神奈川Cスポ探索日記

C級スポット探索日記

旅行&学習ブログです。記事はたまにリバイスしてます。地域別カテゴリは最下段から。

二戸市埋蔵文化財センター

 

二戸市埋蔵文化財センターです。

この建物の3Fにあります。

役所だなぁ。

 

 

3Fの受付で入場料払う。

50円。

すごい安いけど、それ入場料とってる意味あるんですかねと、逆に心配になってしまう。

 

 

あとこの建物は、総合福祉センターという施設が1Fに入居している。

福祉センターは役所のようなので、入館した瞬間「あれ、間違えて市役所に来ちゃった?」と不安になる可能性が大レ存。

 

 

 

展示室はこちら。

 

 

新刊発売したらしいけど、この広告の手づくり加減よ。

ちょっと涙ちょちょ切れそう(予算的な意味で)

 

 

展示室しょっぱな。

断面ひっぺ返してきたやつだろうか。

 

 

このすぐ近くに九戸城という城跡があるのだが、その土塁や堀跡の地層。

これを調べることで、城として整備された年代を特定できるそうな。

 

城の地層の断面図は初めて見た。

貝塚ではよくあるけども。

 

 

九戸城の模型。

ここは戦国時代、九戸氏という南部氏の一族が支配していた。

 

その九戸氏、本家である南部氏と仲たがいして戦争状態に。

時代は1590年代、もう豊臣秀吉が小田原を制圧して天下統一ラスト段階である。

 

(九戸城跡の空撮図)

 

秀吉は、残すところである東北方面へ進出。

「従わないものはぶった切る」の武士道精神で、抵抗勢力をボッコボコに。

南部氏は秀吉に臣下の礼を既に取っていたが、南部と闘争中の九戸氏は秀吉に服従せず、この九戸城にて大バトル展開となる。

 

 

九戸城は自然の要害に守られた、強固な城であった。

城に直接つながる道は一か所しかない。

 

 

西方面には川。

 

 

あとは崖とかなので、攻め込むにはかなりの労苦である。

 

とはいえ籠城戦である。

しかも九戸軍5千弱に対して、豊臣+南部軍は6万以上。

諸葛孔明でも居ないと無理じゃないですかね。

ちなみに秀吉、この戦争は部下である豊臣秀次蒲生氏郷らに任せていたので、本人はこんな陸奥地方くんだりまで来ておりません。寒いし。

 

 

 

川がある西方以外は、囲まれてしまった九戸城。

これはもう勝ち目無いですね。

 

肝心の戦闘内容については諸説ある。

豊臣方の文書では、「九戸なんざ速攻でぶっ飛ばしてやりましたよ」と記録してあるのだが、南部方の文書ではかなりの徹底抗戦をして膠着状態にまで持ち込んだとされている。

お互いナショナリズム全開過ぎて、後世の者は何を信じればいいんでしょうか(困惑)

 

(映像でも見ることが出来ます)

 

豊臣方の記録が実話だとするとあまり面白みが無いので、南部方の記録について。

 

わずかの兵で6万の包囲軍に抵抗していた九戸勢。

深手を負いたくない豊臣側は、降伏の交渉を九戸側に打診。

これに九戸の棟梁である九戸政実が同意して豊臣陣営にむかったのだが、豊臣側は九戸勢を捕えて罪人として処刑した。

 

降伏した相手を、名誉のため切腹させてあげるならともかく、罪人として処刑するとはだまし討ちである。

汚い、さすが豊臣きたない。

 

 

棟梁である九戸政実が降伏する一方で、九戸城内ではその弟である九戸実親が抵抗を続けていたため、豊臣軍は城に四方から火を点けて、残る人間を片っ端から始末しましたとさ。

こうして世に言う「九戸政実の乱」は終結し、東北も豊臣の手中に収まったのだった。

 

というわけでボロボロにされてしまったため、発掘物も割れております(迫真)

 

 

その他、発掘されたもの。

 

 

二枚貝でつくったパレット。

 

 

火縄銃はオモチャですが、射撃しているところをインスタに載せてどうぞ。

 

 

サイコロ。

これは四戸城跡からみつかったもの。

 

右側のは角が丸っこくなっているが、これは特定の目がでるようにするイカサマが仕掛けられているらしい。

456サイ!

 

 

行政お馴染みのパネル展示。

 

 

これは南部本家があった、三戸城の跡。

なお九戸城と比べると、こちらは貧弱だそうであり、また南部家領土のうち北方に寄り過ぎているので、さきほどの九戸政実の乱のあとは九戸城に一時期引っ越している。

 

 

更にそのあと1615年からは盛岡に移っており、明治維新まで盛岡藩の政庁となる。

というわけで盛岡は発展したと思われるが、もし南部家が移転していなければ二戸が東北の中心になっていた可能性が微レ存。

 

 

現代の盛岡城跡。

さすがに周囲の発展のレベルが違いますね。

さっきの九戸城の写真と比べるのは止めてあげましょう。

 

 

さっきから九戸とか三戸とか出てるけど、「○○戸」という地名はこうなっています。

一戸~九戸まであり、さらに南門・東門のように東西南北があるのだ。

 

この地域は糠部(ぬかのぶ)といい、地域内を1~9までの区画に区切り、4辺あまった箇所に東西南北の名を当てはめた。

「戸」というのは牧場の意味であるとされている。

名馬の産地として有名なんですね。

 

 

ほかにも資料があったようですが、みんな誰かに貸してしまいました。

 

 

この辺は九戸政実の乱 関係の資料ゾーン。

 

そういえば九戸城はこの近辺、つまり二戸にある。

地名としての九戸は、二戸より東側にあります。

九戸氏が二戸に進出して築いた城なので、二戸城ではなく九戸城と呼ばれている。

 

 

九戸と対立していた南部本家は、早い段階でさっさと秀吉に臣下の礼を取っていましたとさ。

秀吉に直接言うのは怖いから、なんか優しそうな前田利家を通じて、豊臣側とやりとりをしている。

 

 

さて次の部屋は?

 

 

いきなり縄文土器が出てきた。

たしかに、埋文センターってそういうところでしたね。

戦国時代から古代にタイムワープである。

 

 

深鉢だが、煮炊き用ではなくて、子供の棺用である。

大人は大人で墓地があるのだが、子供はそちらではなく別の墓地に葬られていたそうな。

 

 

人骨が出てきたが、ここに7人の男女が葬られている。

同時期に死んだものと思われ、外傷が無いことから、食中毒か伝染病ではないかと推測されている。

毒キノコにあたって死ぬ例も珍しくないそうな。

 

 

展示室を一周して最後の部屋。

弥生・古墳時代でフィニッシュである。

それ以降の時代?きっと何も発掘されてないのでしょう(雑)

 

 

クマ型の土偶

ブタかと思った。

 

 

 

蕨手刀という副葬品。

柄が丸くなっているところが、蕨っぽいから名付けられている。

古代の東日本で流行ったもの。

 

ということでした。

 

 

 

ところでこの地方は「○○戸」という地名が多いうえ、南部家自体が複雑な系図をしおっているので、事前知識なしだとかなりキツイ。

私はこの小説を読んでました。

 

以上。

 

【交通手段】二戸駅から徒歩15分

【入館料】50円

【混雑度】★(誰もいない)

【滞在時間】60分

【URL】二戸市埋蔵文化財センター