神奈川Cスポ探索日記

C級スポット探索日記

C級スポットを主に巡るブログです。C級スポットとは、「メジャーな観光地(A級スポット)・ちょっと変わった観光地(B級・珍スポ)ですらない、楽しめるかはその人次第の場所」という意味です。と言いつつ、普通の観光地にも行きます。地域別カテゴリは最下段から。

井口喜源治記念館

 

 

穂高駅から徒歩5分の所にある、井口喜源治の記念館です。

9分9厘の人が「誰?」ってなると思うのだが、キリスト教精神に基づく教育を穂高で始めた人と思っておけば良いと思うよ。

 

 

外観がけっこう”時代の経過”を感じさせるので、開いているのかどうか不安になりますが、ちゃんとドアは開いているので心配は不要。

冬季は土日しかやっていないので、事前に確認しておこう。

 

 

入館料は400円です。

資料がずらーっと並んでいる、郷土資料館らしさが早速している。

 

このとき他に客が居なかったので、館員さんがマンツーマンで私にレッスンする流れとなった。

途中から入館してくる人も無かった、土日なんだけどな(不安)

 

(井口喜源治さんの写真。公式HPより)

 

井口喜源治は安曇野市穂高出身で、明治法律学校(いまの明大)に進学したが、たった1年で中退し、長野県に戻って小学校の教師となった。

20歳の時のこと。

 

中学生の時にキリスト教の宣教師に教えを受けており、大学時代にはキリスト思想の当時の第一人者 内村鑑三と交流しており、その辺の影響が強い。

 

(記念館の前にあった銅像。似ている)

 

というわけで教員時代、キリスト教的な精神にのっとり、禁酒運動・芸妓置屋反対運動に携わっていた。

 

しかしここは過去の因習が根強く残るド田舎である。

「酒止めろ」と言って聞く人間(特にオッサン)は、どう考えても希少種である。

なので学校で他の教員や偉い人から疎まれてボッチになってしまい、退職する羽目に。

 

 

学校は辞めさせられたが、だったら自分で興せばいいということで私塾「研成義塾」を設立。

さきほどの禁酒運動などの関係者には地元の有力者も居たので、資金はそこから貰いましたとさ。

28歳のときのこと。

 

(研成義塾の時間割)

 

学校では12教科を、たった1人で教えていたらしい。

しかも生徒の学年はまちまちなので、1つのコマで複数学年に同時に教えていたそうな。

すき家もビックリのワンオペである。

 

 

研成義塾の設立趣意書、スローガンみたいなものか。

「四.宗派の如何に干渉せず」として宗教はフリーダム制を取っている、はずなのだが実際には聖書や讃美歌の授業をやっていたらしい。

おっとこれはマニュフェスト違反ですね。

 

 

教科書は残っています。

これは数学だなあ、ああ頭が痛い。

 

(シアトルに渡った卒業生の写真。CDデビューでもしたのかな?)

 

34年間にわたる経営で約800人の卒業生を出し、そのうち70名ほどがアメリカのシアトルに渡ったという。

1割って、ずいぶん飛んでいる。

現代の若者も彼らを見習ってグローバル化人材になり、クールジャパンしましょう(雑)。

 

 

井口の、小学校教員時代の免許状。

 

追い出されるようにして教員を辞めざるを得なかったのだから、こんなもの破いて捨てていてもおかしくないのに、ちゃんと残しているとは凄い物持ちの良さ。

この資料館で一番おどろいた点です(こなみ)

 

 

研成義塾の卒業証書はこちら。

 

 

奥の古びた本棚には、井口の蔵書がどかどか並べられている。

 

 

中でも井口の尊敬する内村鑑三の著作が多い。

『聖書之研究』という書物は1900-1930という長期間に渡って発行されたが、それも全部集めてある。

よく途中で飽きませんでしたね。

 

 

内村は各地の知人を訪ねて旅行することがあったが、井口を訪ねてこの穂高までも来ている。

当時は上田まで鉄道で来て、そこからは馬車という、想像するだけで嫌になる距離である。

 

内村が新潟の柏崎に出向いた際には井口も付いて行って、講演会では自らメモ取り役まで担っている。

そんなの若い衆にやらせなさいよ。

 

 

そんな井口先生のメモ。

ちょっと丸っこくて可愛い字を書きますね。

 

