桐生明治館
桐生明治館は、桐生市の相生にある明治時代の洋館です。
相老駅から徒歩10分程度。
地名は「相生」なのだが、駅名は「相老」 。
しかしこの辺の東武線は1時間に2本しかないのに、うち片方が特急と来てる。
早くて便利で快適な、東武特急をご利用ください(棒)
課金は500円~となっております。
入場料は150円です。
ロマンあふれる外観であるが、周囲に建物が無いので突然ポツンと現れる感じ。
この建物は1878年に、群馬県の衛生所および医学校として建築された。
というわけで、門には両方の名称が書かれております。
庭にはさざれ石。
桐生関係ないけど、どうしてコレ置こうと思ったの?
入館して1Fの展示室から回ります。
(1878年 設立当初の写真)
この部屋では明治館の経歴を扱っています、篠原涼子ネタはこれだけですので、それ目当てに来ないように(戒め)
明治館は先述の通り、群馬県の衛生所&医学校として創建された。
場所は県庁がある前橋。
この時代は外国船の往来・人口の都市への流入などで伝染病が問題となっており、その対策として、西洋医学の導入が図られていた。
(当時の文書。ボロボロすぎて読めませんが・・)
1878年に始まったはいいが、なんと半年後には衛生所が廃止されている。
早すぎやしませんかね。
医学校の方も、経費が掛かる割に受講生が集まらず採算性が悪いということで、こちらも1881年に閉校された。
わずか寿命3年。いったいどういう計画でこの施設をつくったのか、責任者への尋問不可避。
(相生に移築されたあとの明治館。1980年代頃?)
そのあとは群馬県女学校、小学校、物産陳列館に県農会など使用主体が転々と変わっていく。
女学校も4年程度で潰れているので、計画性の無さが光る。
1927年になると、相生村が役場としてこの建物を欲しくなった。
それで前橋から移築してきて、現在の場所にやってきたのである。
(相生村議会の当時の文書)
当時の相生村議会の文書が残っているのだが、それによると、建物の移築については全会一致で賛同されたらしい。
しかし移築の工事費を予算計上するのを忘れ、あとでバタバタと追加することとなった。
移築決定をしておいて費用計上しないとは、まるで買い物に出かけて財布を忘れたサザエさんである。
この建物、ろくな計画や人々に出会えてないですね(呆れ)
次の展示室。
ここからは過去の品を置いていて、あまり説明はない。
椅子には普通に座れます。
相生村が桐生市に合併された後も、この建物は市の出張所として機能していた。
ただ1980年代になるとさすがにガタがきたのか、1984-1986まで修理工事がなされ、そのあと明治館として開館するに至った。
おめでとうございます。
人力車と自転車。
自転車はウルトラ初期のものであり、刀鍛冶や鉄砲鍛冶が製造していたらしい。
応用できる技術があったんですかね。
しかしこれ漕ぐの難易度たかいなぁ。
蓄音機と棚。
棚には植物の名前が振られている。
読めない。
ピアノ。
隣の部屋。
ここにもピアノ。
なんでこんなにたくさん置いているのかは分からないが、たぶん余ってたんだろう(適当)
明治以降、日本の主要な輸出品は生糸だったが、桐生は絹織物の産地であり、富裕な商家や農家がいたと思われるので、そういう人々が舶来品としてのピアノを買って叩いて「文明開化の音がする」ってハシャいでいたのかもしれない。
2Fへ。
館内は1980年代の修理で取り換えられているものもあり、この階段はとっかえ品だそうです(明治当時のものではない)
2Fのバルコニー。
一見すると良い感じなんですけどね、ところどころ床板がグラついていて恐怖感がするわけです。
数人が一か所でジャンプしたら間違いなく床抜ける。
手すりにはこんな模様。
会議室だそうだ。
奥にも部屋がありますが、これといった展示品は無し。
時計はなぜか3時で止まっている。
電池かえてあげなよ(憐憫)
貴賓室。
建物の中央にあり、内装も他とは違うのだよってなってますね。
大正天皇および昭和天皇がこの建物を訪問したことがあるそうで、両天皇ともに奥の赤いイスに座られたそうだ。
格式高いイスですので、一般の来訪者は座るどころか、この部屋の中に立ち入ることすら禁止されています。
手前には机があるんだけど、これ漆塗で貴重な品らしい。
椅子に見とれて足元うっかりしていると、普通に蹴り飛ばしそうになるので気を付けよう。
というか、蹴るようなところに置かないでクレメンス。
あとこの部屋の説明版、天皇来訪のことが書かれているんだけど、桐生に来ることを「ご来桐」って言っている。
そんな表現あるのか?
果たして篠原涼子は知っているのだろうか(反語)
この部屋は企画展示室です。
何年か前だったか『花燃ゆ』という大河ドラマを放映しており、その舞台として群馬が登場していたらしい。
ぜんぜん知らんかった。
ドラマが大爆死したことは知っていたが。
最後の部屋は、また資料室。
この明治館の創設をした、楫取素彦という人について。
楫取素彦(1829-1912)は長州藩の出身で、嫁は吉田松陰の妹だそうな。
1876年から初代群馬県令に就任している。
この人は保健衛生や教育の重要性を早くから認識しており、様々な学校の創設に関与する。
明治館のもととなる衛生所・医学校を設立したのもこの人。
まぁ前述の通り、その衛生所は設立から半年で、医学校は3年で廃止されてしまってますがね。
(設立した学校に揮毫したりしてます)
女子教育にも注力したので、群馬県女学校を設立。
これまた4年で廃校。
(前橋にある迎賓館 臨江閣)
群馬県の県庁を決定したのも、この楫取。
高崎と前橋のどっちかだったが、楫取の判断で前橋に移した。
なお今では高崎には新幹線が通って県内ぶっちぎりの最大都市となり、前橋についてはお察しください。
駅前とかみると一目瞭然である。
(楫取が編纂を部下にやらせた「修身説約」)
あれ、もしかして楫取クンって、実はダメな人?
理念は立派な気がするが、事業の計画性とか先見の明とか、感じませんな(直球)
道徳の教科書として「修身説約」っていう本を部下に編纂させて売り出したら、なんだか「学問ノススメ」ばりに流行したって、説明展示に書いてある。
そんな本聞いたこと無いけど、本当なのかしら(疑)
あと縮緬機業会社という企業の開業式に立ち会って「この会社の発展が永遠に続くことを願う」って祝辞を述べているんだけど。
その会社、開業した翌年に業績不振で営業停止している。
というわけで、跡地には何も残っていません。
楫取くん、”持ってない”ですねぇ。
というか楫取氏を特集しているようで割とディスっているこの展示たち。
どういうことなのかしら明治館。
展示室みおわったので、階段を下りて出口へ向かいます。
しかしこの階段、急斜面すぎである。
だから手すりを触りたいのだが、手すりの方に行くほど幅が狭くなっており、うかつに近づけない仕様となっております。
「絶対に手すり触らせないマン」が建築したのだろうか。
なおこの階段は、明治当初のものだそうです。
出口の辺りにこんなの置いてあった。
要は「美しいものには、おまえら触れてくれるな」ということであろう。
退館する来場者を最後にさりげなくディスっていくスタイル、強い(確信)
以上。
【交通手段】相老駅から徒歩10分
【入館料】150円
【混雑度】★(だれもいない)
【滞在時間】45分
【URL】