八潮市立資料館
埼玉県八潮市の資料館です。
見た感じ、案外大きい施設だな。
と思ったら、会議室や資料室が結構な割合を占めており、展示室は2Fのみである。
階段をのぼって、その2Fへ。
スペースが広くてゆとりはあるが、物があまり置かれていない分、がらんとしている感じもする。
ぽつんと模型が置かれている。
「上総掘」と書いてあるが、特に説明が無いので不明。
ハムスターが回す機具みたいなものが設置されているな。
回っているのはハムスターでなくて、横縞セーターのオッサンですが。
こっちみんな(直球)
帰宅してから調べたが、これ井戸掘りの道具らしい。
千葉の上総を中心とする技法で、井戸掘りの道具をこの車をグルグル回して押し進めるそうな。
展示室はこちら。
映像コーナーかな?
上映時間けっこう長いな。
一番上の8分のやつにするか。
故障中でしたか、そうですか。
代わりにポスターで学べるようにしていますが、暗くてよく見えません。
ほら、カメラもぼやけてしまったでしょ(責任転嫁)
展示ゾーンへ。
最初はやっぱり土器だが、縄文~古墳まで一緒くたに並んでいる。
八潮で発掘された遺跡は弥生時代後期以降のもので、定住は比較的遅い感じ。
それも祭祀道具が大半であり、住居というより祭祀場っぽい雰囲気である。
川に多く面している地域は、食物や洪水などで良くも悪くも川に命握られるので、そのぶん川の神様をヨイショしていたのかもしれない。
弥生時代の模型。
水に囲まれている環濠集落である。
んで時代は奈良を飛び越して、さっさと平安末期・鎌倉へ。
関東一帯では「武蔵七党」という武士団が分割割拠していたそうな。
激しい戦いがあったのだろう、板碑も割れている(すっとぼけ)
「武蔵七党」っていうから、武士団が7つあってそれぞれ争ってたんだろうなと思うであろう。
実際はもっと多くの武士団が存在していたので、どれを武蔵七党と呼ぶのか分かっておりませんでした。
八潮市のあたりは「八篠氏」なる方々がおわした。
武蔵七党の一つと言われている「野与党」の一派だそうで。
野与党は桓武平氏の子孫であるという説があるが、当時はだれも彼もが平氏か源氏の子孫であることを主張していたからね。
「中学で1回だけオール5取った」くらいの重要度で聞いておけば良いんじゃないかな。
いきなり首が登場したが、市内の寺の不動明王像のもの(だった)。
平安時代に製作されたもので、「県東部では最古と目される」という、また評価が難しい文化財である。
なおその不動明王はまだ存在するが、現在の頭部は補修したもの。
もともと付いてたけど、取れてしまったのが、これ。
仏様の首すえちゃって、お寺さんとしては大丈夫なんですかね。
#b3aeb5
錨代わりにしていた石。
海なし県だけど川はありますので、船はいっぱい居たわけである。
関東の舟運が大発展するのは江戸という大都市が誕生してからだと思うが、鎌倉時代には交通網として成り立っていたようである。
これだけ川があれば、まぁ物流手段として使わない手はない。
地図中央の八篠が八潮市付近。
赤い丸は、川の関所=河関である。
この辺を支配している荘園領主や武士団らが独自に関所を設けて通行料を徴収していたという話。
金を払えば、身の安全は保証してくれたらしい。
完全にヤクザのみかじめ料ですが、こういう時代でした。
しかしどうして字体が恐怖新聞なんですかね。
なお関東では、千葉県の香取神宮が多くの河関を持っており、収入源としていた。
地獄の沙汰も金次第。
これ、ぽつんと置いてあったが、説明が無いので何のためかは分からず。
また時代が飛んで、江戸へ。
八潮市の八篠は当初街道が通っていたのだが、1630年に草加宿が開かれると、八篠は街道から除外されてしまったそうな。
草加の大川くんに対するヘイト蓄積まったなし。
ただ茨城の下妻方面に延びる旧道が八篠を通っていたので、街道沿いの町として栄えたそうな。
めでたしめでたし。
閲覧注意書。
書物を読むときはちゃんとページ開けよ、折り目つけるなよ、などとサルに教えるレベルで心底丁寧に読書のやり方を解説している。
R18とかそういう意味の「閲覧注意」を想像した人は、さっきの不動明王拝んで邪心なくしてどうぞ。
明治以降については、この通りまとめましたので、あとは自由にご覧ください。
さっきから「八篠」という地名がよく出てきているが、八潮市は1956年に八篠村・八幡村・潮止村が合併して出来た市である。
(1956年時点では八潮村。1972年に八潮市に。)
このとき八篠村の中に「草加いきたい」勢が出現し、八潮村誕生後もそやつらが分離運動を起こすなど、どこかのウクライナ状態になっていた模様。
さっきから八潮と草加で変な争いをやっている感じである。
話は変わって、伝統産業である藍染めです。
「長板中型」という、18世紀頃から始まった手法。
文字通り、長い板・中くらいの型紙を使っている。
作業写真がありますが、各工程についての説明が無いので、何をしているのかあんま分かりません(率直)
左では布を広げて板に張り付けさせ、次に右の写真で模様の型を付けているように見えます。
型を付けたら一度干すわけだが、板なっが!
