C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

高山市政記念館

 

高山の古い街並み、観光客で混雑しているド真ん中くらいにこの記念館があります。

明治時代に高山町役場として使われていた庁舎を、資料館にしているのだ。

とにかくこの辺、チャイナのみならず外国人だらけなのだが、彼らが喜びそうな分かりやすいジャパニーズ建築ですね。

ちなみに聞こえてくる言語は日本語より中国語の方が多い、あいつらの声がデカいせいだが。

 

 

内部はもろに資料館になってまして、建物の外観・内装以外にインスタ映えするものはありませんので悪しからず。

展示も殆ど日本語表記なので外人殺しである。

まぁ高山市の歴史なんて外国人興味ないだろうから、別に良いんじゃないの。

入場無料だし。

 

 

展示室はこちら。

「市政記念館」と名称付けされているように、おもに明治以降の歴史ですね。

江戸時代の歴史は、高山陣屋を見て来ればいいと思うよ。

 

江戸時代の高山は幕府直轄である「飛騨郡代」。

直轄地だと「代官所」が置かれたりするけど、郡代はそれよりランクが上なのだ。

飛騨は木材や鉱山資源が豊富で、幕府が重宝していたからね。

 

 

 

ここのトップは郡代なのだが、1868年鳥羽伏見の戦いで幕府が劣勢になると、この郡代は速攻で逃亡している。

ちょっと諦め早すぎやしませんかね、五稜郭陥落までまだ1年あるんですが。

 

郡代なきあとにやってきたのが、新政府側の役人である竹沢寛三郎。

写真と肖像画が残っているが、まぁだいたい似ている。

わずか1か月しか居なかったが、年貢の減免を宣言するなどしたので民衆からは人気があった。

 

 

しかし次にきた梅村速水という人がダメだった。

いろいろラディカルに改革しようとしたようだが人心掌握できずに反乱おこされたので左遷。「梅村騒動」という名前まで付けられて今日までアホ扱いされる羽目になってしまった。

まだ27歳だったらしいですけどね、生え際も早くも左遷され始めており、将来が心配である。

 

(町役場の前で、はいチーズ!)

 

飛騨は飛騨県とされたのだが、わずか1週間で高山県に改称。

1871年には長野県の松本あたりと組み合わされて筑摩県となった。

なんだかコロコロ変わっているが、飛騨が属する美濃国は石高が山口県に次ぐNo.2の大きさだったそうで、あんまりデカい県にすると統制が難しくなるから新政府はいろいろ分割を試みたようだ。それで他の岐阜県と切り離されている。

ただ結局「細かく分けすぎても問題だ」と新政府が思いなおし、1876年に岐阜県に組み込まれている。

 

高山町役場も1895年に出来まして、地元の有力者が建築資金を捻出した。

こういうときこそ金持ち頑張りましょうね。

かなりの財を費やし、また近代建築を研究したうえで頑丈に建てられたので今日までこうして保存されているわけだ。

当時の記録では「肝を潰すばかりの、古来未曽有の建築」とまで言われている。さすがにアンタの肝弱すぎだろう。

 

 

町のマークも決まりました。

「岳」の字を崩したもので、今日の高山市のマークはこれをもう少し角ばらせたものになっている。

これ見たときポケモン初代の虫タイプのアイコン思い出したんだけど、そんなんは私だけですかね。

 

 

鉄道の全線開通は1934年のことで、岐阜~高山~富山まで。

ちなみに招致活動は1889年頃からやっており、だいぶ中央政府に無視されてましたね(哀)

道中は山だらけで、トンネル掘ると湧き水飛び出て土砂ぐちゃぐちゃみたいなトラブルがよくあったので、それで役人も面倒だったのかもしれない。

 

開通時にはみんな余りにも大喜びで、駅前に凱旋門まで建ててしまった。

落ち着け。

 

 

なお鉄道開通前は道路輸送しかなかったのだが、あまりにも道が悪い上に狭く、岐阜まで行くのに片道8時間もかかっていた。

あげく試験走行していた際に「途中の断崖に落ちてしまいました(展示原文ママ)」。

牧歌的な口調で書いてますけど、それ控えめにいって大惨事じゃないですかね。

 

 

1936年に高山町は、高山市にグレードアップした。

お隣の大名田町を合併した上でのことだが、この大名田町がやたら反発しており、「高山とは歴史も風土も人情も違う」と突っぱねている。

歴史風土はともかく、人情否定ってもう全否定じゃないですか。

大名田町は高山町の人に、上履きでも隠された過去があるのだろうか。

 

これには岐阜県知事も介入し「高山は重要拠点なのだから、大名田町はさっさと合併しないと補助取りやめるぞ」と盛大に脅迫したため、穏便に(?)合併と相成りました。

 

 

戦時になると、乗鞍山頂に陸軍の航空研究所が設けられた。

もとは東京の立川にあったものだが、高い高度での実験には山岳環境が必要だったそうな。

このとき乗鞍に向かう道路を作るため、岐阜県は軍に協力したのだが、反対側にある長野県は「上高地開発で忙しいんで」とスルーした。

結果として平湯から乗鞍に向かう道路が出来、これは戦後に乗鞍観光の重要ルートとなる。

長野県、みてるかー!?

 

 

それと関係あるのか知らんが、高山市民は航空機を軍に寄付している。

航空機を寄付って、そんな大それたこと市民に出来るのかと思うのだが、わりと全国各地で行われているらしい。

 

 

こんな絵ハガキも登場したわけですが、なんだか楽しそうな表情してますね。

富士急の新しいアトラクションかな?

 

 

役場に保管されていたと思われる道具もいくらか置いてあります。

召集令状箱は、赤紙を町内に配るときに、この中に入れて持ち歩いたと思われる。

配る側も嫌なもんだな。

 

 

戦後の観光について、このケースに展示されているんだけれど、明かりがついて無くて見えないよ!

観光客おおいし、出国税で光熱費を賄おう(提案)

 

 

こちらの部屋は役場の応接室だったようです。

観光チラシが置いてあります。

 

 

建物の端に玄関っぽいのがあるけれど、従業員用入口だろうか。

 

 

古い電話ボックスがあるが、屋根がやたらと低く、身長160cmもあれば見事に天井ヘディングすると思う。

 

 

2Fもあります。

こちらも真面目な資料展示が多く、インスタ映えがあまりしないので、外人やインスタ勢は1Fで力尽きて即退出していくのでした。

 

 

おもしろい展示はちゃんとありますけどね。

すさまじく古いパソコンだなぁ、windows95くらいだから弥生時代かな?

 

 

こちらはワープロ

画面の右側にあるのは保存用ディスクを入れるところ。

ディスク自体がとても巨大だったんだなぁ。

 

 

これは戦後の乗鞍観光の写真。

戦時中に軍が道路を作ったので、それを利用して乗鞍山頂まで行けるのだ。

大正時代にイギリス人宣教師が日本アルプスを宣伝したので、国内外で名が広まっており、高度経済成長期で客がわんさか来た。

 

にしてもバスごった返し過ぎですね、登山客はオートモービルに甘えず、もっと歩きましょうね(自分への戒め)

 

 

民芸展開催時のポスターだが、民芸品を「げてもの」呼ばわりしている。

直球すぎですよ。

 

 

1Fに戻りました。

渡り廊下の向こうに土蔵がありますが、中には入れない模様。

 

 

仕方ないので庭でも見て休んでクレメンス。

 

 

以上

 

 

【交通手段】高山駅から徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】60分

【混雑度】★★★★(すぐ横に人)

【URL】

www.city.takayama.lg.jp