二戸市埋蔵文化財センター
二戸に拠点を構えていた九戸政実(くのへ まさざね)という武将が居まして、戦国末期の1591年に豊臣秀吉相手に喧嘩を売ったのです。
豊臣軍6万に対し九戸軍わずか5千という圧倒的不利にもかかわらず、奇計の連発で敵軍を混乱に陥れボコボコにしたんですが、和睦を持ちかけてきた豊臣側の誘いにのって交渉場所に向かったところ騙し討ちされて最期を迎えた。「九戸政実の乱」と言われるものです。
強大な豊臣政権に対して地方の一武将が反抗し華々しく戦った歴史ロマンの土地なのだ。その資料館が二戸市の埋蔵文化財センターにあります。
資料館は建物の3Fにあります。入場料は50円。
1Fは総合福祉センターとなっており、玄関をくぐると病院受付のような内装が広がっているので「あれ、来る場所間違えた?」と一瞬困惑することになります。
入館すると目の前には地層が。
九戸政実が籠った九戸城はこの近くにあるのですが、そこからひっぺ替えしてきたようです。そんな豪快なことできるんか。さすが秀吉にあらがっただけある。
地層を調べると、城の築城年代が分かるそうです。15世紀末だそうな。
九戸城の模型でござる。周囲は崖や河川に囲まれており、城へ入れる道は南方の一か所のみ。東北地方でもかなりの防御力を誇ると。
豊臣側は城を包囲するもなかなか攻め崩せず、それで和平に見せかけた騙し討ちをしたとのことです。蒲生氏郷や浅野長政・井伊直政などなかなかの攻め手メンバーを相手に少数で立ち回った九戸軍。
格好いいですね。私も信長の野望で同じことやろうとしたんだけれど、あのゲームだと九戸政実の能力がかなり低評価されているので毎度ボコボコに負けるのであった。
(南部氏支配地マップ)
ところで九戸氏は、岩手~青森を支配した南部氏の支族なんですね。14世紀に山梨県から南部氏が入植し、そこから枝分かれしていったと。
乱のキッカケは三戸南部氏vs九戸南部氏の対立であるとされていて、ほかに一戸氏・四戸氏・七戸氏・八戸氏もいる。おおすぎ。戦隊モノか。
(三戸南部氏が豊臣側からもらった提携文書)
九戸と対立していた三戸氏は、秀吉の天下統一を察知していちはやく豊臣側に臣下の礼を取っているのだ。だから三戸氏feat.豊臣vs九戸になるのです。
ちなみに三戸氏は秀吉への取次ぎを前田利家に依頼している。秀吉に直接お願いするのは怖いから、優しそうな利家にお願いしたのだろうか。
九戸が敗れたあとの話ですが、地位を保てた三戸氏が九戸城に入りました。彼らはもともと三戸城に居たんだけれど、九戸城と比べると貧弱なうえ南部領全体として考えると北方に寄り過ぎていたのだ。
1615年からは盛岡に移ったので、同市は発展して今日に至っているのです。ということは、三戸南部氏が九戸城に留まったままだったら盛岡では無くて二戸市が大都市になっていた可能性が・・無いか。二戸は山と川だから町にならなさそうです。
ぜんぜん関係ないですが、四戸城から見つかったサイコロです。
右側のサイコロ、角が取れてすこし丸っこいの分かるでしょうか。これは特定の目がでるようにするイカサマなんだとか。
こんな時代から456サイがあったのか。ギャンブルの闇は深い。
と言う感じで、九戸政実の乱の概要や資料についてみることができます。初見で来てしまった場合は、慣れない地名や南部氏の系図の複雑さで爆死する恐れがありますので、館内のビデオで予習しましょう。
あとは高橋克彦先生の小説がドラマ感あふれていておススメです。
(縄文時代の人骨)
一番最後に、戦国時代以外の歴史コーナーがまとめて置かれております。完全に添え物扱いである。
しかし縄文時代の人骨まんま展示されてるのは驚きますね。7人の男女の遺骨がこの中に含まれているそうです。死亡時期は同じとされ、食中毒か何かで一斉にやられてしまったとのこと。
楽しい食事中に一家全員、命を絶たれてしまったのだろうか。九戸軍よりもこちらの方が悲しい内容であり、退館時の見学客の頭から九戸軍5000人のことは頭から抜けていくのであった。歴史の伝承は難しい(なわけない)
おしまい
【交通手段】二戸駅から徒歩15分
【入館料】50円
【混雑度】★(誰もいない)
【滞在時間】60分
【URL】二戸市埋蔵文化財センター