造幣局さいたま支局博物館
さいたま新都心にある造幣局さいたま支局には、博物館が併設されている。
ちなみに紙幣は印刷局ね。
もともと東京にあった支局だが、2016年にさいたまに移ってきた。
だから新しく綺麗な建物である。
入館して受付し、見学客用のバッジをもらう。
退館時には再度受付に寄って、このバッジを返すことになる。
展示室は2Fなので、受付横の階段をのぼる。
早くもいろいろ置いてあるな。
模型。貨幣製造工場なだけあって、けっこうな規模となっている。
たぶんこの博物館は一番手前のグレーの建物。
昔の貨幣のご紹介。
貝を貨幣にしていたのは有名だが、中国では魚とか刀スタイルの奇抜な物もあったんだとさ。
通貨としてより、祭祀用のようだが。
貝も貝で、ずいぶん気持ち悪いのを採用したようで。
絵柄が表・数字が裏、という風に我々は習っているが、これ法律上の根拠はなくて、ただ単に造幣局が便宜上そうやって呼んでいるかららしい。
硬貨をたくさん詰めてみたので、持ち上げてみようのコーナー。
これは貨幣選別機。
貨幣を入れると、50円玉なら50円玉、10円玉なら10円玉という風に選別して吐き出してくれるスグレモノである。
ニッケル・銅など、硬貨を作る材質ごとに重さが違うので、それを利用している。
オリジナルキャラクターおっすおっす。
なお平日は工場が稼働しているので、工場見学が可能。
土日は残念。
ではでは展示室本編へ。
造幣局自体の歴史ゾーン。
江戸時代にも金貨銀貨の鋳造はやっていたわけだが、近代的な硬貨の製造は1871年大阪に本部を持つ造幣寮(1877年~造幣局に改称)でスタート。
1879年からは東京にも支部が作られる。
時代が時代なので、お抱え外国人わらわら。
延べ31名の外国人が技術を伝えに来たが、日本人が技術を覚えてしまうと1889年には彼らは用済みとしてバイバイキーン(無慈悲)
外国人からは複式簿記も教わったようで、これが日本の主流となった。
でも複式簿記って、やたらノートが分厚いのね(すっとぼけ)
当時の出勤簿。
ハイカラな造幣局では1871年時点ですでに日曜休日制度が導入されていたが、他の官庁では1876年から実施開始された。
それまではリアル月月火水木金金をやっていたわけである。
出勤簿に押しているハンコは様々。
田代さんは「田代」という印だが、高塚さんは「高」という印だし、羽室廣直さんに至っては下の名前から取って「直」である。
自由ですねえ。
次の部屋は、貨幣の製造方法。
最初に、金属板を鋳造する。
写真左手の赤いヤバそうなやつ。
金属をガンガンに熱して伸ばしているところである。
板を作ったら、貨幣サイズにくりぬきます。
繰りぬかれた貨幣が左。
それの外側に縁を付けて、右側の貨幣のようにする。
もういちど焼いて貨幣を軟らかくします(左。焼鈍)
そして洗いなおします(右)
模様を圧印し、偽造防止策を施して、完成。
貨幣の偽造防止策は、かなり凝っていて、説明を呼んでもよく分からないほどである(どや顔)
3種類の異なる金属を用いて作る方法もあります。
プルーフ貨幣と言うものがある。
コレクション用の貨幣であり、普通の貨幣よりも美麗に製造されているもの。
製造過程はだいたい普通の貨幣と同じだが、こちらはより光沢をもたせるため、研磨剤を使って磨いている。
ほら、ピッカピカでしょ(適当)
あと模様がしっかり浮き出るように、模様の圧印は通常1回だけのところ、念入りに2回やっている。
続いて極印づくりの過程。
貨幣の模様となる、元の型のこと。
模様の図案を描いたら、粘土で形どり、これをもとに石膏を作製。
石膏に黒鉛・銅を塗ります。
この状態だとどう見ても巨大なので、縮小版を作ります。
原理はこうなっています(説明放棄)
そして、完成した極印。ちっちゃくなっちゃった!(死語)
この極印を機械にセットして、まっさらな貨幣にばんばん押していき、模様付けをしている。
部屋の真ん中に居座っている彼は、極印を縮小する際に使うものである。
彼が1904年に導入されるまでは、技師が手で小さい極印を掘っていたらしい。
たまげたなあ
さてここからは「造幣局さん、そんなこともやっているの」シリーズである。
