後に別館になっている流鏑馬会館に入ります。入場するとさっそく馬に跨った子供が私に弓矢を向けてきました。なんだこのガキンチョ、やろうってのか!
7月に近隣の若一王子(にゃくいちおうじ)神社で行われるイベント。7~8歳くらいの男の子に流鏑馬をさせるので、全国的にも珍しいとされています。流鏑馬自体はよくあっても子供が担うのはあまり無いんでしょうね。
ボタンを押すと、ごごごーっと回転して後姿が見られるという妙に凝った仕組みです。
弓矢を居ることでその年の稲作の吉兆を占う祭りは全国的にありますが、それに武士の行う流鏑馬がコラボして出来上がったのでは、と言われています。
子供は7歳くらいまでは半分人間・半分は神とみなす地域もあるので、その神性に吉兆を託しているんですかね。
これが子供の衣装ですが、ラーメンマンや中華系のレストランが着てそうな柄ですね。明治時代に作られたもので、実際に祭りで着用されるとのこと。
あとは祭り時に撮影されたビデオ上映もあるので、見てってどうぞ。
おしまい
【滞在時間】1時間
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】信濃大町 塩の道ちょうじや