国立ハンセン病資料館
秋津駅・新秋津駅から徒歩15分程度で来れるし、清瀬駅からバスもあるよ。
(公式HPより。展示室は2F)
教育施設と言うことで入場料は無料です。
ただ館内は撮影禁止、患者が写り込んでいる画像も展示されているからとのこと。
納得の理由なのだが、せっかくの教育施設なのだから、そういう写真が無い撮影可能ゾーンを設けて来館者が学習しやすいようにしてもらいたいところである(クレーマー)
(公式HPより)
国立の施設と言うことで、やはりパネル展示多めである。
2007年にリニューアルされているので、館内は綺麗。
古代におけるハンセン病から、現代にいたるまで詳細に説明されております。
全部挙げると大変な量になるので、気になったところをメモメモ。
(公式HPより)
ハンセン病自体は古文書等から、平安時代頃には存在していたとされる。
問題となった隔離政策が始められたのは1907年「癩予防に関スル件」にて法制化されてからのこと。
ハンセン病患者は外見に症状が出るため、集落から忌み嫌われて追い出され、神社仏閣のあたりで野宿しているのが江戸時代までの常であった。
ただ文明開化の明治時代になって、「公の場にハンセン病患者が寝転んでいると、欧米諸国から馬鹿にされる」と危惧され、隔離政策が取られるようになった。
東村山のこの地にも患者の「療養所」が設立され、のちに「多磨全生園」となります。
(公式HPより)
隔離対象は身寄りのない者が対象だったが、1931「癩予防法」が成立すると、全患者が対象に。
「癩は伝染病」という考えは国際会議でも発表されており、人々は感染を恐れ、癩患者がいると疑われた家庭は通報されて、お巡りさんの家宅訪問を受ける。
そうなると一層、周囲の目は厳しくなって、村八分状態である。
酷いところだと、家の中まで入りこまれて消毒液を家の中にガンガンぶち撒かれたり、家の門扉にデカデカと印を書かれたりしたらしい。
患者がいる家庭では、最初のうちは隔離に抵抗したりするが、当然ながら患者自身も家族も耐えきれなくなってきて、療養所に向かうケース。
(愛媛県庁HPより。お召列車の画像)
患者は療養所に送られるが、電車で移動する際は車両が1つまるまる貸し切りにされた。
伝染をふせぐためである。
「お召列車」などと皮肉られて呼ばれていた。
(公式HPより)
分かりづらい画像だが、多磨全生園では高さ3mにまで達するヒイラギの垣根が植えられていたというものである。
もちろん患者の脱走を防ぐためであるし、療養所の外から中が見えないようにするため。
(公式HPより。園で使われていた消防服)
園内では医師も看護師も足りておらず、患者自らが他の重症患者の看護をすることになっていた。
また園内で火事が起こっても、消防団は隔離施設なんぞに来てくれやしないから、これも患者たちで行うしかなかった。
なので消防服や機具が展示されております。
(公式HPより)
映写機もあった、かなり性能の良いやつらしい。
映画は園内でのごくわずかな娯楽だから、せめてそこには金を投じて貰えたのかもしれない。
なにしろ、一度入ったら一生出られないのである。
(資料館入り口にある、お遍路の像)
患者たちは治るためならどんな薬でも神仏にもすがったそうな。
隔離される前であれば、四国のお遍路。
「あの人は(患者)お遍路に出た」と言えば、もとの集落に罹患したことはバレない。
またお遍路であれば、道中の寺院などで何か恵んでもらえる可能性もある。
(Wikipediaより)
サイの角を粉末にして飲むと効く、なんて話も広まった。
必至にそれを求める患者に対して、悪い連中(特に寺院)が水牛の角を高額で売ったりしていたらしい。
(愛媛県庁HPより)
さらに「大風子油(だいふうしゆ)」という、木の種を絞った油が効くとされた。
これを患部に注射するのだが、油を体内に突き込むということでメチャメチャ痛い上に、なかなか体に浸透せず化膿しまくるらしい。
1947年に特効薬プロミンが輸入されるまでは、こんなどうしようもない手段に頼るしかなかった。
そしてあらゆる手段を試してダメで絶望した患者たちに対して、行政や周囲の人間は「ゆっくり治療しなよ」と解決策のように療養所のチラシを持ってきて、入所=隔離を薦めるのであった。
(公式HPより。施設の再現)
館内には、入所者が居住していた住居棟の再現があります。
ぱっと見ると広そうに思えるが、12畳に8人で住んでいたらしい。
そりゃ狭いよ。
患者同士であれば結婚も出来たので、園内にも夫婦はいた。
問題なのは夜である。
男性が女性を訪ねるという風習になっていたのだが、女性の居住棟も大部屋であり、夫婦が複数あれば、そのぶん夫が何人も訪ねてきて、狭い部屋に人があふれかえってしまう。
夫婦それぞれの間は、ちゃぶ台を倒して衝立代わりにした。
その状況で夜のアレコレをするのだが、する方もしない方も嫌な環境である。
漫喫ってレベルじゃねーぞ。
(重監房資料館ホームページより)
園内での厳しい生活に、脱走や犯行を企てる入所者も居たが、捕まると当然に折檻である。
重犯罪者は、草津にある重監房に送られた。
コンクリート製の、狭くて明りの無い独房である。
暗闇にずっと置かれると人間発狂するというが、まさにそれ。
そして草津の冬は氷点下20度とか行ったりするけど、暖房設備なぞ備わっていない。
だから計22人の患者が、ここで死亡している。
(公式HPより)
あとは
・園内で患者同士の結婚は可能だが、子供が生まれると問題なので(ハンセン病患者が増えるから)、断種手術を行うことが前提とされた。断種が間に合わず生まれてしまった子供は、運が良ければ親戚に引き取ってもらえたが、引き取られた直後にその親戚によって殺されたり、引き取り手が見つかる前に死去した子供が大勢いた。
・園内に、ホルマリン漬けの胎児が大量に保管されていた。研究対象にするにしても、保管していた意味や経緯は不明。
・園内では病気が回復せず絶望する者が多く、自殺者が多数。体に穴をあけて毒素を出す、という迷信もあり、もともと栄養失調状態だからそのまま死んでしまったり。
もうやめて!
観覧者のライフはゼロよ!
(wikiから。光田健輔)
1947年には特効薬プロミンが輸入されて完治する患者も出てきており、国際的にも「ハンセン病患者の社会復帰をどうするか」が議論されていた。
しかし日本では1953年「らい予防法」が改正制定、強制隔離政策が続けられることとなる。
戦前から隔離政策を主導してきた医師 光田らの主張に加え、厚生省や政府側も隔離継続を前提とした「救らい政策」を考案。
この法改正には多磨全生園の患者らは怒り、外出禁止規則を破って霞が関まで飛び込んで反対運動を展開したが、聞き入れられることは無かった。
そんなんで時代遅れの隔離・断種は1996年に らい予防法と優生保護法が廃止されるまで続き、日本史上最大の人権侵害となったのであった。
以上であらまし、おしまい。
(wikiより)
あと館内にパチンコが置いてあって「?」ってなったんだが、指が動かなくなった患者のリハビリとして、パチンコを利用しているらしい。
それ別の病気になったりしませんかね。
あと、この資料館、入館するとパンフレットやチラシたくさん貰えるのよね。
こんなにあるよ、8種類も!
大盤振る舞いすぎて持ち帰るのが大変だから、もうちょっと絞ってもらっても良いのよ?
以上。
※ 参考文献
【滞在時間】2時間
【混雑度】★★★(ちらほら)
【入館料】無料
【URL】