旧古河庭園
北区にある旧古河庭園です。
入園料は150円。
園内はこんな感じです。
左上が正門。
もともとこの土地は陸奥宗光が所有していたもの。
陸奥は古河鉱業の創業者である古河市兵衛と懇意の仲であり、陸奥の息子である潤吉が古河市兵衛に養子入りしていた。
陸奥が死去した後、古河潤吉がこの土地を買い取り、別邸として使っている。
実父の暮らした土地なので、思い出補正な感じで取得したのだろう。
ただ潤吉自身も病を患っており、土地購入から6年後くらい、35歳で死んでしまうのだが。
バラのガーデン。
ただ花はありませんが。
バラ自体は1年中開花できるらしいのだが、ずっと咲かせていると体力を消耗して花も残念レベルになってしまうので、ちょん切って力を温存させているそうな(園内のガイドさんが言ってた)
私が来園する数日前に伐採したらしい、タイミング悪さの極み。
乾杯という品種があるそうな。
呑兵衛が命名したに違いない(確信)
この土地を買い取った古河潤吉が死去したあと、古河鉱業の社長を継いだのは創業者 市兵衛の実子である虎之助。
「実子が居るのになんで養子とったんだ?」と思ったが、古河市兵衛にはなかなか子供が生まれなかったので潤吉を養子にとっており、そのあと56歳の時に側室との間で出来たのが虎之助。
側室って・・時代ですねぇ。
潤吉が35歳で若死にしてしまったので、社長を継いだ虎之助はまだ20代後半であった。
しかしこの人の時に業績はじゃんじゃん上がり、鉱業のみならず電気工業・銀行・商事など事業を多角的に広げていった。
第一次世界大戦の軍需景気も大きかったと思うが、古河が財閥としてのし上がった時期である。
というわけで調子よかったので、こんな屋敷たてました。
先代 潤吉が別邸を構えていた頃は敷地も建物も小規模だったのだが、虎之助は周辺の土地を大量に買い足して、著名な建築家ジョサイア・コンドルを招き、別邸では無くて本邸として整備している。
そうして1917年に竣工したこちらの洋館だが、自由見学は出来ない。
管理運営を大谷美術館という法人が担当しており、その見学会に参加するという形になる。
見学会は事前予約制だが、空きがあれば当日参加も可能。
この日は雨降りのせいでかなり空いていたのだが、紅葉の時期とかは予約だけで満員の可能性もあるそうな。
(大谷美術館HPより。黄色い網掛は筆者による)
しかし事前予約の方法、とてつもなく面倒くさい。
なんと往復はがきによる申し込みである。
このご時世に!
おそらく大谷美術館さんサイドとしては、洋館の歴史の長さを感じてもらいたいがために、申し込み方法から明治時代のやり方を取ることにしたのだろう。
見学会は別料金でございまして、おひとり800円です。
ただ見学ガイドさんが各部屋についてかなり細かく説明してくれるので、面白みはあります。40~50分ほど掛かった気がする。
撮影禁止なのがアレだが。
「800円払いたくないけど、どうしても中に立ち入りたい」というド根性ガエルな方は、館内の喫茶室だけは無料で入れるよ。
どうせそこで注文することになるけど。
洋館から出て、庭園の方へ。
庭園は洋風らしくカッチリ左右対称になっていて、さすがこれを作ったジョサイア・コンドル、手がこんどr(以下略)
その先は和風庭園が続きます。
ただ洋風庭園からいきなり和風庭園になるのは風流っぽくないので(適当)、緩衝地帯としてこのツツジ軍団が植えられているそうです。
和風庭園はコンドルではなく、当時のスター造園師 小川治兵衛に任せている。
通常、庭園を造るときは、その土地に既にある風景や資源を利用するらしい。
敷地の向こうに山が見える土地であれば、それを庭園の一要素として含めて構成を考えるのだが、この土地には使えそうなものがない。
それに庭園として欲しい”池”には水が必要だが、水を引いてこれそうな川も周辺に無いから、わざわざ井戸水を掘って使用しているそうな。
とまぁ色々あるが、つまり使える要素がこの土地には余り備わっていないので、造園師が苦労したという話です(思考放棄)
