C級スポット探索日記

C級スポット探索日記

各地の資料館・博物館・珍スポを回り倒すのが趣味です。転勤族(神奈川→埼玉→長野)

千葉市立郷土博物館

 

千葉市立郷土博物館は、城の形をしている。

モノレールの県庁前駅が一番近いけど、モノレールは高い上に本数が少ないので、金銭&時間節約勢は千葉中央駅や千葉駅から15分ほどかけて歩いてきましょう。

 

 

この場所は、平安末期~戦国時代に千葉氏が築城した亥鼻(いのはな)城跡だとされている。

ただ廃城は1516年とされており、そんな時代に千葉に天守閣などあるわけがないので、あくまで外観は「ぼくのかんがえたさいきょうの城」となっております。

 

 

 

入場口はこちら。

無料です。

 

 

プラネタリウムなんぞ城内でやっていたらしい。

城主の命令かな?

 

ただ平成19年終了って、もう10年以上前なんですが、いまだにこれを周知する必要がありますかね。

 

 

1Fは企画展。

 

 

城を見て戦国気分になっていたところ、あっさり古代に引きずり戻される。

 

 

千葉寺地域にある遺跡を掘った結果がこれだよ。

土器がいくらか展示されているが、縄文時代はなくて、弥生時代以降である。

 

 

飛鳥時代には五幾七道という、道路が全国的に整備されたそうな。

千葉では千葉寺付近にあったとされる河曲(かわわ)駅を拠点に、下総方面や常陸方面に道路が伸びている。

 

ということで、西の方から偉い人とかお高い品もやってきて、地域は発展したと考えられている。

 

 

しかし805年になると、常陸方面への道路は下総国府(市川の国府台)から伸びるようになり、河曲駅は通らなくなってしまった。

常陸まで行くのに、市川→千葉寺まで南下するのって無駄では」と当時の官人がようやく気づいたようである。

気づくの、300年くらい遅いかな?

 

 

 

というわけで道路が無くなってしまった千葉寺からはどんどん人が減っていき、そして誰も居なくなった(完)

とはいえ愛知県猿投産の高級陶器が見つかるなど、物流拠点としてはそれなりに爪痕を残している。

 

 

2Fへ。

ここも企画展。

絵巻物とかいっぱいあったが、撮影ダメだったので、写真無し。

 

 

寒川神社の「御浜下り」という神事で使われていた神輿。

 

 

御浜下りは12世紀から始まっているそうで、この神輿を担いで海に突撃する。

神様に海へ入ってもらうことで、その年の漁が豊かになることを祈るもの。

千葉の人たちは漁業中心だったんですねえ。

 

 

頭には鳥がついている。

鳥頭。

 

海に入る時期は8月。

各地域の変な祭りを見かけてきた身からすると、「どうせ真冬に海はいるんでしょ」と推測しがちなのだが、千葉の祭りは氏子の健康に優しいものでした。

 

 

3Fの常設展にのぼりますか。

その前に、階段横になにか置いてあるぞ。

 

 

渾天儀という、江戸時代の天体観測機器。

実際に当時使用されていたものとしては唯一の物でないかと、説明板では誇らしげに書かれていた。

 

そんなものをこんな隅に置いといて良いのでしょうか。

 

 

しかし階段裏にも大きな甕が置かれているのであった。

15世紀に常滑でつくられたものとされ、県内では最大級の大きさ。

 

だから、そういうものをこんなところに(略)

 

 

甕が出土したときの写真。

なんかピーナッツっぽい。

 

 

3Fにあがった。

ここでは千葉氏の歴史を扱っているが、パネルが30枚以上あり、じっくり見ていると相当な体力と気力を消費することになります。

入室前にHP回復は忘れずに!