6.3mあるとのこと。
大豆と石灰から作った豆汁(とうじゅう)を塗ると、藍を染める時に布に浸透しすぎず、それでいてべたつかないようです。
染めると型どおりに色がつきます。
白のままにしたい箇所には糊を塗ってあるので、藍は染まらない仕様。
あとは乾燥させれば良い。
長板中型は江戸~昭和に入っても行われていたが、1920年代になるとさすがに工場での大量生産が主流となり、手工業はめきめき減っていき、いまや絶滅危惧種なので埼玉県の無形文化財に登録されている。
長板。ながいなー(当然)。
八潮村に合併した3村のうちの八幡村では1910年代、450軒の家があったなかで、80軒ほどが染物関係の職についていた。
5~6軒に一人が染物屋。同業者だらけである。
染物の手法は長板中型だけでなくて、注染というのもあった。
これは型付けをした布に、ヤカンで染料を注いで染めている。
手間があまりかからないので、ちょうど長板中型が下火になりだす1920年頃から主流になりだした。
もっとも戦後はより安価で大量生産が出来るプリント工法が登場し、いまでは注染をやる職人は市域で0になってしまいました。
この注染、もとは1900年頃に大阪で始まったもの。
工程の序盤で、布を水洗いして乾燥させるところがあるのだが、これを「ダラ干し」という。
なんか関西っぽいネーミングですね(偏見)
舟運に使っていた伝馬船(てんません)。
実物は全長20mほどあります。
江戸方面に行くときは野菜などを積んで市場に売りに行く。
帰りは屎尿を載せてきて、これを肥料として使ったらしい。
食べ物載せるところにクソのっけるの、ちょっとやめてもらえますか(白目)
煎餅もそうだけど、近辺がうるち米の産地なので、白玉製造が有名です。
現在でも続いている。
そんな感じで展示室おしまい。
下の方がメインキャラだと思うけど、上のやつの方が主張強い。
1Fにもどって、入り口とは反対方向へ。
古民家が併設されております。
1876年建築の名主の家です。
資料館本館は17時までなんだけど、ここだけは15:45閉館なので要注意。
かなり大きい民家ではあるんだが、まぁ暗いっすね。
このとき曇り空だったんで、裸眼でもだいぶ目を凝らさないといけなかった。
さっきの展示室も暗かったが、この資料館は明かりを少なくして展示物を保護する方針なんだろうか。
それとも経費削減?
陰っちゃってるが、「マンガ」という道具について。
馬鍬(まぐわ)が訛った。
しかし暗いので、どれがそのマンガなのだか分からないのである(涙)
座敷に上がってみた。
住人の日常生活ゾーンな部屋。
タンスなども当時のものだろうか、相当な年季の入れ方。
こんな民家の模型、草加の資料館にもあったような。
最後は庭の風景でおしまい。
以上。
【入館料】無料
【滞在時間】45分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】八潮市立資料館/八潮市