二本松市歴史資料館
二本松市歴史資料館は、二本松の歴史を展示する資料館である。
入場料は100円とお安いが、館内撮影禁止。
公の資料館で撮影禁止とは(憤怒)。
なので館内の模様は画像を引用しつつ、書きます。
展示室画像の引用元はインターネットミュージアム(museum.or.jp)、なのだが当該ページが消えてしまって居る模様。
1Fは二本松出身の芸術家の作品が置いてある。
さっそく歴史資料館じゃ無くなってますが。
歴史関係は2F。
縄文~古墳で半分で、戦国時代が残りの半分。
それ以外の時代は特にめぼしいものが無かったので、スルーされたと思われる。
まぁ縄文~古代の展示は、ほかの地方でもありふれたものばかりだったので、私もスルーしますね(雑)
二本松城があったと言うことで、戦国時代の展示は豊富。
もともとこの城は二本松氏が築いたものだが、1586年に伊達政宗のものになる。
この二本松vs伊達の争いの時、(政宗の父)伊達輝宗が二本松に拉致られてしまい、政宗が父もろとも二本松家の当主 義継を射殺したという、かの有名な事件が発生した。
そんなんで二本松城は伊達の物になったわけだが、秀吉が天下統一すると戦後処理が為されて、二本松城は没収されて蒲生氏郷のものになる。
そのあとは蒲生→上杉→蒲生→天領→加藤と、野球の継投策ばりに領主が変わっていく。
この間に関ケ原が挟まれたりと、権力がいろいろ動いたからね。
それに基づく人事異動もバタバタである。
(wikiから)
安定するのは、1643年に丹羽光重が入城してからである。
丹羽長秀くんの孫ですね。
前任者である加藤家(加藤義明の子孫)は、農業・財政政策でかなり盛大にやらかしており、領内は脱走と身売りが相次ぐ終末的状態だったらしい。
しかし丹羽光重は有能だったようで、なにをどうやったのかは分らんがこの危機を脱し、二本松藩の基礎は固められた。
(キセル盆のイメージ)
丹羽光重が使っていたというキセル盆が館内にあるが、この盆の一部がへこんでいる。
1683年、かの赤穂浪士の発端となった、浅野内匠頭が吉良上野介を斬りつけて「殿中でござる」事件が発生したのだが、浅野内匠頭は丹羽家の親戚であった。
この事件を聞いた丹羽光重は、「斬りつけずに突き刺せば吉良を殺すことができたのに、なぜ突き刺さなかったのか」と悔しさのあまりにキセルを盆に叩きつけて、それで凹んだのだそうだ。
光重もなにか怨みでもあったんだろうか。
ちなみに剣技は突くのが基本だそうです。
(「ふくしまの旅」 より)
二本松では「日本三大提灯祭り」と呼ばれる、提灯祭りが行われるが、これの発端は丹羽光重とされている。
二本松神社への敬意の心を領民に持たせ、ナショナリズムを形成して統治しやすくしようという狙いがあるような気もする。
ただそのときはこんなに提灯たくさん無かったようで、19世紀前半頃から今の様式が見られるようになったとか。
なお提灯屋台は資料館の1Fに飾られています。
時代は一気に飛んで、幕末の戊辰戦争。
東北の諸藩とおなじく幕府側に付いた二本松藩は、周囲の藩の援護をするためあちらこちらに派兵した。
だが派兵先で片っ端から新政府軍に敗れ続け、二本松城まで来られた時、城内に兵士が僅かしかいない。
苦し紛れに老人・13歳以上の少年までも徴兵して何とか1000人集めたが、討幕軍は7000人。
玉砕戦闘を仕掛けるも、少年兵14名を含む500名以上が戦死する悲惨な結末となってしまった。
このとき16歳の少年兵が戦場にいたのだが、天保銭を入れた袋をお守り代わりに持っていた。
戦地で敵兵から激しく銃撃を受けたのだが、敵の銃弾がこの天保銭にあたって、死を免れたという。
RPG等で使い古されまくっている話かと思いきや、実話があるんですねぇ。
明治時代の廃藩置県がなされると福島県においては1871年、会津の方の若松県・福島藩と二本松藩を中心とする二本松県・海側の磐前県の3つが誕生した。
のだが、その12日後くらいに、なぜか二本松県は県庁が現在の福島市に移り、県名も福島県に改められる。
そして1876年に、福島県に若松県・磐前県が統合されて、現在の福島県が誕生したのであった。
なので突然の配転がなければ、今でも二本松県であった可能性が微レ存。
福島藩も幕府側だったんだが、二本松は新政府軍に逆らいすぎたので、嫌われたんだろうか。
いずれにしろ福島最大の都市は、郡山になるのであった。
以上。
【交通手段】二本松駅から徒歩10分
【入館料】100円
【滞在時間】30分
【混雑度】★(だれもいない)
【URL】歴史資料館 | 二本松市公式ウェブサイト