 

 

始まりは、桓武天皇の曾孫にあたる高望王(たかもちおう)が平姓を賜って関東に下向したこと。

この人の子孫が坂東平氏として、関東一帯に広がっていく。

いわゆる桓武平氏高望王系。

 

しかし夫婦そろって残念な顔してるな(侮辱)

 

 

高望王の孫の一人にあたるのが、かの平将門

叔父である平国香らと領地争いをしたことが乱の発端だが、領地争いで終わらせとけばよくある話だったところ、強すぎて関東一帯を制覇して「新皇」を称するなどRPG感だしすぎたので、討伐されてしまった。

 

 

平将門は7人の影武者を置いていたということで、こんな絵が描かれている。

残像だ!

 

(千葉家の紋章)

 

んでいろいろあって、高望王の子孫の一部が千葉県に広がる。

そのうち大椎(土気)に住んでいた連中が、千葉に引っ越してきて千葉氏を名乗りだした。

1126年のことで、このとき亥鼻城(城というより館?)が建築される。

 

 

平治の乱を描いた、江戸時代の絵巻)

 

平安末期になって、戦乱の世の中になってきました。

千葉氏は桓武平氏ではあるけれど、平忠常の乱以降、だいだい源氏との結びつきが強いので、各種戦乱では源氏に味方。

 

 

この絵巻物、国立博物館ボストン美術館にも所蔵されているほど有難いものらしいんだけど、その割には描き方が雑じゃないですかね(指摘)

 

 

(千葉氏の薬箱、とされている箱)

 

源頼朝が挙兵して石橋山でぼこぼこに負け、安房にトンズラしてきたときも、当時の党首である千葉常胤は真っ先に支持を表明している。

平治の乱で敗戦して領土ボッシュートされていたので、平氏に対して激おこだったのであろう。

 

 

頼朝が千葉を通ったと言うことで、市内には伝承がやたら残っている。

お茶の水(東京じゃないよ)という場所は、千葉常胤が頼朝にお茶をたてて出したから、こんな地名になっている模様。

 

お茶出しただけで地名が付いて、石碑までたつんかいな。

どれだけ頼朝大好きなの君ら。

しかも時代的にこのときお茶は無いので、頼朝に出されたのは恐らく水である。

 

 

 

この君待橋は、頼朝が千葉氏に出迎えられた橋ということ。

それでまた地名付けて、石碑たてちゃった。

あんたも好きねぇ。

 

 

源平合戦に勝利し、千葉常胤には功績たくさんということで、所領は相当増えたのでした。

ただ東北とか九州とか飛び飛びになってるけど、ごめんな!(頼朝並感)

 

しゃーないので、6人いた息子で分けております。

 

 

千葉常胤の6人息子は絵巻物とかで似顔絵が残っているのだけれど、長男がこれ。

 

 

次男がこれ。

後ろ姿じゃないか!

6男も後ろ姿になっており、絵師の手抜きっぷりが良く分かる。

 

 

こうして鎌倉幕府でも要職に付けた千葉氏だが、ここからは没落の歴史。

 

千葉周辺は6人兄弟の長男が継ぎ、その子孫は上総と下総で分かれて勢力をもった。

このうち上総側は、有力御家人の三浦氏と婚姻を結ぶなどで関係を深めていったのだが、その三浦氏が北条と対立した1247年宝治合戦で敗れ、上総の千葉氏も巻き込まれて滅亡した。

 

 

残った下総の千葉氏は、戦乱まみれの室町時代を生き残っていたのだが、1454年から享徳の乱鎌倉公方vs関東管領)。

千葉氏は関東管領側についたが、公方側の軍勢に千葉城を包囲されてボコボコにされ、命からがら脱出するも、逃げ落ちた先でも敗れて全滅。

 

こうして亥鼻城にいた千葉氏は滅んだが、滅ぼした側は馬加(まくわり)氏といって、これが千葉氏の親族にあたっていたため、そのまま馬加氏が千葉に入って千葉氏を名乗ったのであった。

そんなんありかと思うが、まぁ名乗ったもの勝ちなのだろう。

 

太田道灌さん)

