C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

弘道館

 

水戸の弘道館です。

水戸藩の藩校として1841年に開館した。

 

 

正面にあるのは正門で、開館当時から存続しているもの。

藩主の来館や儀式の時だけ開門していたので、一般客なんぞには開けてもらえません。

 

 

 

普通のお客様は右手の門からご入場ください。

ここで200円課金されて、場内へ。

 

 

弘道館は、水戸藩9代目藩主である徳川斉昭が建造させたもの。

当時の水戸藩は御多分に漏れず財政が残念な状況であったが、学問を重視していた徳川斉昭により、反対の声を押し切って設立。

 

なので開館した1841年時点ではまだ工事が終わっておらず、敷地内にある孔子廟孔子様が居ない有様であり、完成しての本開館は1857年まで伸びた。

 

 

メインである正庁。

これまた開館当時から存在する。

この裏には至善堂という建物もあり、正門・正庁・至善堂の3つが生き残りトリオ。

 

他の建造物は第二次大戦の空襲で焼けたのかと思いきや、水戸藩は幕末に内部分裂起こして弘道館で戦闘しているため、そのときに焼け落ちたのであった。

 

 

正庁前には見事な桜がありますが、季節がら散ってますね(当然)

 

 

満開時はこうなるそうです。

冬が一番さびしいときである。

 

そのせいで、どこででも出現する中国人観光客すらいません。

平日だったってこともあるが、それでも一人も見かけないのは驚きであり、逆に水戸が心配になるくらいである。

 

 

では正庁の中へ、いざ。

 

 

と思ったら、入り口はこっちの小さい方だった。

正面玄関は大名用なので、一般人は使ってくれるなと言うことですね。

 

 

廊下は板間なので、冬だと寒さがダイレクトで来て、凍えて死にそうになる筆者。

 

 

内側から正面玄関を通して外を見た図。

 

 

端っこには徳川斉昭(右)と、徳川慶喜(左)の像。

 

これは別に徳川斉昭の身長が2mあったとかではなくて、徳川斉昭慶喜の父親だからである。

斉昭の7男として生まれ、水戸で育ってこの弘道館でも学んでおり、10歳の時に一橋家に入って相続。

 

 

東日本大震災時の玄関。

どうみても田舎によくある廃屋状態だが、ここから持ち直しました。

 

 

おそらく「弘道館」と書いてあるのかもしれないが、削れて全く読めない。

「吉野屋」って書かれててもきっと分からないだろう。

 

 

玄関の真ん前にあるのは「諸役会所」で、来館者控えの間。

 

 

水戸藩らしく「尊王攘夷」宣言を全面に打ち出した書。

1856年に徳川斉昭が書かせたもの。

本当に攘夷したくて仕方ない感を醸し出す筆圧である。

 

 

次は正席の間。

ここに藩主が出座して、いろいろの儀式を執り行った。

 

 

藩主の間なので袋棚も金ピカになってますが、水戸藩の財政事情からするとこれ以上の金ピカ化は難しかった可能性(憐憫)。

とくに徳川斉昭は質素倹約がんがんやるマンで、城下も結構ボロボロであり、当時の旅行者が「水戸の連中は壊れた家も直さない」と呆れかえった記録もあるそうな。

 

 

というわけで、精一杯がんばってみました天袋。

これが水戸藩最後のゴールドであった(大嘘)。

 

 

床の間に掛かっている掛け軸は『弘道館記』を写したもので、弘道館開館にあたって水戸藩の気合っぷりを宣言している。

水戸学のブレーン藤田東湖が起案し、徳川斉昭の名で発表された。

 

 

 

水戸学は水戸藩2代目徳川光圀(黄門様)の時代から水戸藩内で続いてきた思想だが、18世紀末頃から藤田幽谷という人物が「武家天皇を奉じ、君臣の立ち位置を徹底することで世の太平が守られてきた」とブチ上げ。

 

その息子である藤田東湖は「君臣共に忠愛の誠を持ち、それぞれが職務を遂行すれば南蛮毛唐などイチコロである」みたいなことを言い出し、忠臣meets天皇制with納豆というのかどうかは知らないが、こういう思想に吉田松陰あたりがドはまりして諸国に水戸学が広まったそうな。

 

 

柱からぶらーんと何か出ている。

 

 

スイッチだった。

これを押すと、その部屋の説明音声が流れ始める。

変わってるなぁ。

 

