福岡河岸記念館
ふじみ野市にある福岡河岸記念館は、この地域の回漕問屋である福田屋の建物を記念しているところ。
入場料は100円。
この建物のすぐ近くに新河岸川が流れており、その船着き場である福岡河岸を、吉野屋・江戸屋・福田屋の3問屋が幕府の公認のもと利用していたそうな。
その福田屋の問屋の母屋がこれ。
その奥には1900年頃に建築された、賓客接待用の離れがある。
これまでは1F部分しか公開されていなかったのだが、耐震工事が終わったとのことで、2Fと3Fも2018年から見学できるようになった。
ただし公開日が決まっており(月1回ペース)、事前予約制なので、公式HPで確認しよう。
この日は特別公開日。
まず母屋の中を通り抜けて、離れへ向かう。
離れ。
2F3Fに一度に上がれる人数は決まっている。
古い建物なので、みんなで上がると床が抜けるのだろう。
ここは1Fの入り口。
現在は作り変えられているが、もとは風呂だったらしい。
身を清めてからでないと離れには入れないのだろうか、まるで神域である。
風呂から出て、右手に行くと・・
トイレだった。
陶器スリッパが床に固定されているようで、立ち位置を決められているようだ。
トイレの木の窓には、ヒョウタンの模様。
豊臣秀吉の大勝利にあやかって、施している。
トイレだし、ヒョウタンから駒が出るような快b(以下略)
風変わりなガラス窓。
1900年頃は障子がまだ主流だったはずだが、お金持ちは素早く舶来物を入手して自慢したかったのだろう。
1Fの部屋。
4畳程度なのでサイズはさほど無い。
欄間の模様は各階で異なる気合の入れ方。
あとこんな装飾がところどころあるのだが、これは板を止めている釘を隠すため。
釘が見えていたら格好悪いから、ひと手間加えてみたようだ。
さすが神域。
庭の風景。
いまでこそこの規模であるが、往時は問屋の倉庫や蔵が大量にあったわけだから、amazonの物流倉庫ほどではないにしろ多大なスペースを所有していたことだろう。
上階にいた見学客が下りてきたので、入れ替わりに3Fへのぼる。
しかし急だな。
3Fに着きました。
来客がお泊りするところだろう。
この場所でお客さんと飲み会をしていたそうな。
1F入口で風呂に入ってサッパリしてから、ここに上がったのだろう。
神域ではなく、吞むためだったんだな(納得)
すぐそこに流れているのが新河岸川。
かなりサイズが無いようにみえるが、明治以降に輸送手段として鉄道が主流になり舟運が廃れていく中で、氾濫を防ぐためにいろいろ改修した結果、今では小さい川となった。
最盛期では1日150隻の船が通過しており、輸送手段と言えば陸路では無くて船であった。
また変わった襖してますねぇ。
どうしてもガラスを使いたいのだろう。
こちらも色ガラスを使用して市松模様なノリで仕上げている。
和室に緑と白のガラス?うーん(審議中)
板間。
このスペース、下が塞がれていなくて危ないように見えるが、
階下から食事を持ってきた中居が盆をこの場所に置き、階上にスタンバってる別の中居がそれを受け取って座敷に出していたらしい。
連係プレイ。
3Fを見終わったので、2Fへ。
階段の途中にあった装飾。
亀が剣道している。
2F。
1Fも3Fもそうだったがさほど派手さはない。
ただ木材とか建築資材にはガンガンに金をかけており、だから100年経っても大丈夫!という造りになっている。
この階の窓もガラスだが、こっちは白黒。
1Fに降りました。
併設されている蔵は展示室となっている。
本来は土間だったが改造したようだ。
蔵の入り口にスズメバチの巣が飾られている。
どうして記念にしようと思ったのだろうか。
この人が福田屋10代目にして、離れを建築した星野仙蔵。
屋号は福田屋だけど、苗字は星野さんだった。
阪神は関係ないと思う。
剣道の名手であり、一刀流中西派という流儀の免許皆伝を受け、この地域でも福岡明信館という道場をオープン。