 

亥鼻城をゲットした馬加氏ことNEW千葉氏だが、この城では北方に江戸城太田道灌・南方には里見家がおり、モロに一直線で攻撃されるので、15世紀後半に本拠地を本佐倉に移したのであった。

そして1516年に亥鼻城は廃城となっております。

 

 

その後の千葉氏の歴史については、本佐倉城の方へお問い合わせください。

千葉市では対応しておりません(行政的対応)

 

まぁ基本は小田原の北条氏についていたのだが、秀吉によって北条氏が強制終了させられると、一緒に千葉氏もおしまいになりましたとさ。

ちゃんちゃん。

 

 

北条氏の掛け軸である。

千葉氏の掛け軸は無いけど。

 

 

これが北条氏政

 

 

こっちが氏直。

間違い探しかな?

 

 

4Fだ。

近現代の千葉市を扱っております。

 

 

戊辰戦争は、いちおう千葉でも戦闘があった模様。

江戸城開城後に、上総方面の残党勢力が北上して政府軍に戦いを挑んでいるが、安定の敗北をして木更津に逃げ込んでおります。

 

 

 

1873年に千葉県が発足して、千葉県庁が出来ました。

その前段として木更津県とか佐倉県・生実県なんてのがあったけど、1年足らずで改組されて無かったことにされたよ!

そりゃそうか。

 

 

千葉市は当初「町」だったけど、1921年から市に移行しました。

洋風の庁舎でハイカラ感。

 

 

1926年時点の国鉄本千葉駅

ただ本数は少なく、海岸沿いを走る京成線のほうが海水浴客にも人気だったので、こちらはポンコツ扱いであった。

やっぱり国鉄ってダメやな(偏見)

 

 

稲毛海岸は地味に民間航空発祥の地である。

国内航空機のパイオニア奈良原三次によって飛行場が建設され、多くの民間航空士たちがここで学んだ。

たぶん地元民でもそんなイメージまったく持ってないと思う、稲毛海岸

 

 

 昭和になると、国鉄もさすがに進歩して都内まで繋がるようになったので、人口は増大していきましたと。

周辺の蘇我村や都村などを合併して、スケールアップ。

 

 

 

千葉市内陸の方では軍事施設が多数形成され、わりと軍都であった。

3~4千人ほどの兵がいたそうなので、人口を押し上げていたりもする。

 

 

 

 

そんなわけで他の軍都の例にもれず、戦時中は空襲を食らって市街地は壊滅したのであった。

戦後にはたくさんあった軍用地は学校や住宅・農地に変えられていき、海沿いには川崎製鉄東京電力を誘致して京浜工業地帯を形成して発展していきましたとさ。

めでたしめでたし。

 

 

あと昔の住居部屋の再現もあるよ。

 

 

あがることは拒絶されていますが。

 

 

戦後の住居。

蛍光灯が白々しさを醸し出している。

 

 

屋上へ。

 

 

あがりました。

 

 

千葉常胤生誕900年と、北斗の拳35周年を一緒に祝っている。

なんで?

別に作者は千葉出身でもないし。

 

 

千葉家は妙見菩薩氏神にしているのだが、その妙見菩薩は北斗七星の神格化とされている。

 

 

んでケンシロウ氏の方は、北斗七星の宿命に生きた男。

 

あぁ、北斗七星つながりね。

どう考えても無理がある。

 

 

顔はめ看板のパチスロ感がすさまじい。

 

 

外に出ましたが、転落防止柵のせいで景色はたいへん見づらくなっております。

 

 

写真だとなおさら何も見えんな。

ちょっと向こうに港湾沿いの工業地帯がみえるくらいですかね。

 

 

以上。

 

【交通手段】県庁前駅から徒歩10分、千葉中央駅本千葉駅から徒歩15分

【入館料】無料

【滞在時間】90分

【混雑度】★★★(館内にちらほら)

【URL】

www.city.chiba.jp