 

すぐ外は「対試場(たいしじょう)」という武術の試験場であり、正席の間から試験風景を見ることが出来る。

藩主に見られてプレッシャーやばそう。

 

 

対試場側から正席の間を見ると、この額。

論語から取られた言葉だそうで、「堅苦しく学問武芸をするんじゃなくて楽しみながらやれ」の意。

ふむ、内部対立ばかりで衰退していった当時の水戸藩の人間に教えてあげたいですな(ゲス顔)

 

 

廊下を通って奥へ。

 

 

ここはトイレ&風呂。

 

 

トイレの手洗い場。

水を汲んだ桶が置いてあって、この流し場で手を洗う。

 

 

 

小便器。

畳に飛び散ったらやばそう。

 

 

風呂はこちら。

風呂桶はありませんが。

ずいぶんと広いスペースである。

 

 

さらに奥へ。

至善堂(しぜんどう)という建物に繋がります。

 

 

藩主の休息所として使われており、また徳川慶喜が幼少期においてはここで学び、幕府が倒れた後はこの建物に4か月間謹慎していた。(その後、静岡へ移って謹慎)

 

君もこの部屋でゴロゴロして、慶喜の悲しい気持ちを味わおう!(迷惑行為)

 

 

というわけで慶喜肖像画が飾られています。

あまり頭良さそうじゃないね(暴言)

 

 

一緒に置いてあるのは、徳川斉昭の歌碑の写し。

古来から伝わる大和の道はつづくよどこまでも、を詠ったもの。

 

 

慶喜が謹慎中に使っていた長持ち。

 

 

葵の紋も入って立派。

この中に着替えや道具やシャンプーにリンスを入れていたのだろう。

 

 

ここでは農人形なるものの説明が置いてあった。

徳川斉昭は自ら小さな農人形を作り、食事のたびにそれを傍らにおいて、最初の一箸をその人形に捧げてから食事を始めたという。

 

 

しかしここに置いてあるのは「小さな農人形」ではなく、でっかいオッサンの木彫りである。

どうした農人形。

 

 

入口の方へ戻る廊下。

 

 

瓦が置いてあるよ。

昭和期に修理した際にはみ出したものだろう。

 

 

なんと瓦にハート形がつけられている。

激しい性格から“烈公”と呼ばれていたのに徳川斉昭、実は乙女ですねぇ。

 

という話ではなく、これは「猪目(いのめ)」といって、魔除け・火災除けの護符として日本の建造物によく見られるらしい。

 

 

この辺の暗いゾーンは企画展であり、このときは徳川慶喜グッズであった。

 

 

またまた肖像画

 

 

さっき見た肖像画の下絵。

やっぱり頭悪そう。

 

この肖像画は1970年代頃に書かれた、わりと最近のものらしい。

下絵を見ると、絵師が梅の枝をなんども書き直した跡があるそうだ。

書き直すところ、そこかい。

 

 

これは慶喜の幼少期について、お付きのものが残した記録。

階段の前をハシャいで飛び跳ねてたら転んで腰を強打した、など慶喜本人にとって全く嬉しくないエピソードなども載せられている。

 

 

この絵画は慶喜が描いたもの。

静岡に移って謹慎が溶けた後の慶喜は、外部との接触を極力避けてこうした趣味の世界に没頭していたのだと。

 

カメラもやってたが、某トリビアな番組で写真評論家に慶喜が撮影した写真を見せたところ、ボロクソに評価されたという回があった。

 

 

そして申し訳程度に登場する水戸黄門

水戸藩徳川御三家と称されつつ、初代水戸藩主のころは紀州尾張と比べて官位や石高が圧倒的に弱いなど扱いが雑であったが、2代目藩主である光圀のときに相当ブイブイやったので、ドラマ通りに水戸のヒーローであった。

 

 

入口に戻ってきた。

最後にもう一部屋、小さな資料室があるのだが、こちらは撮影禁止。

弘道館から発掘された昔の道具とか飾ってあった。

 

 

んでこんなアニメが放映されてた。

まぁここじゃなくても、YouTubeで見れるけどね。

 

 

以上。

 

 

【交通手段】水戸駅から徒歩15分

【入場料】200円

【混雑度】★★★(ちらほら)

【滞在時間】60分

【URL】

www.koen.pref.ibaraki.jp