なお中西派との稽古の音楽性の違いから、独立して北辰一刀流を創成したのが千葉周作。
星野仙蔵は衆院議員にもなったのだが、学校教育に剣道を入れるよう建議をし、それが採用されている。
なので現代の我々も中学校で剣道をする羽目にことになったのであった。
青年期に東京に住んでいたことがあり、大都市の西洋化っぷりをみて、彼もまたハイカラな人になったのです。
電気灯が登場したとき、この地域で最初に導入したのが福田屋であった。
まぁ金持ちじゃないと出来ないだろう。
地域住民が珍しがって見学に来たので、アピールするためか、電球に自分の名前を載せている。
庶民だったら恥ずかしくて躊躇すると思うが、さすが政治家は違いますね(棒)
カバンにも「S.H」とイニシャルを入れてみたのだが、周りの人は英語しらないので、あまり分かってもらえなかったようだ(哀愁)
船問屋だったが、鉄道が日本上陸すると舟運をさっさと捨て、東上線の敷設活動に尽力する。
事実、舟運は衰退して鉄道の世の中になるので、勘の良さはさすが商人。
このあたりは新河岸川の舟運で儲けた大商人のほか、近くを通る川越街道の宿場町もあり、各方面からの誘致活動で喧々諤々したようだ。
そんなんで当初は予定の無い寄居・坂戸・小川町などにも駅をつくることになり、だから路線がやたらウネウネしたり、資金が足らなくなって計画頓挫しそうになるのであった。
そして駅が開業すると、内国通運(現 日本通運)から委託を受けて、駅前に配送所を作るのであった。
船の次は、鉄道&陸である。抜け目ないねぇ(呆れ)
蔵も終わったので、母屋へ。
ここは帳場。
奥の広間では、箒づくり体験会をやっているので、けっこうにぎわっております。
帳場のすぐ隣にある部屋。
普通の部屋かと思いきや。
窓に鉄格子がはめられている。
その窓の下は石づくり。
やたら頑丈になっているのは、この部屋自体が金庫だかららしい。
帳場で勘定がすむたびに金をこの部屋に投げ込んでいたそうな。
いちいちその場では数えている暇が無かったのだろう。
どんぶり勘定どころか部屋勘定である。
広間は人が居すぎて俯瞰写真を撮る余裕が無かったので、細部だけ。
この紋様、よくみるとところどころ違う色を用いている。
写真だと陰っているだけのように見えてしまうが、ちゃんと別の色を使用しています。
細かいところにこだわりを見せている。
こちらの襖は、当時の有名絵師が作成したもの。
桃太郎のようだ。
これが鬼ヶ島だそうです。
やっぱり山なんだな、平地に鬼が住むわけ無いか。
ずらーっと貼られているのは、水戸藩の藤田東湖が書いたという書物。
これはレプリカだが、本物は上福岡郷土資料館で眠っている模様。
2Fにのぼります。
1Fは従業員が働くところで、2Fは星野家の居住スペースとなっている。
6畳くらいの部屋が4つあるだけだが、農家と比べるとやはり豪華であるようだ。
母屋も築100年以上たっているが、そうは感じさせない頑強さである。
衆院議員であった星野のもとへは、犬養毅などの高名な政治家・財界人が遊びに来ることもあり、そういう強い人達は本物と偽物の違いを見抜いてしまうため、離れと同様に建築材や家財にも一級品を使用して、お眼鏡にかなうようにしたようだ。
あとはあちらの台所。
問屋では大勢の人が働くため、その食事を作るためにこれだけの大きさの台所が必要だったのだろう。
ちなみにこういう大規模な回漕問屋はそれだけ多くの人を雇用しており、よその地域で犯罪をやらかして逃げてきたアングラ人間の集まる場所でもあったらしい。
港湾や炭鉱に似た点があるようだ。
明治40年頃の河岸の様子。
3軒で完全に支配しておるな。
最後に、こんなのを見つけた。
けっこうイライラさせてくる絵柄なので、一刀流で叩き斬ろう。
以上。
【交通手段】上福岡駅からバス10分
【入館料】100円
【滞在時間】90分
【混雑度】★★★★(写真撮るのに苦労する。ただし特別公開日)
【URL】福岡河岸記念館トップページ | ふじみ野市ホームページ