 

ミシンが置いてあるが、これもアメリカから取り寄せて、学校で使用していた。

たださすがにミシンの先生は井口ではなく、別の女性に任せていた様子。

 

相馬愛蔵wikiから)

 

という井口先生の教育事情だったのだが、支援者および親友の一人が、相馬愛蔵

あのカレーでお馴染み、新宿中村屋の創業者。

 

穂高の庄屋出身であり、早稲田を卒業した後、帰郷して養蚕業に携って、その際に著した研究書がベストセラーになるなど、地元ではスター的存在であった。

禁酒運動を始めたのもこの人で、「田舎の風習をぶち壊してやろう」という考えがキッカケだったそうだが、逆に井口の仕事を壊してしまう結果になったので、それもあって研成義塾の支援に尽力したのかもしれない。

 

 

その相馬愛蔵のもとへ嫁いできた妻 黒光(こっこう)の嫁入り道具 オルガンがここにある。

もとは相馬家で使われていたが、娘が研成義塾に入塾したので、その際に塾へ寄贈された。

 

相馬黒光の女学生時代の写真。15~17歳頃か?)

 

相馬黒光は東京の女学校を卒業後、18歳で嫁いできたが、あまりにも穂高が田舎でヒマすぎたのでノイローゼになってしまい、数年で夫と一緒に東京に戻っている。

たぶん仕事が無いと死んでしまうタイプなのだろう。

 

それで上京して夫婦で始めたパン屋が、新宿中村屋に繋がっていくわけである。

 

 

(Nishikawaの文字が印字されている)

 

んで、ここにあるオルガンは割と貴重なものとされている。

 

国産オルガンの起源は、横浜の西川虎吉が1880年代に製造したものが最初と言われており、その西川オルガンの現存するもので2番目に古い品なんだと。

 

 

貴重なものなので「触らないで」っていう張り紙が付いてたんだが。

館員さんが「最近修理して音もちゃんと出るようになったから、なんなら弾いても良いですよ」とのこと。

 

その名誉に浴しようかとも思ったが、私が弾けるのは「カエルの唄」だけであり、なんか色々侮辱になりそうな気がしたので止めておきました。

 

 

オルガンの横にもう1枚置いてある写真は、相馬愛蔵と黒光の娘 俊子の写真。

先述のとおり研成義塾に通っていたが、そのため英語を話すことが出来、インドから亡命してきた革命家ボースを中村屋が匿ったときには通訳を担っていた。

 

このボースは、日本政府から亡命が認められた後に俊子と結婚するのだが、「日本の(当時の英国製の)ライスカレーはクソ」と言い放って、自らインド製のカレーを作って見せた。

 

 

ただボースのカレーも、余りにもインド仕込み過ぎて、汁気の無い「激辛肉じゃが」になっており、とてもじゃないが日本人が食べれるものでは無かったそうな。

だから相馬黒光や次女らが何とか工夫して、それが今のカレーライスになりましたとさ。

 

 

さて、最後になんだかドデカ聖書がありますね。

グーテンベルク活版印刷を用いた、最初の聖書のレプリカ。 

 

 

活版印刷の登場は1450年頃で、ラテン語で書かれ、1ページ42行に収まっているので「グーテンベルク42行聖書」と呼ばれている。

名前まんまだな。

 

これは世界に22冊しか残っておらず、そのレプリカをなぜか紀伊国屋書店がゲットし、こちらに寄贈されたんだとか。

 

 

ページの装飾がやたら豪華である。

活版印刷で大量に刷れるようになったとはいえ、当初の頃はまだ希少だから金持ち向けだったのだろうか。

 

 

表紙はこんな感じ。

ハリーポッターに出てくる魔術書みたいな、重厚な装丁である。

 

なお既にこの分厚さですが、旧約と新約に分かれて全2巻なので、同じ大きさのものがもう1冊あるというわけです。

印刷したところで、家に持って帰るのも読むのも大変である。

グーテンベルク君、もっと頑張ってクレメンス。

 

以上。

 

※ 参考文献(相馬家関係)

 

 

 

【交通手段】穂高駅から徒歩5分

【入館料】400円

【滞在時間】45分

【混雑度】★(誰も居ない)

【URL】

kigenji.jp