高瀬資料館(島崎藤村『家』のモデル)
島崎藤村の姉の嫁ぎ先。
藤村はよく遊びにきていたようで写真やら手紙やら言い伝えやら沢山残っており、小説『家』では重要な舞台としても登場する。つまり”聖地”です。
『夜明け前』にも出てくるそうだが、私はそちら未読なのでスルーでお願いします(歎願)
そういうのを展示する資料館としてオープンしているのだ。木曽福島駅から徒歩20分ほど。入場料は200円。
資料館として建てられたわけでなく、民家が敷地内に資料室つくってやっているわけななので普通に人が住んでいる。
入り口の門をくぐると縁側があり、チャイムを押せば館員さんもとい高瀬家の方が対応してくれます。
ちなみに館内展示やパンフレットみるかぎり高瀬さんはハシゴの「髙」が本名みたいですが、資料館は常用漢字の「高」で書かれているので、そちらで表記します。
資料室はこちらの蔵で、もともと建っていたのを内装チェンジした模様。
『家』という小説では、主人公の姉の嫁ぎ先である”木曽の橋本家”の人々が主たる役割で登場するのだ。まんま高瀬家のことである。
冒頭では裕福な地方の大家族としてわいわい楽しげにやっているけれど、話が進むにつれて陰惨な展開になってくる。事業は失敗・当主は芸者と浮気して家出・跡取り息子は東京で放蕩した挙句に仕事もうまくいかず、最後は病で若死。
姻戚をモデルにその家の没落と離散を描くって、よく高瀬家の人は許してくれましたね。普通ならぶっ飛ばされて出禁である。
(資料室内にある高瀬家&藤村の写真)
まあ構想についてはあらかじめ高瀬家の当主である兼喜氏(2の人)に話して、了解を貰っていたのかもしれない。
当時の小説は自費出版が当たり前だったそうだが、藤村に資金を出してくれたのも高瀬家であったそうな。文学への理解があったんでしょうな。
あ、写真の1の人が藤村ね。
兼喜氏も『家』に「幸作」というキャラで登場している。ただこの幸作って、当主役ではなくて若い手代なんだよね。ポジション合ってなくない?
しかし小説内の当主である橋本達雄は、困窮する我が家を尻目に芸者と浮気出奔するウルトラ畜生なので、そんな位置に資金繰りの恩人を置けないわな。
当時の写真は館内に何枚もあるのです。
こちらはもう少し若い時分のもので、後列の左から三番目が藤村。
先ほどの写真と比べると、みんな目線が分けわからん方向に向いているので、まだカメラ慣れしていない時代だと思われます。
手紙のやり取りもよくやっており、藤村からの年賀状が届いている。
「島崎春樹」ってのは本名ですな。直筆の書類は他にもあって、掛け軸や詩文も寄せられていた。
藤村関係以外にも展示物はあって、目立ってたのは1927年の大火事ですかね。
このあたり一帯が盛大にファイアーして焼け野原になったという事件。
写真は火事以前の高瀬家です。木造だね。
それが火事でこんなんになりました。白い枠で囲われている左下が高瀬家の位置。蔵以外のこっとらんな。町も木造家屋は全滅状態である。
現在の高瀬家は蔵やコンクリートの堅牢な建物からなっているが、火事の教訓から出来たもの。
ただし高瀬家は神道ということなので、敷地入り口には神社の鳥居を象った装飾が施されている。記事冒頭の写真に写ってます。
高瀬家自体がかなり歴史ある家柄で、先祖をたどると藤原氏・九州は肥後を支配していた菊池家につながり、大坂の陣にも参戦している。その頃はさすがに大名ではなくて、木曽の一士官。
というわけで、大坂の陣の布陣見取り図や兵法書など、高瀬家に関わるオリジナルグッズも展示されております。
資料室おしまい。庭を見ます。けっこう広くてバスケコートくらいは作れそうである。
庭からは中央線の線路が見られる。電柱ですが。
もとの高瀬家の敷地はあの線路を含めて向こう側まで続いていた。さっき資料室で兵法書を見たけれど、高瀬家では砲術や弓矢の指南をしており、向こうの土地ではその訓練を実施してたそうな。自宅で大砲ぶっ放すのか。
しかし藤村らの時代に、その土地の真ん中を突っ切る形で中央線の線路が作られてしまった。今だったら用地補償とかあるけど、当時はお上の命令絶対なので強制没収である。あらあら。『家』でも少し触れられております。
おしまい
【交通手段】木曽福島駅から徒歩20分
【入館料】200円
【混雑度】★★(他に2~3人)
【滞在時間】45分
【URL】公式サイトは無いので 木曽おんたけ観光局のページ