岩槻遷喬館と時の鐘
岩槻遷喬館というのは、岩槻藩の藩校です。
岩槻駅から徒歩10分くらい。
入場料は無料。
1799年に児玉南阿が私塾を開き、その数年後に藩校として扱われるようになった。
児玉南阿という人は、まぁ間違いなく歴史の教科書には出てこないが、岩槻藩の役人として要職を歴任。
「岩槻に過ぎたるものが2つあり 児玉南阿と時の鐘」と、岩槻2大名物あつかいされている。
だが43歳の時に部下がやらかしたそうで、その責任を取って辞職。
学者・教師として活動するようになる。
官僚の天下りみたいである。
ところで「遷喬」というのは、詩経の中にある「喬木(きょうぼく)に遷(のぼ)る」という言葉が元ネタ。
「鳥が高い木(=喬木)に飛び移る」という意味で、少年よジャンプせよ、ということである。
入口側にある床の間のある部屋は、先生の控室。
なんだかとても真新しい内装だが、2006年に復元工事を完了させたためであろう。
児玉南阿の自画像が飾られている。
この自画像から本人を割り当てる方が難しそうですが。
教場は24畳の広さ。
藩士は6歳でここに入学し、20歳くらいで卒業したそうな。
成績優秀者は江戸への留学費用を出してもらえたり、藩の要職に抜擢されたりした。
当時使われていたとされる書物。
四書五経など中国の古典が多い。
一番奥は納屋になっている。
なんだか新しいので、クローゼットにみえますね。
(1956年修理の写真)
明治時代になると廃校となり、一般の住居として使われていたらしい。
岩槻藩の士族あたりが、ここを買い取ったのだろうか。
1956年になると持ち主から岩槻市(現さいたま市)に寄付されたのだが、長年使われて無かったようで、倒壊寸前レベルまでボロボロだったらしい。
家主の戦犯っぷりが疑われるが、戦後なので仕方ないか。
てなわけで1956年に改修をして一般公開をはじめたが、50年経てばまた家屋はボロくなってくるので、2004-2006年に全面的なリフォームをして、こうなりました。
おかげでとても綺麗になったよ、江戸時代の藩校だと思えないくらいに(本末転倒)。
この全面改修のときに、江戸当時の姿に復元されたので、許してクレメンス。
遷喬館おしまい。
遷喬館から東に5分ほど歩いたところに、「時の鐘」なるものがあるというので行ってみた。
児玉南阿とならぶ、岩槻2大名物である。
まぁどっちも誰も知らな(略)
時の鐘と言えば川越のガッカリスポットだが、岩槻では1671年に、領民に時刻を知ってもらう目的で藩主が築造させたものである。
「時刻を知ってもらう」というのは、時間通りにテキパキ動けという啓蒙効果なんですかね。
そういう意味であれば、時の鐘みたいなスポットは全国にありそう。
現存しているものは少ないでしょうが。
時の鐘の裏に回ってみました。
扉があるが、しまっている。
この中に階段があって、鐘楼に上がれるようになっている。
今では6時・12時・18時と、1日3回鳴らされているそうな。
いちいち誰かが登って撞いているとは思えないので、機械でやっているのだろう。
鐘撞きガチ勢は残念ながら鳴らせませんので悪しからず。
以上
【交通手段】岩槻駅から徒歩10分~15分
【入場料】無料
【滞在時間】2つ合わせて30分
【混雑度】★(誰もいない)
【URL】