洋館が1917年に竣工したが、こちらの庭園は1919年完成である。
2019年で100周年です、おめでとうございます。
一方、洋館が完成して住み始めた古河虎之助だが、居住開始してからあまり碌なことが起こっていない。
1919年と言えば第一次世界大戦が終戦した年だが、これにて軍需景気が終了し、日本の景気は一気に不況へ突入。
そのため古河財閥の業績も低飛行になり、足尾銅山では労働争議が勃発して労働者の一部がこの邸宅まで陳情のために押し寄せてきている。
さらに虎之助も父同様、子に恵まれず、養子をもらっていたのだが、この子が6歳にして死去。
悲惨な事件が連発しすぎて虎之助さんメンタルをやられてしまい、酒におぼれ、療養のために一時休職してハワイへ。
ワイハで復活し、一般人に復帰した虎之助さんは、子を失った経験から慈善活動に意義を見出し始め、孤児院「明徳園」を設立。
また関東大震災の時、この西ヶ原は軽傷で済んだそうだが、近隣は避難民でごった返していたため、敷地を開放して人々を受け入れ、医療団を組織して治療にあたらせたり、さらには仮住居まで建てて家を失った500人もの人を、最長で半年程度も住まわせてあげてたそうな。
すごいぞ虎之助!
読売のウサギも見習ってどうぞ(種目違い)
(庭園東部の林地地帯へ)
でもやっぱりこの土地で嫌なことが多かったからか、また労働争議の中で窮乏する労働者の姿を見たからか、虎之助はこの豪勢な土地を離れて、より質素な住居へ引っ越している。
結局、手をかなり掛けた割りに8年ほどしか住んでいなかった。
そのあとは古河財閥の迎賓館として利用。
(茶室があるが、申し込まないと入れない模様)
戦後になると財閥解体の流れで、古河家は巨額の課税をされてしまい、所有する財産を片っ端から売り払う羽目となった。
この土地も大蔵省に引き渡される。
もっとも、1952年まではイギリス軍人の宿舎として接収されてしまっていた。
ただイギリス人はアメリカ人と違って、庭園を破壊してプールやテニスコートを建てるUSAプレイ(愚)はやらなかった模様。
(門の外から茶室をのぞき見)
接収が解除されたあと、大蔵省から古河家に払い下げる動きがあったのだが、古河家が期限までに契約保証金を出さなかったため、一時中断。
んで手続きが止まっている間に、「古河に払い下げるのではなく、都市公園として整備し開放してほしい」と近隣住民および東京都から強い要望があり、大蔵省は古河との交渉を打ち切って東京都に無償貸与。
東京都が公園として整えて、1956年からオープンさせました。
ただし有料です。
いっとき無料にしたことがあったのだが、近所のお子ちゃまとか、あまりお行儀のよろしくない方々が入り込み過ぎて敷地内が荒れてしまったため、やっぱり有料制に戻した経緯がある。
(違う方面から茶室敷地を見た図)
ところで洋館に関しては、東京都への貸与リストから外されていた。
良く分からんが、権利関係が揉めまくっていて、貸し出せる状況ではなかった様子。
なので洋館以外の庭園部分に関しては東京都が整備していたのだが、洋館には手を入れられないので、長きにわたって放置され蔦が這いまくり、DQNによりガラスも割られ、「お化け屋敷」呼ばわりされていたそうな。
(茶室の裏にある書庫)
洋館はボロボロの状態だったのだが、1982年に都の名勝指定を受けて以降、7年ほどをも掛けて修理がなされ、1989年から大谷美術館のもと公開が始まって現在の状態へ。
めでたしめでたし。
揉めてた権利関係が解決したから名勝指定をされたと思えるが、一体何を争っていたのだろう。
あと大蔵省と古河家が払い下げ交渉をしていた時、「古河が払い下げを受けてから、大谷某へ敷地を譲渡する」という事実が発覚し、それは古河が大蔵省へ申告していた内容と違ったので大蔵省がガチギレして交渉を打ち切ったという話もある。
その大谷某って、大谷美術館の人かしら。
参考文献はこちらです。
以上。
【入場料】150円
【混雑度】★★★(ちらほら)
【滞在時間】90分
【URL】