まずは文化功労賞など様々な賞に用いられる、勲章の作成。
基本原理は貨幣と同じ。
板を貨幣の形にくりぬいたように、勲章の形にくりぬいておく。
しかし色塗りやら研磨やら、こちらは人の手が入っている。
釉をぬって焼成し、溶けた釉が色彩をつくる「七宝焼き」スタイル。
溶かし方間違えると終わるナリ。
飾りをちゃかちゃか付けて、完成。
なんということでしょう。
次は、貴金属製品の品位証明。
よく十八金とか純金じゃねえかとか、金属製品の品質として呼ばれるが、素人目には分からないものである。
造幣局は、そういう品質についてお墨付きを出す仕事もしている。
お墨付きをもらうと、「ホールマーク」といって、金属製品そのものに印を刻む。
一覧表と照らし合わせて、あなたの貴金属製品の品質を確認できます。
たいへん便利なものだが、結婚指輪とかでやると「旦那の説明と違う」って修羅場になる可能性もあるので、慎重に。
そしてなんと日本開催のオリンピックメダルも、造幣局が製造している。
1964年東京オリンピックの金メダル。
1998年長野オリンピックは、また全然別の模様である。
造幣局では、国際コイン・デザイン・コンペティションを開催しています。
要は、僕の作ったカッコいいコインを自慢しあう大会である。
国内のコンペティションだが、第1回大会はポーランド人が優勝したらしい。
日本人頑張ってくれよなー
ここからは記念硬貨の展覧会。
1964東京オリンピックに始まり、記念硬貨はちょくちょく発行されている模様。
すでに2020東京オリンピックの記念貨幣が作られている模様。
造幣局はせっかち(確信)
1000円貨幣だが、当然ながら通貨としては使えません。
地方自治法施行60年を記念して、都道府県ごとの貨幣が作られている。
60年ってなんか中途半端な気もするが、なに気にすることは無い。
都道府県ごとに有名人・有名処をモチーフにしている。
埼玉県は安定の川越と、危ないこともやり過ぎて大河に取り上げてもらえない渋沢栄一になっている。
2008年以降にこれら貨幣は発行されているけど、東京はスカイツリーではなく東京タワーがランクイン。
キャラクターごともあります。
こちらは入れ物が凝っている勢。
金子みすゞは詩集になっている。
飛び出す富岡製糸場はこちらです。
最後の部屋は、貨幣そのものの歴史になっている。
我が国最初の貨幣は、8世紀前半の和同開珎である。
ちなみに初期の和同開珎は写真左の通りブワブワしてて、改良されて右のようにスマートに変化した。
8世紀~10世紀までの間に12種類の貨幣を発行したけれど、どうせ貴族しか使わないので都以外ではガン無視されていた様子。
決済手段である貨幣より、価値そのものである小判とかを持ちたがるのが明治までの日本人である。
豊臣秀吉や徳川家康は非常時にすぐ軍資金に出来るよう、千枚の金貨をまとめて1枚として鋳造して保管していたらしい。
これが法馬金(ほうまきん)。
無くしたら打ち首獄門・焼き土下座では済まないレベル。
明治に入ってから、金の流出を防ぐために金貨製造は禁止されていたんだが、1930年に何を間違えたか、政府は金貨の製造を再開してしまった。
当然のようにドガドガ海外流出したため、1932年1月には取りやめ。
1932年1月に終わったため、つまり1932年製の金貨幣はわずかしかない。
昭和64年製の貨幣が希少なのと同じ現象であるが、こちらは金貨なうえに海外流出したもんだから、価値が段違いである。
もはや何枚出回っているか不明レベルなのだが、さすが造幣局さんは1枚押さえていました。
あとは一番最初にもあったけど、世界の変わった貨幣。
オセアニアのヤップ島では、こんな石の貨幣を用いていたらしい。
なんか、もうちょっと軽い奴にしようとか思わんかったのかね。
魚とか刀とかを貨幣にしてた中国人は、馬蹄も貨幣にしていました。
もうめちゃくちゃだよ(棒)
以上。
【交通手段】さいたま新都心駅から徒歩10分
【入館料】無料
【滞在時間】60分
【混雑度】★★(他に2~3人)
【URL】造幣局 : 工場見学・造幣さいたま博物館見学(さいたま)